2011年7月9日土曜日

横石知二 (いろどり代表取締役)  ・「そうだ葉っぱを売ろう」映画化へ

横石知二 (いろどり代表取締役)     「そうだ葉っぱを売ろう」映画化へ  神勝町  
目的をしっかり見せてやると、高齢者でも出来る・・・パソコン操作  
売り上げのランキングが表示される  凄い競争になっている  
敷き葉(料理の下に敷く葉)が販売の主流
天然と栽培があるが、今は7~8割が栽培である  
吃驚するような急斜面に植えている  

徳島農業大学を卒業 農協に就職 
当時村は農業、蜜柑、林業が主力産業 どれも斜陽産業であった
酒を昼から飲んだり(男)、女性は嫁の文句を言い合っていた   
なんでこんなに仕事がないのか、習慣を変えないといけない、何か売れるものを作っていかないといけない  仕事を作る事が大事だと思った  
最初、変えなきゃだめだと云ったら 変えることに反対された  
売ってくるから何でもいいからこのダンボールの箱にものをいれてくれと言った  
それの行商をやった  
それが良かった→物が売れるのはこうなんだ、こういう物を作れば売れるんだと云う事が判ってきた  
いろんな作物を作るようになったのが流れ、信頼し始めてくれる
昭和6年2月26日大寒波(-13℃)で街のみかんが全滅する→なんとかせねばと、新しいものをしないといけない→禍転じて福となすと動き始める→野菜を進めてゆく(短い期間のもの)
→昭和61年大阪の店で食事をしていた客が添えられていた紅葉の葉っぱに感動するのに出会う→ 葉っぱを売ろうと思いつく→村の人には反対される
(葉っぱが売れるのならば村を逆立ちして歩いてやる)→何とか売ってやろうと思う気が湧いてきた→しかし経費50円、売価5円では採算取れず→何で売れないのか料亭の料理人に聞く→現場が見えない→一度でいいからお客になってみな→ただ葉っぱがあるのではなく、そのいわれ、大切な役割がある事を知らされる→料亭通いが始まり(自費)現場が見えてきた
(使い方が判ってきた)→商品の価値が判ってきた、見えてきた
(最初季節感だけで売れると思った) 

しみとか葉にあるが自然はそれでも綺麗の見えるが、使う側はそれでは駄目 
季節感は45日前、葉は洗練されていないと駄目 
小ぶりで綺麗で、おおきさがそろっていないと駄目 色合いも揃っていないと駄目と判る)  
木の葉は何のために使われるのか、使われる意味も判ってきた  
(例 南天の葉  難を転じる)  
高齢者の持つ広い知識と経験が非常に役立つことが出来た
(例 紅葉の葉 作り方判った 突発の場所の木はかぜが強く当ってキズが付きやすい  
谷間の場所の木はいい葉が出来る)→商品として価値が付くようになる(料亭通い3回/月 給料つぎ込む 3~4年 食べる場の雰囲気おいしくなかった
 
痛風、心筋梗塞になる)→自分で会社を起こしたくなった→あるお婆さんが嘆願書を出した→必要とされる自分に気付く→ 第三セクター「いろどり」作る→地域に合っている独自の仕組みを作った(パソコンによる現場の情報交換)  
年寄りにむいている仕事
(軽いこと、コツコツやること、自然の中の自分でやってきたことが生かせる事、綺麗であること)  
難しい点(コンピューターを使ってどんなもんが売れるかと言う事を読める人がいる)・・・脳業 単価が高い、たかい物は80円/枚 (市場価格) 柿、栗・・・葉っぱの方が高い   
全国から視察来る ・・・まねはできないと思う 
人、仕組み(ソフト)が他にはできない  
葉っぱビジネスにより医療費が減ってきた(みんな若い) 人が明るくなった  
ゴミゼロ→ゴミ収集車が走っていない 34種類に分別→リサイクル、資源へ 田舎は変えたくないという抵抗感があるが、今はいいことなら変えてゆこう、やれることなら変えてゆこうと、変化を見て自分のものにしてゆくと云うように変化してきた  
若い人が増えてきた 百数十人/2000人の村  Iターン、Jターン  
 
「生涯現役」  元気で仕事をずっと続けてゆく 自分に役割がある  
自分に居場所と出番がある  今の高齢者に必要な時が来ている  
社会保障とか問題になっているが、しっかり稼いで孫にこずかいを与えるとかという事だと思う 仕事を作ってゆくような福祉があっていいのでは  
前向きに自分が何かをやってゆこうと云う事を地域が作ってゆく 
そういう時代になって来てると思う  
いまは、リーダー型プロデューサーが必要  料理に添えるつまもの 
全国シェアーの80% 年間約3億円近い売り上げ (株)いろどり  
地域活性化伝道師に選ばれニューズウイーク日本版 世界を変える企業家100人に選ばれる

