大林宣彦(映画作家) ・シネマと歩んだ人生(1)
昭和13年広島県尾道市出身、79歳、子供のころから映像の世界に親しんで来ました。
1960年代、大林さんが自主製作した映画は全国の大学などで上映されて高い評価を受けています。
1980年代には故郷尾道を舞台にした映画を発表し、世代を超えて支持されました。
近年は戦争と平和をテーマにした映画に取り組んでいます。
最新作「花筐(はながたみ)」は、去年の夏、肺がんで余命半年と告知されながら真夏のロケを終えて今年 5月に完成されました。
以前より13kg痩せました。
自覚症状としてはとても元気です。
肺がん第4ステージの余命3ヶ月です、診断上は、でも余命3カ月と言われて1年3カ月生きていて現実には余命未定です。
映画の仕事はいつも想定違いが起きるので、それをついてないとか思うとその一日は負けなので、映画に生かてたやろうと言う事で、お陰さまでがんも映画の力になってます。
2010年ペースメーカーを入れて、初めて病院通いを始めてレントゲンを撮ったりしていたら、骨にがんが転移しているとのことで、映画撮影どころではないと言われたが、九州の唐津に行きますと言って、唐津に行って唐津の病院で診察を受けたら間違いなくがんの転移ですと、胃、大腸OK、肺がんが見つかり余命半年と言われました。
それを聞いた時、あー肺がんか、身体がポーっと温まってきて嬉しくなっちゃったんです。
それには理由があり、この映画は40年ぶりの念願の映画なんです。
原作者の壇一雄さんが能古島についの住処として住んでいて、40年前に映画化の権利を頂いていたんです。
その時に壇さんは肺がんで末期で口述式で代表作の「火宅の人」を書いていて、親爺たちと同じ世代で、親爺も戦争で人生をもぎ取られた人だし、壇さんもそうであるし、そういう人たちの断念と絶望と、そこで覚悟を決めて表現した事を、平和ボケと言われたわたしたちの世代が映画にする資格があるのだろうかと、親爺たちの戦争中の青春時代の悔しい悲しい絶望的な思いを映画にする資格があるのだろうかと、40年間おびえていたんです。
それが同じがんになったので壇さんと結ばれたと、親爺らの心の痛みも映画にする資格が少しは出来たのかなあと、40年ぶりに集大成と言われるような映画が出来たのも、わたしにがんを与えてくれた神様のおかげと言うんでしょうか。
原作は「花筐(はながたみ)」 花筐と云うのは謡曲にあります。(花筐:漢字でははながたみと読む。)
佐賀県唐津市で治療を続けながら去年の夏にロケを1カ月以上続ける。
最初2日間徹夜で撮影した。
3日目の朝、病院に行ったら余命3ヶ月ですと言われて、がんは倍々ゲームであと数日で余命が無くなりますと言われて、娘が先生に相談して撮影が終わればいいと言うわけではなく、編集し上げで1年かかるので1年は元気に過ごすにはどうしたらいいかと聞いたら、東京の先生を紹介してくれて、重体ではあったが妻としては映画の現場にいる僕が一番元気になると信じていて、やりとりした挙句先生がじーっと私の顔をみて「じゃあ、唐津にお帰りなさい」といってくれました。
錠剤を飲んで、薬の治療をしながらロケを続けました。
原作の頭に、「その町はまず架空の町であってもよい」と、わざわざ書いてあります。
意図があるとおもって、当時壇さんに聞いたら、それじゃあ唐津に行って御覧なさいとおっしゃって、その後壇さんは亡くなってしまい息子の太郎君と唐津に行きました。
原作にあるような風景など無くて、その謎を秘めたまま40年、それがようやく3・11以降の映画の長岡の花火の「この空の花 -長岡花火物語」、樺太の戦争を描いた9月5日まで続いていた戦争を描いた「野のなななのか」の映画を作って、それを唐津で上映してもらってトークショーをやっていたら、もう少し唐津を勉強してみませんかと言われて、唐津の「おくんち」というお祭りを見る機会があり、「おくんち」と言えば長崎、見せていただいたら長崎と違って地味なんです。
山車を曳いている人たちが妙にまじめ、本気、自分たちの魂を曳いているような雰囲気で、翌日町を散策すると、城内と城外がくっきり別れていて、「おくんち」は城外の町民の庶民のお祭りで山車を曳く人は代々決まっている。
昔戦争が有って曳き手が居ないと軍隊を逃れてもやって来て曳いたり、上官が山車を曳きに帰れと言ってこっそり帰してくれたと言う内々の言い伝えがある。
女性たちは家にこもって世界中から何処から来ても、「おくんち」の間は盛りだくさんのお料理でもてなす。(おくんちの翌日からまたそのための貯金を始める。)
名護屋城というお城が唐津にあって、豊臣秀吉の朝鮮出兵の出城だった。
日本中から権力者が集まっていたが、唐津の町人たちは権力にだけは屈しないぞと、唐津は町人の街だという自治のために、「おくんち」という祭りを作って、自分たちの命がけの祭りと町人の心息だった。
城内の人たちは交通整理をしています。
そういう祭りだと言うことがわかって、壇さんがおっしゃったのは唐津の風景ではなくて、唐津の精神であったと言うことが判りました。
壇さんは18歳の時に、自由に憧れた壇さんは、社会主義の運動に連座する(自由を求める気持ちで)、1年間唐津で放浪する。
町人の自治、誇りを学んでこれこそ自分が生きる街だと、そういう中で書かれて小説が
「花筐」だと言うことがようやく判りました。
ややこしい小説で、三島由紀夫がこの小説を読んで、「花筐」にたいする賛美がある。
「いまどき若者に出来ることは、命がけで恋をすることと不良になるしかないじゃないか」と云っていて、それが戦争中の若者です。
そののちの三島が書く小説、彼の死にいたるまで、「花筐」と同じように生きてきたんだと言うことがわかって来ました。
命がけで恋をすることと不良になるしかない、それ以上はなにも書けなかった時代ですから。
この小説を映画にして唐津に行ってみようと言うような、観光客が増えるとは思えなかったが、唐津の町民たちが、唐津とは関係なく日本にとって作るべき映画だと思うので唐津でやらせて下さいといわれて、唐津の精神で人々に唐津にほれ込んでもらお言うと言うことで作ったのがこの映画です。
壇さんが25歳でこの本を出版された時が昭和12年。
日中戦争が始まって太平洋戦争に繋がっていって4年後に原子爆弾に繋がる戦争の始まりだった。
これから戦争になるだろうと僕は最近とてもおびえていて、若者に伝えるには太平洋戦争から原子爆弾までを背景に描くべきだと、その方がいまの時代のリアリティーがでるだろうと思いました。
僕たちにとって一番信頼できなかったのは敗戦後の日本の大人たちで、戦争に負けたのに自決しないのか、僕たちを殺してもくれないのか、そういう約束だったのではないのか、
なのにふわふわと平和だといって踊りだしてしまって、今の若い人に伝えるにはどうしたらいいのか。
どうもきなくさいぞと、この頃感じ始めて、80歳になるこの頃、最後の皮膚感で体験した世代なんです。
反戦でもなくて、厭戦なんです。
でも世界では戦争は絶えない、でも何故かと言うと必要なんです、経済が豊かになるためには戦争が必要だと言う人がいるから。
食べるものがなくて水しか飲めなくても平和の方がいいんだと、言えるのが体験者である僕たちだけだから、それを今こそ言わなければいけないと言うのが、この映画を今やろうと決めた大きな原因でもあります。
観た人は不思議ですと、人ごとではない、自分ごととして受け止めてしまって反戦映画でもなくて、戦争というもののいかがわしさ、いやらしさが自分の問題としてズシっと来て、戦争は嫌だなという気持ちだけがはびこるように心に残ってしまう、不思議な映画ですと言います。
3時間近い映画ですが始まったらあっという間です。
たった70年前に痛みを持って家族を殺され、自分も死ぬ覚悟で味わった戦争が何故伝わらないのか、伝える手段がないんです。
壇さんが「花筐」と云う小説に戦争は嫌だということを書いたら出版できない。
言えないから肺病で病んでいる少女に命がけでほれ込む、裸で抱き合いたいほどの親友を殺すぞと言って不良になるしか表現できない。
自分が一番信じたいことを表現したいのに、それを封じられてしまって、結果伝わってこなかった、それを僕たちは伝えるわけですから、その気配を伝えていこうと思いました。
観たらそれなりに、自分の知っている戦争を思いだしてもらいたいと思います。。
大林的戦争三部作、「この空の花 -長岡花火物語」 新潟県の長岡花火は戦争で亡くなった人の魂を弔うための花火、「野のなななのか」は2014年 樺太での厳しい戦争の経験、
