本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】大隈重信
講談師 神田蘭
講談による紹介
天保9年(1838年)2月 佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。
7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である『葉隠』に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、退学させられる。
その後自分の意志で国学、蘭学、英語を学び、弘道館の教授として働くようになる。
アメリカの独立宣言に大きな影響を受けて政治家になる事を決意、討幕を目指して脱藩する。
やがて討幕がかない明治新政府でもって近代日本の基礎を作って行くわけですが,政治家として重信は二度内閣総理大臣を務め教育者としては早稲田大学を創立し、佐賀七賢人の一人に数えられ数々の偉業を成し遂げる。
明治14年では挫折を味わい、爆弾にみまわれ右足を無くし、離婚を経験、それでもめげず前へと進む精神力、何故そんな精神力をもてたのか、それには母親三井子の教えが根本にあったと言われます。
重信が幼い頃、親戚の子供達と共に虫取りに出かけたが、籠を持つ係を押し付けられるが、捕まえたセミを逃してしまってばかり。
親せきの子供達からうすのろとののしられ、泣かされてばかりいたそうです。
泣いて帰って来る重信に母親は、男は泣くんじゃないとは言わずに、温かい目でいつも見守っていたと言います。
12歳の時に父親が他界、その後母親は5人の子供を育て上げて行く。
母親が子供達に常々言っていた教えが5つあるそうです。
①喧嘩をしてはいけません。
②人をいじめてはいけません。
③いつも先を見て進みなさい。
④過ぎたことをくよくよ振り返ってはいけません。
⑤人が困っていたら助けなさい。
重信は生前母のことを、「吾輩は母一人の手で育てられたが、15,6歳の頃は乱暴者で餓鬼大将のようであった。 友人が遊びに来たが、母はたいそう友人が訪ねてくることを非常に喜んで手料理をこしらえて馳走してくれた。」言っている。
晩年の重信は自分の家に人が尋ねてくることを非常に好んだと言われる。
毎日20~70人が大隈邸を訪れていたとか。
母親三井子の影響があると思われる。
重信は砲術師の家300石の上士の家に生まれる。(年収2000万円は軽く超えている)
『葉隠』は佐賀の武士の精神のよりどころだった。
この時代はオランダ語が多く学ばれるが英語を学んでいるということは先見の明がある。
佐賀藩校英学塾「致遠館」で教授フルベッキに英語を学んだ。
副島種臣と共に重信は助教授となって指導に当たった。
副島種臣は書家としても有名。
大隈は貿易、財政でも頭角を現す。
外交が得意で財政面でも抜きん出ていた。
キリスト教の弾圧に関して英国公使パークス(傲慢高圧な人)、と交渉することになるが大隈が総大将になり対峙した。
パークスが大隈のような下級な人間とは相手にできないと言った時に、「あなたもイギリス国王を戴いてここにいるのなら、私は天皇を戴いて全権として対峙している。
それがいやだったら談判は無し」と言ったら、困って交渉せざるを得なくなった。
ヨーロッパのこと、キリスト教のこと、法律の体系を知っていたのでパークスは吃驚してしまった。
誰もがこいつは出来ると言うことが判って明治新政府でも要職についてゆくことになる。
明治政府で彼がやったのは財政畑で、税金をどう取るかということで辣腕をふるった。
財政のトップになり殖産興業政策を推進した。
明治10年西南戦争がおこり、明治14年には政変が起きる。
大久保利通が暗殺され、だれが継ぐのかいうと伊藤博文、大隈重信がいた。
日本の政治をどういう形にするかと言った時に、政党による政治、憲法を作り憲法により政治を動かしてゆく、そういったことを整備する必要が有った。
岩倉具視は保守で政党政治を否定、伊藤博文は政党政治は必要だがゆっくりやっていこうという考え、大隈重信は欧米を見ても政党政治をやるのが本筋なので早く議会を開かなくてはいけないという立場だった。
岩倉と伊藤が手を組んで大隈は失脚すると言うことになる。(「明治14年の政変」)
伊藤と大隈は終生ライバルということになって行く。
明治15年 大隈は立憲改進党を結成、総理に就任、東京専門学校(現早稲田大学)を開設。
明治21年 大隈が外務大臣に就任、大隈の外交手腕を評価する伊藤は、不平等条約改正のため、政敵である大隈を外務大臣として選ぶ。
明治22年に国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃(大隈重信遭難事件)を受け、右脚を切断するとともに辞職した。
条約改正を成し遂げる一つの方法として外国人を裁判官として任用する、そうすれば外国も日本を信用してくれるだろうという思惑だった。
売国奴だと言うことで爆弾を投げつけることになる。
順天堂医院院長の佐藤進、ドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツらによって右脚の切断手術が行われた。
犯人のことを馬鹿な奴だとか一切言わなかったということでした。
明治23年第一回衆議院選挙、帝国議会が召集される。
議会と藩閥(薩長)との戦いが繰り広げられてゆく。
明治31年板垣退助などと憲政党を結成、第一次大隈内閣が成立。(薩長以外で始めて内閣を組織 「隈板内閣」)
明治40年 いったん政界を引退し、早稲田大学総長への就任。
明治42年 伊藤博文はハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家・安重根によって射殺された。
大隈は「あいつらしい死に方をしやがった」と言って、ワンワン泣いたそうです。
明治45年 天皇崩御。
大正3年 第二次大隈内閣成立。 第一次世界大戦勃発。
大正5年 第二次大隈内閣解散。
大正11年に亡くなる。
日比谷公園で未曾有の「国民葬」が催され、式には約30万人の一般市民が参列。
2018年5月7日月曜日
2018年5月6日日曜日
加藤みどり(声優) ・【時代を創った声】加藤みどり(2)
加藤みどり(声優) ・【時代を創った声】加藤みどり(2)
サザエさん役を演じ続けて来年は50年を迎えます。
加藤さんがサザエさん役を務め始めてからの出来事や趣味の競馬を仕事にしてからの苦労などについて伺います。
サザエさんは1969年放送開始、来年で50年。
オーディションに行って男役かと思っていたらサザエさん役でした。
その時に来て居たディレクターが見ていて、物凄く明るいということが気にいったようです。
そそっかしいけど馬鹿ではない、明るいけどなんとかではない、サザエさんになる条件がいくつかあるらしくて、あれでいいということになったらしいんです。
私自身、そそっかしいです。
私が一番年下でキャリアも少なくて、スタジオでは緊張していました。
周りは全部押さえてあるから安心するように言われました。
余計なことを考えなかったのが結果として良かったと思います。
2代目のカツオの高橋和枝さんになった時に、先輩ですし可愛がってくれて、どうやっても受けてくれて凄くやりやすかったです。
サザエさん役を受けた時に他のアニメーションはやってはいけないと言われましたが、よく判りません。
役をやる上で明るくて素直さは大事ですよと言われました。
他のアニメには出たいとは思わなかった。
競馬の放送番組は厳しくて、放送は必ず自分で裏を取って来るように言われて、許諾を得
たものしか話してはいけないということで、確約をとる為に取材にゆくので、放送する為の必要な勉強が足で歩いてやって、騎手、厩舎、調教師、牧場、中央競馬界の全体のシステム 全部一つ一つ回って色々判ってくるのに20年かかっています。
朝4時半に起きて調教を見て、木曜日午後はサザエさんの放送、土、日は競馬があり、自分で全部資料を作ります。
徹底的に教育されましたが、面白かった。
ゲスト的な立場で番組には出ていましたが、そこまで勉強しないと出してもらえなかった。
一生懸命やる人間に対しては支えてくれました。
競馬は今では文化としてのスポーツになって来ています。
牧場にたんぽぽの花が咲き、木が生え、牧場は生命を作る場所なので、物凄く感動することが沢山あります。
良い人と良い馬がいれば必ず感動する良い話がいっぱいあります、だからやめられない。
周りの人がいてくれてサザエなんだと思います。
製作する人間、そういう人達のお陰でここまで来ているので、そういう人達の感謝は絶対忘れてはいけないと思います。
始まったときは私が一番下だったので我儘は通ったが、今は上の方になっているので、我儘は言えない、私は皆に気を使わないので皆が気を使ってと言いました。
若い声優の人たちには「自分たちで頑張んなさい」、ということと、ガラスの後ろにいる人達に帰る時に「ありがとうございました」というようにそれが礼儀だよと云うんですが、言わない。
逆にそういうことが出来る子はどんどん伸びて行く偉くなってゆく。
大切なのは礼儀ですよ。
オンエアを見ることです。
結果が出ない努力は努力ではない、方向が違う。
皆がやっている時にはスタジオからは絶対でなかったが、スタジオを出て行ってしまって人の演技を見ない、身になると思うが。
