大塚睦子(元養護教諭) 養護教諭として35年
看護師を経て、昭和32年から開校間もない大阪府立堺養護学校(現在の堺支援学校)に勤務しました
全国に先駆けて、テンカンの児童、生徒のプールでの授業に取り組むなど、35年間にわたって、養護教諭として様々な実践に取り組みました
大塚さんが教育活動の原点になったというのが、森永ヒ素ミルク中毒事件の被害者の追跡調査でした
昭和30年に粉ミルクを飲んだ乳児130人が死亡、1万3000人を超える人に健康被害が及んだ事件、学校に在籍していた被害を受けた子供の存在をきっかけに昭和43年に始まった大塚さんらの訪問調査活動が深刻な後遺症の実態を社会に訴えました
それが被害者の救済へとつながったのです
大塚さんがこの活動から学んだものは何か、教育の現場で見失ってはならないのは何か、伺いました。
学校が創立した翌年(昭和32年)に勤めました。 肢体不自由な養護学校として創立された。
テンカンの子供たちはプールの学習は一切駄目(発作が起きることを懸念) 全国共通だった。
なんとか子供たちを入れてやりたい気持ちはあった。
五者協議 お子さんの意見を聞いてみようと、けいれん発作はどういう状態だったか、親御さんから直接聞いてみようと思った。
五者協議 訓練関係の先生、校医、担任、保護者、プール指導教師、で話し合いを進めた。
保護者に 風呂でテンカンの実績があるかどうか聞いたら、いなかった。
市民プールには行っているかを聞いたら、8割の人が行っている。
学校で入れてもらえないのは納得がいかないとのことだった。
保護者としては、時間が取れるので監視に行きますとのことになる。
親御さんに交代で来ていただいて、プールに入れることになり、子供たちは非常に喜んでくれた。
児童精神医学会がテンカンの子供たちはプールに入れることに問題は無いと、正式に発表することになった。(実行し始めてから4年目)
35年間の養護教諭の実践の中で、大きな転換点 昭和43年
大阪が障害児の大規模な学校になっていた。
私のところでも43年には430人になる。全国一の大規模校。(以前は90名程度だった)
面接で親御さんと障害の状況を聞いていたのができなくなり、アンケートで対応するようになる。
一人一人の子供の障害が判らない、外見的なことしかわからない状況だった。
疑問に思っていて、ある人から阪大に丸山博という医学の教授がいるので相談してみてはといわれて、43年8月に手紙を書いて、会える事になった。(衛生学が専門)
2回目 先生に私の学校の実態を解ってもらいたいと思って、保健でまとめたものがあったのでそれを持って行った。
先生はこれを見て、脳性麻痺が多いと、これがあなたの学校の実態ですねと言われて、一人だけ脳性麻痺の症状があるが、脳性マヒではありません、と森永ミルクヒ素中毒になって被害を受けたからこんなになりましたと面接の時に言われたので、昭和30年の事件のときには私は近畿大学の医学部の学生でした。
事の重大さが解っていたが、あの事件の子供さんが障害の重い子になるのかと非常に吃驚した。
非常に重い脳性麻痺の症状で、パンを持つことができない、自分の口にパンを運ぶことができない、うちの学校で初めて受け止めた、重度のお子さんだった。
原因別にすると分類すると、脳性麻痺でいいと思っていたら、それを先生が念を押したので、実は一人だけ、森永ヒ素ミルク中毒でかかったというお子さんがいますと口にした。
それまでリラックスしていた先生がぱっと姿勢を正して、それをやりなさい、それを勉強しなさいと言われた。
障害児の健康問題の事を勉強したいと思っていた。
全校84%を占める脳性麻痺の子供達 330人余りいたが、この子供たちのことを知りたかった。
ここに森永ヒ素ミルクで障害がある子いる、しかもこんなに重い障害をうけていると言う事は、他の学校にもいるに違いないと、あの時1万2000名の人がヒ素ミルクにかかったんだと、そのうち130人も死んでいる、そこに生き残った子の中にこれだけ障害の重い子がいると言う事は他の学校にも必ずいるに違いない、そこを調べてみれば、ヒ素ミルクと言うものがどのように影響したか解るでしょうと、言われた。
それなら親御さんにもう一度会って話を聞いてみようと思った。
厚生省が事件の妥結を図るために、学識経験者に意見を求めていた。(5人委員会意見書)
5人委員会意見書を借りてコピーを取り、一晩それを読んだ。
事件はこのようにして起こった、事件の解決はこうでないといけない、死者に対してはこのくらい弔慰金を払いなさいと、厚生省に対して意見書をまとめていた。