2011年7月8日金曜日

武永 賢(東京クリニック院長(新宿)) ・ベトナムから日本医師を目指して

武永 賢 東京クリニック院長(新宿))  ベトナムから日本医師を目指して  
先輩医師が院長をやっていたが、自宅の病院を継ぐことになり、誘われて後を継ぐことにした 
日本人患者を治療するドクターは一杯いるが、外国人患者を治療するドクターは君しかいないと感動的なことを云われ従事する事にする  
ベトナム戦争のときに生まれ、サイゴン陥落のときに9歳 都市機能は全くなし  
家族は無事だった 兄が日本に留学の時に5歳 他は女性姉妹 
父は政府の関係者 私は母親を手伝って家族を養う
ボートピープル 1975年に脱出しようとするが(12歳)失敗・・・ベトナムと中国の戦争 徴兵制度があり男一人だったので逃がす目的で脱出するが失敗  

船に乗る前に見つかって失敗 7回ぐらいトライするが失敗 
8回目の時に日本の政府に兄が交渉して、合法的に難民制度を利用して来日することになる 医師を志したきっかけは10歳のときに読んだ本により医療の仕事をやりたいと思った  
日本で中学2年に編入して1年間勉強して高校受験 
日本語が駄目だったので日本語を一生懸命に勉強する
大學医学部受験 一浪する 2年目に合格  
費用はある団体が対応してくれる事になっていたが、他に多くの対象者がいた為補助出来ないと連絡有

曽野綾子が新聞に投稿してくれて反響があり、杏林大学理事長も応援してくれる 
奨学金制度も利用 で入学できるようになる
その後、嫌がらせの手紙もあり「全国の善意が無駄使いである 
もし医者になりたければ、国立の大學を狙え、 狙えなければ諦めて 君はただインテリぶったこじきだ」  手紙を読んで心がみじめになる  
手紙を保存、自分を失いそうになった時、壁にぶつかった時に読むようにしている  
手紙から得たものは・・・世の中甘くない どんな運命も受け入れられる人間になりたい  父親が日本に来る意味を説いた
  
日本にくるのはより良い生活を求めるだけでなく、ベトナムの人権はなかった、自由はなかった、それを訴えなければならない  
父は若いころフランスから教育を受けていた(自由、人権、博愛)
医者になって4年目、2番目の姉が結婚、ベトナム合法難民から外されていた  
彼女の子供 大学一年生で日本に留学したいとの思いあり 甥を日本に留学させる事にする  
来日し、1年数カ月して愛媛大學医学部に合格  
医師として嬉しい事、毎日が楽しい、外国人1~1.5割  金持ちから貧しい人までいる
東南アジアの若い女性は元気がない →白血病ではないか→大きな病院を紹介→白血病だった→オーバーステイであり保険がない→ベストは本国に帰る事
(末期症状)→数年後彼女のフィアンセが来日→病気が治って元気にしているとの事→私の選択が正しかったことをに自分自身嬉しいと思う
難民としての課題、心に残っていて、自分の人生の方向性として、進めてゆきたい
十代の夢は歌手であった 歌う時だけが違った人になれる

2011年7月7日木曜日

松本猛(絵本評論家)       ・絵本が育てた子どもの心 

松本猛(絵本評論家)    絵本が育てた子どもの心 
松本猛はいわさきちひろ(絵本画家)、松本善明(弁護士、元・衆議院議員)の長男として生まれる  
母 岩崎ちひろの事、絵本の事、ちひろ美術館を建てる、

こどもの水彩画に代表される福井県武生市(現在の越前市)生まれの日本の画家・絵本作家である。左利き。
つねに「子どもの幸せと平和」をテーマとした
1939年(20歳)4月 ちひろのほうではどうしても好きになれなず形だけの結婚 
翌年、夫の自殺 ちひろは二度と結婚するまいと心に決める
中谷泰に師事 戦争の実態を知り、自分の無知を痛感する 
1946年(27歳)1月、宮沢賢治のヒューマニズム思想に強い共感を抱いていたちひろは 日本共産党の演説に深く感銘 
 