夢を追いかけて行く為には努力と良い先輩を持つこと。
遊びの中からは良い仕事は出てこないが、良い仕事の中からは必ず良い遊びが出てくる。
人間関係が大事だと思います。
上手くいかない場合が6割は自分にある、後の4割は典型的に合わない人がいる、それは割り切る。
何かして貰ったら「有難う」と感謝の言葉をいう、それが言える生活が健康で長生きが出来る。
サザエさん役を演じ続けて来年は50年を迎えます。
加藤さんがサザエさん役を務め始めてからの出来事や趣味の競馬を仕事にしてからの苦労などについて伺います。
サザエさんは1969年放送開始、来年で50年。
オーディションに行って男役かと思っていたらサザエさん役でした。
その時に来て居たディレクターが見ていて、物凄く明るいということが気にいったようです。
そそっかしいけど馬鹿ではない、明るいけどなんとかではない、サザエさんになる条件がいくつかあるらしくて、あれでいいということになったらしいんです。
私自身、そそっかしいです。
私が一番年下でキャリアも少なくて、スタジオでは緊張していました。
周りは全部押さえてあるから安心するように言われました。
余計なことを考えなかったのが結果として良かったと思います。
2代目のカツオの高橋和枝さんになった時に、先輩ですし可愛がってくれて、どうやっても受けてくれて凄くやりやすかったです。
サザエさん役を受けた時に他のアニメーションはやってはいけないと言われましたが、よく判りません。
役をやる上で明るくて素直さは大事ですよと言われました。
他のアニメには出たいとは思わなかった。
競馬の放送番組は厳しくて、放送は必ず自分で裏を取って来るように言われて、許諾を得
たものしか話してはいけないということで、確約をとる為に取材にゆくので、放送する為の必要な勉強が足で歩いてやって、騎手、厩舎、調教師、牧場、中央競馬界の全体のシステム 全部一つ一つ回って色々判ってくるのに20年かかっています。
朝4時半に起きて調教を見て、木曜日午後はサザエさんの放送、土、日は競馬があり、自分で全部資料を作ります。
徹底的に教育されましたが、面白かった。
ゲスト的な立場で番組には出ていましたが、そこまで勉強しないと出してもらえなかった。
一生懸命やる人間に対しては支えてくれました。
競馬は今では文化としてのスポーツになって来ています。
牧場にたんぽぽの花が咲き、木が生え、牧場は生命を作る場所なので、物凄く感動することが沢山あります。
良い人と良い馬がいれば必ず感動する良い話がいっぱいあります、だからやめられない。
周りの人がいてくれてサザエなんだと思います。
製作する人間、そういう人達のお陰でここまで来ているので、そういう人達の感謝は絶対忘れてはいけないと思います。
始まったときは私が一番下だったので我儘は通ったが、今は上の方になっているので、我儘は言えない、私は皆に気を使わないので皆が気を使ってと言いました。
若い声優の人たちには「自分たちで頑張んなさい」、ということと、ガラスの後ろにいる人達に帰る時に「ありがとうございました」というようにそれが礼儀だよと云うんですが、言わない。
逆にそういうことが出来る子はどんどん伸びて行く偉くなってゆく。
大切なのは礼儀ですよ。
オンエアを見ることです。
結果が出ない努力は努力ではない、方向が違う。
皆がやっている時にはスタジオからは絶対でなかったが、スタジオを出て行ってしまって人の演技を見ない、身になると思うが。
夢を追いかけて行く為には努力と良い先輩を持つこと。
遊びの中からは良い仕事は出てこないが、良い仕事の中からは必ず良い遊びが出てくる。
人間関係が大事だと思います。
上手くいかない場合が6割は自分にある、後の4割は典型的に合わない人がいる、それは割り切る。
何かして貰ったら「有難う」と感謝の言葉をいう、それが言える生活が健康で長生きが出来る。
2018年5月5日土曜日
樋田毅(ジャーナリスト) ・銃に倒れど、ペンは折らせず
樋田毅(ジャーナリスト) ・銃に倒れど、ペンは折らせず
元朝日新聞の記者、昭和53年に入社、高知支局から兵庫県西宮市の阪神支局、大阪などで勤務、今日年退職して現在はフリーのジャーナリストとして活動しています。
31年前1987年の5月3日に起きた朝日新聞阪神支局襲撃事件、樋田さんは後輩の記者を亡くしながらも取材班のキャップとして長年にわたって取材の最前線に立ちつづけました。
事件は16年前に時効を迎えました。
しかし樋田さんは事件の取材を続け、記事や本の執筆、講演などを続けています。
お墓参りは5月3日の前に行って事件解決の誓いをします。
朝日新聞は辞めたので家族と一緒に冥福を祈りたいと思います。
事件は31年前1987年の5月3日の夜に起きる。
朝日新聞阪神支局に目だし帽をかぶった男が無言で散弾銃を発砲。
当時29歳だった小尻知博記者が殺害され、犬飼兵衛記者が右手薬指と小指を失う重症を負いました。
最初の事件の後、赤報隊と名乗る犯行声明文が送られて、その後名古屋にある朝日新聞の関連施設での発砲事件や静岡支局の爆破未遂事件などが相次いで、広域重要116号事件に指定して捜査を行ってきたが、朝日新聞阪神支局襲撃事件は平成14年に時効を迎えて、他の事件も平成15年に全て時効となる。
この事件への怒り、何としても犯人にたどり着きたいと言うのが一番大きいです。
御両親にも犯人を必ず見つけ出すという事を約束しましたが、ご両親は亡くなられてしまいました。
いまも取材をしています。
言論の自由を全く無視した行為を赤報隊はしてきたこれは許せない行為だと思います。
1952年4月愛知県生まれ、早稲田大学に進む。
小さいころからおぼろげにジャーナリストになりたいと思っていて、大学時代には学生運動が盛んでした。
新しい自治会を作ろうという運動をして私は新しい自治会の委員長をしていました。
世の中の推移を眺め観察する新聞記者の役割をみて新聞記者になろうと思いました。
面接の時に「何のために新聞記者になりたいのか」と問われて、「社会正義の実現の為です」と答えました。
1978年に朝日新聞に入社。
入社6年目、1983年に兵庫県のある市で公金横領事件があった。
情報に基づいて本人に会いに行ったら、事実を認めた。
その経緯を記事にした数日後、市役所の職員が自殺をした。
その元は私の記事なので家に電話をしたら、奥さんが出て「あなたのことを一生恨みます」と言われて、ショックだった。
記事に書くけれども字にするということは色んなものを背負うことでもあり、新聞記者として責任もあり重い仕事だと改めて自覚しました。
その後大阪の社会部に異動、35歳の時に阪神支局襲撃事件が発生する。
5月3日に休暇をとって夜くつろいでいた時に、TVのニュースで小尻知博記者が撃たれたということで、電話をしても通じなくて深夜に電話ががり、翌早朝来るように言われました。
小尻知博記者は家族思いの誠実な良い記者だったと思います。
赤報隊から犯行声明文が出される。
朝日新聞、戦後の色んなものに対する敵意を感じました。
声明文には怒り感じました。
徹底的にこちらも身構えて赤報隊の正体を突き止める、犯行声明を見ながらこう思いました。
最初2週間は朝から晩まで近辺の施設などの聞き込み調査をしました。
その後特命取材班に入って、デスクからこれからは「君たちは原稿は書くな、犯人を追いかけろ、とにかく犯人を捕まえてこい、それがお前たちの仕事だ」と言われました。
右翼取材をしようという事で、勉強したり取材をしてきました。
記者なのに警察と同じことをしてきました。
記事を書けないということは大きなストレスでした。
事件の被害者であり、取材者であるという意味では他社から抜かれる様なことがあってはならなかった。
被害者として捜査に協力するがどこまで協力するか、取材源の秘匿と言うことも大事なことで、捜査機関に伝えることでどんなことが起きるのか、言論の自由が補償されなくなる可能性もある、一方は権力機関なので、どこで折り合いをつけるのかということが大事です。
取材をして行くとこのあたりが犯人ではないかと段々に浮かび上がって来るが、捜査機関なのではないので我々は白黒を付けることはできない。
色々思い悩むことだらけでした。
特命取材班にいた時も、事件が時効になって一人で取材をした時の色んな人に会いますが、事件が解決するかもしれないと考えながら、もし真犯人であればどんな原稿を書こうかと思って会いますが、犯人とは決めつけられないというふうにがっかりしてしまう結果が多かった。
結果としては犯人像にはたどり着けずに30年以上過ぎてしまいました。
時効を迎えてしまったが忸怩たる思いが浮かび上がってきます。
そのことをご遺族の御両親に報告しました。
朝日新聞のコメントとして、我々には時効はない、言論機関へのテロは認められないという思いは、時効によって変わることはない、ということでした。
昨年の12月に朝日新聞を退職した後も取材活動をしています。
自由な立ち場として取材の経緯を振り返る本を書きたいと言うふうに思っていて、2月の末に出すことが出来ました。
この本をきっかけに新たな情報もあり、これから時間をかけてゆっくりやって行きたいと思います。
右翼の人達とは300人は会っていると思います。
右翼の人にとって、右翼の人は赤報隊を支持すると言うことは言われました。
