2013年8月6日火曜日

吉田敬三(写真家)        ・被爆二世の心を撮る

吉田敬三(写真家)     被爆二世の心を撮る
1961年昭和36年 長崎県生まれ 母親が長崎で被爆した被爆二世です
吉田さんは中学校を卒業した後、陸上自衛隊に入隊し、戦車大隊に配属しました
その後、自衛隊を除隊して、出版社などを経て、カメラマンとしてスタートしました
これまで世界各地の紛争地を取材した写真、ルポルタージュなどで活躍してきました
吉田さんは、今日から長崎市で「被爆二世の肖像イン長崎」と言う写真展を開催します
吉田さんと同じ全国各地の被爆二世、104人の素顔を追った写真を集めたもので、親の被爆体験と向き合い、迷いながらも、自らの道を探る被爆二世達の姿が捉えられています
吉田さんが写真家になるまでの道のりを始め、今回の写真展を通し、被爆二世の人たちが訴えかけることは何かを伺いました

デジタル使えば、パソコンで処理できるが、フィルムを使っているので、フィルムの現像から始まって、プリントまでやっています
被爆二世と言うものに対しては、デジタルだと目に見えない、実態が無い訳ですよね
なかなか思いを込めることができなくて、フィルムにきちんと焼きつける、フィルムのこだわりがあるので、このテーマではフィルムを使って、自分一人でやっている
母親は10歳の時に被爆している 特に隠していたという事は無い
写真家になって被爆二世の写真を撮り始めてから、初めて母親に詳しく、その時の一挙手一動作まで詳しくインタビューを試みたが、でも解らない部分はあった

早く親元から独立したいという想いがあり、自衛隊に入った
少年工科学校に行った、訓練も並行して行った
戦車の道を選んで、戦車学校に進み、そのあとに北海道に配属された
最初は運転、砲を撃つことも担当 若い隊員を指導する班長を4年ほどやる
通信教育で大学の勉強をして4年で卒業できたが、閉鎖的で、海外がどういう軍隊の動き、役目をしているのか見てみたかったが、休職して、それを行かしてくれることは無かったので、自分の目で見てやろうという事で、退職してすぐ海外に出てゆきました

最初、中南米をバスに乗って放浪していたが、異文化、異民族に有って吃驚するだけだったが、或る時のどかな田園風景のところでバスが急停車して、一人の人間が銃を持って、倒れていた
聞いてみると、これはゲリラで政府軍と撃ち合いをして死んだばっかりだといわれた
こんなのどかな街で戦争が起こっているんだという事に先ず吃驚した
日常生活のなかで戦争が起きていること自体に、衝撃的だった
自衛隊である程度の知識はあったが、全く初めての経験で、なかなか理解をするのに最初は苦しんだ
日本に居ては伝わってこないもの、これが本当の世界の実情だと、これをできるだけ伝えたいとの思いが湧いてきて、ジャーナリズムの道に入りました
アルバイトから始めて、いろんなところに記事を売り込んだりとか、雑誌社に持ち込んだりしていた
日本では海外ネタを割と採用される率が高い(経費削減で特派員とかあまりおけないので)

いつも赤字だったので苦労していた
カメラマンと一緒に仕事をしたときに、自分が一晩寝ずに考えて書いた記事よりも、一枚の写真の方がインパクトが強くて、写真にはこんな力が有るんだと、写真で有れば言葉を越えた共通の言語としての需要があるんだと、当時記者をやりながら、写真学校の夜学に通って勉強をしました
写真は嘘をつかない 記事であると自分の言葉に訳してしまう
写真は必ず現場に立ち会っていなくてはならない
カンボジアはどんなところだろうろ、自分で選んだが、最初怖くてシャッターを押せなかった
地雷の被害者が足を切断したり、手を切断したりとかして、これを映像として取っていいのかどうか悩みました
皆さんが気を使ってくれて、お茶を出したり、お菓子を出したり、最後にはご飯まで出してくれて、この人たちに何か恩返しをしたいと思い、やっぱりそれは写真を撮るしかないと、ようやく彼らの素顔を写真に撮れるようになって、日本に戻ってきて、高く雑誌でも評価されて、そこからが本当のカメラマンとしての第一歩でした

今まで カンボジアの地雷や、路上生活者、夜間中学などのテーマを撮ってきましたが、先ずは最初はカメラを持たずに彼らのところにいって、私を理解してもらう、そうして何日間かして理解してもらってから、受け入れて貰ってからレンズを向けるという作業をしているので時間はかかる
単なる現場にいったという状況証拠であれば、そこでシャッターを押せば済むが、そこに映っている表情を引き出たせるためには、彼らが安心して心を開かないとその表情は取れない
緊急性の或るものは、時間はかけられないだろうが、私が撮りたい写真は関係性を築いたうえでの写真なので時間をかけて撮っている

