2018年8月7日火曜日

熊谷志衣子(鋳物師 南部鉄器工房15代当主) ・鉄瓶に熱い思いを注いで

熊谷志衣子(鋳物師 南部鉄器工房15代当主) ・鉄瓶に熱い思いを注いで
1946年生まれ、岩手県の盛岡市で鉄瓶や茶釜など作っています。
熊谷さんが受け継ぐ工房は鈴木盛久工房と言われて400年続く老舗です。
熊谷さんはその15代目、この工房では代々が名工として知られ13代は国の無形文化財保持者に認定、14代は東京芸術大学教授として鋳物の世界の研究と指導に当たってきました。
熊谷さんは初のの女性後継者として15代を襲名、鋳物作りに取り組んでいます。
昔から伝わる道具の良さを見直してほしいと語る熊谷さんに伺いました。

盛岡は茶の湯とか鉄瓶とかを作っていました。
南部藩のお殿様が藩の産業として鉄器作りを奨励して、その材料は自分の処で全部まかなえました。
砂鉄、鋳物に適した川砂が取れました。
粘土も耐火性の粘土、漆も取れました。
金閣寺の修復も岩手の漆を使っています。
茶の湯釜は京都から釜師を呼んで、武士の作法として殿さまが奨励しました。
代々男性でしたが、父が14代で東京芸術大学教授で退官してから盛岡で継ぐ予定でしたが、現役で早く亡くなりました。
私が継ぐまでにはブランクがありました。
私は彫金をやっていましたが、やろうと思って40歳の時に始めました。
鋳型が重くてどんなに頑張っても持てないものがあります。
世間では私が継ぐことには吃驚したと思います。
自分でなんでもやらなければと思って、無理をしてぎっくり腰も何度もしました。

工程は50以上の工程があります。
先ず鋳型を作ります。
デザインした図面の平面の半分を鉄板で切りとったものがゲージとなり、型の中に入れて回転させます。
曳き型という技法です。
材料は川砂を焼いて細かく砕いて細かいものから粗いものまでをふるい分けます。
芯土(まね)は細かいふるいでふるったものです。
粗いものから型を作る、粗い所に細かいものが入って行くので、寸法的には最初から終わりまで変わらないです。
芯土(まね)はベビーパウダー位の細かさなので、それに耐火性の粘土を水でといだものを合わせて、トロトロにした感じで最後は仕上げます。
型が乾かないうちにあられ模様、色んな模様を押しますが、漆を濾す薄い和紙に墨で絵を描いてそれをひっくり返して水で貼り付けます。
模様に合わせてヘラで押して模様を表現します。
強く押したところが出っ張った表面になります。
細かいところは最後の方の作業になります。

鋳型が出来たら型をしっかり焼いて、焼き型は髪の毛一本でも綺麗に出ます。
型に中子用の専用の砂を詰めて、上下に型が有って、上下に取れないと中子は作れない。
鋳がたから外すとちょうど同じ立体が出て来ます。
中は中空になっていて、同じ丸いものがもう一つ出来る訳です。
それを厚みの分だけ砂を削ります。(削りすぎると本体が厚くなってしまう)・・・削り中子
削り中子を中に収めて鋳型が完成する。
湯口から鉄(1300℃位)を流し込んで、冷えて行って固まります。(一番神経を使います)
翌日に鋳型をはずします。

まだ中子砂が入った状態なので、それを掻きだして、バリを取ったりして整理します。
そのままだと臭みもあり錆びやすいので逆さにして炭火に1時間ほど焼いて表面に酸化被膜を作ります。
一回磨いて外は綺麗にして、もう一回軽く全体に薄い被膜をかけて漆を焼き付けます。
おはぐろを上に塗って、落ち着いた色合いになるようにします。
(全体の工程がいまいち理解できない)
漆、砂、鉄、粘土のことなどを理解しないといけないし手間も掛かります。
分業でやっていますが、例えば鉄瓶だともし一人でやるとなると1カ月はかかります。
茶の湯釜 季節感を大事にする。
柄杓が入らないといけないので、形状にも多少制約があります。
図面の段階できっちりしないと、最初からやり直さなくてはいけない。

