越尾正子(やなせたかし元秘書) ・アンパンマンと私の出会い
越尾さんは1948年東京生まれ。 茶道の稽古を通じて、やなせさんの妻暢(のぶ)さんと親しくなってやなせスタジオに入社、秘書としてやなせたかしさんを支え続けました。 現在はやなせスタジオの代表を務めています。
やなせたかしさんご夫妻をモデルにした連続テレビ小説「アンパンマン」がいよいよ放送が始まりました。 暢(のぶ)さんは親しみやすいけれども、教えることはきっちり教える人です。 深く知ろうとはしませんでした。 会社を辞めたことを暢(のぶ)さんに話したら家に来ないかと誘われました。 やなせさんが亡くなった後も数えると30年近くになります。 暢さんはやなせさんに対しては、仕事のことは一切言いませんでした。 事務関係、経理のこと、通帳、印鑑などどんと渡されました。 「もし私が悪い人だったらどうするんですか。」と聞いたら、「私の見る目が無かったと諦める。」と言ったんです。 驚くだけでした。
やなせさんはきちんとデスクの前に座らないと書けないという性格でした。 建物の中に自宅もあれば、仕事場もあるというところでした。 自宅には奥さんのお茶室もあります。 働き者でした。 「ハチキンお暢」と言われていました。 ハチキンとは「男勝りの女性」を指す土佐弁。 高知県の女性は、話し方や行動などがはっきりしており快活、気のいい性格で負けん気が強いが、一本調子でおだてに弱いといわれる。二人だけの時には暢さんのことをやなせさんは「おぶちゃん」と言っていました。
やなせさんは、「作品は人生で書く。」と言っていました。 自分の人生が作品に反映される。 書いているうちにこの性格は奥さんに似ているとか、お母さんに似ているとか、と言った感じです。 最初からモデルにして書くという事ではないです。 奥さんはドキンちゃんに似ていると言われますが、「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラみたいな性格で書こうと思って、書いているうちに奥さんに似て来たりする訳です。 敵役を作ろうという事で後から出来たのがばいきんまんなんです。 ばいきんまんは蝿がモチーフになっています。 羽根もちいさくなっていきました 。
*「私はどきんちゃん」 作詞:やなせたかし 作曲:いずみたく
最初アンパンマンは大人には不評だった。 顔を食べさせるのは残酷だとか、幼稚園の先生は良くないとか言っていました。 子供たちが大好きになって、そのうちに先生方も理解してくれるようになりました。 やなせ先生も子供たちがなんで好きになったのかわからないと言っていました。 やなせ先生が子供の頃はアンパンが主流だったので、その印象が強いからアンパンに使ったと言っています。 弟さんを亡くしていますが、歳を取って来るにつれて寂しさがより凄く強くなったと言っています。 弟さんは千尋さんと言って海軍に志願して行きましたが、戦死してしまいました。
アンパンマンが注目されるようになったころ、暢さんは乳がんに罹られました。 アニメで放送されて3年目ぐらいから徐々に悪くなって亡くなってしまいます。 先生は仕事をしながら少しづつ元気を取り戻して行きました。 暢さんが亡くなられてから20年後、2013年10月に94歳で亡くなりました。 目も段々と見えなくなって太い線で描いているんですが、「絵を描く面白さがわかった。」と言っていました。 絵を描くことで別の楽しみを見つけた様です。
「やなせたかし先生のしっぽ やなせ夫妻のとっておき話」を出版しました。
「神様、仏様 ありがとう。 ありがとう。 お父さん、お母さん ありがとう。 ありがとう。 おぶちゃん 千尋 ありがとう。 ありがとう。 越尾さん ありがとう。 ありがとう。 越尾さん 越尾さん ありがとう。 ありがとう。 ありがとう。」
先生は戦争を体験しているが、その後94歳まで生きて、「ありがとう」と言う言葉しかやなせ先生はなかったんだなと思いました。 生きる工夫をすべてして、生き切ったなと思っています。