2020年9月8日火曜日

山辺ユリコ(女優・手話劇団主宰)    ・手話でつづる希望の舞台

山辺ユリコ(女優・手話劇団主宰)    ・手話でつづる希望の舞台 

山辺さんは1960年京都生まれ、父親が時代劇の俳優をしていた影響があって、芸能界になじみがありました。  その後移り住んだ熊本で歌手デビュー、東京パンチョスのリーダーチャーリー石黒さんにスカウトされて上京し歌手活動を続けました。   1995年石井福子プロデューサーとの出会いから念願の女優の仕事を始めました。   そして1998年山辺さんは手話とカルチャーショックを受けるほどの出会いがあり、2002年に手話劇団ハートフルハンドを立ち上げました。   聴覚障害者と耳の聞こえる人が入り混じってお芝居と歌、手話ダンスを演じます。  東京日本橋の三越劇場を主な会場として公演は今年の2月で19回になりました。

3月からイベントというイベントが中止になって、稽古場もクローズとなってじーっと家に耐えていましたが、9月に無観客でやってもらえませんかという事になり、ユーチューブでネット配信にチャレンジしようという事になり、予算がないので自分たちで撮る練習をしたりしながら、いよいよ大詰めで編集しながら撮っています。

手話劇は現代版「桃太郎」を行います。  雉は地味なので雉ではなく鶏にしました。

私たちの手話はつたないので表情、唇の動きなどトータルで読み取ってもらっていますが、そんな中でマスクは大きな障害です。 顔が見えるものを付けて普段は稽古しています。

父は東映の京都太秦で俳優をしていました。  両親の離婚という大きな山があって、芸能界をはなれてしまったら、やりたくなってしまいました。   夫婦で役者をやっていると昔は食べていかれなくて、母はサポートする側に回って父と別れて母の夢を絶たれてしまって、私が女優になりたいと言ったら、母が判ったと言って背中を押してもらいました。

祖母の介護で熊本に行くことになり、ミス熊本になり、「のど自慢大会」に優勝した翌年「木下由里子」の芸名で地元歌手としてデビュー、芸能界への思いが強くなり東京に単身で出てきました。  チャーリー石黒さんにスカウトされました。

1985年に「悲しみ紀行」で歌手デビュー、レコードも出しましたが、ファンが歌もいいがおしゃべりがもっといいという事で、主人が石井福子プロデューサーと仲が良くて、石井先生のところに連れて行ってもらいました。  2回目に着物を着て会ってほしいという事で会いに行ったら仕事をいただくことになりました。

「花井紫」という芸名でドラマ、舞台をやりました。 充実して楽しかったです。

1997年に母が乳がんで亡くなってしまいました。  心臓のほうにがんができていて手術も出来なくて気が付いた時から10か月で亡くなってしまって、がん撲滅チャリティーのカラオケ大会を主催しました。  手話を付けて歌いたいという問い合わせがあり、「風の盆恋唄」を歌って、それを聞いて衝撃してカルチャーショックを受けました。

「風の盆恋唄」を手話で教えてくださいと言って、手話の勉強を始めました。

聞こえない方に伝えるためには、こういう風なパフォーマンスをしないと歌って伝わらないいんだなあと思った時に、自分が今まで歌ってきたのが何だったのかなあという思いにさせられたのと、母が亡くなったことでがん撲滅をやって出会った手話なので、手話という財産を与えてくれたのだなあと思いました。

手話というやりたいと思うことができるという事は楽しかったです。

手話劇団「ハートフルハンド」を立ち上げたときにはまだ手話は上手ではありませんでした。

耳の聞こえない方たちがダンスを踊っていて、発表会があるので見に来てほしいという事で、どうやって音楽を、リズムをとっているのか興味を持ってしまって、それを見て踊りのうまいとか下手とかを超越した伝えたいという思いが私の胸に届き涙がでてきました。

一回目は三鷹の武蔵野芸能劇場で行うことになりました。(2002年)

最初は5人でしたが公演の時には20人になりました。

最初なかなか伝わらなくて考えが甘かったなあと思い知りました。

今年で19回目で、第一部はお芝居、第二部が手話ダンスと歌という構成です。

島唄を第一回目でやろうとしたときにはテンポが違っていて、一か月やってもうまくいかなくて辞めようかとも思いましたが、メンバーの知的障害がある男の子の姉さんもダンスをやっていて、根気よくずーっと手取り足取りでやっていたら、ある時に判ってくれて、なにを分かったような顔をして劇団を立ち上げてしまったんだろうとちょっと恥ずかしかったです。

2015年からは石井福子プロデューサーが監修という形でやっていただきました。

それまで演出は私の演出をやっていましたが、宝塚の人が出るという事で自信を無くして先生に監修をお願いしました。

メンバーの知的障害がある男の子(こうちゃん)は最初どう接したらいいか、関り方が判らなかったが、メンバーの若い男の一人がいつの間にか言葉が通じていないのに友達となって遊んでしました。  ハートでつながっていました。

こうちゃんは舞台が好きでお芝居をやらせることになりました。  母親がいままで苦しそうな顔をして寝ていたんですが、康史の寝顔が明るくなったんですよという事でした。

そのお母さんの言葉もありやめれられなくなりました。

眼も見えなくて耳も聞こえない櫻井ようこさんにメンバーが舞台を見に来ないかと誘って、舞台をはけた後にお会いしたら、「凄く楽しかった、何をやっていたかはよくわからなかったが、周りにいる聞こえない人がすごい騒いでいて、聞こえない人が手を取って一生懸命説明してくれて、楽しかった」という事でした。

メンバーに入れてほしいという事になり、不安はありましたが、パワーにあふれた方でスカイという盲導犬と現れたときにはこの人ならば大丈夫だと思いました。  必ず補助してくれる友達を連れてきますという事で来ていただきました。

先生が盲導犬も一緒にだったらいいんじゃない、と言うことになって、スカイの動きに合わせて芝居したりして、自然な演技になりました。

スカイも引退することになり今年の公演を最後に引退することになりました。

特別ゲストとして第一回目からずーっとつづけてきてくれた穂積 隆信さんほか、長門勇さん、谷幹一さん、元宝塚歌劇団の汐美 真帆さん、汀 夏子さん、大津美子さん、小林綾子さんなど多くのゲストに来ていただきました。   一谷伸江さん、お笑いコンビ『ピンクの電話』の清水 よし子さんなどにも出ていただきました。

皆の夢は地方公演をして様々な障害を持っている方たちと交流していきたいという事はありますが、それぞれ様々な条件があります、去年埼玉の大宮市民会館で出来たことがありがたいと思っています。

コロナ禍でストップしているので、再開をどうしたらいいか目の前の問題があります。

取り合えずユーチューブでアピールしていきたいと思います。