今はヨーロッパでは白とかピンクとか装飾していますが、それは鉄瓶ではなくて急須なんですね。
用途が違うので分けて考えて行かないとだめだと思います。
鉄瓶を使ってお湯を沸かすとおいしいです。
お湯を沸かしてポットなどに全部入れて、鉄瓶の蓋を開けておくと余熱で乾燥するので錆びたりはしません。
お茶がおいしくて使い始めたらやめられませんとよく言われます。
小学生が見学に来ますが、おばあちゃんところで使っているよとか言って、そういうのっていいなと思って聞いています。
昔は街中に何軒もありましたが、今は3軒になってしまいました。
戦争で鉄の仕事ができなくなってしまったことが大きいと思います。
昔の鉄瓶はでっぱりが立体的でしたが、今は薄い模様になってきました。
古典的なものをやってみたいとは思いますが、結構難しいです。

































2018年8月6日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)   ・【近代日本150年 明治の群像】大槻文彦

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)   ・【近代日本150年 明治の群像】大槻文彦
講談師 神田 蘭
日本で初めて近代的国語辞書『言海』を編纂した大槻文彦

講談による紹介
弘化4年(1847年)江戸木挽町に生まれる。
祖父に蘭学者の大槻玄沢、父は洋学にも通じた儒学者・大槻磐渓
子供のころから勉強好きだった。
明治8年28歳の時に文部省に勤めているが、上司から編纂を命じられる。
「一国の国語は外に対しては一民族たる事を証し、内にしては同胞一体なる広義感覚を固闋せしむるものにて、すなわち国語の統一は独立たる基礎にして独立たる標識なり」と述べる。
一つの語の語源を調べるために知っていそうな人を探して尋ね歩いたり、方言について尋ね歩いたり、本を直ぐに買えるように常にお金を持ち歩いていたようである。
編纂にあたって引用した書籍は3000巻にものぼったそうである。
17年間を掛けて、日本初の国語辞書『言海』が世に出る。
その間に娘が脳膜炎で亡くなったり、妻が腸チフスで亡くなったりした。
昭和3年まで生きていた。

祖父の蘭学者の大槻玄沢は杉田玄白前野良沢 から可愛がられた弟子一字ずつ名前を取ったという。
「玄」「沢」
当時公用語は漢文。
仙台で大槻磐渓は奥羽越列藩同盟の理論的指導者と言われている人。
大槻磐渓が育てた人物としては但木土佐、玉虫左太夫とか奥羽の戦の張本人として断罪になっている。
弘化3年(1846年)アメリカ東インド艦隊司令長官ビドルが浦賀に来て通商させろと来たが、幕府は拒否する。
嘉永6年(1853年)ペリーが浦賀沖に来て日本に開国を迫って、翌安政元年には日米和親条約を結ばざるを得ない状況になる。
大槻文彦は文久元年(1861年) 15歳になり林大学守の門に入る。
16歳で洋書調べ所に入学。
当時教えていた人、オランダ医学長老の箕作阮甫(みつくり げんぽ)、西周 津田真道、加藤弘之らがいた。
勝海舟が箕作阮甫(みつくり げんぽ)先生に弟子にして欲しいと言ったが、外国語は努力が必要だといって、江戸っ子はすぐ飽きるから駄目だと言って、門前払いになったとの事。
当時は蘭学から入って英語を学んでいった。

大槻文彦は文久2年10月、仙台に向かい、仙台藩 養賢堂に入学。
翌年17歳で主立(助教)になる。
慶応2年江戸に向かう。
戊辰戦争で父親が捉えられてしまう。
仙台藩が降伏して奥羽越列藩同盟が崩壊して、首謀者として捕まってしまう。
大槻磐渓が育てた但木土佐、当時秀才として鳴り響いていた。
玉虫左太夫、第二の坂本龍馬と言われていたが、次々に死罪になる。
兄大槻如電とともに父の助命嘆願に奔走することによって、父は助かる。
大槻文彦はさまざまな学問分野に優れていた。
大学南校を経て1872年に文部省に入省。
日本は独立国であるし、西欧列強ともちゃんと付きあっていける国だと言う事を明治政府は海外に対して言ったわけで、言語は非常に重要になってくる。
日本の言葉をきちっと定めなくてはいけなかった。