1949年(30歳)の夏、党支部会議で演説する青年松本善明と出会う  
二人は結婚 ちひろは31歳、善明は23歳  
1972年の『ことりのくるひ』はボローニャ国際児童図書展でグラフィック賞を受賞
自分の気持ちがゆったりしている時に絵の言葉が聞こえてきたりとか、そんな風に思う 美術館の建物はゆったりのんびりしたものを作りたかった  
絵本の美術館なのでリラックスしてもらえる  
絵本は教育論だった どういう絵が教育に良いか    ちひろ美術館を作る 絵本の絵の原画の取り扱いがひどかった 
原画に価値がない 芸術的なものの見方がない   
出版社が原稿を買ったのだからどうしようが自由だとの考え

我々は絵の使用権を売るんだ 著作権は我々にあるんだという運動を起こしてゆく 
価値観を変えるのは大変な努力が必要だった
岩崎ちひろは必ず原画の返還を要求していたので、原画が残ることが出来た
世界で初めての個人の絵本の美術館と言う事になる
1977年練馬に180平米 家を壊して作った ・・・開館してそのうち客足が途絶えるかと思ったが、ずっとお客は増え続けた
原画と言うものは印刷された物と比べてずっと情報量が多い  
原画の価値は絵本の価値とは別なものにあるだろうと思う
1997年長野県安曇野に安曇野ちひろ美術館を作る
世界の国を回ってみても、素晴らしい作家の原画がなくなってしまっていたので、これはまずいだろうと思いいろいろな絵書きさんのコレクションを始めた

かなり溜まって来て、どこで公開しようかと思ったときに、岩崎ちひろの古里の信州に作ろうと思った
世界の絵書きさんの絵が全部見られるようにしようと考えた
エリック・カール 腹ペコ青虫 でおなじみの方 世界中で一番売れている本 
パーティーで出会って、世界の絵本を美術館に展示したいと云ったら、猛お前に私の絵本をあげたいんだけどいいかいと言われる
あげるなんてありうるのだろうかと思ったが、本当に送って来てくれた  
海外の最初の作品となった なぜか彼とは気があった
アメリカにもこういう美術館を作りたい、手伝ってくれと言われ、手伝う  
今 マサチューセッツ州にある  安曇野ちひろ美術館に似ている
いろんな色の紙を持っている(自分で色を紙に塗る) 
それを切って貼る・・・絵を作り上げてゆく
人を驚かせたいし、一緒になって楽しみたい(絵の中にいろいろと工夫をする)

赤羽末吉  日本界のオピニオンリーダーの方で、絵本論を展開していた 
私は地元で絵本論をやるようになって、可愛がられた
子供のような自分に対して、対等に話をしてくれる  熱血絵本作家である
亡くなった後、家族の方から、全部作品を譲りたいとの話あり、宮澤賢治の作品と戦っている時、これは手ごわい相手なんだよと言って どういう風に戦えばいいのか判らない と言っていた あらゆる種類の道具を使って作品作りをする(ボールペン・・・・)  
自分は大陸にいたから大陸の乾いたものと、日本の湿潤なものと両方を描くんだ 
日本の場面を描く時には和紙を使ったりする ・・・工夫しまくり
子供たちを楽しませる絵本作家は自分でも楽しむ 楽しみたい人(子供の感性)

子供はこう云う風にやればきっと喜んでくれるんじゃないかと考える・・・童話作家 文章の書き手と絵書きが拮抗していて、火花が散るような戦いがある時に、見た人達は感動する  
凝縮してゆく、絵本の頁が少ない 哲学的内容を含んだものもある
心から癒されるとか、生きること 人間はどのように暮らしてゆくかとか 本当に幅広く深く読み取ることが出来る ・・・柳田國男が言っていた
明治時代のお上が美術館を作る 
敷居が高くなってしまった→変えてみたい
子供は絵本を見るときに本当に隅々まで良く見る  
子供の方が絵の楽しみ方を知っているのではないか

絵本の大切さは中身だけでなく 形だとか、使われ方だとか、そんなことによる人と人の結び付きだとか、そういうものを伝えてくれるものだと思う
電子ブックは電子ブックでいいが、絵本と言うものの価値は失ってはならない 仕掛けのある絵本は次々と出てきているが、平面の中であっても仕掛けがある 
気付いたときに「はじめて嬉しい」 想像力を要求する  
岩崎ちひろは物語の終わった後の絵を描いている ・・・新しい世界を作り出している
絵本は・・・表現のジャンルのひとつ ・・・安曇野とは何だろう・・・絵書きさんと一緒に何かやりたい
美術館と言うのは人が集まってくる場としても考えている  
絵だけを見るのでななくて、そこに来てくれる人が、絵具の滲みはこんなに美しいとかと、発見して子供たちは教える人から「ありがとう」と言われるのがこんなに嬉しい事かと、気付いたりとか そういう場としての美術館をやってみたい  
美術館は勉強に行く場所でなはくて、人が楽しみに行ってそこでいろいろな出会いがあると云う事も、素敵なことなんだろうなと思う
帰ってゆく人がああ生きてて良かったと思う様な、そういう顔にしてくれるような美術館を作ってゆきたい

