2023年4月14日金曜日

山本栄子(アイヌ文化伝承者)      ・〔人生のみちしるべ〕 アイヌとして堂々と生きる

山本栄子(アイヌ文化伝承者)    ・〔人生のみちしるべ〕  アイヌとして堂々と生きる 

山本さんは昭和20年に北海道十勝地方の本別町でうまれ、現在78歳。   24歳で阿寒湖のアイヌの男性の元に嫁ぎます。  以来4人の子供を育てながら観光地阿寒でアイヌの古式舞踊の踊り手を仕事として、文化を伝承してきました。  阿寒口琴の会のメンバーとして海外公演にも多数参加、平成27年にはアイヌ文化財団からアイ文化奨励賞を受賞しています。  阿寒湖畔には2012年アイヌ文化専用劇場イコロがオープンし、古式舞踊、現代舞踊、デジタルアートが組み合わされた新しい演目などが上演されています。    山本栄子さんは劇場の踊り手として長年舞台に立っていましたが、今はその仕事は引退し、アイヌ文化の伝承者として様々な場で踊りや口承文芸を披露、ムックリ(アイヌ民族に伝わる竹製の楽器。口琴と呼ばれる楽器の一種)の演奏などで活動しています。  お話の中で和人という言葉が出てきます。  日本の先住民族アイヌに対して、日本の多数者マジョリティーの民族の呼称として和人という言葉を使っています。 

アイヌ文化専用劇場イコロは建ってから10年ぐらいになります。   その年に引退しています。  私が活動していたところは現在資料館になっています。  舞台に一緒にお客さんが踊ったりしました。   アイヌの文化は一緒にやると楽しさが判ると思います。  刺繍、木彫りでも体験するコースがあって、体験して理解してくれる人が多くなったら嬉しいなあと思います。  

嫁いで50年以上になります。  阿寒湖は四季がいろいろ一杯あって好きですが、春は特にうれしい季節です。   前田一歩園は自然保護に対するさまざま事業を行っている団体、今は財団になっている。  明治39年に作られている。  三代目の前田光子さんという方がアイヌの生活を守るために住まい、土地を無償で提供したことから阿寒湖のアイヌコタンの発展につながったという事だそうです。  前田光子さんが言っていましたが、「人間が自然を守ろうなんておこまがしい、人間は自然に守られている」。 それを聞いて、そうだと思います。  アイヌでは自然を大事にする生活をしていました。     

昔はアイヌ全体が差別がひどくて、自分はアイヌだけれどアイヌは厭だという人が多かったんです。   観光地で堂々とアイヌの踊りを紹介してきたのが、いまは観光地ではない人も歌とか踊りの保存会を作ってやっています。   観光客のお客さんとはいろんなやり取りがありました。   かつて北海道はアイヌのと知でしたが、明治時代に持ち主のいない土地としてみなされて、全部日本の国に組み込まれて、鮭や鹿を獲って暮らしていたが、禁止されて農業をやるように強いられました。アイヌのことは今でも知られていないことが多いです。  教科書にも載っていないし、アイヌのことを勉強する場もないので、知らないのが当然なのかなあと思います。   

ウポポイ(民族共生象徴空間 存立の危機ににあるアイヌ文化の復興・発展の拠点として誕生しました。国立アイヌ民族博物館、国立民族共生公園、慰霊施設の3つにより構成されている。でアイヌ文化の紹介が開催されている。   開催中に20人ぐらいでいって、ウポポイで歌、踊り、楽器演奏などやりに行く予定です。     

*「イフンケ」 子守歌 歌:山本栄子  アイヌ語  祖

祖母から教わりました。  うちは農家で祖父母がいて、母は一人娘で、父が婿で来ました。   私と弟が生まれた直ぐに、父がアルバイトで鮭漁にいって、船の事故でなくなってしまいました。  小学校まで5kmぐらいありましたが、行くとアイヌと虐められました。  意味が判らなかった。 アイヌは人間という意味ですが、それが悪口にされていた。   近くでは学校に行かなくなった子も何人かいましたが、祖母からは行くようにきつく言われました。  教室では何にもしゃべらないで黙っていました。   小学校4年生でクラス替えがあって、男の先生が「このクラスにはアイヌの子が2人いるが、虐めたら承知しない。」と宣言しました。   その後にいじめた子に対してみんなの前で謝らせて、先生が本気だという事がみんなわかりました。   以後いじめる人はいなくなり学校へ行くのが厭ではなくなりました。  先生は途中で札幌に転勤してしまいました。    先生からは虐められても頑張ってやんなさいと言われました。  