それまでは藩ごとの言葉が有ったし、町人言葉などがあった。
最初に英和辞書を作るように言われる。
文部省師範学校に行くように言われて、仙台にも師範学校を作ることになりそちらに向かうことになる。
明治7年に東京に戻ってくる。
1875年に、当時の文部省報告課長・西村茂樹から国語辞書の編纂を命じられる。
1886年に『言海』を成立、その後校正を加えつつ、政府にはお金が無いということで1889年5月15日から1891年4月22日にかけて自費刊行した。
収録語数が3万9100あまり。(現在の広辞苑 25万語)
記述の文法がしっかりしていた。
解釈の方針に一貫性があり、ぬきんでていた。
政治、経済、自然科学、文学、芸術にいたるまで幅広く論じることができるようになった
日本語のもとになったと言えることで非常に評価が高い。
判らない言葉は用例のいくつかの中から類推するという方法しかなかった。
1891年6月23日、文彦の仙台藩時代の先輩にあたる富田鉄之助が、芝公園の紅葉館で主催した『言海』完成祝賀会には、時の内閣総理大臣・伊藤博文をはじめとし、山田顕義、大木喬任、榎本武揚、谷干城、勝海舟、土方久元、加藤弘之、津田真道、陸羯南、矢野龍渓ら、錚錚たるメンバーが出席した。












2018年8月5日日曜日

松島みのり(声優)           ・【時代を創った声】

松島みのり(声優)           ・【時代を創った声】
高校卒業してから本格的に演技の勉強を始めてから50年以上の経歴を持つ松島さん。
アニメでは1965年に放送された「未来から来た少年スーパージェッター」がレギュラーとしての最初の作品です。
その後アニメ「キャンディーキャンディー」のキャンディスホワイト、「マジンガーゼット」のユミサヤカ、「怪物くん」、「どろろ」など多くの作品に出演してきました。

「キャンディーキャンディー」1976年からTVで放送。
或る日事務所に行ったら本が置いてあって「やってみるかい」と言われ数ページ読ましてもらったら笑い声が一体化した感じで、もしかしたら私が「キャンディーキャンディー」をやるかもしれないと思いました、それで決まりました。
絵が可愛い、お話も素敵でこんなの出来るかしらとフッと思ったことがありましたが、無我夢中でやっていました。
割合楽しくやれました。
ヒロインは役が出来あがっていて台詞を言っていけばその役になって行くと言う感じが私はします。
ヒロインをやると言う利点はその役者にとってもうちょっと苦労した方がいいと思う人にとっては物足りないかもしれない。

共演された 富山敬さん、井上真樹夫さん、肝付兼太さんなどそうそうたるメンバーです。
富山敬さんとは年齢が近いのでほかのアニメでもよく共演しました。
井上真樹夫さんはちょっと大人です。
肝付兼太さんは番組を盛り上げて言った覚えがあります。
今でも声優を続けているのは「キャンディーキャンディー」をやったということが一つあると思います。
運が良かったということもあります。
幸せな作品でした。

ラジオで育ってきて、古賀さと子さんが大好きで憧れていました。
元祖声優は中村メイコさんだと思います。
NHKの俳優養成所に入りました。
演技の勉強をしました。
養成所で学んだ人達が卒業して「劇団30人会」を作りました。
或る日ディレクターが来て、男の役をやる人はいないかと言うことで人形劇でサブちゃんという役をやりました。
仕事は早くからありました。
「劇団30人会」に2年ぐらいいて次に「劇団新劇場」に2年ぐらいいました。
「チロリン村とクルミの木」に出演、そこで黒柳徹子さんから音楽の指導を受けました。
1963年アニメ「鉄腕アトム」にアニメとしては始めて出演。
1965年に「スーパージェッター」にレギュラーとして出演。 水島かおる役
このころはものすごいハードでした。
一番自分の中で声を作らずに普通にやってやれた役だったのですごく楽しかった。
「マジンガーゼット」「怪物くん」、「どろろ」などをやって「キャンディーキャンディー」に繋がって行く。

