2019年8月31日土曜日

佐々木孝夫(音楽プロデューサー)     ・宮澤賢治が愛した音楽

佐々木孝夫(音楽プロデューサー)     ・宮澤賢治が愛した音楽
宮沢賢治は音楽好きだったことでも知られています。
彼はレコードを愛し、作詞作曲や楽器の演奏も手がけたほか、残した童話や詩などの作品にもその影響が色濃く残っています。
宮沢賢治ゆかりの音楽を調べ100年近く前の当時の音源をレコードで収集し発表した仙台市在住のプロデューサー佐々木さんに宮沢賢治が愛した音楽についてお話を伺いました。

彼の作品の1/3ぐらいは音楽が入って言うるというぐらい音楽が好きでした。
クラシックが好きだとは知っていましたが、ジャズ、タンゴ、西洋のはやり歌、ポップスを聞いていました。
彼が生きた時代は1896年から1933年。
中心は1920年前後です。(アメリカでもジャズが初めてレコーディングされた時代)
情報通でした。
賢治にジャズの詩があるというう事にびっくりして賢治の音楽に対してどんどん入り込んでしまいました。
賢治は岩手県花巻ですが、私は北上というところです。
ますむらひろしさんの漫画を描く方の絵本が5冊でまして、それを見てだんだんわかってきました。
きっかけとなったのは「岩手軽便鉄道7月ジャズ」という詩です。
よく判らないところがありますが。
クラシックのガボットという人の曲でした。

昔の音源、SPレコード音源を探すことに熱中しました。
佐藤泰平さんが30数年前に探してその本があって初めてネットで検索することができました。
*ヴェートーベン 交響曲第6番「田園」1930年の録音のもの
SPレコード盤は4~5分しか収録できないので、「運命」だけでも4,5枚聞いているという話があります。
賢治は山歩きが好きで、小岩井農場という詩もあります。
ヘンデル、ハイドン、バッハ、ヴェートーベン、シューベルト、ブラームス、ドボルザーク、ストラビンスキーまで聞いていたというんですね。
何でも興味を持って聞いていたみたいです。
先生をやっていた時代も大変な量のレコードを購入していた様です。

*「恋は優し野辺の花よ」 1928年の録音。
浅草オペラなどで流行した歌。
賢治は上京して足げく通っていた。
貪欲に新しいものを取り入れていた。
オペレタろ4つ書いている。
*「アシェンダ ザ ソサエティータンゴ」? 1914年の録音。

童話「セロ弾きのゴーシュ」の中にもジャズが登場します。
*「馬小屋のブルース」 1917年録音。
*「インドに虎狩り」 1931年の録音
弦楽四重奏を自分で組んだりして演奏したりしたが、自分で独特な譜面台も作ってしまった。
賢治の代表作としては「星巡りの歌」
毎日がレコード三昧という事だったと思います。
賢治を音楽という角度から見ている人は少ないと思います。





2019年8月30日金曜日

三輪休雪(萩焼・十三代)         ・40トンの土から掌(たなごころ)の世界へ

三輪休雪(萩焼・十三代)         ・40トンの土から掌(たなごころ)の世界へ
古くから茶道の世界では茶人の抹茶茶碗の好みとして萩焼きは一楽二萩三唐津といわれ珍重されてきました。(1位: 楽焼 (京都)  2位: 萩焼 (山口県萩市)3位: 唐津焼 (佐賀県唐津市)
なかでも三輪窯は代表的な窯元の一つで代々萩藩の御用窯を務めてきた由緒ある窯元です。
10第、その弟11代も人間国宝という大きな名跡でこの度襲名された13代は11代の3男です。
1951年昭和26年生まれ1975年からアメリカのサンフランシスコ、アート・インスティテュートに入学1981年に帰国しました。
以後前衛華道家、故中川幸夫との二人展など多彩な取り組みの中で、土の持つエネルギーをテーマにしたダイナミックな造形が注目を集めてきました。
令和のスタートとともに13代を襲名された休雪さんは、今人生の大切な時に茶碗を手に取った人の活力となるような作品を作っていきたいと話しています。

田舎の小さい窯元ですが、代々私までいろいろな苦労を乗り越えてきたので、それなりに気を引き締めて13代として頑張っていこうという心境です。
今年の秋に個展を控えていますのでちょうど大変な時期でもあります。
兄が12代で、去年の冬に話があるという事で打ち明けてくれました。
10代は白萩釉薬を作って、11代の父が使いこなして完成させたという大きな存在だと思います。
柔らかい新雪をイメージしたんだと思います。
兄がろくろ成型を継ぎ合わせて作ったのが鮮烈な記憶があります。
若い時期にアメリカに数年暮らして、日本に帰ってきて、何をやっていいかわからない時期がありました。
スケールの大きいところで暮らしていたので、何をやってもいいか聞いたらいいよという事で、やったのが40トンの萩焼で使う生の粘土を美術館に運びこんでで道路を作りました。
本物のガードレールをつけて4輪駆動の車とバイクを走らせてわだちをつけました。
ひび割れなどしましたが、1か月間生の土で展示しました。