祖父が中学1年の時に亡くなり、祖母もクモ膜下で倒れて、嫁に行くまで農業をやっていました。   朝、テレビでバチェラー八重子さんの歌が紹介されていて、「ふみにじられ ふみひしがれし ウタリの名 誰しかこれを 取り返すべき」と大きく字が画面に映っていました。  ずしんと胸に降りかかって来ました。  バチェラー八重子さんはアイヌの子で22歳の時、ジョン・バチェラーさんの養女になった人です。  布教活動をして、歌人でもあった。  今でも詩集を宝物にしています。  アイヌという言葉は本当は人間という意味なのに、悪口にしか使われていない、それを何とか取り返したいというのが、私の気持ちでもあるかなあと思っています。  

昭和40年20歳のころ、ペウレ・ウタリの会との出会いがありました。  昭わ39年の夏に阿寒湖で働いていた若者と旅行に来た大学生が仲良くなり、ペウレ=若い  ウタリ=仲間 ペウレ・ウタリの会を作ったんです。   アイヌの若者は差別体験をみんなしています。    アイヌの差別をなくすために戦うというような目標を立てて、親睦会から方向転換しました。   20人ぐらいでした。  会のことを知って参加しました。  

昔はアイヌは原始共産主義で、獲物、山菜を捕ったら分け合うし、みんなで助け合って生きてゆくことだよと教えてもらって、感動しました。   本当の人間らしい生き方だと思いました。   世の中が便利になったからと言ってそれが幸せかどうかは分からない。   私の人生はペウレ・ウタリの会無しでは考えられないです。  普通に、私はアイヌだよとか、アイヌ系だよと言えるようなそんな世界になってもらいたい。  





































 

 
















 

2023年4月13日木曜日

宮坂力(桐蔭横浜大学 医用工学部特任教授)・次世代太陽電池でエネルギーの自給を

 宮坂力(桐蔭横浜大学 医用工学部特任教授)・次世代太陽電池でエネルギーの自給を

宮坂さんは69歳、日本初の技術として世界へ実用化に向けて開発競争が続く画期的なペロブスカイト太陽電池の研究・開発を牽引してきました。  民間企業出身の異色の研究者宮坂さんにペロブスカイト太陽電池とその遅咲きの研究者人生について伺います。

従来のシリコン型と比べると革命的ともいわれるペロブスカイト太陽電池。  非常に薄くて、軽い、プラスチック基板にも作れるので曲げられる。  曇った日、雨の日、屋内の照明の元でも発電できる。   作った一番薄いもので26ミクロンです。   コストは1平方メートルで200~300円です。   電極基板はちょっと高い。(透明導電膜を付けなければいけない)  シリコン型に比べると工場の生産にかかる費用、設備とか人件費を入れてもおそらく半額以下になると思います。  海外でも日本でも生産に向けた技術の開発が始まっていますし、海外では一部ビーツービー(個人へではなく会社に対して売っている)で売っているところもあります。   海外勢の方がちょっと先行しています。             

2023年に開業するJR西日本の梅北駅で使われることになっています。  屋根とか、窓、駅の壁などに貼るかもしれません。   ペロブスカイトは鉱石の名前で、金属の酸化物で何千度という温度で出来たと思われますが、これは発電能力はなくてペロブスカイトは酸素をハロゲンというものに置き換えたもの、そうすると発電機能が出てきます。    これは人工的に作ります。  ハロゲン化物は研究としては発光素子に使われていて、光を与えると電気が出ますが、逆に電気を入れると光るんです。   鉱石の酸化物は強誘電材料と言って蓄電するコンデンサーの材料にも使われているし、インクジェットプリンターのインクジェットを吐出するヘッドも金属酸化物のペロブスカイトが使われています。    病院の超音波診断の超音波を発生する素子にもペロブスカイトが使われています。     

私が指導していた学生さんが持ち込んできたものなんです。   2004年にベンチャー企業を立ち上げて、教員がスタッフだったんですが、一般公募したら大学の若い先生が入って来ました。   その先生は光るペロブスカイトの国のプロジェクトにかかわっていました。  その先生のもとで大学院の小島陽広さんが光らせるだけではなくて、発電が出来ないかという事を考えました。   当時私たちは色素増感太陽電池、色素を吸収して発電する太陽電池を作っていました。  彼が太陽光発電に使えないかと、ペロブスカイトを持ってきました。   わずかに光応答が出てきて、それがきっかけになりました。   性能効率も低く不安定でした。    講演、学会で話をしましたが、ほとんど注目されませんでした。  