結婚妊娠して声だけならということでやっていました。
主人の両親が一緒に住んでいて見てくれていたので子育てはあまり苦労せずに済みました。
声で演じ分けるので、人生の一部を切り取ってそこの部分を演じる訳だからその人生をフッと思ってそれを理解できなくてはいけないと言った人がいて、結構難しい事なんだよと言ってくれた人がいますが、昔はブラウン管から飛び出すような声をと言われたが今は違う、感情を表現できる方が主流だと思います。
私はちょっと古いのかもしれない。
絵を見てその役に入って行く。
アニメは100%声の役者の役者次第だと言う人もいます。
アニメーションに行ったということはよかったと思います。
悔しい思いは結構していますが、いいの、知らない、あまり悔しいと思わない方がいいと思う。
私は結構自分を肯定します、これでいいんだと。
前向きに、とらわれないで、無理せずにやって行きましょうということになってしまうのかなあ。

声優の面白さは、それは自由自在、小さい子からお婆さんまでとか、やろうと思えば全部できる。
声優というのは昔は劇団の若い方の役者がアルバイトみたいの形でやりはじめた。
主役をやるような人達は凄く一生懸命努力している。
「声優になりたいって あなた」って言いたくなりましが、我々世代になって行くと教える人も多くなって、寸法を合わせるのはうまいけれども個性がないと言う人もいますがそれは判ります。
自分を確立すると言うことが無いというか。
滑舌はちゃんとやった方がいいし、理解を深めたり広めたりするのには読書は可能性を広げたりすると思います。
私は人と同じじゃいやというのがどこかにありました。
言わないと人は判ってはくれないということは思ったような気がします。
抜きんでると言うことは難しいことだと思います。
チャンスが全くないということはないと思うので、訓練して僅かなチャンスを逃さないということは必要だと思います。
諦めないということも大事だと思います。
「今日行く」(今日行くところがある)「今日用」(今日用事がある)それに「無理をしない」を付けくわえて今後やっていきたい。





















2018年8月3日金曜日

上野 司(農業)            ・雑穀が結ぶ地域のきずな

上野 司(農業)            ・雑穀が結ぶ地域のきずな
71歳、経営は御子息に譲りましたが、いまも農業を続けています。
二戸市足沢は農業と林業の集落で年々少子高齢化が進んでいますが、15年前集落に残った人達と「気張って足沢70の会」を作りました。
そして昔懐かしい行事や雑穀料理でもてなし、毎年都会からバスツアーの観光客を迎えるまでになりました。
この地方は太平洋側から吹く冷たく湿った東よりの風、山背(やませ)の為稲作は冷害に見舞われることが多く、冷害に強いひえ、あわ、きびなどの雑穀が貴重な食料として作られていました。
その雑穀も戦後生産が途絶えていましたが、平成に入っての健康食ブームで生産が蘇り、雑穀料理が地域おこしの主役となりました。

80戸近くあったが50戸位になってしまいました。
高齢化は進んでいます。
足沢小学校があり、100名位いましたが現在は学年ごとに1~2名になってきました。
今年の天候は不安定で作物にとってはまずい天気です。
山背(やませ)に強いという雑穀が栽培されていたと昔の人から聞いています。
冷害で米が取れなくて、あわ、きび、アマランサスとか栽培されてきました。
米の栽培はしていたが、3~5年に1回とか山背に負けて取れなかった。
土蔵で湿度温度を管理して雑穀、食べ物を保存して2~3年に渡って食べていました。
もちひえ、あわ、いなきび、たかきび、アマランサスそういったものが中心になります。
たかきび、いなきびはイネ科の植物です。
たかきびの実は粒が一番大きくて茶色っぽい皮をかぶっています。
きび団子のもとです。
あわは沢山実がなっています、粒が小さい。
あわを煮込んで水あめみたいなものをつくってそれをせんべいにつけて食べた思い出がちょっとあります。
マグネシウム、鉄分が多い。