私自身は被爆者から生まれたという認識はありました
カンボジアで長崎のことを聞かれて、原爆のことを知っているか、被爆した母親はどうだったかと、聞かれたときに、一般的なことは知っていたが、母親自身のことに関しては理解していなくて、一番身近な戦争被害者は母親だったと気付いた
他の二世はどうなんだろうか、自分と同じように知らないままなのだろうかろ、それを確かめてみたいと思い全国の二世を探しました
被爆二世、団体もないし、インターネットで被爆した二世だと表明した人に、手紙を書いたが1年間何の返事もなく、このままで続けていいのかなあとの不安にも駆られた
山口の被爆二世の会の方が8月6日 広島の平和公園で青空集会をやっているので会いにおいでよと言われて、会いに言って写真をとっても構わないと言ってくれて、初めて写真を撮ったが、活動を始めてから1年後だった

わざわざ被爆二世だと公表する人もいないし、探すのも苦労する
撮影することに応じることはないのではないか、と友人達から否定されることが多かった
被爆二世とあって、皆さんの人生の話を聞く事によって私はエールを頂きましたし、これは続けなくては行けなんだと、皆さんの二世としてのバックアップがあったからこそ、10年を越えるがここまで続けて来られたと思う
被爆二世という同じ土俵でいろいろ溜まったことを話すことができた
話はするけど、写真は勘弁してくれという人もいたし、積極的に対応してくれる人もいた
120人を越える被爆二世と接するが、親のことは半分以上がなにも聞いていないという人が多かった
写真撮影に応じてくれたと言う事は、何かしら自分の中でわだかまり、くすぶっているものがあって何かのきっかけにしたいという人が何人かいらっしゃいました
親自体がいなくなってしまった人がいる
親の体験を聞くことができる最後のチャンスではないかと、焦りも感じる

なんで撮影に応じてくれたのかと聞いた人がいた
親が体験したことを、周りの人たちに体験してもらいたくない 一人一人は声が小さいかもしれないが、100人集まれば大きな平和の声になるのではないか、私もそういう声の一人になりたくて応募したんですよ、と言われた
核兵器廃絶とか、世の中を変えたいというようなことも立派だと思うんですが、一人ひとりが今の生活を守りたいという事が基礎にあるんじゃないですかね

親は子供に聞かせようとするが、子供のころは又親が昔の話をしている、もうそれは今まで聞いたからいいよと、言って聞く耳を持たなかったのが、親が亡くなった後で、もしかしたら自分は大切なものを聞き忘れたのではないかと、と言う事で親が亡くなった後で、当時親と同じ職場にいた人を訪ねて、原爆が落ちたときに親はどういう行動をしたのかと、言うのを全部訪ね歩いて、一冊の本にされた方がいた、今ならまだ間に合うのではないかと思っています
被爆二世は全国に30万とか50万とか言われているが、孤立している
その人達に全国には仲間が、被爆二世がこんなにいて頑張っているよと言うようなものを同じ被爆二世として伝えたいし、エールを送りあいたい
病気などで悩んでいる人たちには、助言、サポートをしたいし、地域地域でいろんなおしゃべり場が作れればいいなあと思っている

私たちが自ら声をあげて、解決していかないといけない 
皆が集まれば大きな声になるので、そういう声を届けていけたらいいなあと思います
被爆二世はどういう状況に置かれて、何を求めているかと言うと、先ずは調べてニーズを把握しないと解らない
私がお会いした方々は親の体験を知った中で、自分として何をしようか、悩みながら一つ一つ進んでいる

写真展 観てほしいところは? 
被爆地での写真展なので意味合いが違ってくる
長崎の人々には、全国に被爆二世は居るんだよと言う事を見ていただいて、いろんな被爆二世がいる、それでお互いにエールをキャッチボールをしていただければ、いいなあと思います
被爆二世の方は産むときにいろいろ逡巡が有ったらしい、のですが勇気を持て産んでくれたと思うので、被爆二世がこれだけ大きく元気に育ったと言う事を見て、自分が産むと決意した選択は間違っていなかったという事を被爆者の人たちには伝えたい
自分たちの未来に希望を持っていただければいいなあと思います

写真と共にメッセージもある 被爆時のデータ 
被爆者の生きてきた人生を一番近くで見てきた体験があるので、それはそれでいろんな人生が現れていて参考になると思います(被爆二世ならではの想いが書かれている)
ありのままの素顔、人間として生きる、血の通った人の姿、写真だとありのままの姿を伝えられるのではないかと思って撮っている
カンボジアの写真を撮って写真を展示したが、ちらっと見て帰ってしまった、写真も人に受け入れられるものでないとなかなか伝わらないと、実感した
今回はポートレートと言う手法を取っている  
その人の生きた証が撮れるのではないかと感じている
私の写真がそのまま遺影になった人もいるが、それは写真家としても光栄に思えよと言われてやってて良かったと思う