2011年7月5日火曜日

リービ英雄(作家)        ・私の日本 私の中国 2

 リービ英雄(作家)        私の日本 私の中国 2
リービ英雄氏は英語を母国語とし、日本語の作品を書く初めての日本文学作家
新宿ある古い家屋(畳、襖、障子 日本語を書く空間)に住む・・・落ち着いて書ける
「天安門」・・・現代の中国を日本語で書く
1993年 一週間 北京に行った (軽い気持ち) ソ連と同じように自由が利かないと思った 
言葉の衝撃があった→幼い時に聞いていた台湾での言葉を30年ぶりに聞いた→30年の時間が消滅した
言葉、輝く断片、音 そのものを聞いた →子供時代に戻った
広大な場所に毛沢東の肖像 (権力が集中した場所)天安門を見たときの衝撃を日本語で伝えたいと思った とりつかれた
天安門が不思議だったのは13億人の権力の中心の場所 革命 60年の歴史 私的余地が全くない公の場所 
日本文学を 天安門を書くという大きな実験をした

柿本人麿呂の歌をよみがえらせる(天安門で作者が)・・・かげろうになっている、暑さ、歴史、人民「東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」が印象的だった その時真夏で何万人がかげろうになっている 
暑い中歩き出したら、すべてかげろうに包まれていたわけです  
文学と言うのは合理的に説明できない  
今まで読んできたものが何かに触発されて思わず出てくる  場違いの場所で出てくる
しかし 場違いじゃないかもしれないと後から判ってくる 結果として

現代の中国を 今の目で 今の言葉で、表現して書いた・・・「天安門」という本
ジャーナリストが中国について書いた物にはいい本がある  
凄く内容が面白いのですが、ジャーナリズムでしょう ノンフィクションでしょう
日本の表現の歴史の中に入り込んで書く  
中国に行って一番怖いのは病気になること 大体薬を持ってゆく 日本のいい薬
何十回と中国に行ってシルクロードの天水と言う街がある  西にゆくと本当に田舎 
めちゃくちゃ暑いので喉が渇いてレストランで辛いカレーを食べる 
ミネラルウオーターを注文しガバガバ飲みだす 飲んでいる時にちょっと味が違うなと思う
あるところへ来て腹が下ってどうしようもなくなる  
トイレに駆け込み又ホテルに戻って日本の薬を飲むが全く効かない
あんたが偽物の水に当たった 仮のたばこ 仮の軍人・・・偽物社会に生きている
仮の水、かりそめの →もう一つの意味が現れてくる 

かりそめの水を飲みかりそめに生きている
「ジャースウィー」→「ジャースウェー」→「カースウィー」→カーリー」・・・偽物と同時にかりそめ 
一過性のもので小説にもなるのかなと思う→「仮の水」・・・小説
「外人が外人でなくなった」と言う表現があった  1000年前の中国の都に西洋から渡って来た人達がいて、そしてそこで中国名を貰って中国人になった人がいる
古代のユダヤ人の話 ヨーロッパからシルクロードを通ってカイフンという都にたどり着いて 旧約聖書を全部中国語で読んで、1000年中国人として生きていた
と言うところがある 移民するとか越境するとか 現代的と思われるが1000年前ヨーロッパから旧約聖書を持って移動し、中国人として1000年生きてきた
・・・急に日本語が浮かんできて「外人が外人でなくなった」

本当のアイデンティティーて何なのかなあと思ったときにそれは言葉だと思う 
日本の歴史があるから文化がある それをよそから発見するという事もある  
堺を越えて入り込む 越境と言葉も本で出している  
日本人でドイツ語を書く人もいるし、いろんなくにの人が日本の小説を書くようになった
異言語に触れて触発されるという事はある  もう一つの言葉に身をさらしてそのことによって文学を書く この時代だから良く見えてくる大きなテーマだと思う  
今まで 日本文学と世界と言うと日本の作家が外国人と同じように、現代生活をしているのを書いて、それが翻訳されて読まれるという事それはとてもいい事だと思う

