2012年8月15日水曜日

宮田昇(83歳)          ・予科練の記憶を語り継ぐ

 宮田昇(83歳)      予科練の記憶を語り継ぐ  
海軍甲種飛行予科練習生の略 戦争が悪化した昭和18年以降は年齢を下げて募集して14歳の少年も志願しました
旧制中学3年 15歳の時に予科練を志願して三重海軍航空隊に配属されました  
飛行訓練は行われず飛行場の造成や穴掘り作業の日々を過ごした
16歳で終戦 復員しますが、中学3年中途までの為、学習期間が短く 上級学校に行くのに苦労しました
又予科練帰りと呼ばれ 職も無く様々な職業を経験をしましたが 大学の恩師の紹介で雑誌の編集に就く事ができました 
その後早川書房でミステリーシリーズの創刊に係わった関係で海外作品の翻訳権や著作権の専門家として活躍しました  
戦後昭和52年 配属された航空隊の後を訪ね歩き当時の記憶を史記に纏め自分の終戦としました
「敗戦33回忌 予科練の過去を歩く」を出版しました

玉音放送は大津の坂本町 7000~8000名の収容できる 1割にも満たない数しか残っていなかった 特攻隊 でいなくなる  陸戦隊に変更された
本土決戦は近づいてきていると感じた   
原子爆弾 ソ連の参戦で 勝つとは思えなかった  自分達は死ぬであろうとは考えていた
玉音放送を聞いたときに張りつめていたものがスーッと気が抜けてゆくものを感じた  
ぼんやりしていた  
一般の人達との乖離を感じた(比叡山に灯火管制されていたものが灯りを付けたことによって )
戦後33年間、予科練での事を忘れよう忘れようとしていた 予科練であることを隠していた
最後まで戦うと言っていた人達は如何しているのだろうかと思った   
姉が結核をこじらして亡くなった (終戦の年に)

33回忌と重なっている 同時に私が50歳だった 
この辺で過去を振り返っても良いのではないかと考えた
15歳~16歳で一体何があったのかと尋ねてみようと思った  
無性に泣けた 文章に纏めた 纏めた途端に自分の重しがスーッと抜けたように感じた
自分に衝撃を与えた事は書き残すことでおもりが無くなる ということだったのではないかと思う
一昨年 周りからの出版の勧めもあった  友人で予科練を受けた人がいた 彼は落ちた  
3年前に亡くなった その葬式の時に 彼の義兄に予科練に一緒に受けた事を口を滑らした  彼は軍国少年だったのかと言われた  
義兄は学徒出陣 で止む無く行ったのにと 軍国少年だと言われたときに 戦後の事が一遍に出てきた 
俺たちは予科練崩れ 軍国少年であるというレッテルはいまだに剥がされていないなのだという事  が判った  

だったらあの史記を世の中に知らせた方がいいと思った
(軍国少年という言葉さえ聞かなければ本は出さなかったと思う)  
予科飛行練習生  甲種 元々は旧制中学とは無関係 海軍が募集した 

海兵団に入った人達の優秀な人が抜擢されて飛行の方に回された
太平洋戦争でかくかくたる武勲をあげたり日中戦争で大活躍したり撃墜王と呼ばれたり そういう人達が飛行予科練習生なんです
戦争が激しくなって 足りなくなって 旧制中学からも優秀な人材を入れて飛行兵にしようとしたのが昭和12年からです
中等学校を卒業した人を入れた  (甲種)  それでも人が足りずに昭和16年から卒業したら志願できるという風に変えた 
昭和18年に中等学校3年1学期を過ぎれば志願できるようにした
   
その人達が予科練と呼ばれた  13万人が配属  
訓練は厳しい 一番走らせられた 体操 鉄棒  手旗信号 モールス符号  
9か月間操縦になるのは半分   飛行訓練の前に飛行場建設 防空壕 飛行機の 
隠す為にもっこ担ぎ 穴掘り等をやる  罰直:体罰  バッター (バットの様なもので尻を叩かれる) たるんでいるとかでやられる
徹底的に命令に従わせるために体罰を行う   「一歩前へ」と言う号令  
水中特攻の志願の時に一歩前に出ろという(私は前に出たが)
一人だけ一歩前に出なかった 
自分は飛行機に乗るために予科練に入ったのでこの様なものに乗るために入ったのではないという
東京大空襲で一家全滅(祖母だけは疎開で助かった)に遭った人だった(前に出なかった人) 
その人が特攻に選ばれてしまった
走るのが遅れたりミスをいろいろしたりする人が第一回目の特攻に選ばれた  
大変それにショックを受けた 組織の無情さを感じる
深刻に受け止めたのは復員して帰って来てから 成長してゆく中でその怖さが判ってくる   
33年間だまらした原因だと思う
戦後の苦痛はあまり話したくない位  職業を転々とした  雑誌の編集にようやくたどり着いた近代文学 野間宏 椎名麟三 梅崎春生  平野謙    本田 秋五のやっている雑誌を手伝ったのが非常に勉強になった

戦争を知らない人達が既に定年になっている  そうではないよと もっと過酷だった 
過酷さがにじみ出てきていない面が多い
具体的には 原発の時の対応 原発は地震の多い日本でこしらえる以上はそれなりの対応しなくてはいけない
地震が起きた時にどうしたらいいか原発を建てた時点から考えておかなくてはいけない  
地震が起きてからの問題がクローズアップされて それまでの何十年間はどのように対応してきたのか 責任の追及がなされないと 戦争中と同じ事になるのではなかろうかと思う  
目の前の事だけで判断するのではなく よって来るところまできちんと責任や対応の仕方を考えないとこれからの日本は又戦争の時と同じような経験をするんではなかろうかという恐れがあるわけです  
つつましいかも知れないけれども凛として平和に徹する  責任もきちんと取る 
それぞれ他人のせいにするのではなく逃げないで真正面から取り組む事
自己主張だけするのではなく自己犠牲も払う  逃げない そういう日本であってほしい

ジョン・ダワー 突然の事故や災害でその国にとって何が重要か気付く事がある 今回の大震災 かつての戦争がそうではないかと思う   
物質的な豊かさを求め続けてきたのではないだろうか  享受してきたのではないだろうか
私達の場合は物質的な貧しさを知っていたが 今豊かに暮らしている人達がもう一度踏みとどまって自分達の生活を考え直す 
小さな国であっていいと思っている   他人と競争して勝とうとしない国であっていいと思う  
心の豊かな国であった方があの戦争を戦った我々としては よかった事ではないだろうかと思う 平和に徹する国 どこの国とも親しくする それが大事だと思う