2016年9月4日日曜日

中尾隆聖(声優)        ・時代を創った声(第7回)

中尾隆聖(声優)        ・時代を創った声(第7回)
NHK「お母さんと一緒」のにこにこぷんでおなじみのねずみのぽろり、ドレミファ・どーなっつ!のれおなるど・とびっしー、それ行けアンパンマンのばいきんまんなど様々な作品で活躍しています。
それ行けアンパンマンの番組は今年で29年目になります。
だみ声はぽろり(1982~92年)が有ってあのばいきんまん(1988年~)の声ができ上ったんです。
ターゲットは3歳から幼稚園という事で、ぽろりはいい子で、ばいきんまんは悪者で同じ声は無理だと思って、潰した声でやってみようとオーディションを受けたら受かることが出来ました。
この声は喉に負担がかかりました、半年ぐらいは辛くて苦労しました。
私達の時代は声優さんというちゃんとしたジャンルは無くて、アルバイトみたいな形でした。
最近は3カ月ぐらいで番組が新しくなって行ってしまうが、10年、20年させていただけるキャラクターに出会えたことはとっても大事で、私にとってもいいチャンスでした。

3歳のころから児童劇団に入って、4歳、5歳の時にラジオドラマ「フクちゃん」の相棒のキヨちゃん役をやりました。
セリフは祖父から言葉を教えてもらいました。
番組が終わった時は小学5年生でした。
その後、TVの子供番組にもださせてもらいました。
そのうちの昭和30年ぐらいから、外国映画の吹き替えが来るようになり、アニメがあり、声のほうをさせてもらうようになりました。
失敗すると最初からやり直しで、よく先輩から怒られ、怖くて震えてしまいました。(中学1年の頃)
洋画は「我が家はいっぱい」というアメリカのホームドラマが最初でした。
中学から祖父母の持っているアパートに一人で暮らしていました。
高校に上がるときに祖父が貯金通帳をだして、好きなように使いなさいと言う事で、大学には行きたくなかったし、芝居もどうかと思って、店でもやって生活しようと思いました。(高校1年)

高校1年から水商売(バーテン)をアルバイトでやって、弾き語りをやりました。
朝までバイトやって、学校にいって寝てました。
卒業後、新宿の2丁目でスナックの店をやりました。
お金が不足していたが、バイト先の常連から無担保でお金を貸してくれました。
借金を返す間の3年ぐらいそのゲイバーをやっていましたが、凄いいい経験、勉強をしました。
借金も返せたので役者が集まる様な店にしたが、1年で店が潰れてしまいました。(22~23歳)
その頃今の社長と知り合って、声の仕事を重点的にするようになりましたが、声の仕事は嫌いだった。(声はアルバイトという様な思いが有った)
役者として生きたいと言う思いはあった。
結婚を24歳の時にしましたが一番お金が無い時でしたが、弾き語りのアルバイトでなんとか食っていくだけのことは出来ました。
弾き語りを辞めて仕事をしようとしているうちに、仕事が舞い込むようになってきた。
仲間は沢山いたが、相談する様な相手がいないことに気付いた、それがショックだった。
社長(兼マネージャー)が一緒にやろうよと、拾ってもらいました。

ぽろりをやる様になり、歌も好きだったので10年間で2000曲近く歌わしてもらいました。
作曲した方がピアノを弾いて、歌を覚えてレコーディングをしたり、凄くいい勉強になりました。
お母さんと一緒は録音だったが、子供のリアクションができなくて、週に2回は生でやって、生だと臨場感があって面白いです。
全部現場 人に依って色々教えてもらいました。
ものを作るのに、物凄い人数のスタッフがいて、物凄い手間をかけて番組ができ上るわけですが、そのプロセスが面白いと思う。
番組芝居などはジグソーパズルの様にピース1個、1個が一つ一つ積み上げて出来てくるが、最後に出来ないピースが有り、お客さんが持ってくるピースがあって、これが最後にお客さんの拍手をもらってパチーンとピースが入る瞬間が有るが、一回かそこらしかないと思うが、又作ってみたいと思う、それは色んなものに共通していると思う。

全部に認めてもらおうとか、自分の事を判ってもらおうとか、と言うのは不可能だと思う。
オーディションで10人判ってくれないかもしれないが、ドアの裏にいる11人目がいいと思ってくれるかもしれない、それを信じることだと思います。
それが何かをつくって行ったり、何かをするうえでは力になる。
必ず誰かが、どこかで見ている、という事だと思います。