意見の違いに対して、殺してもいいという赤報隊の考えは我々は認められない。
天誅は右翼の人にとって大事な考え方だと言うことは、私は認められませんとはっきり言って事件の解決に向けてご協力して下さいというやりとりをして、右翼の取材を続けて来ました。
いったいこの事件はどうして起きたのか、この事件は何だったのか、という大きな謎があってこれを何としても解決していきたい、赤報隊との戦い、ギブアップしてはいけないことだと思います。
赤報隊は単なる殺人グループなのか、思想グループなのかと問いたい。
思想グループであるのならば名乗り出て何故あの事件を起こしたのか、何故小尻知博記者を殺害したのかしっかり語って欲しい。
時効から15,6年たっているので、名乗り出ても刑事責任はないので語って欲しい。
あの事件が未解決になっている中、ネットなどでは朝日新聞が又跋扈(ばっこ)してきているので赤報隊にお出まし願おうか、というような危険な言葉がネットなどで飛び交う中、大変な時代になっているかもしれないと思います。
言論の自由を、テロが二度と起きない様な、私も一記者に戻ってそのために貢献したいと思っています。
元朝日新聞の記者、昭和53年に入社、高知支局から兵庫県西宮市の阪神支局、大阪などで勤務、今日年退職して現在はフリーのジャーナリストとして活動しています。
31年前1987年の5月3日に起きた朝日新聞阪神支局襲撃事件、樋田さんは後輩の記者を亡くしながらも取材班のキャップとして長年にわたって取材の最前線に立ちつづけました。
事件は16年前に時効を迎えました。
しかし樋田さんは事件の取材を続け、記事や本の執筆、講演などを続けています。
お墓参りは5月3日の前に行って事件解決の誓いをします。
朝日新聞は辞めたので家族と一緒に冥福を祈りたいと思います。
事件は31年前1987年の5月3日の夜に起きる。
朝日新聞阪神支局に目だし帽をかぶった男が無言で散弾銃を発砲。
当時29歳だった小尻知博記者が殺害され、犬飼兵衛記者が右手薬指と小指を失う重症を負いました。
最初の事件の後、赤報隊と名乗る犯行声明文が送られて、その後名古屋にある朝日新聞の関連施設での発砲事件や静岡支局の爆破未遂事件などが相次いで、広域重要116号事件に指定して捜査を行ってきたが、朝日新聞阪神支局襲撃事件は平成14年に時効を迎えて、他の事件も平成15年に全て時効となる。
この事件への怒り、何としても犯人にたどり着きたいと言うのが一番大きいです。
御両親にも犯人を必ず見つけ出すという事を約束しましたが、ご両親は亡くなられてしまいました。
いまも取材をしています。
言論の自由を全く無視した行為を赤報隊はしてきたこれは許せない行為だと思います。
1952年4月愛知県生まれ、早稲田大学に進む。
小さいころからおぼろげにジャーナリストになりたいと思っていて、大学時代には学生運動が盛んでした。
新しい自治会を作ろうという運動をして私は新しい自治会の委員長をしていました。
世の中の推移を眺め観察する新聞記者の役割をみて新聞記者になろうと思いました。
面接の時に「何のために新聞記者になりたいのか」と問われて、「社会正義の実現の為です」と答えました。
1978年に朝日新聞に入社。
入社6年目、1983年に兵庫県のある市で公金横領事件があった。
情報に基づいて本人に会いに行ったら、事実を認めた。
その経緯を記事にした数日後、市役所の職員が自殺をした。
その元は私の記事なので家に電話をしたら、奥さんが出て「あなたのことを一生恨みます」と言われて、ショックだった。
記事に書くけれども字にするということは色んなものを背負うことでもあり、新聞記者として責任もあり重い仕事だと改めて自覚しました。
その後大阪の社会部に異動、35歳の時に阪神支局襲撃事件が発生する。
5月3日に休暇をとって夜くつろいでいた時に、TVのニュースで小尻知博記者が撃たれたということで、電話をしても通じなくて深夜に電話ががり、翌早朝来るように言われました。
小尻知博記者は家族思いの誠実な良い記者だったと思います。
赤報隊から犯行声明文が出される。
朝日新聞、戦後の色んなものに対する敵意を感じました。
声明文には怒り感じました。
徹底的にこちらも身構えて赤報隊の正体を突き止める、犯行声明を見ながらこう思いました。
最初2週間は朝から晩まで近辺の施設などの聞き込み調査をしました。
その後特命取材班に入って、デスクからこれからは「君たちは原稿は書くな、犯人を追いかけろ、とにかく犯人を捕まえてこい、それがお前たちの仕事だ」と言われました。
右翼取材をしようという事で、勉強したり取材をしてきました。
記者なのに警察と同じことをしてきました。
記事を書けないということは大きなストレスでした。
事件の被害者であり、取材者であるという意味では他社から抜かれる様なことがあってはならなかった。
被害者として捜査に協力するがどこまで協力するか、取材源の秘匿と言うことも大事なことで、捜査機関に伝えることでどんなことが起きるのか、言論の自由が補償されなくなる可能性もある、一方は権力機関なので、どこで折り合いをつけるのかということが大事です。
取材をして行くとこのあたりが犯人ではないかと段々に浮かび上がって来るが、捜査機関なのではないので我々は白黒を付けることはできない。
色々思い悩むことだらけでした。
特命取材班にいた時も、事件が時効になって一人で取材をした時の色んな人に会いますが、事件が解決するかもしれないと考えながら、もし真犯人であればどんな原稿を書こうかと思って会いますが、犯人とは決めつけられないというふうにがっかりしてしまう結果が多かった。
結果としては犯人像にはたどり着けずに30年以上過ぎてしまいました。
時効を迎えてしまったが忸怩たる思いが浮かび上がってきます。
そのことをご遺族の御両親に報告しました。
朝日新聞のコメントとして、我々には時効はない、言論機関へのテロは認められないという思いは、時効によって変わることはない、ということでした。
昨年の12月に朝日新聞を退職した後も取材活動をしています。
自由な立ち場として取材の経緯を振り返る本を書きたいと言うふうに思っていて、2月の末に出すことが出来ました。
この本をきっかけに新たな情報もあり、これから時間をかけてゆっくりやって行きたいと思います。
右翼の人達とは300人は会っていると思います。
右翼の人にとって、右翼の人は赤報隊を支持すると言うことは言われました。
意見の違いに対して、殺してもいいという赤報隊の考えは我々は認められない。
天誅は右翼の人にとって大事な考え方だと言うことは、私は認められませんとはっきり言って事件の解決に向けてご協力して下さいというやりとりをして、右翼の取材を続けて来ました。
いったいこの事件はどうして起きたのか、この事件は何だったのか、という大きな謎があってこれを何としても解決していきたい、赤報隊との戦い、ギブアップしてはいけないことだと思います。
赤報隊は単なる殺人グループなのか、思想グループなのかと問いたい。
思想グループであるのならば名乗り出て何故あの事件を起こしたのか、何故小尻知博記者を殺害したのかしっかり語って欲しい。
時効から15,6年たっているので、名乗り出ても刑事責任はないので語って欲しい。
あの事件が未解決になっている中、ネットなどでは朝日新聞が又跋扈(ばっこ)してきているので赤報隊にお出まし願おうか、というような危険な言葉がネットなどで飛び交う中、大変な時代になっているかもしれないと思います。
言論の自由を、テロが二度と起きない様な、私も一記者に戻ってそのために貢献したいと思っています。
2018年5月4日金曜日
沖藤典子(ノンフィクション作家) ・老いてこそ冒険
沖藤典子(ノンフィクション作家) ・老いてこそ冒険
昭和13年北海道の出身、北海道大学を卒業後、市場調査機関に勤務しキャリアを重ねましたが、夫の転勤や親の介護に直面し、退職を余儀なくされます。
昭和54年自身の体験を纏めた「女が職場を去る日」はベストセラーとなりました。
以来、結婚、子育て、介護といった女性を取り巻く様々な問題をテーマに執筆、講演を続けています。
子供の頃山羊の小屋を見に行って、その時のドキドキした感じを私は冒険と言わせてもらっています。
わくわくする心を大事にしたいと言う思いがあります。
高校2年の時に世界史を習って本当にびっくりしました。
生涯に3つの冒険をしようと思いました。
①エジプトのピラミッド、②中国の万里の長城、③アメリカのエンパイアステートビル、を見る。(高校生の時の思い)
40年かけて達成しました。
78歳の時にネパールに行く機会があり、ヒマラヤを見物しようと計画しました。
高山病に掛かったりして家に帰って来てもう直ぐの処でひっくり返って救急車で運ばれ入院しました。(骨折して12日間入院)
「命短し無理せよ老婆」というスローガンを立てて実行したが「命短し転ぶな老婆」といましめています。
旅行のパンフレットを集めるのが好きです、行ったつもりになっています。
なるべく自分で自分を励ますと言うことをしないと老いは楽しくないです。
「女が職場を去る日」ドラマにもなる。
父ががんを発病して仕事、子育て、介護で苦しみました。(40年前)
これから高齢者社会が来ると、必ず年寄りのお世話の問題が出てくると思って勉強しようと思って、
特別養護老人ホームに1年間行きました。
