2019年2月8日金曜日

平松恵美子(映画監督)          ・女性だから描けること

平松恵美子(映画監督)          ・女性だから描けること
大学卒業後上京OL生活を送っていましたが、映画館でチラシを見たことをきっかけに会社を辞め松竹大船撮影所内にできた鎌倉映画塾に入塾、山田監督の映画「学校」の現場に参加して以来、ほぼ全作品に携わりやがて助監督、共同脚本として欠かせない存在になりました。
そして2013年公開の「ひまわりと小犬の7日間」で、松竹では田中絹代さん以来、半世紀ぶりの女性監督としてメガホンをとりました。
監督2作目となる「あの日のオルガン」は太平洋戦争末期、子供達の命を守るために、日本で初めて保育園を疎開させた保母さん達の実話を元にしたドラマです。
映画の現場で女性の新たな道を切り開いてきた平松さんは、登場人物たちの前例のないことに挑戦する姿勢に深く共感、山田組常連の俳優さんたちに助けられながら、優しくて暖かいドラマを作り上げました。
映画の公開を前にお話を伺いました。

「あの日のオルガン」2作目を公開する前です。
1982年に出された本がありまして、当時の疎開保育園を行った保母さん達の聞き書きのようなルポルタージュでした。
6年前に私の処に映画をどうですか、という事がありそれが大元のきっかけでした。
20歳そこそこの保母さんたちでしたが、空襲がいよいよ東京に来るんじゃないかということになり、小学校の疎開が始まり、保育所にいる命はどうなるのかと疑問を抱くわけです。
では疎開させようとして、説得して実際に疎開させた。
勇気ある行動であると思いました。
子供達の命を守ることに対して行動を起こしたことは凄いことだと思いました。

戸田恵梨香さんと大原櫻子さんがダブル主演ということになりました。
沢山の子供達が出てくるので、私は見きれないので二人だけではなく他の保母さん役を含めて子供たちの指導をお願いした。
撮影の前後も含めて彼女たちは向き合ってくれて、自然な表現をする子供達として接してくれました。
戸越保育所の所長・脇本滋役には田中直樹さんで役にはまって良かったなと思います。
山田組の橋爪功さんや松金よね子さん、夏川結衣さん、林家正蔵さんらにも脇を固めてもらいました。
橋爪さんにはとくに助けられました。
撮影期間はひと月でした。
手作り感満載でした。
山田監督と一緒に仕事をして得たことの一つに、脚本家が書いている時の眼線と監督の眼線で脚本を読むと言うのは違って、脚本家である私に対して監督の私が挑戦状を叩きつけるようなそんな部分があって、新たに捉え直してスタッフの意見などを聞きながら捉え直してゆくという事がありました。
(脚本と監督をやる。)

平和の大事さ、子供の命の大切さ、は何処の国でもどんな時代でも変わらないことだと思うので、今を生きる人達にきちんと伝えて行くことが、私たちの仕事の大事な部分じゃないかと思います。
若い子たちが自分の頭で考えて色んな人を巻き込んで行動する、その可能性を秘めているんだという事を声を大にして伝えたいと思います。
子供時代は野生児でした。
自然の中で蛙、バッタを追いかけていたりしました。
兄が映画好きで、雑誌を買っていて脚本の抜粋が良く載っていて、それを読んで聞かせてくれたりしました。(小学校2年生の頃)
兄に連れて行ってもらって映画をよく観に行きました。
中学生になってから一人でこっそり映画を見に行くようになりました。
私が14歳の時に兄が19歳の時に亡くなってしまいました。
救ってくれたのが映画だったと思いますので、今は映画へ御恩返しをしているつもりで映画と接しています。

高校大学時代、幅広く何でも観ていました。
映画館の会報誌があり、一生懸命感想を書いて応募して掲載されると招待券がもらえて、一回おきには載せてもらいふた月に一回招待券で映画を見ました。
感想文を書いていた事が役立ってきたと思います。
岡山大学の理系でした。
映画で食べていけるとは思っていなかった。
獣医になりたかったが、獣医学科がなかったので、理学部の生物学科に入りました。
その頃映画三昧でした。
映画を通して色んな繋がりがあると言う事学んだ時期でした。
年に300本は見ていました。
親と2年間という約束で東京に行き会社に行きました。
新宿ピカデリーに行った時に、大船撮影所で映画塾一期生募集の広告を見ました。
受けたら受かることができました。
親からは反対されたが、父からは「同じ様な生き方をした方が楽なんだぞ、違ったことをお前はしようとしている、それは苦労をするので知っとけよ」というような言われ方はしました。

「釣りバカ」、「男はつらいよ」の現場に1週間とか見学に行かせてもらってお手伝いなどもしました。
感動して1本見ることができたらなんと幸せなんだろうと思いました。
山田監督の「学校」の見学に行かせてもらう交渉をしたら、助監督の一番下っ端として参加させてもらいました。
それが大きなきっかけとなりました。
「男はつらいよ」の和やかな雰囲気とは違って、「学校」の現場は凄くピリピリしていました。
よく怒られていましたが、最期のローリングタイトルの私の名前が入っているのをみた時には、全部吹っ飛びました。
松竹に入る事とになりました。
その後「男はつらいよ」のお手伝いをすることになりました。
大船撮影所では現場と編集部を取り持つ係をやりなさいと言われて、全然教えては貰えず大変でした。
スクリプター(映画撮影の記録係。各場面のこまかい内容を控えておくのが役目)をやらされました。
山田監督は現場でよく台詞を直すので、スクリプターを良く呼びました。
台詞の直しから段々脚本直しの仕事をするように広がって行きました。
共同執筆となったのは「学校」の4作目でした。
『武士の一分』、『母べえ』、『おとうと』、『東京家族』、『小さいおうち』は共同執筆となりました。
山田監督とディスカッションをしながら纏めあげて行きます。
2013年に「ひまわりと小犬の7日間」で監督デビューする。
監督2作目となる「あの日のオルガン」は多少余裕ができました。