小島君が博士課程に行って、博士論文を書いてアメリカの化学雑誌に論文が出ましたが、世の中はまだ動きませんでした。  これを見た英国の研究者(うちの研究室から送った研究者)が個体の材料を使ってペロブスカイトに応用して見ようという事で、研究していて、部下を日本に送って来ました。  3か月実験を重ねていたが成果が上がらなかったが、オックスフォード大学に持ち帰って1年ぐらい実験を重ねているうちに性能が上がって、エネルギーの変換効率が10%を越えました。   太陽光のエネルギーは1平方メートルで1000Wです。   100Wですから、そうしたら世界が注目しました。  世界の研究者が追試をして性能が上がって行った。  25%を超える性能になってしまった。(現在の結晶シリコンのチャンピオンデータに近い。)   ペロブスカイト太陽電池の論文が4万件近く出ています。  推定3万人の研究者がやっていると思います。  世界に散らばっている中国の研究者が一番多いです。  

小学校時代はよく遊んでしました。  プラモデル作りが大好きでした。  早稲田大学理工学部応用化学科に進学しました。   植物の光合成に近い、空気中の炭酸ガスを使ったプラスチックの合成をやっていましたが、光のパワーを形にしてみたいと思いました。  東京大学で光電気化学というところで光と電気と化学の領界を扱うところにいこうとおもって受験をして受かりました。  合成化学博士課程に進み、天然の葉緑素を薄い膜にして、これに光を当てて電流を取り出すという事をやっていました。  1978年のネーチャーに掲載されました。(人工光合成)    日立製作所から人工光合成のチームを作りたいという話があり、本当に出来るのかどうか疑問があり最終的に断りました。  

大先輩が富士写真フイルムにいて、同社に就職する事になりました。  人工網膜、目のなかに入っている光に感じるものをバクテリアが作ります。  紫色の色素を取り出して光を当てると反応します。  紫膜と言いますが、これを超薄膜にして電極にコーティングして光を当てる。  これはバクテリオロドプキシンと言いますが、タンパク質なんです。  タンパク質は電力変換が出来ないことは分かっていた。   でも光を当てたらぴくっと応答した。 この応答は動物の目から光を感じて脳にシグナルを送る信号に似ていた。  光が当たった瞬間だけ脳に反応が行くという事で、動物は動いているものに非常に敏感です。  人間にも同じ機能があることが分かった。  

それをセンサーにして人工網膜素子を作りました。 注目されたが、会社としては稼がなければいけないので、これでいくら稼げるのかと言われ苦しかったです。   リチウム二次電池開発を始めましたが、工場を作ったり、人を集めたりしましたが、中途で止まってしまいました。  色素増感太陽電池をやり始めました。大学でやっていた研究に一番近いものでした。  売り上げが100億円以上ないと事業化はスタートを切れない。  なかなか事業化するようなものがなくて20年いた会社を出ることになりました。    

もう一度大学に戻ることを考えて、2001年に桐蔭横浜大学に移りました。  一つのことに7,8年ぐらい深めていきたいという希望はありますが、企業の研究は学術基礎研究には合わないと思いました。  自由度も増えます。  2004年に横浜市中田宏市長(当時)のベンチャー企業創業政策推進に呼応する形で太陽電池研究のためにペクセル・テクノロジーズを設立しました。  

大学では学生さんたちとの交流の機会をいろいろ行いました。  学生さんによる国内、海外の学会での発表も推進しました。   実験の遣り甲斐を経験してほしいと思いました。ヴァイオリンが趣味で40年以上やっています。   年に2回舞台で一人でやることもあります。  毎日最低30分は練習をします。   ヴァイオリンそのものの楽器の研究もしています。 作り方、音響効果、楽器の形の関係とかを調べています。  英国のヴァイオリンの専門誌に論文を出しました。 (創刊 1890年)   3回投稿しました。  

ペロブスカイト太陽電池の材料は全部国内で調達出来るものなんです。  シリコンは全部輸入していますので、大きな国際問題が起きた時には輸入が止まってしまう事も考えられる。    鉛,ヨウ素は国内調達が出来る。  中小企業のような小さなところでも小さな設備で作ることができる。   ぜひ日本でも何とか始めたい。  作る工程はノウハウがいっぱい詰まった化学なので、作ったものを見せても中が判らないというような技術なので、日本は強みを発揮できると思います。   