介護の問題は愛情も大事だけれど専門的な知識、技術が無いと年寄りがかわいそうだと思いました。
社会的なスキルを蓄積する制度が必要だと思いました。
今は介護保険になっていろいろ議論もあるが、経済的条件で社会的な介護が受けられるよりも、本人の必要性に応じて受けられる今の介護の方が人の理にかなっていると思います。
見る側の家族の方がどんどん年齢が高くなってきている。
私も経験しましたが、老いたる妻の夫への介護も大変だなと思いました。
良妻押し付けは世の中に多いですね。
心の葛藤を全部良妻と言う言葉で押しつぶされる。
出来るだけのことをしようと思っているが、自分自身が老いて疲れ果ててしまって私が先に倒れたらどうしようと思ってしまうわけです。
11か月入院して家に帰って来た時には嬉しかったが、22日目に心不全で亡くなりました。
夫の転勤は当時は単身赴任ということはなくて、私は会社を辞めて一緒に行きました。
本を書いた時には400枚の原稿を20日で書いています、一日20枚書いて胸の中にたぎる思いを吐き出す思いで、それがエネルギーになるんですね。
色々過去のことを思い出すが、この歳になるとあれだけ泣き叫んだこととか怒ったこととかが全部綺麗な思い出になってるんです、不思議ですね人間の心って。
老いというものは心をまろやかにしてくれる部分があるのではないかと思います。
子供も独立して現在は一人で暮らして3年になります。
老いの時期というのは神様は与えてくれた解放の時期だとしみじみ思います、大切に生きたいと思っています。
趣味をいくつかやっています。
「共同参画市民スタデー21」男性女性地域の人達が皆で集まれるような会を作って16年になります。
その人たちとお付きあいをしているのがとっても楽しいです。
勤トレのジムにも通っています。(去年の12月から 79歳)
筋肉が付いてきて階段の上り下りは平気です。
口の筋肉が衰えると発音が悪くなる。
独身で男性の高齢者は喋ることが少ないので、口の筋肉が衰えるので問題になっている。
口の筋肉を鍛えるにはコーラス、朗読もいい。
女性が長生きするのはお喋りで笑うからだと本当にそう思っています。
朗読型の「平家物語」もやっています。
俳句もやっています。
大勢の中に自分の身を置くと、人様の発するエネルギーみたいなものが身体の中に入って来る。
一か月に一回はピーっとしたおしゃれをするのがいいと思います。
孤独は豊かな孤独はあるが、孤立は良くない。
キーワード「他人様幸せ」他人様によって幸せを得る。
何かあった時に近所の人たちが良くしてくれる。
有るがままの自分で有るがままの日々を過ごしていこうと思っています。
図書館が近いので良く行きます。
日々冒険です。
今の80代は昔の70代の体力を持っていると医師が言っていますが、年齢で一括りにするということはしないようにしています、私は私。
夢手帳、自分がやりたいこと行きたいことを書いておくとかが、大事です。
詩吟をやろうかと10年悩んでいます。(躊躇することもあります)
自分を「機嫌よく、元気良くさせる」、そのためにはちょっとした冒険をする。
楽天的であるということは大事で、余りくよくよ考えない、しかし用心も必要。
80代で見るべきものを3つ考えていて、体力気力と相談して達成しようと思います。
昭和13年北海道の出身、北海道大学を卒業後、市場調査機関に勤務しキャリアを重ねましたが、夫の転勤や親の介護に直面し、退職を余儀なくされます。
昭和54年自身の体験を纏めた「女が職場を去る日」はベストセラーとなりました。
以来、結婚、子育て、介護といった女性を取り巻く様々な問題をテーマに執筆、講演を続けています。
子供の頃山羊の小屋を見に行って、その時のドキドキした感じを私は冒険と言わせてもらっています。
わくわくする心を大事にしたいと言う思いがあります。
高校2年の時に世界史を習って本当にびっくりしました。
生涯に3つの冒険をしようと思いました。
①エジプトのピラミッド、②中国の万里の長城、③アメリカのエンパイアステートビル、を見る。(高校生の時の思い)
40年かけて達成しました。
78歳の時にネパールに行く機会があり、ヒマラヤを見物しようと計画しました。
高山病に掛かったりして家に帰って来てもう直ぐの処でひっくり返って救急車で運ばれ入院しました。(骨折して12日間入院)
「命短し無理せよ老婆」というスローガンを立てて実行したが「命短し転ぶな老婆」といましめています。
旅行のパンフレットを集めるのが好きです、行ったつもりになっています。
なるべく自分で自分を励ますと言うことをしないと老いは楽しくないです。
「女が職場を去る日」ドラマにもなる。
父ががんを発病して仕事、子育て、介護で苦しみました。(40年前)
これから高齢者社会が来ると、必ず年寄りのお世話の問題が出てくると思って勉強しようと思って、
特別養護老人ホームに1年間行きました。
介護の問題は愛情も大事だけれど専門的な知識、技術が無いと年寄りがかわいそうだと思いました。
社会的なスキルを蓄積する制度が必要だと思いました。
今は介護保険になっていろいろ議論もあるが、経済的条件で社会的な介護が受けられるよりも、本人の必要性に応じて受けられる今の介護の方が人の理にかなっていると思います。
見る側の家族の方がどんどん年齢が高くなってきている。
私も経験しましたが、老いたる妻の夫への介護も大変だなと思いました。
良妻押し付けは世の中に多いですね。
心の葛藤を全部良妻と言う言葉で押しつぶされる。
出来るだけのことをしようと思っているが、自分自身が老いて疲れ果ててしまって私が先に倒れたらどうしようと思ってしまうわけです。
11か月入院して家に帰って来た時には嬉しかったが、22日目に心不全で亡くなりました。
夫の転勤は当時は単身赴任ということはなくて、私は会社を辞めて一緒に行きました。
本を書いた時には400枚の原稿を20日で書いています、一日20枚書いて胸の中にたぎる思いを吐き出す思いで、それがエネルギーになるんですね。
色々過去のことを思い出すが、この歳になるとあれだけ泣き叫んだこととか怒ったこととかが全部綺麗な思い出になってるんです、不思議ですね人間の心って。
老いというものは心をまろやかにしてくれる部分があるのではないかと思います。
子供も独立して現在は一人で暮らして3年になります。
老いの時期というのは神様は与えてくれた解放の時期だとしみじみ思います、大切に生きたいと思っています。
趣味をいくつかやっています。
「共同参画市民スタデー21」男性女性地域の人達が皆で集まれるような会を作って16年になります。
その人たちとお付きあいをしているのがとっても楽しいです。
勤トレのジムにも通っています。(去年の12月から 79歳)
筋肉が付いてきて階段の上り下りは平気です。
口の筋肉が衰えると発音が悪くなる。
独身で男性の高齢者は喋ることが少ないので、口の筋肉が衰えるので問題になっている。
口の筋肉を鍛えるにはコーラス、朗読もいい。
女性が長生きするのはお喋りで笑うからだと本当にそう思っています。
朗読型の「平家物語」もやっています。
俳句もやっています。
大勢の中に自分の身を置くと、人様の発するエネルギーみたいなものが身体の中に入って来る。
一か月に一回はピーっとしたおしゃれをするのがいいと思います。
孤独は豊かな孤独はあるが、孤立は良くない。
キーワード「他人様幸せ」他人様によって幸せを得る。
何かあった時に近所の人たちが良くしてくれる。
有るがままの自分で有るがままの日々を過ごしていこうと思っています。
図書館が近いので良く行きます。
日々冒険です。
今の80代は昔の70代の体力を持っていると医師が言っていますが、年齢で一括りにするということはしないようにしています、私は私。
夢手帳、自分がやりたいこと行きたいことを書いておくとかが、大事です。
詩吟をやろうかと10年悩んでいます。(躊躇することもあります)
自分を「機嫌よく、元気良くさせる」、そのためにはちょっとした冒険をする。
楽天的であるということは大事で、余りくよくよ考えない、しかし用心も必要。
80代で見るべきものを3つ考えていて、体力気力と相談して達成しようと思います。
2018年5月3日木曜日
奥山景布子(作家) ・尾張から日本の未来を見据えた男
奥山景布子(作家) ・尾張から日本の未来を見据えた男
1966年愛知県生まれ、名古屋大学大学院博士課程を修了後、教員などを経て創作を始めます。
2007年、戦に敗れた平家に仕えていた女性の悲哀を描いた、「平家蟹異聞」でオール読物新人賞を受賞、デビュー後も名古屋で執筆を続け、最近では子供向け歴史小説なども手掛けています。
去年12月には幕末の尾張藩主徳川 慶勝と3人の弟を描いた長編小説「葵の残葉」を発表しました。
本ばかり読んで人と付き合うのが苦手な子供時代でした。
父の工場のダンボールの中に入って本を与えられて、本を読んでいたりしました。
(幼稚園から小学校1,2年の頃)
一人で過ごさなくてはいけないので、大きな音の中で本を読んでいました。
伝記(紫式部、ヘレン・ケラーなど)多く読んでいました。
東京に身を置くよりも、地方都市に身おく方がプラスな面もあるので、何の疑問をもったこともないです。
名古屋に居たから書けたというのが「葵の残葉」。
尾張徳川家14代の藩主徳川慶勝(よしかつ)と3人の弟を描いた長編歴史小説。
尾張藩の傍系である高須松平家に生まれる。