それで事件の全貌が解る。 産業廃棄物からヒ素が入ったのか、等が判った。
そして航空機事故の場合はこれこれ、いくら、赤ちゃんの場合だから、25万円でよろしい。
祭壇に弔慰金として持って行っているので差し引くことにする、と書いてあって、なんて死者に対して、人の命をこんなけちな計算をするんだろうと納得できなかった。
A君は29年8月生れ ずーっと森永のドライミルクを飲ましていた。
昭和30年6月ごろに熱を出すようになって、時には40度の熱が長く続くようになった。
良く泣くし、離乳食も食べないし、重湯飲ませていた。
皮膚がどす黒くなるし、保健所に連れて行ったら、保健所では入浴させてないのだろうと言われ、2度と保健所には行くものかと思った。
8月24日に報道がありヒ素中毒と解った。
直接、森永に直接交渉したが、お見舞いとしてビスケットと5000円持ってきた。
その後も見舞金を持ってきたが、5人委員会意見書が出ているので、事件の決着がついているので、これ以上はどうする事もできないと言われてそれっきりだ、といわれた。
ヒ素中毒の患者の家族に話を聞きに行くと、最初険しい顔をして、森永から来たのか、とどこにいっても言われた、身分をちゃんと言って、今こういう勉強をしていますと言ったら、どこのうちも堰を切った様に、親御さんたちがいろいろと話してくれた。
151校の中学校に往復はがきを出して調査した。 24人の被害児を見つけ出した。
更に保健師、医学部の学生と連携して、訪問活動が広がって65人を調査した。
後遺症が残っているのが、どうかは解らなかったが、変だねとは思いました。
いろいろトラブルはある、問題はあるという異常感はあった。
1969年(昭和44年)10月19日付け新聞に、おかしいんじゃないかという調査の纏めが報道された。
後遺症はない、健康障害はもともとから持っている病気が出ているだけで、被害の結果ではないという事を声明が出ていたので、それでマスコミは書かなくなっていたので、この話はすんだものとみんな思っていた。
新聞の見出し 「14年後の後遺症、調査した8割に異常」 等で 公表。
被害者は中学3年生ぐらいになっていた。
社会人になってしまうと散り散りになってしまうので、掴めなくなるので、ぎりぎりだった。
小児科学会、大学等もちゃんと取り組もうと動きだした。
救済、「守る会」お金はいらない 命を返してほしい、健康を返してほしい、と訴えた。
森永側から恒久措置案が出るが、被害者側から恒久救済案が作られ認めてほしいと要求。
48年に「守る会」 厚生省の役人とを含めて、初めて三者会談を行い、決着がつけられた。
恒久的な救済の仕組みができた。
一時金はいらないので、命を全うできるように救済事業としてやると、森永は補償する、国も補償する、応援もするという事で「ひかり協会」が設立された。
家庭教師を派遣するとか、学籍を回復させるとか、福祉的なことをしっかりした。
重度のA君のような人たちには、一定の調整手当を支給する、介護手当を出す事になる。
他の公害事件などとは、全く違う救済事業です、ここに来るまでは本当に紆余曲折があった。
調査の段階で、保健婦は行政の一部機関だからか、そういうのは政治的なことだからやらないようにと、圧力があったようだ。(ほかにもいろいろ)
子供を抱えながらの調査をしていたので、いろいろ忘れられない苦労があった。
いま私たちは体と心とを、バラバラに考えていると思う。
学習は教師の仕事、健康にかかわることは養護教員の仕事と分業に考えているが、人間にとって何事にもその出発点は生命にあるので、この命を守ると言う事が最初に保証されないといけない。
親御さんとの連帯が薄れてきているようだ、自分の命を守る、周りの人の命も守る、そういう事の出来る人間にするというのが教育の目的 痛切に学んだ。
物事は一人から出発すると言う事を、この調査から教えられた。
丸山先生はたえず、事実が大事ですと、事実をどう認めるか、事実をちゃんと事実を認識できない人がいるので、自分たちの現実から出発して事実そのものを率直に認めてゆくことが大事だと
いう事を常々言っている。
(昭和30年8月24日 岡山県衛生部は西日本一帯の乳児に広がった健康被害は森永乳業徳島工場で作られた粉ミルクによるヒ素中毒と発表 事件直後に亡くなった人 130人 被害者13437人
今 ミルクをのんだ多くの人は59歳~60歳になっている。
国、被害者団体、森永乳業 3者で運営する公益財団法人「ひかり協会」は来年で活動40年になる)