水害に見舞われた或る方がいて、手伝っている合間に道路に土砂があり、ひび割れていて、40トンの作品のもとになったきっかけになりました。
中学一年生の夏休みに、兄から東京にデッサンに来いといわれて、1964年で現代国際陶芸展があり兄に連れられて行ってきました。
ピーター・ヴォーコス(世界陶芸の巨人といわれた)の作品を見て、非常にショックを受けました。
アメリカの学校では私が思っていたものとは違っていました。
いろいろ旅をしてその中からヨセミテ国立公園があり大事な作品のベースになったところです。
父の作品には色濃く受けていると思います。
父は息子たちにはああしろこうしろとはほとんどなかったです。
父は道路の作品にもある程度理解をしてくれていました。

今茶碗を作ることに力をいれています。
ろくろを使わないで、50~100cmの刀状を鍛冶屋さんに作ってもらって、削いだり、断ったりして形作るわけですが、ヨセミテ国立公園の巨大な岩山を掌(たなごころ)の世界へ持ち込んでみたかった。
大きいものは大きさからくるパワーがあると思いますが、小さいがゆえにそこに込められている大きさの意味合い、パワーがあると思います。
それを茶碗の世界に持ち込む、それに力を入れようとしています。
癒し、安らぎとかもあると思うが、昔の戦に向かう前の心境というか、自分を見つめてやろうという使い方もあっていいんではないかと思います。

自分の存在意義を考えたときに、お茶の道具だけでは満足できないというか、そういった性格的なものもあると思います。
現代人がどういう茶碗を望んでいるんだろうと、そういう思いでやっています。
自分自身でも答えは出ていないが、今までにない刺激が茶を考える一つのきっかけになってくれないかなあと思います。
作り終えたときの疲労感、満足感は日に日に大きくなっています。
土は生き物だと思っていて、あなどってはいけない。
土に向かって刀で断ったりしますが、相手にされないようなときもありますし、怖いですね、だから面白いですね。
9月18日から襲名後の最初の展覧会があります。


2019年8月28日水曜日

木村正彦(盆栽作家)           ・【心に花を咲かせて】芸術を覆す盆栽の魔術師(2019.01.23)

木村正彦(盆栽作家)  ・【心に花を咲かせて】芸術を覆す盆栽の魔術師(2019.02
.27)
木村さんは盆栽の世界で世界から注目され、盆栽界に新風を巻き起こしている方です。
その作品の芸術性から盆栽の神様、盆栽の魔術師、盆栽アーティストなどと呼ばれています。
これまで内閣総理大臣賞を27回、卓越した技と自由な発想で時間を掛けて作るという盆栽界の常識をくつがえしまして、自然界の風雪に耐えた風景を短時間で作ってしまう方です。

盆栽歴は、15歳で修行の道に入って半世紀以上になります、現在78歳です。
父親が11歳のときに亡くなりました。
4人兄弟で妹が下に3人います。
母親が生活に困って、父親が残した土地を売りながら、食い扶持減らしという事で修行に出されてしまって、それがたまたま盆栽園でした。
埼玉県の大宮の盆栽町に生まれました。
盆栽の修業は嫌だなと思ったことはありませんでした。
修行は厳しかったです。
最初は掃除、水かけ、草取りなどで2,3年経ってからようやく盆栽をいじらせて頂きました。
10年経ったときに、1年のお礼奉公があるという事で11年間やりました。
1200坪あった土地を母親が切り売りして妹たちを育てました。
11年後には土地は何にもなかったです。

植物の勉強だけはしておかないといけないと思って、学びました。
夢はせめて半分の土地で池を作って、という思いがありましたが、ようやく1000坪の土地に池などを作ることができました。
まずは資金つくりという事で年が明けてから、麻布10番で高級な草花を売りました。
ビルのオーナーの方と巡り会って、ビルの1階が空いているのでそこを使ってもいいという事でそこで店を始めました。
1年間で出て行ってもらいたいというっことでしたが、1年間で次の仕事をやる資金はできました。
園芸用の土、赤玉土を自動でできないかと、大掛かりな機械を作って、一日700袋できるようにしました。(それまで機械でつくるということはしていなかった)
父親は発明家で現在でも使われている素晴らしいものを父親が開発したものがあります。
その血筋を引いているものと思います。
短期間でこの仕事も任せている工場責任者に権利すべて譲ってしまいました。
貸植木の方に進みましたが、それも直ぐにやめて資金ができたので1000坪の土地を購入しました。