徳川慶勝の3人の弟は徳川慶勝の次に尾張藩主となる徳川茂徳(もちなが)、会津藩主の松平容保(かたもり)、桑名藩主の松平 定敬(さだあき)、この兄弟。
「葵の残葉」は幕末敵味方として戦うことになってしまう4兄弟を描いた長篇小説。
徳川慶勝公は幕末のキーパーソンですが知名度が低い。(地元でも)
初代尾張藩主徳川義直(とくがわよしなお)徳川家康の9男。
官軍が江戸まで行く間にかなりの距離時間がある筈で、易々と進軍出来たのかおかしいと思う。
徳川系の藩が攻撃もしないで通してしまったのか、実はそれに深くかかわったのが尾張家で、そこについては何にも出てこない。
豊臣方の進攻、本来西からの備えに対して抵抗すべき人々が配置されているはずなのに、官軍がやすやすと突破できたのは尾張徳川家、徳川慶勝公の存在が凄く重要であるが、何故今まで語られなかったのか是非知ってほしいと思います。
戊辰戦争は会津ではなくて尾張だったかもしれないし、日本が二つに割れてとか、そこに外国が付け込んできてとか、今の日本はなかったかもしれないと思います。
尾張藩の歴代藩主が主に政務をとっていたのは二の丸御殿でした。(現在はない)
尾張勤皇青松葉事件遺跡という石碑が建っています。
朝廷を中心にした新しい政治の動きがあり、一方で幕府が政治をするものだという考えもあり、尾張がどちらに付くのか気にしていた。
徳川慶勝公がその選択をするのに家中の幕府方に近い考えの藩士を処刑したり、蟄居謹慎とか厳しい処分を課したりしたのが、青松葉事件です。
犠牲があったお陰で戦場にならずに済んだし、東海道、中山道沿いが戦場にならなかったのはこの事件があったからこそだと思います。
14人の死者があったことを美的に語るのではなくて、有ったことを忘れないでほしい。
鳥羽伏見の戦いで新政府軍が圧勝して、慶喜が逃げてしまうが、京都にいた慶勝公の立場が悪くなる。
慶勝公と松平春嶽(容保)はそれまでは慶喜公と朝廷できちっと話をさせようとして、出来るだけ戦わないで、朝廷と幕府での新しい体制を作るのに参加して欲しいと言う動きをしていた。
逃げてしまったのでいっぺんに立場が悪くなってしまった。
朝廷方から忠誓を誓うことを見せろと言うことで家臣を粛清しなければいけなくなった。
岩倉具視から京都から帰って幕府側に付くのなら勝手にどうぞ位に云われたようで、後から助けを求められても知らないよ、と冷たく言われてあえて戦うことをしなかった。
慶勝公は新しい物事が好きで、西洋事情にも明るい方だったようで内戦をしていたら西洋列強に日本が分割されてしまうかもしれないという危機感を持っていて、あえて泣いて徳川方を切って、新しい体制に尾張方が参加する方を選んだということだった。
慶勝公は写真が好きで自画像なども撮ったり、名古屋城の写真なども撮っている。
現像液を含め写真に関するいろいろな研究もしていた。
兄弟の写真も全部残っている。
長州の征討に慶勝公は出かけるが、出来れば丸く収めようとしていたものと思われる。
長州は3人の家老の首を差し出して戦争にはいたらなかった。
慶勝公は今は内戦をしている場合ではないと、確固立たる信念のもとに戦いを行わなかったと私は思います。
明治11年に兄弟4人で写っている写真を見た時に興味を持ちました。
調べれば調べるほどスケールが大きくなりました。
膨大な資料の中からどれを取るかということを考えなくてはいけなくて、何処まで捨てて書き切るかというふうに収斂していきました。
第一次長征の時には西郷が参謀を務めたが、西郷さんの写真を撮っていたら面白かったなあと思いますが。(対面シーンを想像して小説には書きました)
大きな声の方に耳を傾けがちですが、黙って全て自分の中に収めて退場してしまう人が中にはいますが、そういう人達が実はどんなことを考えていて、物事を考える時間をどう過ごしたのか、もう一回注目して人間を観察する必要があるかもしれません。
1966年愛知県生まれ、名古屋大学大学院博士課程を修了後、教員などを経て創作を始めます。
2007年、戦に敗れた平家に仕えていた女性の悲哀を描いた、「平家蟹異聞」でオール読物新人賞を受賞、デビュー後も名古屋で執筆を続け、最近では子供向け歴史小説なども手掛けています。
去年12月には幕末の尾張藩主徳川 慶勝と3人の弟を描いた長編小説「葵の残葉」を発表しました。
本ばかり読んで人と付き合うのが苦手な子供時代でした。
父の工場のダンボールの中に入って本を与えられて、本を読んでいたりしました。
(幼稚園から小学校1,2年の頃)
一人で過ごさなくてはいけないので、大きな音の中で本を読んでいました。
伝記(紫式部、ヘレン・ケラーなど)多く読んでいました。
東京に身を置くよりも、地方都市に身おく方がプラスな面もあるので、何の疑問をもったこともないです。
名古屋に居たから書けたというのが「葵の残葉」。
尾張徳川家14代の藩主徳川慶勝(よしかつ)と3人の弟を描いた長編歴史小説。
尾張藩の傍系である高須松平家に生まれる。
徳川慶勝の3人の弟は徳川慶勝の次に尾張藩主となる徳川茂徳(もちなが)、会津藩主の松平容保(かたもり)、桑名藩主の松平 定敬(さだあき)、この兄弟。
「葵の残葉」は幕末敵味方として戦うことになってしまう4兄弟を描いた長篇小説。
徳川慶勝公は幕末のキーパーソンですが知名度が低い。(地元でも)
初代尾張藩主徳川義直(とくがわよしなお)徳川家康の9男。
官軍が江戸まで行く間にかなりの距離時間がある筈で、易々と進軍出来たのかおかしいと思う。
徳川系の藩が攻撃もしないで通してしまったのか、実はそれに深くかかわったのが尾張家で、そこについては何にも出てこない。
豊臣方の進攻、本来西からの備えに対して抵抗すべき人々が配置されているはずなのに、官軍がやすやすと突破できたのは尾張徳川家、徳川慶勝公の存在が凄く重要であるが、何故今まで語られなかったのか是非知ってほしいと思います。
戊辰戦争は会津ではなくて尾張だったかもしれないし、日本が二つに割れてとか、そこに外国が付け込んできてとか、今の日本はなかったかもしれないと思います。
尾張藩の歴代藩主が主に政務をとっていたのは二の丸御殿でした。(現在はない)
尾張勤皇青松葉事件遺跡という石碑が建っています。
朝廷を中心にした新しい政治の動きがあり、一方で幕府が政治をするものだという考えもあり、尾張がどちらに付くのか気にしていた。
徳川慶勝公がその選択をするのに家中の幕府方に近い考えの藩士を処刑したり、蟄居謹慎とか厳しい処分を課したりしたのが、青松葉事件です。
犠牲があったお陰で戦場にならずに済んだし、東海道、中山道沿いが戦場にならなかったのはこの事件があったからこそだと思います。
14人の死者があったことを美的に語るのではなくて、有ったことを忘れないでほしい。
鳥羽伏見の戦いで新政府軍が圧勝して、慶喜が逃げてしまうが、京都にいた慶勝公の立場が悪くなる。
慶勝公と松平春嶽(容保)はそれまでは慶喜公と朝廷できちっと話をさせようとして、出来るだけ戦わないで、朝廷と幕府での新しい体制を作るのに参加して欲しいと言う動きをしていた。
逃げてしまったのでいっぺんに立場が悪くなってしまった。
朝廷方から忠誓を誓うことを見せろと言うことで家臣を粛清しなければいけなくなった。
岩倉具視から京都から帰って幕府側に付くのなら勝手にどうぞ位に云われたようで、後から助けを求められても知らないよ、と冷たく言われてあえて戦うことをしなかった。
慶勝公は新しい物事が好きで、西洋事情にも明るい方だったようで内戦をしていたら西洋列強に日本が分割されてしまうかもしれないという危機感を持っていて、あえて泣いて徳川方を切って、新しい体制に尾張方が参加する方を選んだということだった。
慶勝公は写真が好きで自画像なども撮ったり、名古屋城の写真なども撮っている。
現像液を含め写真に関するいろいろな研究もしていた。
兄弟の写真も全部残っている。
長州の征討に慶勝公は出かけるが、出来れば丸く収めようとしていたものと思われる。
長州は3人の家老の首を差し出して戦争にはいたらなかった。
慶勝公は今は内戦をしている場合ではないと、確固立たる信念のもとに戦いを行わなかったと私は思います。
明治11年に兄弟4人で写っている写真を見た時に興味を持ちました。
調べれば調べるほどスケールが大きくなりました。
膨大な資料の中からどれを取るかということを考えなくてはいけなくて、何処まで捨てて書き切るかというふうに収斂していきました。
第一次長征の時には西郷が参謀を務めたが、西郷さんの写真を撮っていたら面白かったなあと思いますが。(対面シーンを想像して小説には書きました)
大きな声の方に耳を傾けがちですが、黙って全て自分の中に収めて退場してしまう人が中にはいますが、そういう人達が実はどんなことを考えていて、物事を考える時間をどう過ごしたのか、もう一回注目して人間を観察する必要があるかもしれません。
2018年5月2日水曜日
今泉今右衛門(人間国宝 陶芸家) ・時代に挑み、時代に残す
今泉今右衛門(人間国宝 陶芸家) ・時代に挑み、時代に残す
55歳、江戸時代佐賀藩の御用窯で焼かれていた色絵磁器の技法を受け継いでいる家元に生まれました。
同じく人間国宝だった13代今泉今右衛門のもとで学び2002年に14代今泉今右衛門を襲名しました。
墨はじきという技法などを駆使し父親が切り開いた表現をさらに進化させました。