全国的に見直されています。
95%以上は外国から入ってくる。
国内では3~4%でその中の一部が私の処で作っています。
足沢の人口は150人を切りました。
「気張って足沢70の会」を立ち上げました。
70戸を維持したいと思って15年ぐらい前村おこしをしたいと始めました。
最初はこの村にお客さんのおもてなしをしようなんて出来るわけがないと逃げ腰でした。
段々やっているうちにお客さんから来年もやって下さいと励ましがあり、リピーターがあり現在まで続いています。
巨木、古木とか、800年の古い歴史があり、清光寺、足沢城のお城の跡地などがあります。
雑穀郷土料理ということでお客さんに提供してきました。
足沢家のお墓があり墓誌に800年の歴史が書いてありました。

この町には下水道、上水道も無く、信号もありません、たまに来るのが回覧板ですと言って笑わしています。
観光バスで来るようになりました。
延べ人数で5000人位になります。
雑穀料理のメニュー 天ぷらを揚げたものに粟をまぶしたり、添加物的な役割だと思います。
すいとん=ひっつみ、ご飯には白い米に黄色いいなきびを入れて炊きます。
ごぼうのいなきび炒めなど。
普段の料理に雑穀をふんだんに混ぜたものが雑穀料理になります。
健康には非常にいい事が判りました。
3人の主婦が中心になって料理の研究をして雑穀料理を完成させました。
お客さんから素晴らしい料理でしたと言われて、喜んで積極的に取り組んでいきました。
会員も初めは厭がっていました。
農家の方はお客さんを接待するのが非常に苦手でした。
ありのままの姿を見せるのもお客さんに好感をもたれる一つの材料だと思います。
ローカル弁を出して話をすると友達になれることができるんです。
リピーターが増えて盛り上がってきています。

会員は22,3名ですが、70名のお客さんをおもてなしをすると云うのは並大抵ではありません。
雑穀料理、山菜、牛乳など、ここで取れたものを中心に料理しています。
2月(小正月行事)、5月(山菜の体験料理)、9月(お山街道散策を楽しむ会)の3つの大きなイベントとしてお客さんを迎えていました。
1回で観光バス1~2台、年間300~400名を迎えています。
小正月行事には五穀豊穣を願って餅つきをして、ひとつは米、あとはもちひえでの餅(ひえ餅は作れないが新しい品種 もちひえを発見しました)です。
岩手大学の星野先生が5000粒に中から1つ有ったそうで栽培して増やしました。
これはどこにもありません。
平成20年度に農林水産大臣賞を受賞しました。
雑穀料理を試食してもらって翌年にいただきました。
県知事賞などいっぱいもらいました。
限界集落の歯止めになればいいなあと思っていますが。

昭和42年に高校卒業後、東京に出るが農家の長男なのでいずれはという思いはありました。
自分なりに農業の勉強をしました。
米が中心で畜産、林業もやってきました。
小麦栽培もやってきたが、価格が下がってきてしまい、雑穀に切り替えました。(20年ぐらい前)
雑穀は農協との契約栽培でした。
一旦はゼロになった雑穀栽培が復活しました。
無農薬栽培には苦労しました。(面積が広くなると厳しい)
南米、中国産とか外国産が95%以上になっている。
息子が東京から帰ってきてくれて、自分で工夫してやっています。
農業の難しいのは1年で一回の経験しか無くて、そこが農業の難しさです。
































2018年8月2日木曜日

原 ゆたか・京子夫妻(児童書作家)    ・目指すは"プロの小学生"