日本人として生まれなかった人が、日本の中で同じよそから入り込んで日本の中で世界に通用するもう一つの現代を自分で見つける事もあるのではないか
・・・本当の日本文学の国際化  
日本語で書く世界文学というもう一つの世界があるのではないか と喜びを感じながらいままでやってきた
日本の特徴は何なのか 日本の魅力はなんなのか 簡単には答えられない 
大きすぎて深すぎて一言では言えない
一つ書き言葉でいえば、漢字があり、カタカナがあり、ひらがながあり、アジア大陸から輸入したものもあれば、日本独自の表現もある

それは全部混ぜて複雑な多次元な美しさと生命が日本語の書き言葉の中にある 
日本に戻って来て、アルファベット一色の国、漢字一色の国、の国で体験したものを、決して一色ではない歴史のある国の言葉で書きたくてしょうがない
天安門が文庫本になって普通の読者の手に入るようになったのは私にとって大変なこと さらに勇気付けられて次の段階に行きたくなっちゃう
読まれれば読まれる程書きたくなっちゃう 

2011年7月4日月曜日

リービ英雄(作家)       ・私の日本 私の中国

 リービ英雄(作家)        私の日本 私の中国  
1987年『万葉集』の英訳で全米図書賞。  父母ともに米国人
「星条旗の聞こえない部屋」 最初の小説  2005年『千々にくだけて』で大佛次郎賞 2009年 『仮の水』で伊藤整文学賞受賞
日本語で書いた作品が英訳されて出版  仏、独、中国語にも訳される

17歳で日本に来る  17歳で経験した事を20年後に書いた(「星条旗の聞こえない部屋」) 英語の世界から日本語の世界に入りこんでやろう
ひらがなの美しさに目覚める  新宿深夜営業の喫茶店でアルバイトをする  
60年代の新宿はいろいろあったが狭い、隘鎖的、アジア的混沌、マンハッタン的知性も感じる
新宿では西洋人的先入観を全部棄てて、生の日本語に身をさらした 
文化の肉体は言葉 書き言葉は日本語の場合非常に特殊 特殊な歴史をもっている 
漢字を輸入

子供時代は台湾で暮らしていた  漢字と漢字の間に変な文字が入っている 
聞いたら日本語との事 初めて日本語を意識した
ひらがなは不安定 やわらかい感じ 惹かれた  
家出して新宿駅に来た時に ひらがなの「しんじゅく」目に入る 
話言葉も面白いが、書き言葉が複雑(漢字+ひらがな+カタカナ)で刺激的 豊かさ 多様性   万葉集を読みだして、歴史を学ぶ
19歳のときに なにかのきっかけで新宿から鈍行列車に乗って、京都に一泊
(リュックの中に万葉集の文庫本入れて) 宇治(源氏物語)に一泊 奈良まで行く
奈良で一泊して山の辺の道を通って桜井市大宮神社 明日香に入る  
万葉集にひかれていた(何故ひかれたのか判らない) 

万葉集自体 日本文学の出発点  日本独自の文字を使って完成させようとする  
万葉集 一番古いはずのものが、新鮮に感じた 一種の現代文学として感じた
考えてみると、日本人が初めて文字を使って、自己表現する時代だったから
多分彼らにとってこんな面白いことはなかったのではないか
柿本人麻呂 の長歌が急に出来上がって来ている 
(何もない野原に急に高層ビルが出来るような感じ 本当に凄い)
三島由紀夫は「万葉集は日本文化の曙だ」といった  
面白い表現で、何べんも新宿から明日香に通った

「英語で読む万葉集」・・・英語で読んで初めて内容が判ったという手紙を貰った
山上憶良は朝鮮の百済で生まれてのではないか 小さい時に日本に来たのでは・・・学説がある(中西進ら文学系研究者の一部からは百済系帰化人説)
(中西進:山上憶良を朝鮮半島からの帰化人とする説を提唱し、万葉時代の東アジアの文化交流の研究に大きな影響を与えた)

日本に戻って来て新宿の路地裏の古い日本家屋の畳の上で、襖をみながら原稿用紙に縦文字でこれを(旅)を書いている・・・自分にとって魅力的
アメリカの大学で日本文学を学ぶ あらゆる時代のあらゆる文学を読み続けた→今や私の力になっている
40歳の頃 スタフォード大學の教授だった  