時代への状況への危機感、我々は平和の中の子供のふりをして、何も語らず生きてきた、昭和10~15年の頃の敗戦少年と呼ぶ世代、戦前を知っていれば違うが意識が芽生えたのが、戦争中なので完全な軍国少年であるがゆえに戦争が持っているいかがわしさも十分に感じていた。
その子供たちが3・11の時に一番思ったのは、日本の間違いだらけの敗戦後の復興のやり直しではないかと思った。
物、便利、快適だけで日本人は生きてきたけれども、3・11の時は日本人本来の姿に戻って、「清貧」と言う言葉がある、清らかに生きようと思えば貧しく生きるのが当たり前である、(明治の思想)、日本人はとても精神は美しかったと思う。
高度成長経済期ですっかり無くなってしまったが、3・11で東北の人達の生き方を見たときに、世界が手を差しのべてくれた。
戦争の歴史を描いた映画をつくって思ったが、日本人ぐらい戦争の事を知らない、学んでない国民はいないとつくづく思いました。
8/15は「終戦の日」と言うけれども、戦争は勝つか負けるかで終わると言う事はない。
ソビエト侵攻で戦っていた樺太、北海道の方では9月5日まで続いた。
「花筐」が出来上がって、婦人雑誌、ファッション雑誌までが取材させてほしいと言ってきて、今の時代がここにあるぞと、その中で生きている自分はこれに参加しなければいけない、そんな感じが伝わったんじゃないかと思います。
特に若い人がその気配を感じたと思います。
2017年12月7日木曜日
2017年12月6日水曜日
田口ランディ(作家) ・生きる力を取りもどして
田口ランディ(作家) ・生きる力を取りもどして
今年10月東京都内で命のエール、「初女お母さんから娘たちへ」というイベントが開かれました。
初女お母さんと言うのは昨年2月に94歳で亡くなられた佐藤 初女(さとう はつめ)さんのことです。
様々な悩みを抱えて訪れる人々の心に耳をかたむけ、自然の食材を生かした心のこもった手料理で心も体も癒し、日本のマザー・テレサと言われた社会活動家です。
イベントを主催した作家の田口さんも初女さんと向き合って生きる力を頂いた一人です。
田口さんに初女さんから貰った生きる力とその後の活動について伺います。
「森のイスキア」と云う小さな教会の様なところで、昨年2月に94歳で亡くなられた佐藤初女さんの生き方と、講演と初女さんがたいせつにされていたおむすびのむすび方を伝えるイベントでした。
おむすびに代表される自然からの恵みの料理で色んな方の心をいやされた方です。
一日目は初女さんのむすび方の講習会、2日目は私たちがむすんで、初女さんの言葉を聞いていただく、3日目は10/3で私と初女さんの誕生日なので、初女さんの代わりに私が言葉を伝えると言う催しをしました。
人と人との縁を結ぶと言うことでお結びと、初女さんは言っていました。
はじめておあいしたのは2000年の冬でした。
龍村仁監督の『地球交響曲 第二番』という映画に初女さんが登場していて映画を通して知っていましたが、監督から誘ってもらって会いに行きました。
青森に降りたち、吹雪いていた中を教会にいき、鐘を鳴らして迎えてくれジーンときました。
ご飯を食べることになり、初女さんが一人ひとり挨拶に来ました。
とっても優しい方ですが、凄く迫力のある方だと思いました。
何故かこの人にちゃんと自分を出さなかったら永遠にこの人とは繋がらないと、切羽詰まった気持ちになりました。
急に何故か「私の兄は引き込もりの末に、餓死して亡くなってるんです。」といきなり言ってしまいました。(周りはしらっとしました。)
微動だにせず、「そうですか、たいへんでしたね。」と言われました。
その場はそれで終わった。
その後、急に私の方を向いて「あなたは私の娘になりましょう。」といったんです。
どういうことだろうと吃驚しました。
私の家は問題を抱えていて、父はアルコール依存症で酒乱、家庭内暴力もあり、自分も結婚したが娘に伝えられる母親の味は私にはないと思っていて、家事もあまりやらずに働いて生きてきて、このひとに娘になって色々勉強したいと思いました。
父は特攻の予科練に行っていて出陣の前に戦争が終わって帰って来てから酒を飲むようになったようです。
父と兄の仲はとっても悪かったです。(子供のころから殴られていました。)
高校卒業と同時に、身の危険を感じる様だったので、自分の好きなように生きたいと思って自立しました。
1995年に兄は亡くなりました。(42歳、兄は8歳上でした。)
それまで就職したり辞めたりを繰り返すうちに、働けない時間がどんどん長くなって、亡くなる10年前には完全な引きこもり状態になり家から一歩も出なくなりました。
両親と住んでいるといつかだれか死んでしまうよ、誰かを殺しちゃうよ、そういう前に私のところに来るようにと説得して、しばらくは私と一緒に住んでいました。
しかし、或る日突然兄が居なくなってしまった。
父に電話をしたら、あいつには手切れ金100万円をやって親子の縁を切ったと言いました。
兄は埼玉県にアパートを借りて、或る時点で生きるのをやめてしまった様です。
衰弱死していました。
兄が亡くなってから5年後に初女さんに会いました。
それを告白しましたが、それが初女さんの力だと思います。
それで「あなたは私の娘になりましょう。」と言われた訳です。
朝ご飯を一緒に作りました。
釜をじーっと見ていて、水加減を見ていて、一滴、二滴と足すんです。
元気に炊きあがっていて、噛んでもおいしいし凄いと思いました。
滞在していたのはたったの2日でした、料理の仕方が厳しかったです。
野菜に優しくするように言われて、急がす丁寧に丁寧にやりなさいと言われました。
普通の家庭料理ですが、身体にしみ込んでくるんです、不思議だなあと思いました。
自慢ではないですが、わたしはガサツなんです。
帰るときに、手を取って「言葉を越えてね」と私の耳に囁いたんです。
「えっ」と聞きかえしたが、「うん」とうなずいて背中を押された。
考えたが、どういうことかわからなかった。
寡黙な方で、ただただ人の話を聞く方でボソボソと話すだけでした。
10年かかってようやく判りました。
「人は行為を通して何かをしていかなければいけない。
出来るかどうかは問題ではなくて、やるかどうか。」と言う事。
私はあなたに言葉では教えられないけれど、自分のやってることを見て、わたしに学んでほしいと願っていた、と思いました。
「する」、という覚悟を決めること。
私は贈り物をもらうと、ガサツに包みを開けてよく見ないのに嬉しいと言って表現してしまうが、私が初女さんにハンカチをプレゼントした時、「有難うございます。」といってそうーっと、そうーっとパッケージを開いて「ワー」と言って、手触りを感じながら「こんな素敵なものを有難うございます。」と言うんです。
初女さんに手を握られると、本当にフワーッと包み込むんです、それが響くんです。
漬けものは大好きで亡くなる前の年に遊びにいらっしゃいといって、(初女さんはめったに人を自分から呼ぶと言うことはない)、よっぽどのことかなと思って伺いました。
糠どこを作っていて、あなたも作ったらいいと言われました。
「色んな菌が糠どこの中で、助け合って野菜のいいものを一杯引き出してきて、あれが生物多様性と言うことだと思うの」と言って、「じゃあ糠どこを観に行きましょう」と言われて今回は糠どこを見せてもらう為に呼ばれたのか、と思いました。
糠どこをかき混ぜてきゅうりの漬け方を教わって来ました。
糠どこの糠を食べたが、信じられないほど美味しかったです。
なにもかも丁寧だと思いましたが、でも初女さんから言わせるとまだまだだと言っていました。
糠も分けて頂きましたが、でもうまくいかず駄目にさせてしまいました。
まだいろいろなことを初女さんみたいにできないとは思っていましたが、初女さんが亡くなってしまったので、ここはもうやろうとイベントを行いました。
最新作は4年かけて書きましたが、オウム真理教の地下鉄サリン事件を題材に「逆さにつるされた男」と云う小説を書きました。
地下鉄サリン事件の実行犯で確定死刑囚Yさんが、私の本の読者で10年ほど前から文通、面会を通して交流しています。
会ってみると感じのいいかたでどうしてこんないい人が事件を起こしたのか素朴な疑問でした。
手紙のやり取りをするようになって、死刑が確定して、連絡が取れなくなると思ったら、正式な外部拘留者になってほしいと言われて、悩んだがその後も続ける事にしました。
2011年に東日本大震災が起きて、逃げていたオウム真理教の関係者が出頭して、こんな大事が起きているのに自分が逃げているわけにはいかないと言うようなコメントが有った。
