2021年1月23日土曜日

水谷 豊(俳優・歌手)          ・【私の人生手帖(てちょう)】

水谷 豊(俳優・歌手)          ・【私の人生手帖(てちょう)】

 国民的ドラマともいわれる民放の相棒が20周年という大きな節目の中で放送を続けています。   ほかにも支持されているドラマを持つなど、ゆるぎない人気、実力を発揮しています。   NHKのTV放送を良くご覧になる方は1976年から放送されました土曜ドラマ「男たちの旅路」の新米ガードマンが印象に残ってる方も多いかと思います。   水谷さんは主演の鶴田浩二さんが言ってくださったある言葉が忘れることが出来ないなど、役者人生は多くの人との出会いによって形作られてきた来たと確信しています。  ところがそもそも萩原健一さんとのコンビで、今でも名作と言われます「傷だらけの天使」とか高視聴率を上げて大きく飛躍しました「熱中時代」はアルバイト感覚で仕事をしていたとおっしゃいます。   その裏側にはどんな思いがあったのでしょうか。    俳優として仕事をしてゆくと決めたのは何があったからなのでしょうか。    そんな水谷さんは60歳を過ぎてからは、自らメガフォンを取って映画監督としても作品を送り出しています。  監督業への強い信念を抱きながらこの夏で69歳、来年70歳を迎えますが、70歳代が大変楽しみだとおっしゃいます。  今日は相棒について伺って、若い頃のアルバイト感覚、心に刻まれた鶴田浩二さんの言葉についても伺います。

「相棒」が始まったときに、大人がTVを見なくなったと言われている頃でした。  大人をTVに振り向かせたいという思いがあり始まりました。  社会的でなければならない、エンターテイメントでなければならないというところから始まっています。   杉下右京というキャラクターは、組織の中では嫌われるだろうというキャラクターだったので、人としては正しいと思う事が言えなくなっていることがあり、杉下右京はそれをいってゆくのでとても興味深かったです。  まずは嫌われるようなイメージという事を考えてやって、それは成功したなと思いました。   

コロナ禍ですが、幸いなことにドラマのチームからは陽性者は出ていないです。  これが起きたら放送には間に合わない、緊張感をもってやっています。  20年やっているというのは信じられないですね。   相棒って一つのドラマですが、或る時はシリアスに、或る時はコメディータッチで、扱う内容も社会的なことなので様々な世界があり、それを全部扱っていける、キャパシティーの広さがあるので、見ている側に飽きさせないと思います。

20年経ちますが、変わることは自然に変わる、それが一番いいかなあと思います。 体重などあまり変わらないです。   朝は食べないです、夜に食べ物はかけます。  なんでも食べます。  宵っ張りのほうです。  休みの時には朝まで起きています。 音楽聞いたりストーリーを思い浮かべたりいろいろ想像したりしています。 

小さいころは7つまで北海道にいてその後東京に来ました。  お兄さんが大きなカマクラを作ってくれたり、夏には素っ裸になって川で泳いでいました。  野球、相撲が好きでした。   小学校時代大鵬さんが大好きで、土俵入りが綺麗だなあと思いました。  

小学生の時に東京に来てTVの中にドラマが沢山あり、どこにこの世界があるのかと不思議でした。   近所の人が児童劇団のパンフレットを持ってきて見せてくれました。   それがきっかけとしては始まりでした。   TVは魔法の箱でした。  14歳の時に劇団雲があって、山崎勉さんが主役をやることになって、小姓役をやることになりました。   その時にいろんな人と会いました。   1968年、フジテレビ手塚治虫さんのバンパイヤ』のオーディションを受けデビューしたと同時に主役に抜擢されました。

思い描いていた世界とはギャップがあり、周りは大人ばかりでまだ高校生だったので、この世界は自分の住む世界ではないと思って、一回辞めることになりました。   アメリカに行こうと思ったが、あきらめて大学を受けますが落ちてしまって、役者としてのアルバイトを探しているときに声が変わるわけです。   アルバイトで役者の道に戻ったわけですが、ふっとこのままでいいのかという思いはありました。   中学の時には全国レベルの陸上部に引っ張られまして、撮影しながら陸上をやったりしていました。  この世界だけではなかったのでそこはよかったと思います。  或る時に僕の映画を観て、市川崑監督から走ってるところが一番いいねと言われました。  

自分の職業として、オファーが無かったらやりたくても出来ないという事があり、1位、2位がはっきりしない世界でもあり、もどかしさがありました。   そのうちに順位がつかないから面白いという事が判って来ました。  出来る限りやってみようと思った時は娘ができたときでした。  

それまでは自分一人で出来る事なんて何もないのに、自分の世界を作れるようなイメージがありました。  役者はなにが一番、二番、三番なのかわからない、ですからそんなことを思っていたと思います。

NHKで「男たちの旅路」があり、鶴田浩二さんが「好きなようにやってくれ、全部受けるから」と付け人から伝言で伝えてきました。  そういう事を言ってくれる大先輩が言ってくれて、この仕事をやっていてよかったと思いました。  しかし、役者には向いていないとも言われました。  協調性がないとか、短気だとか、若い頃はそうでした。  今は協調性の塊ですが。 (続編 あり)