アメリカにいるか(経済的保障有)日本に来るか(経済的保障全くなし)迷ったが  
( アメリカに帰るのが嫌になり)
若い時から日本人作家と付き合う中で中上健次から翻訳だけでなく日本語で本を書くように示唆される(80年代)
日本語を理解しているだけでなく、日本の奥義を判っているという様な事を言ってくれた
スタフォード大學の教授を辞職して日本に定住する事にする

2011年7月3日日曜日

中村元(仏教学者)      ・生き甲斐の発見

 中村元                 生き甲斐の発見    
インド哲学者、仏教学者。東京大学名誉教授、日本学士院会員。勲一等瑞宝章、文化勲章、
紫綬褒章受章。在家出身   
中村が20年かけ1人で執筆していた『佛教語大辞典』(東京書籍)が完成間近になったとき、編集者が原稿を紛失してしまった   
中村は「怒ったら原稿が見付かるわけでもないでしょう」と怒りもせず、翌日から再び最初から書き直し、8年かけて完結(以下の内容とは関係ない)   
以下は仏教的な内容   
  
何が生き甲斐か、人によって当然違う   
経済活動、利益を得る、絵を書いている人がこれは絵だなと思うと生き甲斐を感ずる   
草花を楽しみ、風景を楽しむことに生きがいを求める人もいるでしょう  
具体的にいろいろ存在する 一つの共通したものがある   
他人の迷惑になるような事をしてはならない 他人を損なうような事があっては為らない    
生きるというのは個人一人が生きるのではなく、人々との繋がりにおいて生きている   
人の活動が人の為にもなり、自分の為にもなることが望ましい  
人間が自然と調和して生きるのも大事である
  
「羅生門」 米国で映画を見たいと学生がいうので、連れて行った時、(映画の内容は判らないかもしれないが)日本の自然はあんなに美しいのかと、一言学生が言った 
我々日本人は慣れているのかも知れないが・・・米国学生の言    
人々の為になるように・・・「重々無心」の繋がり   
無数の人から恩恵を受けている ・・・自覚されてはいないかもしれない  
他の人々の為に生きるというのが望ましい   
報恩・智恩・・・人からなされた事を知る  人から受けた恩に気付いて感謝するという事
  
自分の利と、他人の利とが合致すればいいが、矛盾することもあるかもしれないが、究極の理想としては、自分の利と他人の利とが相即して、ともに実現されるようなことが望ましい   
そう思う心は愛情なり慈悲となって現れるでしょう    
慈=いつくしみ  真実の友情 混じりけがない  悲=あわれみ 他人に同情すること  
他人が悲しい時は自分も悲しい心を共にする   
仏様は具現する 人間の内に現れる尊いものである
  
天台大師  人間には10の領域がある  「十界互具」 
①一番尊いのは仏様の領域  ②菩薩  ③一人で悟りを開く修行者   
④声聞(お釈迦様のいろいろな戒律を守っている修行者  ⑤天上(神々)  ⑥人間  ⑦修羅(闘争を好む)  ⑧畜生(動物)    ⑨餓鬼(なんでも食べ物を欲しがる) ⑩地獄(悪人が落ちる)   ・・・人間はこの10が交わっている
   
何事も「行事綿密」 行う事が人に迷惑を掛けないように、いつも心がけていないといけない   
一卵性双生児の2人が同時に生まれた→しかし2人が全く同じと言う事はない→その後の育て方で非常に違ってくる→甲:美的センスは発生したとしよう   
乙:体が鍛えられ強壮になったとしましょう→両人は受けた教育が異なる 
人物、生活、性格まで変わってくる 嗜好、好みまで違ってくる   
国が異なると言語が違い、話言葉まで違ってくる→無煤の条件があり無限の過去まで遡る   
宇宙のありとあらゆるものが個人の独自性を形成している  
各個人は如何に微々たる存在のように見えても、実は社会人として例えようのない重大な存在を担っている   
願わしいことが実現されるという事が大切  生きがいとは一つの意志的努力が伴う   
病気の方、身体に障害を持つ人 そういう人々の生き甲斐をどう考えたらいいのか 
重層的 構造的なもの・・・生き甲斐   
雑宝蔵教   力のある人だけが人々につくすのではない 
自分は力がないと思っている人でも人々の為につくすことで、生き甲斐を見出すことが出来る  