耐久性についてはシュミレーションでは15年となっていますが、実装していないのでまだわかりません。  常に向上しているのでクリアすると思います。  凄く微量ですが、環境に良くない鉛が入っています。  太陽電池を安全に回収してゆくインフラを整えないといけない。  日本のエネルギー自給率は12%程度ですが、ある電機メーカーの試算では、発電効率が15%のペロブスカイト太陽電池を東京都23区内の建物に設置すると、原子力発電所2基分ぐらいのエネルギーを獲得できる、と言われている。  23区の家庭が年間消費する電力量の2/3に相当すると言われている。  全国に展開すればエネルギー自給率は5割以上にはいくと思っています。  夢としては8割台に持っていきたい。  








 















































  

















2023年4月12日水曜日

岡本颯子(絵本画家)          ・物語の世界に合わせた挿絵を描く

 岡本颯子(絵本画家)          ・物語の世界に合わせた挿絵を描く

去年の11月中旬から今年の1月下旬まで長野県岡谷市のイルフ童画館で、岡本颯子さんの原画展が開かれました。  50年のキャリアを持つ岡本さんの代表作「かぎばあさん」や「こまったさん」の原画を中心として、自作絵本や児童書の挿絵、舞台の衣装デザインなどの作品を展示するもので、地元をはじめとして県外からも絵本好きな親子連れなどが大勢訪れました。   岡本さんは1945年長野県生まれ、東京育ち。  武蔵野美術大学芸能デザイン科で舞台美術を学び、舞台装置や衣装の仕事に携わりました。   その後子供の絵本の世界に転じて、1975年のデビュー以来、200冊余りの子供の本の挿絵を手がけました。   物語の世界に合わせて画材やタッチを決めてゆくことを大事にして来たという岡本颯子さんに伺いました。

イルフ童画館の学芸員の方から、原画展をやらないかという連絡があり、やることになりました。   期間中にトークショーもやりました。    アンケートでは細かく緻密に書いてあるので良かったとか、懐かしいというような声が多かったです。  

両親が画家で、兄が3人いて一番上の兄が漫画家で「カムイ伝」で知られる白土三平。   疎開先の長野で生まれて、直ぐ東京に戻りました。   身体は丈夫ではなかったが、元気な子だったと思います。    外で遊んだり絵はしょっちゅう描いていました。    グリム童話、アンゼルセン童話などを読んだものを、自分なりに割付して何枚も描いて本にして綴じたりしていました。(小学校6年生ごろまで)   

武蔵野美術大学芸能デザイン科で舞台装置とか舞台衣装とか舞台照明などに関して学びました。   子供の物語に絵を付けるという事の方が興味がわきました。  20年ぐらいは絵と舞台に関する仕事をやりました。   「ティーンルック」という雑誌の表紙を担当しました。   もっと動きのあるものを描きたくなりました。  自分自身で子供向きだなあとある段階で判りました。   

1975年デビュー作『おばけたんぽぽ』  編集者が自作絵本を作ってみませんかと言われて、引き受けました。   まず原稿を読んで、最初に考えるのはキャラクターです。  私はキャラクターを考えることはいくらでも考え付いて楽しいです。  基本は悪い奴にしろ、わき役にしろどことなくかわいい面があるという事を志しています。    キャラクターは〇、△、□系の3つの系統に思って考えていきます。  自然にふっと湧きてきます。   

「かぎばあさん」シリーズ 20作  1年に1冊描いてきました。  文章は手島悠介 さんです。  当時は沢山かぎっ子がいました。   かぎばあさんは救いのばあさんでした。   「こまったさん」シリーズは料理が大事な要素になっている。  第1巻が『こまったさんのスパゲティ』  全部で10巻で10年かかりました。   文章は寺村輝夫さんです。   

夫の青木 明節、(元雑誌の編集長)が作った「さよなら?」、二人で作って本になるまで7年かかりました。   最初に貰った原稿が「今日は朝から夜だった。」というもので、最初からそこで引っかかってしまってしまいました。  出てくるルイちゃんという少女はとても好きでした。   ルイちゃんとA君という主人公がほとんど実像としては書かれていないので、 ルイちゃんとA君の心象風景というもので書き上げようかなと思いました。  今までとは違う発想で描きました。  

