2016年9月14日水曜日

佐々木雅弘(禎子さんの兄)   ・“禎子の折り鶴”を世界に

佐々木雅弘(「原爆の子の像」禎子さんの兄) ・“禎子の折り鶴”を世界に
今年5月オバマ大統領がアメリカの現職大統領として、被爆地広島を訪れました。
その時大統領が自ら折った鶴を寄贈したことが大きな話題となりました。
それを特別な思いで見つめた一人が折り鶴を世界に広めるきっかけとなった、原爆の子の像のモデル、佐々木禎子さんの兄、雅弘さん、75歳。
雅弘さんは妹と共に4歳の時に広島市で被爆、現在福岡県に住み美容室を経営しながら、白血病でなくなった妹の生涯を、国内や海外でも伝え続けています。
佐々木さんはオバマ大統領の訪問をどの様な思いで見つめたのか、妹禎子さんについて語ることで何を伝えているのか、伺いました。

鶴をもって来るとは想像だにしなかった、サプライズだった。
「ごめんなさい、原爆を落としてこんな結果になってお詫び申します」、と言いたかったと思う。
でも大統領として言ってはいけないこともあるので、そこのところを私達は汲み取らなくてはいけないと思う。
最大のツールを使われた、それが禎子が残した折り鶴なんです。
そこから心が読み取れた。
僕はアメリカを憎んだことは一回もないです。
憎しみからは憎しみしか生まれない、という一つの心の大きな柱になっていると思う。
究極の思いやりは、先ず私より貴方という心掛け、これによって違いを認め合うと言う事から始まる、その根本が禎子が命をかけて教えて呉れた相手への心掛けという事なんです。

昭和20年原爆がおとされて、私が4歳、禎子が2歳でした。
二つ鮮明に覚えています。
真夏のもの凄く熱い青天の中、2機の飛行機が広島の上空を飛んでいたのをはっきり覚えています。
家族4人(父は出征)で食事していたとき、となりの叔母さんが綺麗なものが空を飛びよるよ、と言ったので空を見上げたら、きらきらと綺麗だった。
家の中に戻った途端に家が破壊されました。
ちゃぶ台の下に居て助かった。(もうちょっと長く飛行機を見ていたら命は無かった)
黒い雨が降って禎子の顔から身体も真黒になってるのをしっかり覚えています。
禎子は12歳で入院したが、禎子は死ぬなんて思いませんでした。
父が重病だとは私には伝えなかった。
一枚のメモが亡くなった後、ベッドの下から見つかった。
禎子が白血球、赤血球、血小板の数値をカルテから盗み取って書いていたんだと思う。
禎子は私って白血病なんだと確信する。
白血球は10万を越えると人は死ぬのかと、父に尋ねたそうです。
父もあいまいに答えたようです。
命が真直に亡くなると言う事を知っていたようです。

誰にも知られてはいけないと思って、一枚のメモを隠していたようです。
亡くなってベッドを整理していると二枚のマットレスの間から見つかった。
家では大きな借財があって、禎子が入院の時には極貧の状態でした。
白血病は輸血か痛み止めぐらいしか無くて、輸血は一パック100cc、800円した。
父が苦しむことは禎子は一番良く知っていた。
父がやってくれるギリギリの所まで禎子は我慢した。
禎子は母親にたった一度涙を流して、抱きついた事はあるが、母を思いそれ以後は決して涙を流さなかった。
8月2日、名古屋の淑徳高校から、少年赤十字青年団が原爆病に贈られたもの、その一部を看護士さんが持ってきて禎子に渡った。
それから鶴を折り始める、1000羽折れば自分の願いが叶う、病気を治してください、家に帰りたい、父の借金を無くしてください、という願いでした。
8月中に1000羽を折り、又次に1000羽の鶴を折り始めて、資料館に残っている小さな鶴の折り始めなんです。(1円玉よりも小さい鶴)
寝て空中で針を使いながら必死で折っていました。

鶴を折ることは禎子に残された唯一残された苦を越える手段でしょうね。
あまり根を詰めて鶴を折るので諌めたことが有るが、「いいからいいから、お父ちゃんうちにも考えがあるんじゃけん」と言ったそうで、父は禎子は何を言いたかったんだろうとずーっと言っていました。
亡くなってから、父と話している中で、一番の願いは、父の借金が無くなることだった、という事です。
父母の為に絶対折るんだという事が出来た、親子のつながりでの行為だと思う。
命の限界を知っていたから、自分の命の限り、折ろうとしたんだと思う。
10月に亡くなり、そのあとにクラスメートとかの働きに依り像ができる。
像ができて、単純に禎子の墓が出来たなあと思いました、嬉しかったです。
1958年5月5日が除幕式で、その頃から映画が出来、ドラマが出来、本が出来、父の耳に禎子を自慢しているのではないかと言う風評が耳に入った。
しゃべりたくない、という事になり、九州に逃れてきた。(20歳ぐらいの時)

40年間黙っていて、父が禎子の父だと言う事が段々周りに判ってきて、父も高齢だし自分が話をしなければいけない時期が来ると予感して心が少しほどけてきた。
2001年7月から10月まで広島で禎子展が有り、話をしてほしいとのオファーが有って、資料館ホールで発表して、心が吹っ切れ、それからしっかり話さなければいけないと言う覚悟が出来た。
学校に行って話す機会が多くなり、禎子と同じ年ごろなので、感想を頂きわたし自身が良かったと思う事がたくさんあり、もっと感じてもらうにはどうしたらいいか、自分の心を正してゆく、自分の心を正さない限りは人の心は正せないと言う事も判って来ました。
自分を変えるために禎子のことを話させてもらっている状態です。
自分が変わらずして相手を変えようとしても、それは変わらない。
相手に受け入れられるような自分に変わってゆく。

話が飛躍するが、ノーモアヒロシマと言った時にリメンバーパールハーバー、公の場では当然そうなる。
相手の考え方を先ず、受け入れて、そうすると心を開いてくれる。
トルーマン大統領の孫のダニエルさん、おじいさんは否定はしないと言うのを私が認めた時に、彼も私の考え方を認めてくれて被爆者の証言をしっかり聞いてくれる。
トルーマンライブラリーメインホールにどんと折り鶴の遺品が展示してある。
ダニエルさんに「広島に来て謝罪してくださいよ」、と言ったらこうはならなかったと思います。
禎子の心掛けを如何に私の命の限り、世界の方々と繋がってゆくきっかけを私達が作らせていただく。
同時多発テロで消防士を亡くした母親がテロに対して憎くてしょうがなかったが、私の話を聞いて、今から憎しみの心を取り外します、グランドゼロに行って息子に会いに行きます、と言ってくれました。
それまで彼女はグランドゼロに行くと憎しみが沸いて来るので行かないと言っていましたが。
社会歴史学会に参加して関心を持っている学校の先生方の教育現場、退役軍人の方の集会に行って話し合いたい。
そうすると心の終戦の第一歩が始まると思う。
トルーマン大統領の孫、ダニエル氏と共に教育や平和活動を行うNPO法人をアメリカに設立する準備を進めています。