2012年8月9日木曜日

河野次男(84歳)         ・被爆体験を語り継ぐ

 河野次男(84歳)   被爆体験を語り継ぐ
東大和市原爆被害者の会を作って被爆体験を語り継いでいる  
会員は30名あまり 河野さんは長崎で被爆
若い人に語り継ぐ被爆体験記を昨年発行した・・・広島、長崎で被爆した13名の方の体験記と昭和の歴史も判り易く描かれている
結成20周年になる  当初44名の会員でスタートした 
お互いが被爆者だと云うことで体験の話が出た
年齢は80歳代になる  「若い人への昭和史と広島、長崎での被爆体験記」昨年11月に纏める
次々に被爆者がなくなってゆくし、こういう大事なことを若い人たちに伝えてゆきたいと云う気持ちがあった
私が講演をしていた時に中学校の若い社会科の先生が じつはこういう事実をじぶんは全然知らなかったと 学校で習わなかった
社会科の教員をしていて、中学校でこの様な事を話をし、教えなければならない立場にあるのに非常に困っていると云う話を聞いた
日本は何故そんな無謀な戦争をしたのか、若い人はちゃんと歴史を踏まえなければいけないと思った

「歴史を知らないと云う事は盲目だ」 ドイツのヴァイツゼッカー大統領の言  
第一部が若い人への昭和史 ・・・なぜ日本は戦争に向かったのか? 概略をかいつまんで記載第二部が広島、長崎の被爆体験記 各8人、5人   
東京都内には多い時には1万人以上の被爆者がいた 
今は約8000名 東友会が取り纏め2カ月に1回理事会がある
最初は東友会から声が掛り、各地区に被爆者がいるので、私にも連絡があり、是非地区の会を発足させようと立ち上がった

被爆者団体協議会・・・全国に各支部がありその統卒をしている 各都道府県にある
私は長崎で被爆した 18歳 昭和20年3月にとうりょう中学の第一期卒業 海軍の航空隊に行く 東京で厳しい訓練 後残り半年の命だから郷里の墓参りをと帰郷
長崎に帰ったところ被爆する 母と私は木造家屋だったので大変な被害を受ける 
父は安田銀行鉄筋コンクリートだったので被害は少ない 兄は河野造船でこちらもOK
家は爆心地から2.5kmの距離にあった 伯父が爆心に近いので探しに行く 皆焼けただれてボロボロの状態でいえまで行ったが一家全滅 真っ黒焦げの死体がごろごろある 
家に帰ってきたらそのまま失神してしまう 何カ月も寝たきりになる 少しずつ元気を取り戻す 放射能の事は一切知らなかった

その後も次から次に病気をする 昭和24年に新制高校にゆく 第1期卒業後 長崎大学に行く 
昭和28年学校の先生になる 鶴鳴学園その他を歴任
先生の時代は被爆体験の事は話していない 半分以上はお互い同士は話せるが他の人に話すのははばかられる(話すことに抵抗がある)
被爆の語りべとしての自覚が湧いてきたのは講演した時に若い社会科の先生からの 若い人に話を伝えてほしいとの要望があり少しずつ対応していった
平成16年米国に行く  被爆体験の講演 スミソニアン博物館別館に行きB29をみる 
広島に原爆を落とした飛行機が展示してある 
この飛行機こそ「もう誤ちは繰り返しません 安らかにお眠りください」を書きたいと思った 
一週間遊説した 共感する人がいた
ラジオでも放送 いろいろと共感してくれた 

ガラスの破片が体につきささる 距離の近いところはガラスが溶けてしまっている しばらく経つと化膿してきて、ウジがわくと云うような事が髄所にある
廻りの人が亡くなってゆく 自分自身の体の不調 が続く 
13人書いているが殆ど癌で ここで新たに4人が亡くなっている
私も昨年心筋梗塞になる 太ももの処からカテーテルを入れて心臓のところまで行っている 
その時先生は可能性として5分5分だと云われた(一命を取り留める)
二度と戦争をしてはいけない 昭和29年の3月 第五福竜丸事件 久保山愛吉さんが亡くなられる ビキニ水爆実験場から160kmもある 性能の巨大さが知れる
25年 チェルノブイリ 何年も何年もたってから後遺症が出てくる 
福島原発事故から 自然エネルギーへの転換が必要
若い人には是非読んでほしい