2022年5月24日火曜日

白崎映美(歌手)            ・歌と酒田を愛して60年

 白崎映美(歌手)            ・歌と酒田を愛して60年

1962年山形県出身  1990年「上々颱風(しゃんしゃんたいふーん)」のボーカリストとしてデビュー、日本、世界各地をコンサートで巡りました。  2013年「上々颱風」の活動停止後は、ソロでのライブ活動をはじめ東日本大震災の被災地を励ますために、「白崎映美&東北6県ろ〜るショー!! ︎」 を結成、又故郷酒田市にあるキャバレー存続のために「白崎映美&白ばらボーイズ」を結成しショーを企画するなど、精力的に活動しています。

「月夜のらくだは泣いてるだろか」 湾岸戦争の時に作った歌です。  人間はおろかだなと思って作りました。  「愛より青い海」コマーシャルソングでみんな出ていました。 沖縄の音階を使った歌。  コンサートなどで酒田弁でしゃべるようになってお客さんとの距離が身近に感じるようになりました。  地元の山形新聞で2009年から2021年まで連載していたエッセーをまとめたものが3月に発売されました。  タイトル「あったこほうさ」 暖かい方へ行ったらいいなと言うような気持で付けたタイトルです。  裏表紙は私がステージに立っている姿を絵で描いてくれました。  八王子生活館の、30年以上の付き合いのある貴美子さんです。 

今年還暦になります。  3歳の時に母が食堂を開店。  子供の頃は落ち着きのない元気な子供でした。  でも内弁慶的でした。 中学からスカートを履くのは厭で、中学、高校はズボンをはいていましたので、「男」というあだ名がついてしまいまいた。   1976年中学2年生の時に酒田の大火があり実家が全焼してしまいました。   仮設住宅に入ったのちに、焼け出された人向けの市営のアパートが出来てそこに入りました。  家計を助けるために2年生から高校3年生まで朝の新聞配達をしました。   一面焼け野原で自衛隊の人たちがかたずけていました。   高校2年生の時のバンドに入り、世良公則の曲などを歌っていました。  東京に行きたくてデザインの専門学校に2年間行きました。  酒田弁も東京ではしゃべれないので、無口な性格になってしまいました。  デザインの会社に入りましたが、図面化の実技が駄目で辞めてしまいました。    「紅龍&ひまわりシスターズ」の募集がり オーディションに行って合格しました。   泥臭くて厭だなと思いましたが、続けました。  10年ぐらいは色々なことを考えました。   

2011年の東日本大震災はなんて大変なことが起きてしまったのかと思いました。  東北のあちこちでいろんな歌を歌わせてもらいました。   自然災害だけではなくて原発の問題もあるし、行くたびになかなか前に進んでいかないことを感じますし、忘れる事と忘れてはいけないことがあったりすると思います。   福島のことを何曲か歌になり、あちこちの人に聞いてもらいました。  今年又1曲出来ました。   イスラエルの3人組のサーフロック・バンド、ブーム・パムの人たちが作曲して南三陸町の獅子踊りのリズムを取り入れて、私にも声を掛けてもらって、歌っているCDが出来ました。   

*「聞こえてくる波のように」  歌:白崎映美

酒田市にあるキャバレーの存続にも力を入れています。  全盛期はホステスさんが90人いて連日満員だったそうです。  私が見た時にはホステスさんが5人でお客さんが5人と言うような状況でした。 「白ばら」を盛り上げようと思ってバンド白崎映美&白ばらボーイズ」を作りました。  東北を盛り上げたい、白ばらを盛り上げたいという思いでの立ち位置だと思っていて、そのために歌いたいと思っています。   それに合った姿かたちでそれに合った歌を歌うという感じです。   いろいろいなところの友達と一緒に食堂をやりたくて、庄内米をかまどで炊きたいと思います。  地元の季節の汁物、漬物などを食べていただきたいと思っています。