作家、編集者、画家とが三位一体となることが必要で、編集者の存在は大きいと思います。 「かぎばあさん」、「こまったさん」に出会えたのは幸運だったと思います。      編集者は作家の私の橋渡しをしてくれる。   編集者は割付をしてくれます。(絵本の面白い区切り方など)   「かぎばあさん」は小学校3,4年生が対象で、「こまったさん」は1年生ぐらいです。  

父は岡本 唐貴、プロレタリア美術運動家で、前衛的な画風です。  一番好きなのはセザンヌと言っていました。    母親は脇でよく勉強、絵を教えてくれ気合いをいれくれていました。   或る時に母親の気合で描いているなと気付きました。(小学校5,6年生) 母親がいないと成立しないなと思って、母親から離れました。   母も手離しくれました。   長男(白戸三平)とは歳が13離れていて、一緒に遊ぶという事はなくて、東映の映画館には毎週土曜日には連れて行ってくれました。  兄は水木しげるさんとは知り合いだったようです。  「カムイ伝」を「ガロ」に載せるんですが、「ガロ」の創刊自体に圧力があったりして問題があった様です。  次兄とは12歳違い、一番かわいがってもらいました。  中学になるとオペラ、コーラス、オーケストラ、バレエ、などに連れて行ってくれました。   そういった経験が作品の中にありますね。  どうしたら本を読む子に育つかという入口はやっぱり絵本だと思います。  
















  
























 


















2023年4月11日火曜日

山本學(俳優)             ・〔出会いの宝箱〕

 山本學(俳優)             ・〔出会いの宝箱〕

大河ドラマに8本出演しています。   最初が1967年「三姉妹」(56年前 30歳の時))最近では「おんな城主 直虎」2017年(6年前)。   1年間を通しての出演はなかった。 生テレビの時代に単発で1年間に20~30本ぐらいやっていました。  その後劇団にいたので芝居が入って来て、1~2か月拘束があり、大河をやっていると2か月は休めない。そんな関係でちょこっと出してもらっています。  「おんな城主 直虎」では一緒に歩んでゆく村の長老の役「甚兵衛」さんというお百姓さんを担当。   僕はあんまり役者精神がないんですね。  できれば影でいいですから、全体がよくなればいいですから、というような消極的な人間なんだと思います。  出番がない時でも全体は見ています。  若い人はそうではなく、自分の出番が終わると、さよぅならといった感じです。  

1967年「三姉妹」 演じたのは高杉晋作。  小唄のシーンがあったが、当時は世界が違っていて小唄など歌ったこともなく、苦労したことを覚えています。  中村半次郎の役で米倉斉加年さんが出演している。  森光子さんの「放浪記」には何十年かご一緒しました。  九州福岡の出身で、きっちりどこかで自分をもっていて、なかなかそれを見せない。  九州の男の人だったなあという印象があります。  絵が上手かったです。(西洋風な絵)   台詞は台本が頭の中に入っていて、ページをめくるように覚える、といった感じでした。   でも黒柳徹子さんがアドリブ的な演技をしても、それにちゃんと受け答えしていました。   感心しました。  

1972年「新・平家物語」では清盛の弟にあたる平頼盛を演じる。(35歳)     戦争に行かなくて生き残って頼朝と仲が良くて、助けられる役です。  滝沢修さんが後白河法皇役で、滝沢さんと一対一で芝居が出来るのかなあと緊張したことを覚えています。 芝居の神髄をどういう形にするかという事、方法論を持っていた方でした。   私は声が小さかったので、大きな劇場でしたが、早く開けてもらって声出しの練習をしました。   怒鳴れば聞こえるが、怒鳴った声は細かいところまで聞こえない。  通る声を出さないといけない。  今の若い人は通る声ではない。  きちっとしゃべる人が役者として残って行くと思います。   