2011年7月2日土曜日

山本一力(63歳)        ・私の深夜便とっておきの話

山本一力(63歳) 私の深夜便とっておきの話
<概要>
生家は高知市の大地主であったが没落、14歳の時に上京。通信機輸出会社、旅行代理店、
コピーライターなど10数回の転職を経て、
1997年に『蒼龍』でオール讀物新人賞を受賞してデビュー  2002年には『あかね空』で直木賞
バブル時代、借金を億単位で抱え込み、その返済のために小説を発表したら、それが世に認めた
ジョン万次郎坂本竜馬中岡慎太郎の事  無名な人々の役等
年上の人がいないと不安  今まで先輩がいたが今はいない
30代の人に「こうだよな」といってもそうは聞こえない 「こうしろ」みたいなニュアンスになってしまう
(年齢差からくるもの)
深夜便ディレクターはほぼ同年代なのでああ言えば、こうと返って来る安心感がある
今年私は大変幸せな体験が出来ました 2月桂浜に行きました 坂本竜馬の記念館がある、
竜馬のことを調べに行くには整った記念館です
前田さん 竜馬の事に関して生き字引のような人 その時ジョン・万次郎の乗っていた、アメリカで
乗っていた捕鯨船 ジョンハウランド号という3本マストの大きな船
その模型船を高知の人が作ったと前田さんから聞いた ジョン万次郎を書いているのでそれを
見たいがために行きました

その模型を見ていると、自分より先輩の人から「山本一力さんですか」といわれる→中学一年の時
の担任の先生だった
昭和35年代は学校では土佐弁だったがその先生はうるさくしている時に必ず「やめよ」と言っていた
その先生(森田先生)には「やめよ」と言うあだ名がついた 存命の先生方の集まりが年1回あり、
その会に呼ばれることになった
全員が年長者 本当に嬉しかった 年上の人が示してくれること、普通に生きている姿を見ているだ
けでいろんなことを学ぶことが出来る
皆さんが普通に呼吸して、普通に街を歩かれて、何の気なしに物をしゃべられて、やっていることを
多くの年下のものが見ているんです

自分ではそのことを意識していなくても、多くの者が皆さんの姿を見てる
3/11日本は大変つらい経験をしました  多くの爪痕がいまだに残っています
この高知でも津波の被害があったことをつい最近知りました 青のりが全滅したり、養殖してい
魚が駄目になったり、辛い目に会った人がこの高知にもいた
世の中で何が不幸と言え、ひどい目に会いながらそのことを全然気付いてもらえず、誰にも判って
もらえないまま、朽ち果ててゆくという事は本当に辛い事です
しかし、その方たちは黙っていらっしゃる 東北の人達があんな凄い目に遭っているのに自分たちが
どうだとは言えない

私より上の人達はあまり大声では言わない  それは自分たちの力で片付けてゆくんだという・・・
それを内に貯めてやり過ごすという生きかた
として学んできた世代とも言える名もな人達がなさる方がはるかに大きい 乞われて仙台に行くが、
私は世に名は知られているだけに過ぎない
それは一人一人の頭の中に生きかたを積み重ねてきた、生きかたが、そのままが、教えになると言う事です
皆さんから物を教わりたい若い世代が沢山います  そういう人たちに是非知恵を授けてあげて
いただきたい
これらの事は年長者の務めであると私はこの頃強く思います 定年を過ぎた後、社会の第一線から
は引くという形になるかも知れない

それは仕方ありません  第一線から退く事と自分に責任が課せられているんだという事とは全く
関係がありません
歳が重なれば重なるほど、その責任というのはきっと重くなってゆくんです 決して軽くはならない 
なぜならば生きていることが手本になるからです
良い歳をしたものが、とか言われるのは、歳にふさわしくなく浅はかな振る舞いをしたり、自分勝手な
ことを考えたり、より多くの人を見るのではなしに
狭い自分だけの目で、俺が良ければと言う目で物を判断したりして、それはやっぱりいい歳をして
しょうがねえな、という事になるのかもしれない
こういう考えに至ったのも、私が2年間深夜便に出させていただいた事が大きなきっかけです   
ラジオは相手の顔が見えません

同じ経験をしてきた方々が、自分以外にも一杯いるという事が解るという事は物凄く力が付きす
自分一人じゃないんだという事が判るという事は、特にしんどい時には元気が出ます 
そのことを言うのを示していけるのが、歳を重ねていった人こそなんだろうなと、今強く思います
63~64歳の間に、毎年先生たちが開いている会に招いてもらった こんな事があるとは夢にも
思わなかった
本当に、生きていれば63歳を過ぎてから、こういう経験が出来るという事は、人生と言うのは本当に
不思議です
何が待ち受けているのか判らない  怖いこともあります その反面楽しいこともあります 嬉しいこと
もあります

