2016年9月3日土曜日

松下宗柏(長興寺住職)     ・迷いの人生 白隠に出会う

松下宗柏(長興寺住職)     ・迷いの人生 白隠に出会う
68歳、大学生の時、人生に迷った末に座禅に出会い、会社勤めを2年ほどした後、仏の道に入りました。
長興寺の住職になったのは 35歳の時、それは江戸時代の中ごろ沼津で生まれた高僧白隠慧鶴の導きだったと言います。
白隠はだるま大師の肖像をはじめ、おびただしい数の絵や墨蹟を残しています。
それは市井の人々に仏の道を判り易く説こうとした白隠の努力の証です。
人生迷った末に偉大な禅僧と出会ったと語る松下さんに伺います。

旧東海道の13番目の宿場町で原という宿場町でした、ここで白隠禅師が生まれて育った。
11歳の時に母親に連れられて地獄絵を見せられて、因果の道理を諭された。
自分の蒔いた種の通りに花が咲き、自分の行いによってその後結果がでると言う話でした。
感受性の強い子だったので、因果の道理における地獄からの脱出が発心、テーマだった。
白隠は自ら地獄に身を置いて衆生を救う菩薩道こそが、天の道だと説いたのです。
仏の教えを説くためにしたためた墨蹟や禅画は合わせて1万点を越えるとも言われています。
庶民向けにはユーモラスな絵が沢山あります。(「すたすた坊主」 など)
街中を走って人の為世のために働きなさいと言うメッセージを込めていると思います。
菩薩道の実践をするんだと言う事を強く学びました。
お金、地位、名声とかではなくて、先ず根本を抑えなさい、そうして逆にそういうものを活かしなさい、そういうものが白隠禅師です。

昭和23年鹿児島県で産まれ、父方の祖母は熱心にお経を唱えましたが、自分自身は仏教に無関心なまま育ちました。
1961年、12歳の時キリスト教系の中高一貫校ラ・サール学園に入学。
開拓者精神、家族精神  才能を与えられた子供たちなんだから才能を磨いて社会の為に奉仕しなさいと言う事が印象に残っています。
高校2年の時に、点数を取るための勉強しかしていないと、本当の勉強とはこれでいいのかと、ふっと立ち止まって考えてしまって、心のバランスがおかしくなって夜も眠れなくなってしまいました。
霧島にいった時に、同校中学1年生を迎えた時に色々準備をして、済んで終わってみると心と体のバランスが取れてしまって、抜けてしまった。

1967年東京外国語大学の英米語学科に入学するが、2年の時には学生運動が激しさを増し、時代の流れに翻弄されることになりました。
ベトナム戦争反対のデモなどにも参加しました。
学生が内ゲバで内部抗争が始まってしまって、終息してゆく。
友達もばらばらになってしまって、寂しさ、虚しさを切実に感じました(無常観)
上野あたりを散歩していると、茶道の教授などの看板が有り、茶の湯の世界に飛び込み、作法の稽古を重ねることが自分自身を見つめ直す良い機会になりました。
或るお茶会で禅の専門道場龍沢寺の中川宋淵さんに出会いました。
どっしりとしていて深い静けさの有る今までに日本人に無い人でした。
1973年大学を卒業したあと、日本貿易振興会に就職し、茶道、座禅会に通い続ける。
海外PR課の同期生が、私は駄目なのでフランスから来た記者への対応を松下してほしいと言われた。
お茶の話、禅の話をしたがそんな話は退屈で、貴方自身の話はない、と言われてしまった。
急所を突かれた思いで愕然としてしまった。
中川老師と鍋をいっしょに突っつく事になり、「悟りは誰でも出来るものなのでしょうか?」と聞きました。
「もちろんだが心掛け次第で誰にでも悟れます」、と言われた。
本当に悟りがほしかったら死ぬ気で来なさいと言われた。
1974年6月 初めて龍沢寺に行く。
鈴木宗忠さん 龍沢寺の住職で後に師匠になる人に出会う。
厳しくてもう二度と来ないと思ったが、東京駅に来た時に、皇居の緑が輝いて見えて、同じ景色なのに感じて、縁切りができなくなってしまった。
本格的に禅の修行をしようと思って、仕事を辞め、両親の反対を押し切って修行するが(27歳)容易ではなかった。
「無字の公案」が老師から与えられたがさっぱり手がつかなかった、2年ぐらい駄目だった。
犬にも仏性がありますか?と言う質問に対して、趙州和尚は「無」と一言答えたと言う話ですが。(本来は有だと思ったが)
判らず荷物を纏めて帰ろうかなと3~4回は思いました。

白隠は中国から伝わってきた数多くの公案を日本人にも判り易い様に整理して体系立てました。
公案を通して白隠と向き合う様になりました。
山田無文という老師に参禅した。(助けてほしいという思い)
「無字を判らんやつは一生迷い続けるであろう」と言われた。
自分が無くなるという事 自分が無くなると言う事に気がつく事。(今まで体験しなかったこと)
最初の公案が解けてからは迷いが取れ、ひたすら精進する日々が続いた。
龍沢寺住職の鈴木宗忠さんが白隠の地元 白隠のゆかりの寺長興寺の住職になることを打診し、住職になることになることをひきうけます。(35歳)
英語が武器なので地元の子供に英語を教えれば、地元の人も信頼してくれるようになると言われました。
友達になればいいと思って、子供たちと仲良くなりました。
子供たちに座禅会はどうというと、やりたいと言うわけです。
毎週やるようになって、面白いことだと友達を誘ってくる。
そうすると子供を通じて、親、祖父母なども関心を抱いて伝搬してゆく。
いまはその子供達は40歳台になっている。
「泣き相撲大会」は25年になります。

心の支えになって道が開けることは人生の大切なポイントだと思います。
徳を積む、人の為に尽くす、人の為のお世話をする、陰徳が無いと道が開けないと言う事が、白隠禅師の教えです。
人間社会が平和になること、活発に生きていく事が出来ればな、という思いはあります。
精進を続けなさい、歩み続けなさい、菩提心、すなわち社会に還元しなさいという言う事を白隠は言っています。