2020年9月30日水曜日

浅田次郎(作家)            ・書くことは至福 後編

 浅田次郎(作家)            ・書くことは至福 後編

父親が新宿の闇市で商売を初めてうまくいって割と裕福な生活をしていましたが、小学校3年生ぐらいで家が破産してしまいました。  キリスト系の私立の小学校に通っていましたが、歩けるところでしたが、女中二人を付けて運転手が車で送ってくれました。 破産して両親も離婚して、親戚の家に引き取られて田無の小学校に通えという事になりましたが、そのまま通い続けて駒場東邦中学(中高一貫の学校)に入学、読書が大好きで中学には立派な図書館があり喜びました。

貸本屋でよく読みましたが、図書館はただで読めるのでうれしかった。

中学2年の時には遊び感覚で「伊豆の踊子」などを書き換えたりしていました。 投稿もしました。

学校も不登校になったりして、2学年より中央大学杉並高等学校へ転入し、大学については、性格的に理屈に合わないことが嫌いで、ロックアウト中の大学に行くのが嫌でした。  僕はアルバイトをしたりして苦学生だったので、学生運動をする学生は金には困っていないという事ははっきり判りました。 

昭和45年三島事件がありましたが、とてもショッキングでした。 夕方死んだという事を知りました。 これがきっかけで陸上自衛隊に入隊しました。  三島さんとは出版社へ行っていたりしたので会ったことがありました。  学生運動の時代に割腹自決という事であまりにも時代錯誤という感じがして頭の中は謎だらけでした。  単純に自分で行ってみようと思って自衛隊の第32普通科連隊に入りました。  1973年に任期満了で除隊しましたが、この時が人生の別れ道だと思いました。 意外とはまってしまいました、あの世界が身体にあっていましたので一生いたいと思いました。  しかしここを出れば小説家になれるのではないかと思いました。

ファッションの仕事をし始めて小説家になっても続けました。(50歳過ぎまで)

1991年40歳でデビュー作『とられてたまるか!』を出版。

その前も投稿を続けていましたが、出すたびに名前を変えていました。 気楽でした。

浅田次郎は投稿した主人公の名前です。 それが選考の後ろのほうに残っていたので使ってしまいました。

1995年 地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞。 父親をモデルに。

45歳の時に『蒼穹の昴』 帯に「これを書くために作家になった」と書かれていて、これは担当編集者が考えたものです。 作家が恥ずかしがるキャッチが一番いいといわれました。  僕の小説の中では一番直球を投げた感じがします。  中学の時に漢詩の世界に触れたときに世の中にこんなに美しい言葉があるのかなあと思いました。 漢詩の本を読み漁っていきました。  漢詩を理解するためには歴史を理解していなければわからないことですので、中国の歴史も読むようになりました。  それが読書傾向のお城になったのかなあと思います。  近代中国の科挙試験を舞台にした王朝小説を書きました。(直木賞候補になる)

46歳の時に「鉄道員(ぽっぽや)」で第16回日本冒険小説協会大賞特別賞、第117回直木三十五賞を受賞。

賞をいただくたびにこれ以上のものを書かなければいけないという気持ちには賞をいただくたびに思いました。

2000年 『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞。

2006年 - 『お腹召しませ』で第1回中央公論文芸賞と第10回司馬遼太郎賞。

2008年 - 『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞。

2010年 - 『終わらざる夏』で毎日出版文化賞。

2017年 - 『帰郷』で第43回大佛次郎賞

2000年にベストドレッサー賞をいただいた時には母親がすごく喜びました。

ギャンブルが好きで父は競輪、私は主に競馬をやっています。 馬も4,5頭います。

自分の本業を全うしてから道楽をするというのは、確実にやっていますが、自分の道楽は何かというとやっぱり読み書きだけのような気もします。 ほかの0.1%でほかの道楽をやっているという感じです。

書き続けている限り読み続けてなければならないと思っています。

過去の自分、現在の自分、未来の自分というのがいつも意識できるのが、僕の仕事だと思います。

テーマはまだいっぱいあります。