盆栽を本腰を入れてやろうと思いました。
盆栽の魅力は大自然を景色の一端を表現できることだと思います。
心の目で見ていただければ大きな世界が広がるのではないかと思います。
私の場合は遊びの気持ちを表現したくて、今までになかった盆栽、もっと楽しい盆栽があってもいいんじゃないかと、作品が売れようが売れまいが趣味のような気持で作っていました。
世界中を回っていい景色、断崖に木が生えているような景色を作れないかと思って、まず自分で石から削って作り始めました。
古く見えるように着色します。
内閣総理大臣賞を受賞した「登龍の舞」、30歳を少し超えた頃でした。
15人の審査員のうち14対1で圧倒的な勝利で内閣総理大臣賞をいただきました。
原木が1.7mぐらいあったものを小さくまとめましたが、非常に難しいのですが、植物学を勉強したことが生きたと思います。
この盆栽は3年で仕上げました。

根を上にして鉢の中に活着させるために、天地逆転して、自然に見せるように彫刻しました。
これは世界的に注目されました。
絶えず新しいものを出していってます。
各国から弟子の希望がありますが、対応できず今は5人(ロシア2人、イタリア2人、コスタリカ1人)です。
盆栽の選定などを同業者から頼まれるのが多いです、仕事の8,9割がプロの方から頼まれます。
創作盆栽という部門があり毎年7年間出して全部グランプリをもらっています。
最初の作品は24年間取ってありますが、今後20,30年は持つと思います。
自然界にある石を自分で工夫した機械を使って削っていきますが、この業界ではそれができる人は他にはいません、
細かく説明しても真似はできません。
人には真似のできない能力というものが誰にもあると思うのでそれを何とか生かせば、人生の成功の道につながるのではないかと思います。
盆栽で学んだことは命を大事にするという事、若い人たちがいろんなことをやって、盆栽がその命を守って行けるのかなという作品をずいぶん作っていますが、これは邪道です、命を無視してその時だけよければいいというような作品は駄目だと思っています。
命を長く生きながらえるような作品でないといけないと思います。





2019年8月27日火曜日

安藤和津(エッセイスト・タレント)    ・"介護後うつ"から抜け出して

安藤和津(エッセイスト・タレント)    ・"介護後うつ"から抜け出して
東京台東区出身、ニュースキャスターやエッセーイスト、タレントとして活躍されています。
1979年に俳優の奥田瑛二さんと結婚、長女は映画監督の安藤桃子さん、次女は安藤サクラさんという芸能一家です。
或る日安藤さんのお母さん昌子さんに大きな脳腫瘍が見つかり、自宅で介護を続けました。
昌子さんは平成18年に83歳で亡くなりましたが、介護中和津さんが介護うつになり、介護が終わった後にも介護後うつという状態になりました。
その苦しい状態から抜け出るのに13年も掛かったという事です。

ずーっと体も心も疲れ切っていてやっと今、心が元気になると体も元気になるという事を実感しています。
2年前まで苦しんできました。
私の目には真っ黒いものが口から出ていくのが見えたんです。
印象的には白黒TVから急にカラーTVを見るような感じでした。
自分がおかしい状況だとは思っていなかった。
介護うつが終わったと思っていたら、介護後も鬱になっていました。
介護鬱の時にはパタッと料理ができなくなりまして、人との会話もほとんどできなくなり外にも出かけることができなくなりました。
無理やり出かけて遅刻常習犯になり、人と会うのが怖かったです。
買い物に行っても買うものが流れているんです。
何とかいくつか購入して、料理するのに何を作っていいかわからない。
料理の作り方も忘れてしまいました。
文章の組み立てもできない。
コメンテーターができいない状態でした。

2時間おきに痰の吸引をしなければいけないので、睡眠不足がずーっと続いていました。
介護が終わって料理はポチポチできるようにはなりました。
人ともだいぶ会えるようになりました。
しかし、家族たちと会話していても、全員が笑っているが、私はなんで笑っているのかわからなかった。
TVみていても全員が笑ってるが私は笑えなかった。
桜が咲いて綺麗だと周りが言うが、感動が何にもなかった。
家族が変わったんだと自分では思い、自分だけ孤立している状態でした。
それが13年続いてしまいました。
人間にとって心からの感動、喜びを感じられないのは、押さえつけられている状況になっちゃうんだと思います。
年末に掃除をしていました。
TVで漫才をやっていて、介護鬱が抜けてしばらくたったら、抜け落ちていた記憶が全部徐々に繋がってくるんです。
/獅子てんや・瀬戸わんやさんの昔の漫才をやっていました。