2014年に陶芸家としては史上最年少51歳で人間国宝に認定されています。
今泉さんは有田400年の歴史は常に時代に挑み続け何かを残してきたと語ります。
今泉さんが時代にどの様に挑み何を残そうとしているのか伺いました。
それぞれの仕事を分業でして行っています、江戸時代からやってきています。
陶器と磁器、一番判りやすいのは原料が陶器は粘土、土で、磁器の場合は石です。
白い石を細かく砕いて水の中を通して粘土を作って行く。
磁器の石が400年ほど前に有田の地で見つかって、日本における磁器の発祥の地になったわけです。
色絵磁器、表面にガラス質の釉薬があるが、その下にある染付の藍の色、釉薬の上に赤緑、黄色などの綺麗な色柄が施されていてこれを色絵磁器と言います。
鍋島藩の御用窯として作られた焼き物、その中でも特に色絵が付いたものが当時凄く賞美られたことによって、鍋島の焼き物を総称して色絵鍋島といいます。
まず生地を作る仕事があります、ろくろでつくってそれを削り上げて生地を作って行く。
その表面を拭き上げて行く、水拭きという仕事があります。
それを素焼きの窯に入れてその後下絵、(通常染付と言う)青い色の線描きをしてその後面を塗りますが、線描きと面を塗る人も違います。
釉薬をかけて本窯で焼きますが、釉薬をかける人、窯焚きさんも違います。
その後に本窯から上がってきたものの上に、色絵付けの赤、面それぞれが分業していきます。
それぞれが高い特殊な技術を要するので一人の人間では出来にくい、分業する事によってスペシャリストの仕事を併せて出来る仕事で、分業でしかできない仕事が大切。
文様のデザインの形を一つ一つ新しいものを決めて行くことは代々の今右衛門がしてきました。
自分で全てを作り上げるのではなく職人さんに手伝ってもらうこともあります。
人間の手で書いてゆくと均一な線を描いていこうとして、雪の結晶など60度の角度で書いてゆくが、人間の書くものだと微妙に違ってきます。
コンピューターではきっちり書くことが出来るが、何か温かみが無い。
微妙な違い、揺らぎが美しいのではないかと思います。
人間の手で出る来るものの良さが出てこその手で作る意味だと思うので、これから凄く重要になって来る時代だと思います。
書いてゆく時間をかけることによって、時間がその人の考え方価値観を作り出してゆく、その違いはあると思っています。
13代今泉今右衛門の次男として生まれる。
小さいころから色々な物を作ることが好きでした。
大学は工芸工業デザイン学科、立体を作るデザインの方です。
卒業後陶芸とは関係にないインテリアの会社に3年間いました。
最初営業、宣伝などをして、その後憧れをもっていた京都の鈴木治先生(戦後の日本陶芸を代表する陶芸家の一人、陶芸による新しい造形表現を目指して前衛陶芸家集団「走泥社」を結成)の所に修行に行きたいと思って父と一緒にお願いに行きました。
週に3日行って、現代彫刻をしていたので小さな模型を持って行くと「我々がしているのは陶芸なんやで」と言われたが当時理解できなかった。
その後有田に帰って来て仕事をして行く段階で、陶芸は彫刻とは違って、新しい形状であっても彫刻ではなくて陶芸であることの大切さ、陶芸、工芸の一番大切なところを判っていながら現代陶芸をされたんだと後になって判りました。
色々言われたが判らなかったことが、家に帰って仕事をして行く段階であの言葉はこういうふうな言葉だったのかと後で色々判りました。
27歳の時に有田に戻ってきました。
周りはどんどん作品を作って発表していたので焦り不安は感じました。
家の仕事の手伝いをしながらやっていましたが、父はこうしろとはあまり言わない人でした。
父とは11年間一緒に仕事をしていましたが、雑談しながら美術のことなど話していました。
或る時父の代わりに取材の話があり、「焼き物を作る上で大切なものは何ですか」と父に聞いたら、自分としては文様のリズミカルなところとか言いだすのかと思ったら、父は一言「人間性だよ」と言って、人間性が全て出てるものであるし、大切なことであると、11年間父は人間性を伝えたかったのだと思います。
有田に帰って来てから数年経った頃、或る人から手紙をいただきました。
自分は11代今右衛門をお世話したと、お世話したから花瓶を送ってくれと言うことで、父は花瓶を送ります。
半年後、親戚が花瓶を持っていったので、先祖の供養にもう一度花瓶を送ってほしいとの事でした。
父はそうかと言って送るんです、また半年して火事になったので又送ってくれと言われて周りは騙されているから送らない方がいいと言ったが、父は祖先がお世話になったのは事実かもしれない、誠意を持って接すれば人はだましきれないと言って、手紙も書いて送ったりしていたら、或る時から刑務所から手紙が来るようになって、父は手紙を返信する。
その人が刑務所から出る時に逢いたいと言うことで、逢いに来て今までは自分は人様に顔向けできることはしてなかったが、今右衛門さんのお陰で真人間になれるかもしれないということでその場で号泣して帰って行かれました。
父は人間性と言うことを大切に、地で生きていった人だったと思います。
父は色鍋島の様な厳格なきちっとしたところが好きではなくて、ざっくりとした土物くさいうぶな感じが好きでした。
吹 墨 (ふきずみ)という技法を鍋島の世界に取り入れて、全面に絵の具を吹きかける、グレーの絵の具を吹きかける、新しい世界を確立していった。
最初は賛否両論あったが、信念を持っていく中で伝統工芸展で賞をいただいたり、日本陶芸展で受賞したりして自信を深めて行きました。
2001年父が亡くなりましたが、その前に14代をどうするかお前たちで決めろと言われて、兄は商売をするから作る方は弟に任せると言うことになりました。
90歳まで生きていけるほど元気だった父が75歳で亡くなり、維持できるかという不安が大きかった。
墨はじきという江戸時代からの技法があるが、それを一つの柱にしようと言うことで色々試験をしながら仕事を始めて行きました。
白抜きの線描きの技法で書道の墨で文様を描いてゆく。
墨で描いた上に絵の具を載せて一度素焼きの窯に入れると、炭が燃えてなくなって白抜きの線が浮き出でくると言う染色の郎闋染と全く一緒の技法が江戸時代からありました。
その技法に魅力を感じて取り掛かっていました。
昔の物を見ていったら、波の部分の白の部分に筆の打ち込みがある。
文様の背景に使われている。(人が気付かないような部分に繊細な技法が施されている)
色鍋島は品格の高いものが作られるが、品格はその人の人間性とかがにじみ出るものなので、意識するものではないと思っていたが、出来上がった時に人が気付かない様な所にまで手間暇をかけるので分業と言う仕事でしかできないが、そういうことの積み重ねが品格に繋がるのではないかと思います。
墨はじきを取り入れたことで何が進化したのか判らないが、自分の中で墨はじきを取り入れて行くことで墨はじきに気づいてゆく、それが大切だと思っています。
「伝統は相続できない」、とよく父が言っていましたが仕事をする中で自分で気が付いて何かを積み上げて行くものであるというふうに思いました。
プラチナと言う技法、金属の光に対するあこがれが自分の中にありまして、最初銀を使っていたが黒くなってゆく途中が汚くて、仕方なくプラチナを使いました。
見え方が全然違って新しい雰囲気を編み出すことが出来ました。
輝き、周りの色を取り込み、見る角度によって見え方が違う。
感動する思いさえあれば思っていたことが出来るのではないかと、学生の時に感動した雪の結晶の第一印象、ずーっと思っているとどこかで仕事と思いが結びつくことがあるのではないかと思います。
伝統は参考として写真とか数字とかはなければいけないが、それにとらわれてはいけない。
時代に挑みつつ結果的に何か残って居ると言うことの大切さが陶芸の中にあるのではないかと思います。
常に時代に挑んでゆく姿勢が必要だと思います。
55歳、江戸時代佐賀藩の御用窯で焼かれていた色絵磁器の技法を受け継いでいる家元に生まれました。
同じく人間国宝だった13代今泉今右衛門のもとで学び2002年に14代今泉今右衛門を襲名しました。
墨はじきという技法などを駆使し父親が切り開いた表現をさらに進化させました。
2014年に陶芸家としては史上最年少51歳で人間国宝に認定されています。
今泉さんは有田400年の歴史は常に時代に挑み続け何かを残してきたと語ります。
今泉さんが時代にどの様に挑み何を残そうとしているのか伺いました。
それぞれの仕事を分業でして行っています、江戸時代からやってきています。
陶器と磁器、一番判りやすいのは原料が陶器は粘土、土で、磁器の場合は石です。
白い石を細かく砕いて水の中を通して粘土を作って行く。
磁器の石が400年ほど前に有田の地で見つかって、日本における磁器の発祥の地になったわけです。
色絵磁器、表面にガラス質の釉薬があるが、その下にある染付の藍の色、釉薬の上に赤緑、黄色などの綺麗な色柄が施されていてこれを色絵磁器と言います。
鍋島藩の御用窯として作られた焼き物、その中でも特に色絵が付いたものが当時凄く賞美られたことによって、鍋島の焼き物を総称して色絵鍋島といいます。
まず生地を作る仕事があります、ろくろでつくってそれを削り上げて生地を作って行く。
その表面を拭き上げて行く、水拭きという仕事があります。