裁判を傍聴することで、もっと色々な人に知ってほしいと思うようになり、執筆を始めました。
自分にはテーマが大きすぎると思いながら執筆をつづけて、初女さんが亡くなってその後、原稿をYさんに読んでもらったら、動揺してYさんの具合が悪くなってしまった。
本を出すのをやめようと思ったら、夢で初女さんが出てきて、「どうしたあんなに悩みを抱えている人の話をいつも長い時間聞いていられるのか」と私が聞いたら、「私はあんまり良く聞いてないのよ」、「私は信じてるの、信じて待っているだけなの、その人が自分の力でたち直るのを」と云うんです。
Yさんは落ち着かれて、思うように書いて、出版して下さいと言われて、出版することにしました。
「愛と忍耐」 愛は語れると思うが、初女さんは忍耐の人と言われていて、忍耐とは信じて待つことなんだとはじめて判りました。
今年10月東京都内で命のエール、「初女お母さんから娘たちへ」というイベントが開かれました。
初女お母さんと言うのは昨年2月に94歳で亡くなられた佐藤 初女(さとう はつめ)さんのことです。
様々な悩みを抱えて訪れる人々の心に耳をかたむけ、自然の食材を生かした心のこもった手料理で心も体も癒し、日本のマザー・テレサと言われた社会活動家です。
イベントを主催した作家の田口さんも初女さんと向き合って生きる力を頂いた一人です。
田口さんに初女さんから貰った生きる力とその後の活動について伺います。
「森のイスキア」と云う小さな教会の様なところで、昨年2月に94歳で亡くなられた佐藤初女さんの生き方と、講演と初女さんがたいせつにされていたおむすびのむすび方を伝えるイベントでした。
おむすびに代表される自然からの恵みの料理で色んな方の心をいやされた方です。
一日目は初女さんのむすび方の講習会、2日目は私たちがむすんで、初女さんの言葉を聞いていただく、3日目は10/3で私と初女さんの誕生日なので、初女さんの代わりに私が言葉を伝えると言う催しをしました。
人と人との縁を結ぶと言うことでお結びと、初女さんは言っていました。
はじめておあいしたのは2000年の冬でした。
龍村仁監督の『地球交響曲 第二番』という映画に初女さんが登場していて映画を通して知っていましたが、監督から誘ってもらって会いに行きました。
青森に降りたち、吹雪いていた中を教会にいき、鐘を鳴らして迎えてくれジーンときました。
ご飯を食べることになり、初女さんが一人ひとり挨拶に来ました。
とっても優しい方ですが、凄く迫力のある方だと思いました。
何故かこの人にちゃんと自分を出さなかったら永遠にこの人とは繋がらないと、切羽詰まった気持ちになりました。
急に何故か「私の兄は引き込もりの末に、餓死して亡くなってるんです。」といきなり言ってしまいました。(周りはしらっとしました。)
微動だにせず、「そうですか、たいへんでしたね。」と言われました。
その場はそれで終わった。
その後、急に私の方を向いて「あなたは私の娘になりましょう。」といったんです。
どういうことだろうと吃驚しました。
私の家は問題を抱えていて、父はアルコール依存症で酒乱、家庭内暴力もあり、自分も結婚したが娘に伝えられる母親の味は私にはないと思っていて、家事もあまりやらずに働いて生きてきて、このひとに娘になって色々勉強したいと思いました。
父は特攻の予科練に行っていて出陣の前に戦争が終わって帰って来てから酒を飲むようになったようです。
父と兄の仲はとっても悪かったです。(子供のころから殴られていました。)
高校卒業と同時に、身の危険を感じる様だったので、自分の好きなように生きたいと思って自立しました。
1995年に兄は亡くなりました。(42歳、兄は8歳上でした。)
それまで就職したり辞めたりを繰り返すうちに、働けない時間がどんどん長くなって、亡くなる10年前には完全な引きこもり状態になり家から一歩も出なくなりました。
両親と住んでいるといつかだれか死んでしまうよ、誰かを殺しちゃうよ、そういう前に私のところに来るようにと説得して、しばらくは私と一緒に住んでいました。
しかし、或る日突然兄が居なくなってしまった。
父に電話をしたら、あいつには手切れ金100万円をやって親子の縁を切ったと言いました。
兄は埼玉県にアパートを借りて、或る時点で生きるのをやめてしまった様です。
衰弱死していました。
兄が亡くなってから5年後に初女さんに会いました。
それを告白しましたが、それが初女さんの力だと思います。
それで「あなたは私の娘になりましょう。」と言われた訳です。
朝ご飯を一緒に作りました。
釜をじーっと見ていて、水加減を見ていて、一滴、二滴と足すんです。
元気に炊きあがっていて、噛んでもおいしいし凄いと思いました。
滞在していたのはたったの2日でした、料理の仕方が厳しかったです。
野菜に優しくするように言われて、急がす丁寧に丁寧にやりなさいと言われました。
普通の家庭料理ですが、身体にしみ込んでくるんです、不思議だなあと思いました。
自慢ではないですが、わたしはガサツなんです。
帰るときに、手を取って「言葉を越えてね」と私の耳に囁いたんです。
「えっ」と聞きかえしたが、「うん」とうなずいて背中を押された。
考えたが、どういうことかわからなかった。
寡黙な方で、ただただ人の話を聞く方でボソボソと話すだけでした。
10年かかってようやく判りました。
「人は行為を通して何かをしていかなければいけない。
出来るかどうかは問題ではなくて、やるかどうか。」と言う事。
私はあなたに言葉では教えられないけれど、自分のやってることを見て、わたしに学んでほしいと願っていた、と思いました。
「する」、という覚悟を決めること。
私は贈り物をもらうと、ガサツに包みを開けてよく見ないのに嬉しいと言って表現してしまうが、私が初女さんにハンカチをプレゼントした時、「有難うございます。」といってそうーっと、そうーっとパッケージを開いて「ワー」と言って、手触りを感じながら「こんな素敵なものを有難うございます。」と言うんです。
初女さんに手を握られると、本当にフワーッと包み込むんです、それが響くんです。
漬けものは大好きで亡くなる前の年に遊びにいらっしゃいといって、(初女さんはめったに人を自分から呼ぶと言うことはない)、よっぽどのことかなと思って伺いました。
糠どこを作っていて、あなたも作ったらいいと言われました。
「色んな菌が糠どこの中で、助け合って野菜のいいものを一杯引き出してきて、あれが生物多様性と言うことだと思うの」と言って、「じゃあ糠どこを観に行きましょう」と言われて今回は糠どこを見せてもらう為に呼ばれたのか、と思いました。
糠どこをかき混ぜてきゅうりの漬け方を教わって来ました。
糠どこの糠を食べたが、信じられないほど美味しかったです。
なにもかも丁寧だと思いましたが、でも初女さんから言わせるとまだまだだと言っていました。
糠も分けて頂きましたが、でもうまくいかず駄目にさせてしまいました。
まだいろいろなことを初女さんみたいにできないとは思っていましたが、初女さんが亡くなってしまったので、ここはもうやろうとイベントを行いました。
最新作は4年かけて書きましたが、オウム真理教の地下鉄サリン事件を題材に「逆さにつるされた男」と云う小説を書きました。
地下鉄サリン事件の実行犯で確定死刑囚Yさんが、私の本の読者で10年ほど前から文通、面会を通して交流しています。
会ってみると感じのいいかたでどうしてこんないい人が事件を起こしたのか素朴な疑問でした。
手紙のやり取りをするようになって、死刑が確定して、連絡が取れなくなると思ったら、正式な外部拘留者になってほしいと言われて、悩んだがその後も続ける事にしました。
2011年に東日本大震災が起きて、逃げていたオウム真理教の関係者が出頭して、こんな大事が起きているのに自分が逃げているわけにはいかないと言うようなコメントが有った。
裁判を傍聴することで、もっと色々な人に知ってほしいと思うようになり、執筆を始めました。
自分にはテーマが大きすぎると思いながら執筆をつづけて、初女さんが亡くなってその後、原稿をYさんに読んでもらったら、動揺してYさんの具合が悪くなってしまった。
本を出すのをやめようと思ったら、夢で初女さんが出てきて、「どうしたあんなに悩みを抱えている人の話をいつも長い時間聞いていられるのか」と私が聞いたら、「私はあんまり良く聞いてないのよ」、「私は信じてるの、信じて待っているだけなの、その人が自分の力でたち直るのを」と云うんです。
Yさんは落ち着かれて、思うように書いて、出版して下さいと言われて、出版することにしました。