原 ゆたか・京子夫妻(児童書作家)    ・目指すは"プロの小学生"
かいけつゾロリ』シリーズは主人公の狐のゾロリがお伴のイノシシ兄弟を引き連れて悪戯の王者をめざして旅する物語です。
見どころは道中の様々なトラブルを思いもよらない知恵や工夫で乗り越えるところで、展開を夢中で追って行くうちに一冊を読み終わってしまう魔法の本と呼ばれているそうです。
そんな『かいけつゾロリ』シリーズは去年30周年を迎えて更に先月63巻目となる新たな作品が出版されました。

ゆたか:並んでのインタビューは初めてです。
毎年2冊夏と冬に書くのは当然のパターンとしてやってきて、60巻越えて改めて自分でもびっくりしています。
京子:最初はアシスタント的に手伝っていましたが、子供が難しいと思った処は優しく考えてみたりして、その後イラスト直しとかも手伝っています。
ゆたか:チェックしてもらって文章が安心してきました。
京子:出版社の編集の方に鍛え直してもらいいい勉強になりました。

『かいけつゾロリ』シリーズ 冒険もの
ゆたかさんがイラストを担当していた「ほうれんそうマンシリーズ」に狐のゾロリが悪役として登場。
ゾロリを主人公に『かいけつゾロリ』シリーズが生まれる。
登場するのは狐のゾロリと双子のイノシシ、お城とお姫様をゲットするんだと冒険の旅をする物語。
ゆたか:映画監督になりたい時代が有ったが人を上手く使えないタイプなので、本だったら演出できると思って挿絵をかいていたが、絵が話に食い込んでいくものにしたいと思って、作家と交渉していたりした。
どうせならお前が書けばいいじゃないかということで書く破目になりました。
今まで見てきた映画、話とか落語とかをもとに一回話を書いてみようと思って、わくわくするようなものを書きたいと思いました。
スタイルは水戸黄門スタイルにして子供向けにしました。
ゾロリに共感するような手紙が来たりして、悪役だったが良い事をしてしまうようなこともして、子供たちに共感持ってもらったと思います。
わくわくするような言葉の仕掛けがいっぱいあります。

本の読み方が判っていない子にとって大人は良い子に育ってほしいということで、ハードルを上げ過ぎで本を渡したりたりするので、本を好きじゃなくなった時期が有って、本は自分の意志で読まなければいけないので、本の楽しさを判ってもらえればと思って、楽しい本を提供出来たらいいなあと思いました。
一冊読み上げた達成感を味あわせてあげたいと思いました。
山を越える迷路を作ったりして本でしかできない遊びなどを入れたりします。
親爺ギャグを入れたり、言葉の面白さを入れたりして、言葉の勉強にもなります。
怪獣映画を8mmで撮ったり、ゴジラの怖さなどが蘇ったり、当たりくじみたいにひょっとしてみたいなところをベースに書いている感じです。
作品の中に一杯出てくる発明品が見どころ、ロケット、舟、だけでなくドラゴン自体がメカだったりとかある。
わくわく感は絶対どこかに入れてあげたいなと思いました。
ユーモアとか洒落の判る大人になってねと言う部分もあります。

京子:ゾロリは基本的には小学生の本なので、活字が大きい。
絵を出来るだけ入れたいのでスペースは広く取りたい、一文字でも短い方がいいので何文字短くできるか考えます。
「共感する」という言葉は小学生向きではないので「判りあえる」と言うように言葉は長くなってしまうが、判りやすくしたりもします。
ゆたか:「機密文書」とかなどはあえて難しい言葉を使って、注釈して説明してしまおうとかもします。
興味を持たせることが子供にとって大事です。
京子:ゆたかさんは基本的に女の子を書くのが得意ではないので、ドレスの模様、デザインはやらせてもらったりしています。
私のやっていい範囲で睫毛を長くしたりして可愛くしたりしています。

26巻 地球最後の日
1999年ノストラダムスの大予言の有った年、地球に向かってくる隕石になすすべも無くあわてる人達の中でゾロリ達が強力なオナラで隕石を吹き飛ばそうと作戦を立てるという話。
・・・諦めるのはやって見てからだ、最初に諦めたらなにも起こらないんだぜ、顔を真っ赤にして言いました。・・・。