それを素焼きの窯に入れてその後下絵、(通常染付と言う)青い色の線描きをしてその後面を塗りますが、線描きと面を塗る人も違います。
釉薬をかけて本窯で焼きますが、釉薬をかける人、窯焚きさんも違います。
その後に本窯から上がってきたものの上に、色絵付けの赤、面それぞれが分業していきます。
それぞれが高い特殊な技術を要するので一人の人間では出来にくい、分業する事によってスペシャリストの仕事を併せて出来る仕事で、分業でしかできない仕事が大切。
文様のデザインの形を一つ一つ新しいものを決めて行くことは代々の今右衛門がしてきました。
自分で全てを作り上げるのではなく職人さんに手伝ってもらうこともあります。
人間の手で書いてゆくと均一な線を描いていこうとして、雪の結晶など60度の角度で書いてゆくが、人間の書くものだと微妙に違ってきます。
コンピューターではきっちり書くことが出来るが、何か温かみが無い。
微妙な違い、揺らぎが美しいのではないかと思います。
人間の手で出る来るものの良さが出てこその手で作る意味だと思うので、これから凄く重要になって来る時代だと思います。
書いてゆく時間をかけることによって、時間がその人の考え方価値観を作り出してゆく、その違いはあると思っています。
13代今泉今右衛門の次男として生まれる。
小さいころから色々な物を作ることが好きでした。
大学は工芸工業デザイン学科、立体を作るデザインの方です。
卒業後陶芸とは関係にないインテリアの会社に3年間いました。
最初営業、宣伝などをして、その後憧れをもっていた京都の鈴木治先生(戦後の日本陶芸を代表する陶芸家の一人、陶芸による新しい造形表現を目指して前衛陶芸家集団「走泥社」を結成)の所に修行に行きたいと思って父と一緒にお願いに行きました。
週に3日行って、現代彫刻をしていたので小さな模型を持って行くと「我々がしているのは陶芸なんやで」と言われたが当時理解できなかった。
その後有田に帰って来て仕事をして行く段階で、陶芸は彫刻とは違って、新しい形状であっても彫刻ではなくて陶芸であることの大切さ、陶芸、工芸の一番大切なところを判っていながら現代陶芸をされたんだと後になって判りました。
色々言われたが判らなかったことが、家に帰って仕事をして行く段階であの言葉はこういうふうな言葉だったのかと後で色々判りました。
27歳の時に有田に戻ってきました。
周りはどんどん作品を作って発表していたので焦り不安は感じました。
家の仕事の手伝いをしながらやっていましたが、父はこうしろとはあまり言わない人でした。
父とは11年間一緒に仕事をしていましたが、雑談しながら美術のことなど話していました。
或る時父の代わりに取材の話があり、「焼き物を作る上で大切なものは何ですか」と父に聞いたら、自分としては文様のリズミカルなところとか言いだすのかと思ったら、父は一言「人間性だよ」と言って、人間性が全て出てるものであるし、大切なことであると、11年間父は人間性を伝えたかったのだと思います。
有田に帰って来てから数年経った頃、或る人から手紙をいただきました。
自分は11代今右衛門をお世話したと、お世話したから花瓶を送ってくれと言うことで、父は花瓶を送ります。
半年後、親戚が花瓶を持っていったので、先祖の供養にもう一度花瓶を送ってほしいとの事でした。
父はそうかと言って送るんです、また半年して火事になったので又送ってくれと言われて周りは騙されているから送らない方がいいと言ったが、父は祖先がお世話になったのは事実かもしれない、誠意を持って接すれば人はだましきれないと言って、手紙も書いて送ったりしていたら、或る時から刑務所から手紙が来るようになって、父は手紙を返信する。
その人が刑務所から出る時に逢いたいと言うことで、逢いに来て今までは自分は人様に顔向けできることはしてなかったが、今右衛門さんのお陰で真人間になれるかもしれないということでその場で号泣して帰って行かれました。
父は人間性と言うことを大切に、地で生きていった人だったと思います。
父は色鍋島の様な厳格なきちっとしたところが好きではなくて、ざっくりとした土物くさいうぶな感じが好きでした。
吹 墨 (ふきずみ)という技法を鍋島の世界に取り入れて、全面に絵の具を吹きかける、グレーの絵の具を吹きかける、新しい世界を確立していった。
最初は賛否両論あったが、信念を持っていく中で伝統工芸展で賞をいただいたり、日本陶芸展で受賞したりして自信を深めて行きました。
2001年父が亡くなりましたが、その前に14代をどうするかお前たちで決めろと言われて、兄は商売をするから作る方は弟に任せると言うことになりました。
90歳まで生きていけるほど元気だった父が75歳で亡くなり、維持できるかという不安が大きかった。
墨はじきという江戸時代からの技法があるが、それを一つの柱にしようと言うことで色々試験をしながら仕事を始めて行きました。
白抜きの線描きの技法で書道の墨で文様を描いてゆく。
墨で描いた上に絵の具を載せて一度素焼きの窯に入れると、炭が燃えてなくなって白抜きの線が浮き出でくると言う染色の郎闋染と全く一緒の技法が江戸時代からありました。
その技法に魅力を感じて取り掛かっていました。
昔の物を見ていったら、波の部分の白の部分に筆の打ち込みがある。
文様の背景に使われている。(人が気付かないような部分に繊細な技法が施されている)
色鍋島は品格の高いものが作られるが、品格はその人の人間性とかがにじみ出るものなので、意識するものではないと思っていたが、出来上がった時に人が気付かない様な所にまで手間暇をかけるので分業と言う仕事でしかできないが、そういうことの積み重ねが品格に繋がるのではないかと思います。
墨はじきを取り入れたことで何が進化したのか判らないが、自分の中で墨はじきを取り入れて行くことで墨はじきに気づいてゆく、それが大切だと思っています。
「伝統は相続できない」、とよく父が言っていましたが仕事をする中で自分で気が付いて何かを積み上げて行くものであるというふうに思いました。
プラチナと言う技法、金属の光に対するあこがれが自分の中にありまして、最初銀を使っていたが黒くなってゆく途中が汚くて、仕方なくプラチナを使いました。
見え方が全然違って新しい雰囲気を編み出すことが出来ました。
輝き、周りの色を取り込み、見る角度によって見え方が違う。
感動する思いさえあれば思っていたことが出来るのではないかと、学生の時に感動した雪の結晶の第一印象、ずーっと思っているとどこかで仕事と思いが結びつくことがあるのではないかと思います。
伝統は参考として写真とか数字とかはなければいけないが、それにとらわれてはいけない。
時代に挑みつつ結果的に何か残って居ると言うことの大切さが陶芸の中にあるのではないかと思います。
常に時代に挑んでゆく姿勢が必要だと思います。
2018年5月1日火曜日
萩本欽一(コメディアン) ・【母を語る】
萩本欽一(コメディアン) ・【母を語る】
昭和16年東京台東区生まれ、駒込高等学校を卒業後浅草東洋劇場に入り、昭和37年フランス座で坂上二郎さんと出会い、昭和41年コント55号を結成、浅草演芸場で初舞台を披露、その後人気となりTVやラジオ、映画出演などで大活躍をします。
昭和44年にはゴールデンアロー特別賞を受賞、昭和50年から60年代にかけて自身の名前を付けたTV番組「欽ちゃんシリーズ」で日本中の人気者になります。
平成8年にはNHKの朝の連続TV小説「ひまわり」ではナレーターを務めました。
平成16年には社会人入試で駒沢大学に入学し話題となりました。
4月からの「萩本欽一の人間塾」の第一回は駒沢大学の学長さんと話をする。
入学当初に最初に出会った教授(当時)でした。
今年で卒業ですが、面白いのでもう2年やりたい、大学の空気感が好きです。
今年77歳になります。
僕にとって大学はボケのリハリビセンターです。(試験がある)
覚えるのに若い頃の3倍かかります。
母親から叩かれたのは2回で、1回は「あいうえお」を書いたら「字は人の為に書く」と言って叩かれた。
「字は人の為に書く」ということをお経のようにいわれました。
小学校の1年の時に名前を書いた時に先生から褒められて、勉強が厭では無くなったので、叩かれたことは無駄ではなかった。
兄弟は男が4人、女が二人いて3男です。
母親は子供を育てるのが好きな人でした。
母親は上手いウソを言う人でした。
半分は嘘でした。
父親は土曜日にしか帰ってこなかったが、男は月曜日から金曜日まで働く、毎日家に帰って来る様な仕事をしているのは大したことはないと言ってました。
偉いお父さんだと思っていたが、借金とか家に帰れない事情があっただけでした。
高校生になってから気が付きました。
子供にお父さんは立派だと言うふうに育てるのが一番と思ったんだと思います。
小学校の通信簿を見て出来が良くワーと言って喜び、中学では中位でワーと言って綺麗に真ん中に揃ってと言って、高校の時に250人中210番と言う時があって、その時はワーと言ってその声が上がり下がりして良いところがなくて最後に「欽一、後ろに40人いるね、ハイ」といって渡してくれて良い母親に当たったと思いました。
それからいやに母親が好きになりました。
借金取りに母親は「ごめんなさい」の一言の連呼でした。
その時に涙がこぼれて居たたまれなかった。
母親を助けられないのはお金だと思って、中学卒業してコメディアンが結論だった。