「愛と忍耐」 愛は語れると思うが、初女さんは忍耐の人と言われていて、忍耐とは信じて待つことなんだとはじめて判りました。
2017年12月5日火曜日
玉地任子(医師) ・人生を全うさせる“希望の力”
玉地任子(医師) ・人生を全うさせる“希望の力”
73歳、精神病院で勤務した経験から、末期がん患者の心のケアの必要性を感じホスピスで働き始めました。
やがて患者が自分の家で過ごす時間を大切にしたいと、平成6年当時は珍しかった在宅ホスピスをスタートさせます。
しかし、仕事に打ち込んでいた時に夫が末期がんと診断されます。
自身もがん患者の家族となり、妻そして医師として支え続け夫を看取った後、再び医師として患者の心のケアに取り組んでいます。
自分の夫を含めて、がん患者さん200人のがん患者さんを看取りました。
19年やってきたクリニックを閉じました。
前から夫がスキルス胃がんで肝臓に転移していたことが分かった時点で、もうそれは決めていたことです。
最後の患者が自分の夫になるわけですから、複雑な気持ちもありました。
実際夫が亡くなって、もやもやした感じがよどんでしまい、一人になった時に本当に自分の夢の終わりがこれでいいのかと思って、もう一度がん患者さんに関われたらいいなあと思うようになりました。
大事な夫を亡くした遺族として、前よりももっと深く患者さん、家族に共感できるのではないかと、そんな気持ちがだんだん強くなって横浜のクリニックに伺いました。
そこには治療法が他にない、再発して何かやりたい、そういうようながん患者さんが多くこられています。
医師が患者さん、家族と向き合って点滴を40分位してますが、その間に患者さん、家族の話をじっくり聞くようにしています。
治療の副作用、不安、死ぬのが怖いとか、痛みのことなど様々ですが、それを聞いて、助言できることは助言すると言う様な事をやっています。
主治医の先生とのコミュニケーションに悩んでいることのアドバイスなどをしています。
ここに来る前と帰る時では心に希望が持てるような気がしますと、患者さんからは言われます。
希望は生きる力だと思います。
医学は日進月歩なので希望持ちましょう、頑張りましょうと声かけをやっています。
栃木県宇都宮市生まれ、4歳の時に兄は小学校の一年生で、頭が痛いと言って帰って来て一日で亡くなってしまいました。
母が肩を震わせて泣いている姿を見てかわいそうで怖くて、強烈な印象として残りました。
野口英世の偉人伝を読んで、父に野口英世の生家に連れて行ってもらいました。
大学は名古屋市立大学医学部に進みました。
精神科の臨床実習に各科回りますが、患者さんの話を聞いて、言葉だけで患者さんの苦しみを解きほぐす精神科の教授の仕事に魅せられてすごいと思いました。
来た時と診察室を出る時では全然違って、言葉のマジシャンみたいに感じ、迷いなく精神科に進みました。
ある女性の患者さんが診察室に車いすで来られて、他の整形外科などに行っても原因が判らなかった。
話を聞いていて長い間お姑さんを看取った後で、歩けなくなったということだったが、色々な話を聞いて、帰る時にはその人は立てたんです、そういうことがありました。
夫と結婚して、北海道の精神病院に勤めました。
27歳の時に運命の本に出会いました。
「死ぬ瞬間」というタイトルでアメリカの精神科の女医、エリザベス・キューブラー・ロス(Elisabeth Kubler-Ross)という方が、がんの末期患者さんにインタビューしてまとめた本です。
序文「絶望的な病人に接することにためらうのではなく、進んで彼らに近づき彼らの最後の幾時間かの間、より多く彼らを助けるようにさせられればと望むのみである」、これは私の進む道だと思いました。(昭和47年の時)
このころは日本ではほとんどがん患者さんには告知されていませんでしたが、向こうでは本当の病名を伝えて心のケアまでしていることに心を打たれました。
心のケアを出来るような精神科の医者になりたいと大きな夢を持ちましたが、そんな時代はなかなか来なかった。
昭和50年に神奈川に移って来ましたが、患者さんに本当の事を伝えて心のケアと言うような時代ではなかった。
昭和57年日本で初めて浜松三方が原病院にホスピスが出来て研修させてもらいました。
絶対必要だと思いました。
埼玉県上尾で宗教にとらわれないホスピスが出来て研修させたもらいました。
平成4年になってホスピス病棟が出来て、自分の夢のスタートとなりました。(ホスピス病棟長)
当時はまだホスピスと云う言葉が知られていなくて、スタッフもなかなか育てられない状況でした
厚木で理想的なホスピスを作ったらどうかとのオーナーからの誘いがあり、平成6年に「ホスピスヒューマンネットワーク夢クリニック」を開業します。(元厚生病院のオーナーだった人)
そこの市長と二人で立ち上げました。
開業して2カ月たたないうちにオーナーの資金繰りが失敗して、後は二人でやってねと言われてしまいました。
いろいろ見てきたが、在宅の患者さんの表情は全然違います。
患者さんでも家では食事、洗濯などをして凄いと思いました。
在宅ホスピスで頑張ろうと市長と話をしました。
当時は在宅ホスピスはなかなか理解してもらえなかった。(誤解偏見があった)
厳しい状況の中、夫に支えてもらえたから出来ました。
夫は元気で東京の病院に通っていましたが、平成23年5月、お寿司を食べていたら、喉になにかつかえる様で苦しいと言った4日後に、スキルス胃がんで肝臓に転移していると言われてしまいました。
必死に出来ることはしないといけないと思いました。(在宅治療)
夫は9月に亡くなるが7月まで仕事をしていました。
昼夜逆転があり、寝ようと思う頃夫が目が覚めて、いらいらしたり背中さすったり足を揉んだりして、私を寝させてくれませんでした。
穏やかだった人が凄い形相になったり、耐えられなくなり、亡くなる前の2カ月は凄く苦しみました。
悩みながら(もやもや感があり)も穏やかな別れをしました。
がんと分かった後も、主人は仕事をしている時には何ともないように患者に優しく元気に仕事をしていて、吃驚しました。
70代の大腸がんの女性、18歳まで北京で育つが、私が出会ったころは壁伝いに歩いているような人だったが、中国の事になると元気にしゃべり続けるのでもう一度中国を見せてあげようと思って家族と同伴して中国に行って、昔住んでいたあたりを車いすに乗せて見てきたがとっても喜んで、日本に戻って自分ではもうできないと中断していた中国文学の翻訳を3冊目をやり遂げて旅立っていかれました。
希望を持つ、楽しい事をすると言うことは患者さんにとってはすごく大切です。
余命3カ月と言われた40代の肺がんの男性、在宅が凄く気にいって、病院、看護学校での講師にして下さる処を探して、彼が在宅の素晴らしさを語ってくれて、生きがいになって3か月が2年以上生きられました。
追い込まれた患者さんでも心ときめいたり、楽しかったことなどあると思うので、小さな幸せ探しみたいなことも私の仕事だと思っています。
余命短いから何もできないと言うような人でも、まだやることがある、まだ楽しめることがあると言うと、なんか人って蝋燭の炎の様に、なえた心が膨らんでぱっと輝く時があるんです。
人間の命って凄いと感動させられ、わたしも勇気をもらいます。
がんの末期状態の人に関して、まだ楽しむことがある、まだ出来ることがあると言うことを知った時に、活力が出てくるのでもうダメと思わない、何か希望(小さな希望でいい)を探してほしい。
73歳、精神病院で勤務した経験から、末期がん患者の心のケアの必要性を感じホスピスで働き始めました。
やがて患者が自分の家で過ごす時間を大切にしたいと、平成6年当時は珍しかった在宅ホスピスをスタートさせます。
しかし、仕事に打ち込んでいた時に夫が末期がんと診断されます。
自身もがん患者の家族となり、妻そして医師として支え続け夫を看取った後、再び医師として患者の心のケアに取り組んでいます。
自分の夫を含めて、がん患者さん200人のがん患者さんを看取りました。
19年やってきたクリニックを閉じました。
前から夫がスキルス胃がんで肝臓に転移していたことが分かった時点で、もうそれは決めていたことです。
最後の患者が自分の夫になるわけですから、複雑な気持ちもありました。
実際夫が亡くなって、もやもやした感じがよどんでしまい、一人になった時に本当に自分の夢の終わりがこれでいいのかと思って、もう一度がん患者さんに関われたらいいなあと思うようになりました。
大事な夫を亡くした遺族として、前よりももっと深く患者さん、家族に共感できるのではないかと、そんな気持ちがだんだん強くなって横浜のクリニックに伺いました。