パッと笑いがお腹から噴出して、真っ黒な塊が飛び出して行って我に返ったときに、今笑ったよねと思って周りを見渡すしたら、白黒TVから急にカラーTVに変わったように全部が違うんです。
私は鬱だったとその瞬間気が付きました。
二人目の孫が生後半年で、孫の存在は大きかった。
母の介護にやっていた事と孫にやる事はおむつ、食事などの作業は全く同じわけです。
おむつ、離乳食と介護食、など、母の介護は無理やり明るく元気にさせながらの介護だったが、最終的には見送る介護だった。
孫は未来へ命が繋がっている、命が受け継ながれているんだと実感しました。
母がここに生きているんだと思えたこともすごく大きかったです。
母の行動言動がおかしいと思ったのが1998年ごろ、本当にたどってゆくとサクラが生まれた時なんです。

長女を母に預けて入院していましたが、母が長女を連れて病院に来ました。
退院するまで長女の下着の袖口が汚れていくんです。
1週間毎日同じワンピースを着せてきたんです。
母は毎日着替えるタイプでしたが、娘が私の病院食を目の色を変えて食べるんです。
考えてみるとあの時から段々そうなって行っていたんです。
原因が脳腫瘍だと判明するのは、だいぶ後の事でした。
親のおかしな言動を医師に相談しても、知り合いに相談しても、あまり親の悪口を言わない方がいいとたしなめられてしまいました。
いろいろ変な言動があり、どうしたらいいかわからなかった。
本当は母は嘘をついていてごまかしていて、本当は行儀が悪くて、悪態をつく嫌な人間だと思うようになりました。
母のことがどんどん嫌いになって行きました。
家族が母のおかげでどんどん憂鬱になってしまいました。
母が腕を骨折してしまい、病院で診察を受けることになり、病院に脳のMRIができたばっかりだったので先生に絶対に撮ってくださいと言って、海外の仕事に行くことになりました。

帰ってきたら巨大な脳腫瘍ができていましたと言われました。
手術もできないレベルでした。
糖分と油分の代表的なような食生活だったので、和食風に私が手作りでやっているうちにあなたのおかげねと母が初めて褒めてくれました。
認知症と老人性うつ病も発症していて、この状態で家族がそばにいることが珍しいといわれました。
非常に攻撃性の強い認知症でした。
普通は付き合いきれない状況だといわれました。
母のやっていることを全部先生にお話したら、本当によくこれまでご一緒にいられましたねと言ってくださって全部救われたと思いました。
共感してくれる人が必要だと思いました。

仕事関係の友達が家に来ていた時に、母が手におむつを持って下半身すっぽんぽんで現れたときには私は腰を抜かしました。
母がおむつを使用していたことは知らなくて、「これ替えて」といったんです。
次の瞬間床に転がり落ちて私はおんおん泣いていました。
一生乗り越えられないという思い、みんなに愛情をかけていた母が、あーあ親子逆転この瞬間したなと思って切なかったです。
下の世話をすることで家族が良くやってくれました。
母がトイレでお尻が汚物だらけでしたが、血は繋がっていない夫が素手で手が汚れましたがおんぶしてくれました。
介護は育ててもらったお返しをしているだけなんだなと思った時に、凄くスイッチがOFFからONになるんですね、その時に気が楽になりました。
介護は何のためにするか「親に笑顔でさよならを言うためなんですよ」とありましたが、良い言葉だと思います。

自宅でみとることになって、酸素濃度が20ぐらいに下がってきて危なそうだという事で先生も呼びました。
その間天ぷら、中華の話をして聞かせているうちに酸素濃度が30、40と上がってきて、洋食やら屋台のそばまで話をして、酸素濃度が80まで上がって、持ち直して先生もかえってそれからほどなく、息がしていないのに気が付きました。
施設などでも○○さんありがとうと、テープに入れてパチパチとみんなで拍手で送ってあげたら魂が幸せに旅経っていくのではないかと思います。
母をあのように送ってあげてよかったと思います、母は本当に優しい顔をしていました。
介護はどうしても女の人が背負いがちなので、頑張っている奥さんにねぎらいの言葉とか、肩をたたいてあげたりしてもらえればと思います。
どういう人が思い出に残っていく人になるかというと、どれだけの愛情を人にかけたかという事になるかと思います。
そういう思いを持ってこれからも生きていきたいと思います。