1999年「元禄繚乱」では四十七士を纏める吉田忠左衛門役。(年寄りの役)     その前に「四十七人の刺客」という映画で監督が市川崑さんでした。   僕はこんな年寄りは出来ませんよと言ったんですが、もうそういう年なんだよ、と言われて吉田忠左衛門役をやることになりました。  「元禄繚乱」でも吉田忠左衛門役をやることになりました。 俳優座同期の井川比佐志さんも四十七士の惣右衛門役をやる。 中井貴一君が若い色部又四郎役をやっていましたが、彼は時代劇を残さなければいけませんと、武士の精神、形式とか大事に日本の遺産として残していきたいと言っていました。   「どうする 家康」では時代劇と現代劇と合わさったような新しい形で、こういう風に時代が変わたんだなあと、我々が持っている階級制を意識して、忠義、真心とか関係ない演技方式という気がします。  大石内蔵助を演じたのは当時の中村勘九郎さんで、早く亡くなってしまって残念です。   映画「四十七人の刺客」では大石内蔵助を演じたのは高倉健さんでした。   兎に角ぶつぶつ言わないで、リハーサルの時でも椅子に絶対座らないで、皆の人を見ていました。   作品はこうして作るものだと身体で示していました。  驚きました。 豪放なところと細やかななところを持っていました。(高倉健さんも中村勘九郎さんも)                    

2014年「軍師官兵衛」(9年前)では武田信玄のゆかりの寺、恵林寺の住職快川紹喜というお坊さんの役、織田信長が恵林寺を焼き払ってしまう。  その時に快川和尚が「安禅必ずしも山水を須〈もち〉ひず 心頭滅却せば火も自づから涼し」の辞世を残したといわれている。  こちらが間違ってしゃべたりしたときでも、それをちゃんと受けてくれる俳優さんは心に残っています。  相手役があって、役者というのはそういうものですね。

大河ドラマのセリフ、大河ドラマゆかりの名文章を読んでいただく。 

快川和尚の言葉   「心頭を滅却すれば火も亦た涼し」  ドラマではなかった。 

吉田忠左衛門の辞世の歌    君がため思いぞ積もる白雪をちらすは今朝のみねの松風    「君」は浅野内匠頭                             

平家物語の冒頭の部分。   「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。 猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ

高杉晋作 小唄  「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」  高杉晋作が唄ったとされる都々逸(どどいつ)の歌詞。















 

 










 











2023年4月10日月曜日

桧山進次郎(元・プロ野球選手 野球解説者)・〔師匠を語る〕 岡田彰布

 桧山進次郎(元・プロ野球選手 野球解説者)・〔師匠を語る〕  岡田彰布

1991年にプロ入りして2013年に引退するまで阪神ターガースに22年間在籍した桧山さんは2003年、2005年のリーグ優勝に貢献、日本シリーズで優秀選手賞を受賞しました。   その後代打にシフトチェンジしてからも活躍を続け、代打の神様とも言われた桧山進次郎さん、その桧山さんが師と仰ぐのが阪神タイガース監督 岡田彰布さんです。

平安中学、高校を経て東洋大学に進学、ベストナイン3回、阪神タイガースに入団。      中学から様々な監督の下でプレーしてきました。   小さい時からタイガースファンで育ってきました。   岡田監督は代打への道を切り開いてくださった監督です。  

 岡田彰布さんは、1957年大阪に生まれる。  北陽高校時代には1年生で甲子園に出場、早稲田大学でも1年生からレギュラーとして活躍し、東京6大学の記録を塗り替えてきました。  岡田選手をめぐって6つの球団が競い合う白熱したドラフト会議の結果、1980年阪神タイガースに入団、ルーキーイヤーに新人王を獲得するなど、プロ野球でも活躍を続けます。   阪神で1993年までプレーした後オリックスに移籍、1995年に現役を引退しました。  その後、オリックス、タイガースで2軍監督などを歴任し、2004年阪神タイガースの第30代監督に就任、2005年チームをリーグ優勝に導き、2008年に退任しました。  その後オリックスの監督、野球解説者を経て今シーズン15年振りに阪神タイガースの監督に復帰しました。   

1991年岡田選手のいる阪神タイガースに入団しました。  プロ野球になると意識付けが変わりました。   当時低迷期ではありましたが、プロの選手は違うと思いました。 体力面で、足が速い、肩が強い、技術面でもそうだし、パワーもありプロとの差を感じました。   最初にロッカールームで岡田選手らと会った時には直立不動で挨拶しました。  オープン戦が始まる前に福岡遠征があり、その時に久慈選手と一緒に岡田選手に食事に誘われたことがありましたが、緊張して何をしゃべったのか判りませんでした。

岡田さんがオリックスから阪神に戻って来たのが1998年、2軍の監督に就任。  そのころはレギュラーで、怪我をした時に岡田さんと話す機会がありました。   岡田監督の方針としてはその人のいいところを伸ばそうというような形でした。   岡田さんは2004年に1軍の監督に就任。  野村さんはタイガースのOBではなく来られて、基礎の部分を作り上げて、星野監督が背中を叩いて、岡田さんがタイガースの歴史を知っている方が監督になったという事で、良い循環になったのかなあと思います。  