そこには治療法が他にない、再発して何かやりたい、そういうようながん患者さんが多くこられています。
医師が患者さん、家族と向き合って点滴を40分位してますが、その間に患者さん、家族の話をじっくり聞くようにしています。
治療の副作用、不安、死ぬのが怖いとか、痛みのことなど様々ですが、それを聞いて、助言できることは助言すると言う様な事をやっています。
主治医の先生とのコミュニケーションに悩んでいることのアドバイスなどをしています。
ここに来る前と帰る時では心に希望が持てるような気がしますと、患者さんからは言われます。
希望は生きる力だと思います。
医学は日進月歩なので希望持ちましょう、頑張りましょうと声かけをやっています。
栃木県宇都宮市生まれ、4歳の時に兄は小学校の一年生で、頭が痛いと言って帰って来て一日で亡くなってしまいました。
母が肩を震わせて泣いている姿を見てかわいそうで怖くて、強烈な印象として残りました。
野口英世の偉人伝を読んで、父に野口英世の生家に連れて行ってもらいました。
大学は名古屋市立大学医学部に進みました。
精神科の臨床実習に各科回りますが、患者さんの話を聞いて、言葉だけで患者さんの苦しみを解きほぐす精神科の教授の仕事に魅せられてすごいと思いました。
来た時と診察室を出る時では全然違って、言葉のマジシャンみたいに感じ、迷いなく精神科に進みました。
ある女性の患者さんが診察室に車いすで来られて、他の整形外科などに行っても原因が判らなかった。
話を聞いていて長い間お姑さんを看取った後で、歩けなくなったということだったが、色々な話を聞いて、帰る時にはその人は立てたんです、そういうことがありました。
夫と結婚して、北海道の精神病院に勤めました。
27歳の時に運命の本に出会いました。
「死ぬ瞬間」というタイトルでアメリカの精神科の女医、エリザベス・キューブラー・ロス(Elisabeth Kubler-Ross)という方が、がんの末期患者さんにインタビューしてまとめた本です。
序文「絶望的な病人に接することにためらうのではなく、進んで彼らに近づき彼らの最後の幾時間かの間、より多く彼らを助けるようにさせられればと望むのみである」、これは私の進む道だと思いました。(昭和47年の時)
このころは日本ではほとんどがん患者さんには告知されていませんでしたが、向こうでは本当の病名を伝えて心のケアまでしていることに心を打たれました。
心のケアを出来るような精神科の医者になりたいと大きな夢を持ちましたが、そんな時代はなかなか来なかった。
昭和50年に神奈川に移って来ましたが、患者さんに本当の事を伝えて心のケアと言うような時代ではなかった。
昭和57年日本で初めて浜松三方が原病院にホスピスが出来て研修させてもらいました。
絶対必要だと思いました。
埼玉県上尾で宗教にとらわれないホスピスが出来て研修させたもらいました。
平成4年になってホスピス病棟が出来て、自分の夢のスタートとなりました。(ホスピス病棟長)
当時はまだホスピスと云う言葉が知られていなくて、スタッフもなかなか育てられない状況でした
厚木で理想的なホスピスを作ったらどうかとのオーナーからの誘いがあり、平成6年に「ホスピスヒューマンネットワーク夢クリニック」を開業します。(元厚生病院のオーナーだった人)
そこの市長と二人で立ち上げました。
開業して2カ月たたないうちにオーナーの資金繰りが失敗して、後は二人でやってねと言われてしまいました。
いろいろ見てきたが、在宅の患者さんの表情は全然違います。
患者さんでも家では食事、洗濯などをして凄いと思いました。
在宅ホスピスで頑張ろうと市長と話をしました。
当時は在宅ホスピスはなかなか理解してもらえなかった。(誤解偏見があった)
厳しい状況の中、夫に支えてもらえたから出来ました。
夫は元気で東京の病院に通っていましたが、平成23年5月、お寿司を食べていたら、喉になにかつかえる様で苦しいと言った4日後に、スキルス胃がんで肝臓に転移していると言われてしまいました。
必死に出来ることはしないといけないと思いました。(在宅治療)
夫は9月に亡くなるが7月まで仕事をしていました。
昼夜逆転があり、寝ようと思う頃夫が目が覚めて、いらいらしたり背中さすったり足を揉んだりして、私を寝させてくれませんでした。
穏やかだった人が凄い形相になったり、耐えられなくなり、亡くなる前の2カ月は凄く苦しみました。
悩みながら(もやもや感があり)も穏やかな別れをしました。
がんと分かった後も、主人は仕事をしている時には何ともないように患者に優しく元気に仕事をしていて、吃驚しました。
70代の大腸がんの女性、18歳まで北京で育つが、私が出会ったころは壁伝いに歩いているような人だったが、中国の事になると元気にしゃべり続けるのでもう一度中国を見せてあげようと思って家族と同伴して中国に行って、昔住んでいたあたりを車いすに乗せて見てきたがとっても喜んで、日本に戻って自分ではもうできないと中断していた中国文学の翻訳を3冊目をやり遂げて旅立っていかれました。
希望を持つ、楽しい事をすると言うことは患者さんにとってはすごく大切です。
余命3カ月と言われた40代の肺がんの男性、在宅が凄く気にいって、病院、看護学校での講師にして下さる処を探して、彼が在宅の素晴らしさを語ってくれて、生きがいになって3か月が2年以上生きられました。
追い込まれた患者さんでも心ときめいたり、楽しかったことなどあると思うので、小さな幸せ探しみたいなことも私の仕事だと思っています。
余命短いから何もできないと言うような人でも、まだやることがある、まだ楽しめることがあると言うと、なんか人って蝋燭の炎の様に、なえた心が膨らんでぱっと輝く時があるんです。
人間の命って凄いと感動させられ、わたしも勇気をもらいます。
がんの末期状態の人に関して、まだ楽しむことがある、まだ出来ることがあると言うことを知った時に、活力が出てくるのでもうダメと思わない、何か希望(小さな希望でいい)を探してほしい。
2017年12月4日月曜日
本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・山県有朋【近代日本150年 明治の群像】
本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・山県有朋【近代日本150年 明治の群像】
講談師 神田蘭
山県有朋は旧日本陸軍創設者、タカ派の軍人政治家と言うイメージが強いが、なんとなく悪そうな感じがするが。
講談に依る紹介。
明治新政府は海外の列強諸国に追いつけ追い越せと、富国強兵をスローガンに掲げます。
政府は帝国陸軍を作ると徴兵制を行う。
この制度の基本を作ったのが大村益次郎、実現させたのが山県有朋。
1838年長州藩の足軽よりももっと低い身分の家に生まれる。
尊王攘夷の影響を受けて松下村塾に入門、高杉晋作が騎兵隊を作ると、山県有朋は下級武士が頭角を現すには騎兵隊しかないと思う。
高杉晋作に気にいられて騎兵隊で活躍して行く。
その後、4カ国連合艦隊と長州藩が戦った下関戦争で、武器の必要性と軍隊の必要性を痛感し、尊王攘夷論から開国論に変わっていった。
その後討幕へ向け沢山の武功をあげ出世して行く。
明治2年ヨーロッパに渡り各国の軍事制度を視察して回る。
帰国後、軍制改革を行い徴兵制を決行。
徴兵制をおこなうにあたり、沢山の反対に会ったがこの時、協力してくれたのが西郷隆盛。
西郷隆盛のもとで山県有朋は明治新政府でも出世して行く。
西郷隆盛は新政府と反りが合わなくなり、鹿児島に下野、部下とともに西南戦争を起こすが、西郷隆盛を制圧する新政府軍の指揮を執ったのが山県有朋。
徴兵制導入に協力してくれた大恩人を責めなくてはいけなくなる、という運命。
立てこもる西郷隆盛に一通の手紙を送る。
「あなたとこうして戦うことになるとは思わなかった。
今回の戦があなたの本心でないことを知っています。
あなたの偉大さは十分に証明されました。
これ以上無駄な血を流さないためにも自ら命を断つ決断をしてください」
西南戦争が終結、西郷さんの首を調べた山県はハラハラ涙を流しながら、伸びた髭をなでたそうです。
(山県は85歳まで生きる)
司馬遼太郎が山県を嫌っていた、性格が明るくないのがいけないのかも。
(笑顔の写真がない)
伊藤博文は明るいが、山県は陰気な感じ。
短歌を詠んでいる。
天保9年(1838年)萩の城下で生まれる。
槍が得意だった。