ゆたか:おとなは上っ面しか見てくれない。
楽しければいいと思って書いてきたが、社会に出ると厭なことがいっぱいあるので、乗り越えていくためには、なにか手立てはないかと思うことが生きると言うことだと思うんです。
ゾロリって諦めないなという生き方だと思って描いてます。
子供ってやり始めるとどんどん凄いことをやり始める、それを見守って欲しいと思います。
京子:ゾロリの世界観は大好きです。
アイディアを持っているうちは頑張ってほしいのでお手伝いします。
ゆたか:ここまで意図していなかったことがこんなに長く続いて、子供の味方でいられるのかなあと言うことと、ゾロリが最近つまらないなあと言われる前に筆は置きたいが、読めば読むほど楽しめられるものを作っていければいいと思っています。


















2018年8月1日水曜日

柳美里(作家)              ・南相馬便り 柳美里 仲間と語る作家 村山由佳

柳美里(作家)              ・南相馬便り 柳美里 仲間と語る
作家 村山由佳
芥川賞の柳美里さんは東日本大震災の直後から被災した人々の痛みを人ごとにしたくないと、津波と東京電力福島原子力発電所の事故の被災地である福島県南相馬市に通い続け3年前に引っ越してきました。
今年 4月地域に潤いを与えたいと南相馬市の自宅を改装して書店をオープンさせました。
原発事故による避難指示が解除されて2年、いま小高区の人口はおよそ2800人で震災前の34%にとどまっています。
書店を続けて行くには県外からの集客が必要です。
そこで毎週土曜日には裏の倉庫を改装して、イベントスペースに著名な作家仲間などを招き、朗読会やト-クショーなどを開催して、仙台や東京からもファンが訪れるなど盛況です。
7月7日の土曜日直木賞作家の村山由佳さんを迎えて、朗読とトークが繰り広げられおよそ50人が熱心に耳を傾けました。
そのイベントの終了後同世代の作家を二人の共通点や創作への思いを伺いました。

柳美里:村山さんとはお会いするのが今日が初めてです。
小説界は純文学とエンターテイメントで、雑誌の発表媒体なども違っていたりして、なかなか会う機会がないです。
共通点は沢山あります。
猫を4匹飼っているのもおなじですし、母親との関係がうまくいかない、幼いころから圧が加わっていた、それが作品に影を落としている。
ミッションスクールに通っていた、ということも同じです。
(柳美里1968年6月22日生まれ 村山由佳1964年7月10日生まれ)

村山由佳 プロフィール(自身で書く)
朝早く起きられないので仕方なく会社を辞めて物書きになる。
夫婦生活も住まいも作っては壊し作っては壊しを繰り返した後、落ち着いてパートナーと軽井沢に暮らしている。
締め切り間際にならないと描けない体質。
勤め先の会社は不動産会社でした。
時間に拘束される仕事が苦手です。
締め切りがなかったら書かないです。

柳美里 村山さんの本を読もうと思ってプロフィールは書いていないです。
原稿は口ずさみながら書いています。
決められた時間に電車に乗ることは出来ずに高校は辞めました。
人前で話すのが苦手なのに役者を志しましたが、辞めてしまいました。
残ったのが書くことでした。
取り返しのつかない道を選んでしまったと思います。

村山由佳さんから見た柳美里さんはどんな作家か。
村山:思索の人でありながら行動の人、感情の人でありながら理性の人、何もかもが両極端で不安定に見えるの両極でありながらバランスがとれている稀有な作家。
何かと目立つ人、生き方そのものがみんなの注目を集める作家。

柳美里さんから見た村山由佳さんはどんな作家か。
柳:作品を見て触れやすいと思うが、芯の部分で物凄く冷たい部分と物凄く熱い部分が有って、核の部分が触れられないという感じがします。
清冽な作品だと思います。
官能的な描写が多くてその部分がクローズアップされる部分があるが、そこに濁りがなく清冽だと思う。