母親は「絶対に高校、大学に行かなければ駄目、でもその道も有りかもね」、の繰り返しでした。
高校でも、「大学は行かなければ駄目、でも就職もあるかも」、ということでした。
兄の時にはまだお金があったので大学に行きました。
父親は逃げ回っていて当時会っていませんでした。
最初は映画スターが若くして家を建てられるということで、映画スターになろうと思ったが目が垂れていて駄目そうで、コメディアンは目が垂れている人がいるので目指しました。
高校卒業後東洋劇場に入りました。
父親が東洋劇場が建てた家に住んでいて、その関係で紹介されて入りました。
何もできないのでタダで入りましたが、掃除をしていたら来月から3000円と言われました。
仕事は自分で探すものだなと思いました。
最初台詞を貰った時は上がってしまって言えなかったので、そうならないように4時間前に行って舞台で台詞を言ったり、舞台掃除をしていたりしました。
そういったことは母親の教えだと思いました。
母親からもう一回叩かれたのは、お使いに行ってくれと言われて、「厭だ」と言ったら、あまりうるさく言うので「いいよ、判ったよ、行ってやるよ」といったら叩かれました。
ぱーんと叩いて「行くなら気持ち良くいけ」と言われました。
「いやいや行くのが一番腹が立つ」と言われました。
アルバイトをしていた時に、目覚ましを掛けて起きようとしていたが、その5分前に起きてきて僕を起こすんです。
「目覚ましで自分で起きるから」といったが、「お前が何て言おうと絶対起こす」と言って目に涙をためて怒った。
その姿に、こんな素敵な母親がいるのかと、怒って感激させられる母親の顔は大好きです、母を何とかしてあげると思って頑張りました。
TVからスカウトされてTVに出て、まだVTRが止められない時代で19回失敗して首になりました。
2カ月ぐらいして頑張ってやり直そうかと思ったときに坂上二郎さんから電話が来ました。
人生辛いことが必ずやって来るが、辛いことなど今考えるとない、辛いことがいい事の前兆だと思っています。
28歳で銀行からお金を借りて建て売りを買いました。
それから3年後には有名になってきました。
喜んでくれる顔を期待して玄関から「かあちゃん」と声を出していったら、母親から「昼間帰って来るんじゃない、夜帰って来なさい、近所にばれたらどうするの」といわれてしまいました。
コメディアンが私の息子だと判ったら言えないと思って、それから母親は避けていました。
長野オリンピックで閉会式の司会をやった時に、それを見て母親が「そんなに悪いことをしていたんじゃないんだね偉いね」といって、母親(80歳)が欽一に会いたいと言ってくれたがその頃忙しくて、年に2回病院に入って(死にそうで病院入院したと言うと僕が行くので)会うとすぐ退院していました。
母は101歳になる1週間前に亡くなりました。
母親にはとても良い影響を受けて有難いと思います。
大学はなくならないいつまでもあるから、歳とってでも仕事で稼いで自分のお金で大学に行くからと言ったら「そうだね、それもありだねー」と言った幸せそうな顔をいまだに忘れられない。
大学の入学願書に母親との約束を書きました。(母親への孝行)
年月が経つほど僕が考えたんじゃない、その根底には母親の教えがあったのかもしれないという思いです。
一番感謝していることは、気持のいい嘘をありがとう、今の自分があるのはあの見事な嘘、やはり怒って優しいというのはかあちゃんしかいない。
昭和16年東京台東区生まれ、駒込高等学校を卒業後浅草東洋劇場に入り、昭和37年フランス座で坂上二郎さんと出会い、昭和41年コント55号を結成、浅草演芸場で初舞台を披露、その後人気となりTVやラジオ、映画出演などで大活躍をします。
昭和44年にはゴールデンアロー特別賞を受賞、昭和50年から60年代にかけて自身の名前を付けたTV番組「欽ちゃんシリーズ」で日本中の人気者になります。
平成8年にはNHKの朝の連続TV小説「ひまわり」ではナレーターを務めました。
平成16年には社会人入試で駒沢大学に入学し話題となりました。
4月からの「萩本欽一の人間塾」の第一回は駒沢大学の学長さんと話をする。
入学当初に最初に出会った教授(当時)でした。
今年で卒業ですが、面白いのでもう2年やりたい、大学の空気感が好きです。
今年77歳になります。
僕にとって大学はボケのリハリビセンターです。(試験がある)
覚えるのに若い頃の3倍かかります。
母親から叩かれたのは2回で、1回は「あいうえお」を書いたら「字は人の為に書く」と言って叩かれた。
「字は人の為に書く」ということをお経のようにいわれました。
小学校の1年の時に名前を書いた時に先生から褒められて、勉強が厭では無くなったので、叩かれたことは無駄ではなかった。
兄弟は男が4人、女が二人いて3男です。
母親は子供を育てるのが好きな人でした。
母親は上手いウソを言う人でした。
半分は嘘でした。
父親は土曜日にしか帰ってこなかったが、男は月曜日から金曜日まで働く、毎日家に帰って来る様な仕事をしているのは大したことはないと言ってました。
偉いお父さんだと思っていたが、借金とか家に帰れない事情があっただけでした。
高校生になってから気が付きました。
子供にお父さんは立派だと言うふうに育てるのが一番と思ったんだと思います。
小学校の通信簿を見て出来が良くワーと言って喜び、中学では中位でワーと言って綺麗に真ん中に揃ってと言って、高校の時に250人中210番と言う時があって、その時はワーと言ってその声が上がり下がりして良いところがなくて最後に「欽一、後ろに40人いるね、ハイ」といって渡してくれて良い母親に当たったと思いました。
それからいやに母親が好きになりました。
借金取りに母親は「ごめんなさい」の一言の連呼でした。
その時に涙がこぼれて居たたまれなかった。
母親を助けられないのはお金だと思って、中学卒業してコメディアンが結論だった。
母親は「絶対に高校、大学に行かなければ駄目、でもその道も有りかもね」、の繰り返しでした。
高校でも、「大学は行かなければ駄目、でも就職もあるかも」、ということでした。
兄の時にはまだお金があったので大学に行きました。
父親は逃げ回っていて当時会っていませんでした。
最初は映画スターが若くして家を建てられるということで、映画スターになろうと思ったが目が垂れていて駄目そうで、コメディアンは目が垂れている人がいるので目指しました。
高校卒業後東洋劇場に入りました。
父親が東洋劇場が建てた家に住んでいて、その関係で紹介されて入りました。
何もできないのでタダで入りましたが、掃除をしていたら来月から3000円と言われました。
仕事は自分で探すものだなと思いました。
最初台詞を貰った時は上がってしまって言えなかったので、そうならないように4時間前に行って舞台で台詞を言ったり、舞台掃除をしていたりしました。
そういったことは母親の教えだと思いました。
母親からもう一回叩かれたのは、お使いに行ってくれと言われて、「厭だ」と言ったら、あまりうるさく言うので「いいよ、判ったよ、行ってやるよ」といったら叩かれました。
ぱーんと叩いて「行くなら気持ち良くいけ」と言われました。
「いやいや行くのが一番腹が立つ」と言われました。
アルバイトをしていた時に、目覚ましを掛けて起きようとしていたが、その5分前に起きてきて僕を起こすんです。
「目覚ましで自分で起きるから」といったが、「お前が何て言おうと絶対起こす」と言って目に涙をためて怒った。
その姿に、こんな素敵な母親がいるのかと、怒って感激させられる母親の顔は大好きです、母を何とかしてあげると思って頑張りました。
TVからスカウトされてTVに出て、まだVTRが止められない時代で19回失敗して首になりました。
2カ月ぐらいして頑張ってやり直そうかと思ったときに坂上二郎さんから電話が来ました。
人生辛いことが必ずやって来るが、辛いことなど今考えるとない、辛いことがいい事の前兆だと思っています。
28歳で銀行からお金を借りて建て売りを買いました。
それから3年後には有名になってきました。
喜んでくれる顔を期待して玄関から「かあちゃん」と声を出していったら、母親から「昼間帰って来るんじゃない、夜帰って来なさい、近所にばれたらどうするの」といわれてしまいました。
コメディアンが私の息子だと判ったら言えないと思って、それから母親は避けていました。
長野オリンピックで閉会式の司会をやった時に、それを見て母親が「そんなに悪いことをしていたんじゃないんだね偉いね」といって、母親(80歳)が欽一に会いたいと言ってくれたがその頃忙しくて、年に2回病院に入って(死にそうで病院入院したと言うと僕が行くので)会うとすぐ退院していました。
母は101歳になる1週間前に亡くなりました。
母親にはとても良い影響を受けて有難いと思います。
大学はなくならないいつまでもあるから、歳とってでも仕事で稼いで自分のお金で大学に行くからと言ったら「そうだね、それもありだねー」と言った幸せそうな顔をいまだに忘れられない。
大学の入学願書に母親との約束を書きました。(母親への孝行)
年月が経つほど僕が考えたんじゃない、その根底には母親の教えがあったのかもしれないという思いです。
一番感謝していることは、気持のいい嘘をありがとう、今の自分があるのはあの見事な嘘、やはり怒って優しいというのはかあちゃんしかいない。
登録:
投稿 (Atom)