騎兵隊に入るが、ここがチャンスではないのかと思ったのかもしれない。
軍事の才能を司馬はあまり買っていない。
山県は「富国強兵」の強兵の部分を築き上げた。
明治2年にヨーロッパに行くが、普仏戦争(プロシャとフランス)の直前だった。
フランスが破れて、帝政が倒れる。(ナポレオン3世が退位に追い込まれる。)
プロシャ(ドイツ)の軍制を山県が取り入れて行く。
明治6年(36歳)陸軍卿になる。
政治を行う軍人、参謀タイプなのかもしれない。
明治に入っても、ロシア、イギリス、ドイツ、アメリカなど欧米列強が虎視眈々と狙っている状況の中で、軍隊をもたないと独立は保てないとの信念だったと思うが、説明責任を果たしているのかと思うと、果たしていないように感じる。
明治10年西南戦争
城山陥落の時に山県が和歌を詠む。
「山もさけ海もあせんとみし空の. なごりやいずら秋の夜の月」
源実朝の有名な和歌
「山は裂け海は浅せなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」
を踏まえている。
山が裂けてしまうようなとんでもない事態、西郷さんが亡くなってしまったが、でも秋の空には月が輝いている、と言うような意味合い。
人間のはかなさを詠んでいると思う。
参謀本部長になる、天皇に直結している。
明治23年には陸軍大将になる。
明治22年三代目内閣総理大臣になる。(初代伊藤博文、二代黒田清隆)
演説で「主権線、国境のみならず利益線、朝鮮半島の確保のため軍事予算の拡大が必要」、と説いている。
後々の拡大路線に繋がってゆく。
朝鮮半島を植民地化した時の損得勘定が間違っていたのではないかという学説がある。
利益線の考え方自体が正しかったのか、疑問視する考え方がある。
朝鮮半島、満州も、と言うふうになり、日本の軍部の理屈がどんどん進展してゆく。
列強を含めた時代の波もあったんだろうと思います。(日本は後追い)
朝鮮、中国と手を結び列強と対抗しようという考え方もあったが、山県は甘いだろうと跳ね付けただろうと言う気がします。
日清日露戦争
人の配置、兵站などを考えるのは山県は上手かったと思う。(後方統括)
明治42年伊藤博文が暗殺されてしまい、権力が集中して行く。
その時に詠んだ和歌
「語りあいてふくしし人はさきだちぬ今より後の世をいかにせむ」
友を亡くした後、この世をどうしていったらいいのか、という内容だが目の上のたんこぶがなくなったので、自分のやる方向は確固としたものになったのでは?
天皇を後ろ盾に絶対的権力を掴んでゆく。
明治天皇、大正天皇にも嫌われている様な事がいろいろな本を読むと書いてある。
山県自身が愛情を持って天皇陛下に接している感じがしない、利用する、そこが伊藤との違いがある。
山県の子分、桂太郎が亡くなった時の和歌。(大正2年 山県76歳)
「したしきもうときも友は先立ちてながらふるみぞかなしかりける」(?)
親しき友は判るが、友人でうとい思うと言うところが、この人の内面が出てしまったのかなあとも思います。
当時50歳前の時代なので85歳まで生きたのは、めちゃめちゃ長いです。
7人子供がいたが、一人の女性を除いて全て亡くなってしまった。妻も亡くす。
「あかの水注ぎながらに思うかな昨日はともにたむけしものを」(?)
3男が亡くなり奥さんとともに悲痛な思いで、又子供を亡くしてしまったと言って見送ったことが、又嘘のように奥さんが亡くなってしまった、これは切ないですね。
奥さんが亡くなってから25回忌にも歌を詠んでいる。
「かたらいし事は昨日の心地して過ぎし月日におどろかれぬる」(?)
大正11年(1922年)に亡くなる。(85歳)
国葬が行われたが、さびしかった。(人望がなかった様に思う)
普請道楽、造園好きとしても知られる。
東京の椿山荘、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園は、山縣が自ら想を練り岩本勝五郎や7代目小川治兵衛をして築かせたものである。
講談師 神田蘭
山県有朋は旧日本陸軍創設者、タカ派の軍人政治家と言うイメージが強いが、なんとなく悪そうな感じがするが。
講談に依る紹介。
明治新政府は海外の列強諸国に追いつけ追い越せと、富国強兵をスローガンに掲げます。
政府は帝国陸軍を作ると徴兵制を行う。
この制度の基本を作ったのが大村益次郎、実現させたのが山県有朋。
1838年長州藩の足軽よりももっと低い身分の家に生まれる。
尊王攘夷の影響を受けて松下村塾に入門、高杉晋作が騎兵隊を作ると、山県有朋は下級武士が頭角を現すには騎兵隊しかないと思う。
高杉晋作に気にいられて騎兵隊で活躍して行く。
その後、4カ国連合艦隊と長州藩が戦った下関戦争で、武器の必要性と軍隊の必要性を痛感し、尊王攘夷論から開国論に変わっていった。
その後討幕へ向け沢山の武功をあげ出世して行く。
明治2年ヨーロッパに渡り各国の軍事制度を視察して回る。
帰国後、軍制改革を行い徴兵制を決行。
徴兵制をおこなうにあたり、沢山の反対に会ったがこの時、協力してくれたのが西郷隆盛。
西郷隆盛のもとで山県有朋は明治新政府でも出世して行く。
西郷隆盛は新政府と反りが合わなくなり、鹿児島に下野、部下とともに西南戦争を起こすが、西郷隆盛を制圧する新政府軍の指揮を執ったのが山県有朋。
徴兵制導入に協力してくれた大恩人を責めなくてはいけなくなる、という運命。
立てこもる西郷隆盛に一通の手紙を送る。
「あなたとこうして戦うことになるとは思わなかった。
今回の戦があなたの本心でないことを知っています。
あなたの偉大さは十分に証明されました。
これ以上無駄な血を流さないためにも自ら命を断つ決断をしてください」
西南戦争が終結、西郷さんの首を調べた山県はハラハラ涙を流しながら、伸びた髭をなでたそうです。
(山県は85歳まで生きる)
司馬遼太郎が山県を嫌っていた、性格が明るくないのがいけないのかも。
(笑顔の写真がない)
伊藤博文は明るいが、山県は陰気な感じ。
短歌を詠んでいる。
天保9年(1838年)萩の城下で生まれる。
槍が得意だった。
騎兵隊に入るが、ここがチャンスではないのかと思ったのかもしれない。
軍事の才能を司馬はあまり買っていない。
山県は「富国強兵」の強兵の部分を築き上げた。
明治2年にヨーロッパに行くが、普仏戦争(プロシャとフランス)の直前だった。
フランスが破れて、帝政が倒れる。(ナポレオン3世が退位に追い込まれる。)
プロシャ(ドイツ)の軍制を山県が取り入れて行く。
明治6年(36歳)陸軍卿になる。
政治を行う軍人、参謀タイプなのかもしれない。
明治に入っても、ロシア、イギリス、ドイツ、アメリカなど欧米列強が虎視眈々と狙っている状況の中で、軍隊をもたないと独立は保てないとの信念だったと思うが、説明責任を果たしているのかと思うと、果たしていないように感じる。
明治10年西南戦争
城山陥落の時に山県が和歌を詠む。
「山もさけ海もあせんとみし空の. なごりやいずら秋の夜の月」
源実朝の有名な和歌
「山は裂け海は浅せなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」
を踏まえている。
山が裂けてしまうようなとんでもない事態、西郷さんが亡くなってしまったが、でも秋の空には月が輝いている、と言うような意味合い。
人間のはかなさを詠んでいると思う。
参謀本部長になる、天皇に直結している。
明治23年には陸軍大将になる。
明治22年三代目内閣総理大臣になる。(初代伊藤博文、二代黒田清隆)
演説で「主権線、国境のみならず利益線、朝鮮半島の確保のため軍事予算の拡大が必要」、と説いている。
後々の拡大路線に繋がってゆく。
朝鮮半島を植民地化した時の損得勘定が間違っていたのではないかという学説がある。
利益線の考え方自体が正しかったのか、疑問視する考え方がある。
朝鮮半島、満州も、と言うふうになり、日本の軍部の理屈がどんどん進展してゆく。
列強を含めた時代の波もあったんだろうと思います。(日本は後追い)
朝鮮、中国と手を結び列強と対抗しようという考え方もあったが、山県は甘いだろうと跳ね付けただろうと言う気がします。
日清日露戦争
人の配置、兵站などを考えるのは山県は上手かったと思う。(後方統括)
明治42年伊藤博文が暗殺されてしまい、権力が集中して行く。
その時に詠んだ和歌
「語りあいてふくしし人はさきだちぬ今より後の世をいかにせむ」
友を亡くした後、この世をどうしていったらいいのか、という内容だが目の上のたんこぶがなくなったので、自分のやる方向は確固としたものになったのでは?