岡田監督の2年目になって、代打としての起用が増えてきました。  岡田監督としては次の時代を担う選手を育てなければいけないという事があり、私はライトでしたが、いろいろ葛藤はありました。   練習とか、技術的なことを見ても、どうしてあいつを出すのかとか、という思いはありました。  しかし、どう結果をだすかという事しか考えていませんでした。   代打の道に踏み入れるという事は考えていませんでした。  途中から信頼してもらえるような代打者になって行きました。   代打者にとっては試合の中でのリズムがないので、練習方法、出番の準備も変えていきました。   流れに左右されないというところを持たないといけない。   

2010年6月4日には代打通算109安打、球団新記録達成、このシーズンには158安打で球団最多、セリーグ2位、翌年5月14日、代打通算14本塁打、球団新記録達成、2012年8月23日代打通算98打点球団記録タイ、2013年5月8日代打通算99打点球団新記録達成、 このシーズン111打点 球団最多。セリーグ2位。

岡田監督とは代打起用について話をしたことはないです。  阿吽の呼吸みたいなのはあったかもしれません。  岡田監督がタイガースを退いたのが2008年。  電撃的な退任だったのでびっくりしました。  

22年間阪神ターガースで活躍して2013年引退。  岡田さんは解説者として活躍。 引退会見する前日に電話で知らせました。  岡田さんは15年振りに阪神ターガースの監督に就任。   代打のポジションをすることによって、いろんな野球の仕方があるんだよという事を学ばせてもらったという部分ではすごく感謝しています。  熱い想いがあると思うので、健康に気を付けて優勝を目指して頑張っていただきたい。









  











 






























 

2023年4月9日日曜日

佐々涼子(ノンフィクションライター)  ・命の重さを知るからこそ

 佐々涼子(ノンフィクションライター)  ・命の重さを知るからこそ

佐々さんは1968年生まれ、神奈川県出身。   早稲田大学法学部を卒業後、家庭に入り転勤族の夫と共に2人のお子さんを育てる中、日本語教師となり39歳でフリーライターへの道を歩き始めました。  長編2作目となるエンジェルフライト 国際霊柩送還士』で第10回開高健ノンフィクション賞を受賞。  2014年に発表した『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場』が東日本大震災で被災した工場の復帰を描いた作品で、多くの賞を受賞しました。   2020年には終末期の在り方を考える『エンド・オブ・ライフ』で第3回Yahoo!ニュース|本屋大賞 ノンフィクション本大賞を受賞。   去年秋に日本に辿り着いた人たちをどう受け入れてきたのか、私たちの心の中に境界線、ボーダーがあるのではないかというご自身の日本語教師としての経験を踏まえた作品、『ボーダー 移民と難民』を発表し、次回作を始めた直後悪性の脳腫瘍と診断され、闘病生活が始まりました。  取材者から当事者に立場が変わったことを佐々さんはどう受け止めているのか、病の中でどんな思いでいるのか、御主人に付き添っていただきながらお話を伺いました。

CTを撮ったら腫瘍があると言われ、手術で腫瘍を取ったのですが、コロナでずーっと一人部屋でした。   死ぬのかなあと思ったりして驚きました。   頭痛薬などで耐え忍んでいたんですが、まさか腫瘍だとは気が付かずにいました。   10割のうち8割取って2割は残っているらしいんですが、本当にそうなのと今でも信じられません。  子供達、孫たちに助けられているという気持ちがあります。  トイレで泣いてしまったりして、空元気なところもあります。   私には価値があると、それぞれの自分があってそれぞれに価値があるんだと、そう思って毎日トイレから出ます。   書く能力もリハビリで少しは良くなるはずだと、自分自身を励ましています。    病を得て、もしかしてそんなに長くは生きられないかもしれないと思うと、なんで私は幸福に生きることを諦めてしまったのかなあと思いました。   