2019年8月25日日曜日

釜本邦茂(メキシコ五輪サッカー銅メダリスト)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言)(初回:2014.5.23)

釜本邦茂(メキシコ五輪サッカー銅メダリスト)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言)(初回:2014.5.23)
75歳、京都の山城高校から早稲田大学に進学、早稲田大学2年生で東京オリンピックの代表になります。
メキシコオリンピックでは日本のエースとして6試合7ゴールを決め大会の得点王となるとともに日本銅メダルの立役者になりました。
社会人のヤンマーディーゼルでは、日本リーグ7回の得点王、チーム優勝4回という黄金時代を築きました。
その間に日本代表を14年間勤め、国際試合76試合で75得点を上げて日本サッカー協会公認の日本代表の最多得点保持者と、まさに日本最強のストライカーといわれました。
現役引退後は松下電器やJリーグ、ガンバ大阪の初代監督となり、その後日本サッカー協会副会長や参議院議員を務めました。
日本サッカー界の御意見番として活躍する釜本さんに伺いましたアンコール放送です。

2014年に旭日中綬章受章。
サッカー界の功績もあるのではないかと思います。
今でも子供たちとサッカーをやったり、海外にいったりしています。
昭和43年当時24歳、早稲田大学からヤンマーディーゼルに入って2年目でした。
メキシコオリンピックには16チームが参加、4チームずつに分かれて各グループの2位までが決勝トーナメントに出場するということでした。
日本はBグループで、ブラジル、スペイン、ナイジェリア、日本でした。
強いところばっかりでした。
初戦ナイジェリアと対戦、3-1で勝利  3点全部釜本が得点
前半24分で得点した時に肩の荷が下りて自信めいたものが生まれました。
3点目は相手のゴールキックをセンターライン付近で受けて、時間稼ぎのつもりでキックしたら左のクロスバーのところに突き刺さるように入りました。
入れようと思って蹴ったボールではなかった。

ブラジル戦 前半1点を取られるが、後半38分相手ゴール付近でヘッディングで競り合い落ちたボールを渡辺選手がスライディングシュートで入ってブラジルと引き分ける。
最終戦がスペイン 0-0で引き分け。
ブラジル-ナイジェリア戦では4-1ぐらいで勝っていたのを放送していて、日本は決勝トーナメントに行けそうで、別グループのメキシコかヨーロッパのチームとの対戦となりそうだった。
ヨーロッパとはやり慣れているので、引き分けて2位狙いだった。
スペインも2位になりたがっていた。
決勝トーナメント準々決勝、フランスと対戦して3-1で勝つ。
前半26分に日本先制、釜本がゴール、その後フランスが1点を入れて前半は1-1で終了。
後半、釜本正面からシュートして決まって2-1となり、渡辺選手のシュートが決まって3-1となりフランスに勝利。

準決勝ハンガリーと対戦0-5で敗れる。
3位決定戦 地元メキシコとの対戦 前半22分 杉山からのパスを胸で受けて前に落として、ディフェンダーをかわして左足シュート、決まって1-0 日本先制となる。
前半35分2点目を決める。
メキシコに2-0で勝って3位になる。
表彰式での声援は銅メダルの日本が一番大きかった。
ハンガリーが勝って金メダルだったが、退場者が両チーム二人ずつ出て荒れた試合でメキシコの観衆にいい印象を与えていなかった。
日本は合計9得点したうち7得点は釜本、2得点にアシストという結果になった。
東京オリンピックに向けて技術アップを図ったが、結果が出なかったが、ナイジェリア戦で自信をつけたと思う。

天皇杯、大学1年、4年で優勝 当時弱小チームのヤンマーディーゼルに入って、昭和44年天皇杯初優勝、46年二度目の優勝、昭和50年三回目の優勝 5回優勝する。
高校の先生からセンターフォワードは点を入れるところだから点を入れることだけを考えろといわれました。
負けず嫌いの性格で勝ちたいという気持ちがありポジションとしては合っていました。
技術的、体力的にも世界のレベルからは離れていた。
怪我も病気もありましたが、うじうじ考えても仕方ないので、治したらできるから中途半端なことはするなといわれました。
日本リーグ低迷期にサッカーのポスターに後ろ向きのフルヌードが掲載されました。
グラウンドに入ったときには私は我を通します、私のところに正確に蹴れるように練習しろという事で、私はいいコンビを作ってきました。
自分が走ったところにボールを来させないとだめだと思います。
自分はチームのために何ができるのかという事を考えてくれたら、おのずから良いプレーができると思います。