天皇を後ろ盾に絶対的権力を掴んでゆく。
明治天皇、大正天皇にも嫌われている様な事がいろいろな本を読むと書いてある。
山県自身が愛情を持って天皇陛下に接している感じがしない、利用する、そこが伊藤との違いがある。
山県の子分、桂太郎が亡くなった時の和歌。(大正2年 山県76歳)
「したしきもうときも友は先立ちてながらふるみぞかなしかりける」(?)
親しき友は判るが、友人でうとい思うと言うところが、この人の内面が出てしまったのかなあとも思います。
当時50歳前の時代なので85歳まで生きたのは、めちゃめちゃ長いです。
7人子供がいたが、一人の女性を除いて全て亡くなってしまった。妻も亡くす。
「あかの水注ぎながらに思うかな昨日はともにたむけしものを」(?)
3男が亡くなり奥さんとともに悲痛な思いで、又子供を亡くしてしまったと言って見送ったことが、又嘘のように奥さんが亡くなってしまった、これは切ないですね。
奥さんが亡くなってから25回忌にも歌を詠んでいる。
「かたらいし事は昨日の心地して過ぎし月日におどろかれぬる」(?)
大正11年(1922年)に亡くなる。(85歳)
国葬が行われたが、さびしかった。(人望がなかった様に思う)
普請道楽、造園好きとしても知られる。
東京の椿山荘、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園は、山縣が自ら想を練り岩本勝五郎や7代目小川治兵衛をして築かせたものである。
2017年12月3日日曜日
水島裕(声優) ・【時代を創った声】
水島裕(声優) ・【時代を創った声】
NHKの連想ゲームで1981~88年までレギュラー回答者、スター・ウォーズシリーズのルーク・スカイウォーカー役の吹き替え、六神合体ゴッドマーズのロボットアニメ(明神タケル / マーズ)、愛の戦士レインボーマン等の数多くのキャラクターを演じているとともに、舞台でも活躍されています。
NHKの連想ゲーム、男女でやっているので、女性チームが勝つとか負けるとか、力んではしまいますが、その人が連想する事柄が、それが実はその人が伝わることだったりする。
日本語を駆使してやる番組としては最高だったんじゃないでしょうか。
元々はジェスチャーにあったワンコーナーだったらしいです。
回答席に座っているとなかなかわからないです。
傾向として季語から出題されることが多いとは、なんとなく判ったので季語集をちょくちょく読んでいました。
男性は加藤キャプテン、渡辺文雄さん、大和田獏さん、私水島。
女性は中田キャプテンを中心に固まって、仲はいいですが一歩スタジオに入ると負けないよと言うことがありました。
中学1年の時に劇団若草と言う児童劇団に入りました。
もうひとつの放課後が出来たと言う感じでした。
妹が先にNHKの放送劇団に入っていて、妹の活動を見て楽しそうだなと思って、入ろうとしたが年齢的に無理だと言われて、近くの劇団若草に入ることにしました。
バレエでタイツを履くが、凄く恥ずかしかった、日舞、歌のレッスンもあり良い経験をさせてもらいました。
最初、声の仕事だった。(入ってすぐにオーディションがあり受かりました)
「王様と私」で、勘九郎さんが声変わりして、勘九郎さんの影歌を最初にやりました。
アニメの最初の声は「くまのプーさん」のクリストファー・ロビンの声をやったのが最初です。
大学の途中まで劇団若草にいました。(学生のアルバイトとしては破格に良かった)
愛の戦士レインボーマンの主題歌を歌わせてもらいました。(高校1年生の時)
1972年からの放送で主題歌だけ担当、歌が浸透して、替え唄がはやった。
歌は得意ではなかったが、あの歌に巡り合わせて幸せでした。
大学のころはアルバイト感覚でした、楽しかったです。
大学の専攻には演劇、放送、文芸、音楽、美術、とかの中から、写真学科を受けたら受かってしまいましたが、カメラを持っていなかったのは僕だけでした。
写真は個人行動なので孤独でしたので、自分には合わないと思いました。
クリエーティブすると言う事では演劇と共通するが、孤独は好きではないと思いました。
たまたま運が良かったと思います。
古谷 徹さんが友人で遊んでいる中に、小山 茉美(まみ)さんとかがいて、大学卒業後にどうするのか考えている時に、小山さんからうちに来ればと誘われました。
ここだったらいいかなと思って伺って、準所属のような形で入ってみたら、三ツ矢 雄二さんとか、井上 和彦さん等が居ました。
初めてのメインキャラクターとしてロボットアニメ「超人戦隊バラタック」に出演。
下手だとは思ったが、でもあの初々しさは今は出せない。
未熟だと思うが、周りから助けてもらいました。
真摯にはやって来た自信はあります、取り組み方は一生懸命でした。
自分の色を発揮できているかどうか、それが大事だと思います。
役との出会いは大きいです。
三ツ矢 雄二さん、井上 和彦さんと3人でCDを出し、コンサートをやりました。
40年来の付き合いで、不思議な関係で、僕にとって大事な2人です。
寝ると忘れるタイプなので辛かったと言うよりも、楽しかったと言う方が強いです。
仕事が来ない時などは、煮詰まると習い事を始めます、空手、スキューバダイビング、ガラス工芸とかいろいろ、人から教わることは凄く新鮮です。
習うことによってリフレッシュします。
本当に尊敬している人から習うのが大事です、そうしないとはいってこない。
ガラス工芸は10何年やって来ましたが、先生が亡くなってやめてしまいました。
習うと言うことが気持ちを切り替えさせてくれるし、力をくれたのかなとも思います。
さだまさしさんとも付き合いがあるが、元気の時は歯車がかみ合っているが、歯車が空回りしている感覚があり、さだまさしさんから好奇心があればまた歯車はしっかりかみ合うようになると言われて、これは一生忘れてはいけないと思いました。
「別に」と言う言葉は使わない方がいいと思います、好奇心がないのは自分を殺す、心を殺してしまう。
人の気持ちに敏感なことが大事ですね。
声優という職業は努力が報われる世界ではない、でてきたもので判断される。
運が不可欠で、頑張っても出てきたものに魅力がなければ駄目だし、なにも訓練してこなくてもポーンと言ったセリフが魅力的な人もいるので、そこは不条理だと思うがそういう
世界で、一番大事なのは文字を声にすることではないと言うことです。
文字を書いた人の思いをくみ取って自分のフィルターでセリフにすることが大事。
その人の色は必ずあるので、その理由を自分で作ってそれをアピールしないといけないと思います。
自分の方向性に近い先輩を見付けてその人の真似をして見ることがいいと思います。
腕白クラシックコンサート、来年に渡辺俊幸さんが曲を作ってくれて、岩崎宏美さんと行う予定があり、子供達たちに聞かせたいと思っています。
NHKの連想ゲームで1981~88年までレギュラー回答者、スター・ウォーズシリーズのルーク・スカイウォーカー役の吹き替え、六神合体ゴッドマーズのロボットアニメ(明神タケル / マーズ)、愛の戦士レインボーマン等の数多くのキャラクターを演じているとともに、舞台でも活躍されています。
NHKの連想ゲーム、男女でやっているので、女性チームが勝つとか負けるとか、力んではしまいますが、その人が連想する事柄が、それが実はその人が伝わることだったりする。
日本語を駆使してやる番組としては最高だったんじゃないでしょうか。
元々はジェスチャーにあったワンコーナーだったらしいです。
回答席に座っているとなかなかわからないです。
傾向として季語から出題されることが多いとは、なんとなく判ったので季語集をちょくちょく読んでいました。
男性は加藤キャプテン、渡辺文雄さん、大和田獏さん、私水島。
女性は中田キャプテンを中心に固まって、仲はいいですが一歩スタジオに入ると負けないよと言うことがありました。
中学1年の時に劇団若草と言う児童劇団に入りました。
もうひとつの放課後が出来たと言う感じでした。
妹が先にNHKの放送劇団に入っていて、妹の活動を見て楽しそうだなと思って、入ろうとしたが年齢的に無理だと言われて、近くの劇団若草に入ることにしました。