しばらくしてお金は何の意味はないと思たんです。   お金を儲けて何になるのかなあと思いました。  あれは駄目とか、これは駄目とか、いろんな差別があるが、一体これは何の意味があるのだろうか、と思いました。    死んじゃうのかなあ、死ぬのは厭だなあと毎日毎日くよくよしてたんですが、蜜柑を食べた時に凄く極楽のような味がして、蜜柑はこんなにおいしかったのかと思いました。  助けてください、一日でも長く生かしてください、お金も一杯儲けたいです、とかいろんなことをお願いしていたけど、蜜柑を食べさせてくれてありがとう、富士山見せてくれてありがとう、とか本当に感謝していた方がいいなあと、人は許し合った方がいいし、幸せでいた方がいいと思うようになりました。   こんなふうに幸せな思いで生きられるんだという事は大発見でした。  

大学卒業後すぐに結婚して、転勤先について行って30代になって働きたいという思いがあり、日本語学校の教師になりました。   職業ライターになりたくて、何を書きたいかと言われた時に人間を書きたいですと言ったら、エッセーを書くことにしました。     これを書きたいという意欲が高まって行って、ノンフィクションにのめり込んでいきました。   自分にとって本当に幸せな人生だと思ったのは、書くことだったり、それが本になって沢山の人に読まれたことだったなあと思います。   

本は小さいころから好きだったと思います。   『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場』の取材では3月11日に吹いてくる風は、雪は降ったのか冷たかったのか、など想像しながら、誰もいない小名浜町を一人で歩きました。  いろいろな人たちを思うと胸が熱くなります。   自分ではこの本が好きだなあと思っています。

病気になる前はボーダーのことを判っていなかったと思います。   大手術でいろんな機能を失って、自分が尊厳をもって障害者として生きることはどんなに難しいか、それは外国の人たちも同じで差別をされる、その人たちの喜び、幸福とかを一切奪って、辛い思いをする人たちがいっぱいいるなかで、私は差別をしなかったのか、可哀そうだとか、情をかけるとか思っていたのではないか。   自分たちが尊厳をもって毎日生きる人たちがいるのではないか、そういったことに気が付かず私は育ってきたのではないか、と病院の中で凄く思いました。   

この春ドラマ化されたエンジェルフライト 国際霊柩送還士は出版から2年後、文庫本になりました。  あとがきから「・・・死は自然に日常生活に入り込み、私は日々何とかして丁寧に、尊厳を傷付けずにと願いながら、死を読者の元に届けている。  相変わらず死については素人だ。  判った振りをするのだけは辞めようと思っている。  この作品には不思議なめぐりあわせを感じる。 ・・・ エンジェルフライト 国際霊柩送還士』のゲラが戻ってきた時に母が亡くなったのだ。  10年間の壮絶な闘病の死だった。 ・・・出版からずいぶん時間が経った今でもネットに本書の感想が上がってくる。   人は時々死について語りたいのだと思う。  両親は身をもって私に生きるとは何か、死ぬとは何かを教えてくれる。 母が元気だった頃、生きながら自分の身体を子に食わせる母蜘蛛がテレビに出てきたことがある。・・・母が独り言のように「親って有難いわね。」とつぶやいたのを覚えている。  死しても親は様々なことを教えてくれる。    10年もの間24時間介護を休まず続けた父は死にゆく母にこう言って別れを告げた。  「面倒見させてくれてありがとう。  もっと面倒みたかったよ。」   死が豊かに教えてくれたのは、生の限りない尊さと人間存在のいとしさだった。」

になった当初は隣が癌になってくれればよかったのにとか思っていました。  隣には居ませんでしたが。   今は私はこんなに幸せだったんだなあと思います。  家族も葛藤があったと思いますが、家族ってすごいもんだと思います。  子供もよくやってくれました。   戻ったら戻ったで沢山のチャレンジがあると思います。

日本の入国管理問題を取材した『ボーダー 移民と難民』の後は子供のホスピスの取材をしました。   尊厳をもって死ぬとき迄一瞬一瞬本当に幸せであるという権利を皆さんに共有したいし、そういう活動がこれからどんどん進んでいったらいいなあと思います。    私も参加させていただけるのであれば、リハビリして少しづつやっていきたいと思います。一番大切にしていることは嘘をつかないこと、正直であることだと思っています。    真実の先に希望があったり、そこに生きる意味を見出しているとか、そういったものが私の中に見えてくるんです。    それが私にとっては救いです。   辛い先に見えるかすかな希望、そういう人生を歩めることも、幸福さというか、そう心の底から思います。

誰かに書かせてもらっている感じがしてしょうがないんです。  そういった手伝いをさせてもらっていることがどれだけ幸せなのかという事が本当に判らない、こういう機会を与えてもらったことが本当にありがたいと思っています





































 













































2023年4月8日土曜日