村山:有ったことをモデルにした作品もありますが、頭の中をフィルターを通してそれを言葉に置き換えて行ったとたんに、その瞬間からフィクションです。
私と重ねてもらって全然かまわないんですが、私ではないよといつも思っています。
柳:自分を小説の登場人物にするのと、全く存在しない人を登場人物にするのと全く変わらないです。
例えば蟻を描いても、読んだ人がそれをどう思うかでも変わってくると思う。

容姿について
村山由佳さんから見た柳美里さんは。
村山:(青春小説風)、考え事をするときの彼女はいつもすこし目を伏せて僕との間の真ん中辺を見つめる。
真っ直ぐな髪が落ちかかりいつまでも少女みたいなその顔を隠す、うっかりすると半日でもそのままだ。
・・・・・。
あーっ今目の前に観音様がいると思う。
阿修羅のようであり観音様の様であると思う。
何をうしなっても構わないぐらいの覚悟で受けて立って、言うべきことはきちんと言う場面を何度か遠くから見ていると、行動そのものは阿修羅のように見えるけれども、核にあるものは底なしの優しさなんじゃないかと思います。
柳:売られたケンカは買っちゃいますね。
人間関係が壊れてしまうかもしれないと思うけれど言っちゃいますね。

柳:水道ポンプ屋さんだったところを改装して、8畳、6畳二間が書店になっています。
著名な作家を中心とした24人の方々に20冊選んでもらって、棚に並べる。
村山:成功するかどうかは本を書いていくという根源的な事と深くかかわっていると思う。
パンを売ってお腹を満たすものではなくて心を満たすもの。
突き詰めると人が本をなしに生きていけることができるのか?ということではなかろうか。
それが書店であるからこそあらゆる物書きはそこにコミットメントするべきではないかという思いはありました。
「生きるって悪くないとしみじみ思える20冊」を選びました。

柳:村山さんは原発から20km以内の警戒区域の事を考えて下さっているんだと思いました。
訪れる人に届くはずだと思いました。
見に来てもらいたいと思いました。
立ち読みもOKです、買わなくてもいいので何ページでもいいから読んでもらいたい。
常磐線は本数が少ないので1時間半帰れないので、本を見ているしかないんです。
村山:柳美里さんのフィルターを通してそれに合格した本だけがここに並べられてある。
何という贅沢な空間かと思いました。

ものを書くと言う事
柳:縁があると思う、出来事と出来事が繋がって行くと言う、自分が吸い取り紙とかパラボラアンテナのようになって常に受信しているような感じです。
発信と言うよりは受信。
村山:表現の言葉を持たない人と付き合いをした時に、これまでの最高作品ではないかと思うようなメールをおくったが、そんなに言われても照れちゃうよ+顔文字がかえってきて、この乖離、齟齬は幻滅、驚き、いつもと違う心の動きを思った時にうまく書けると思ったりします。
柳:色んなことが積み重なって行くと、或る時カチッとなったら一つ短編に出来るとか、あります。

テーマ
村山:認知症をきっかけに小説で初めて母の事を書きました。
厳しい母でした。
あの人が私の本を読む事が無いのだと思うとやっと解放されたと思いました。
母はそれまで全部読んでいました。
柳:16歳で家を出て31歳で息子を産むまでは母とはほぼ絶縁状態でした。
村山:母は自分の子育ては成功だったと思っていると思います、悪さは全部隠れてしましたから。
その幻想を壊してしまうと言うことは私にとっても凄く怖いことだったし、母親を傷つけたくないということはありました。
母が呆けて読まなくなってようやく書けるなということがたくさん増えて物凄い解放感でした。
「放蕩記」を書いたが、 反論できなくて卑怯だと言うような声もありましたが。
単行本の時の方が風当たりは強かったが、文庫本が出るようになった時には判ると言ってくれるという事もありました。
みんなが共通認識をもつ事によってちょっとづつ変わってゆくんだなあと思いました。
柳:受信の感度を上げて行きたいとは思っています。
あくまで発信ではなくて受信なんですね、聞こえない声とかをいかに受信するか。
改装がありその後はコンサート、演劇、朗読会もやりますし色々やりたいです。