この様な思いもかけない出会いと言うのは、若い頃はいろんな出会いというのは、先が限られている
なんて思って生きていませんでしたから
出合うという事に対して、それほど大きな感動を覚えないで生きてきました 
ジョン万次郎が捕鯨船に助けられ、最初に立ち寄ったのがハワイです  1841年あの頃のハワイと
言うのはアメリカ西海岸から中国に向かうのに
ハワイを経由して向かう商船が途中の補給基地としていたのがハワイです ジョン万次郎は14歳で
ハワイの地を踏みます
物書きとして小説を書いてゆく時に、どういう風なスポットライトの当て方をしてゆくのかというのは
、物書きに課せられた大きな使命でもある

私は今、坂本竜馬も書いていますし、このジョン万次郎もそうなんですが、どちらも共通している事は
突き詰めれば一つです
それはどう言う事かと言うと 竜馬が竜馬たりうるためには、中岡慎太郎がいなければ絶対に竜馬は
あの功績は残していません
これは断言します  歴史がそのことを書いている  竜馬は先を行くが、知恵袋は中岡慎太郎です
中岡慎太郎の銅像は室戸岬にあります 生誕の地の北川村ではありません  村の人の言 
山の中に建てても見に来てくれない
見に来てくれるところに建てて、中岡慎太郎の功績をたたえたい
 
お金は北川村の人が出して自分たちは裏方に徹して、像が建っている栄誉は
室戸岬の人達に譲っている  これは日本人が大事にしている生きかたです  
人生を生きてゆくのに一人称で生きていない
一人称で生きるという事は「俺が、俺が」です  あれは俺がやった、これは俺がやった 
 これがある部分の主流になっている
かつて、日本人はそうではなかった  

知恵袋として自分の位置を決めて、そのことに誇りを持って、竜馬を兄さん、兄さん慕って
生きていった中岡慎太郎の事を書かずして
坂本竜馬の物語は成り立たない
万次郎も全く同じ 万次郎は物凄い功績を残している  しかし 万次郎が生きてゆくためには5人
の存在がある
事情があって4人が残って、万次郎だけが捕鯨船に乗って旅を続け、アメリカ東海岸のニューヘッドフォード
という街に上陸する
4人はハワイに残っていて、重助さんは間もなくハワイでなくなる 寅右衛門さんはハワイで居を構えて
残っている

そして、遭難してハワイにたどり着きアメリカに渡った人々が沢山いる事が記録に残っている 
それらの人々を寅右衛門さんはハワイに於いて面倒見ている
筆之丞さんと五右衛門さんは土佐藩から見、聞きしたことは一切しゃべってはならぬと、
言い渡されている

子息達は話を一切聞いていない  藩の言いつけを守って口外していない 
人生で歳を重ねてゆくという事は、生きてゆく中でいろんな経験を自分のなかに取り込んでゆく 
筆之丞さんが万次郎さんと一緒に遭難をした時には36歳です 万次郎さんは14歳 筆之丞さんの
知識と経験があったが故に万次郎さんは助かった
魯も舵も全部流されて、さあどうすると言ったときに、人は当然うろたえる  14歳の万次郎さんが
一人で流されていたら一日持たなかったかも知れない
「大丈夫だ うろたえるな」の一言で残り4人の生命が決まる そういう役目が課せられている 
歳を重ねてゆくという事がどういう事なのかと言う事が、毎日小説を書けば書くほど、よくそのことを
強く思う

無名の人がこの世の中に、果たしてくれる力です  名前のある人は、その名前に従って何か言って
いればいいのです
圧倒的な人は無名の人達です  名前が通っていなかったからといってその人の人生が無意味かと
言ったらとんでもない
名もない人が積み重ねて行っている事で、今の世が成り立ってる
名前のある人が何かやることは、ほんのひとかけらです  中には名前のある人が心得違いをして
、とんでもないことをやる人も出てくる
大事なことは、俺は人に見られている、俺の背中を見て生きかたを学ぼうとしている奴が何人もいる 
そのことを自覚して恥ずべきことを
己で慎んでゆくという事です 
 
人に讃えてもらえなくても、人に名を知られなくても、その人がやってきたという事は、必ず誰かは
見ています
その見ていた者が感銘を覚えれば、必ず次の人間に伝えます  
そうやって時代のバトンが受け渡されてゆくんです
このラジオ深夜便のリスナーの多くの人達がそういう役目を背負っている 
次の世代に渡してやる為のバトンを自分で握っている人達です
その伝わったものが芽をふけば、やがて花が咲き、実を結んで後の世代に受け継がれてゆきす
若い人達の是非良い手本になってやって下さい