バレエでタイツを履くが、凄く恥ずかしかった、日舞、歌のレッスンもあり良い経験をさせてもらいました。
最初、声の仕事だった。(入ってすぐにオーディションがあり受かりました)
「王様と私」で、勘九郎さんが声変わりして、勘九郎さんの影歌を最初にやりました。
アニメの最初の声は「くまのプーさん」のクリストファー・ロビンの声をやったのが最初です。
大学の途中まで劇団若草にいました。(学生のアルバイトとしては破格に良かった)
愛の戦士レインボーマンの主題歌を歌わせてもらいました。(高校1年生の時)
1972年からの放送で主題歌だけ担当、歌が浸透して、替え唄がはやった。
歌は得意ではなかったが、あの歌に巡り合わせて幸せでした。
大学のころはアルバイト感覚でした、楽しかったです。
大学の専攻には演劇、放送、文芸、音楽、美術、とかの中から、写真学科を受けたら受かってしまいましたが、カメラを持っていなかったのは僕だけでした。
写真は個人行動なので孤独でしたので、自分には合わないと思いました。
クリエーティブすると言う事では演劇と共通するが、孤独は好きではないと思いました。
たまたま運が良かったと思います。
古谷 徹さんが友人で遊んでいる中に、小山 茉美(まみ)さんとかがいて、大学卒業後にどうするのか考えている時に、小山さんからうちに来ればと誘われました。
ここだったらいいかなと思って伺って、準所属のような形で入ってみたら、三ツ矢 雄二さんとか、井上 和彦さん等が居ました。
初めてのメインキャラクターとしてロボットアニメ「超人戦隊バラタック」に出演。
下手だとは思ったが、でもあの初々しさは今は出せない。
未熟だと思うが、周りから助けてもらいました。
真摯にはやって来た自信はあります、取り組み方は一生懸命でした。
自分の色を発揮できているかどうか、それが大事だと思います。
役との出会いは大きいです。
三ツ矢 雄二さん、井上 和彦さんと3人でCDを出し、コンサートをやりました。
40年来の付き合いで、不思議な関係で、僕にとって大事な2人です。
寝ると忘れるタイプなので辛かったと言うよりも、楽しかったと言う方が強いです。
仕事が来ない時などは、煮詰まると習い事を始めます、空手、スキューバダイビング、ガラス工芸とかいろいろ、人から教わることは凄く新鮮です。
習うことによってリフレッシュします。
本当に尊敬している人から習うのが大事です、そうしないとはいってこない。
ガラス工芸は10何年やって来ましたが、先生が亡くなってやめてしまいました。
習うと言うことが気持ちを切り替えさせてくれるし、力をくれたのかなとも思います。
さだまさしさんとも付き合いがあるが、元気の時は歯車がかみ合っているが、歯車が空回りしている感覚があり、さだまさしさんから好奇心があればまた歯車はしっかりかみ合うようになると言われて、これは一生忘れてはいけないと思いました。
「別に」と言う言葉は使わない方がいいと思います、好奇心がないのは自分を殺す、心を殺してしまう。
人の気持ちに敏感なことが大事ですね。
声優という職業は努力が報われる世界ではない、でてきたもので判断される。
運が不可欠で、頑張っても出てきたものに魅力がなければ駄目だし、なにも訓練してこなくてもポーンと言ったセリフが魅力的な人もいるので、そこは不条理だと思うがそういう
世界で、一番大事なのは文字を声にすることではないと言うことです。
文字を書いた人の思いをくみ取って自分のフィルターでセリフにすることが大事。
その人の色は必ずあるので、その理由を自分で作ってそれをアピールしないといけないと思います。
自分の方向性に近い先輩を見付けてその人の真似をして見ることがいいと思います。
腕白クラシックコンサート、来年に渡辺俊幸さんが曲を作ってくれて、岩崎宏美さんと行う予定があり、子供達たちに聞かせたいと思っています。
2017年12月2日土曜日
米川明彦(梅花女子大学教授) ・時代を映す若者ことば
米川明彦(梅花女子大学教授) ・時代を映す若者ことば
最近の若者たちの言葉がわからない、と言うことはないでしょうか。
「とりま」は「とりあえず、まあ」のことです。
「ふろりだ」はアメリカの「フロリダ」州のことではありません。
「まんじ」(今流行っている)は何のことかわかりますか?
若者言葉、業界用語、隠語、流行語など俗語を40年前から研究しているのが、梅花女子大学教授の米川さん、62歳です。
若者言葉の変遷をたどりながら、時代と若者気質の変化を、米川さんに読み取ってもらいます。
女性ばかりの学校です、若い女性は会話を楽しんでいる、笑いを取ろうとしているので、研究の環境としてはいいです。
「まんじ」(今流行っている)は何だろうと聞いたら、学生は色々言うんです。
面白いことはなんでも「まんじ」と言いますとか、仲間の絆を強める時に「まんじ」と言いますとか、調子に乗っている時には、「あんたまんじだね」とか、まったくわかりません。
「やば」とおんなじようなことかもしれません。
「草生える」は笑いを取るとか、笑えるとかという意味です。
Wで笑う、わ(wa)Wを重ねると wwwwとなり草が生えているように見える。
「それな」関西の共感する時に使う言葉ですが、関東でも使うそうです。
「ふろりだ」ラインを使ってグループで参加するが、風呂に行ってくることを「風呂りだ」と言うんです。
風呂の為に離脱しますと言う意味です。
「ほかる」(ホカホカしてくる)ともいいます。
省略する言葉を使います、「おか」=お帰り、「おけ」=OK、「おこ」=怒っている。
省略形を打ってしまう。
若者言葉は寿命が3年ですが、中に残る言葉もある。
「て、よ、だ、わ言葉」女性が使っていた文末に使う言葉、(綺麗だわ、よくってよとか)明治の初めにこの言葉が出どころが悪いと言って非難されたが、女学校の生徒が使って、卒業した生徒が当時の一流の人たちと結婚して、高級な家庭にも広がって、「て、よ、だ、わ言葉」は一般的な丁寧な言葉になって行く。
大正時代にラジオ放送が始まるが、アナウンサーが新しい言葉としてできる。
告知者と云うような言い回しもしたが、告げ口をする言葉と言うことで、消えていった。
戦後「エッチ」と言う言葉がはやったが、元々は変態=HENTAI(ローマ字)、の「H」でしたが、余り使われなくなりました。
80,90年代は「超」と云う言葉がよく使っていましたが、関西ではあまり使われなかった。
「なうい」、「ちょべりば」=超ベリーバッド、などと言う人は40代ですね。
スマートフォン、インターネット等通信機器を使った言葉、SNSなどで広く使われる言葉、手間を省こうとして省略語として使われる。
「了解」→「り」とか一音節で済ませる。
「お疲れ」→「おつ」 変換ミスで「乙」を使う。それで使って行くと言うこともある。
「KY」アルファベットの頭文字を使う言葉、「空気読めない」、「恋の予感」
「る」で済ませようとする。 「誤字になってしまった」→「誤字る」
口頭でも喋る様にもなってきた、新しい傾向です。
「挙動不審な行動をとる」→「挙どる」
「こん」=「こんばんわ」、「こんにちわ」
「あり」=「有難う」
「いみふ」=「意味不明」
こういった言葉が口頭で話す様になった。
父親が言葉にうるさい人だったが、子供の頃色んな言葉を教えてくれた。
「坐るとばーとる」と言う言葉を教えてくれた、坐ったら場を取るものだ、とか「おすとあんでる」、押したらあんがででくるもの(饅頭)、ひねるとジャー=水道 などなど。
その影響を受けて言葉の研究者になろうと思いました。(国語学)
大学生の時に日本で一番大きな国語辞典「日本国語大辞典」20巻が出て欲しくてしょうがなかった、10万円以上した(40年前)。
自分では買えなくて付き合っている彼女に買ってもらった。
きっちり読まないといけないと思って、本当に隅から隅まで読みました。
或ることに気づきました、こんな大きな辞典なのに載っていない言葉がいっぱいあると思いました。
新語辞典(大正、昭和)、流行語辞典で買い集めていたが、そこの言葉が載っているのか、調べたら載っていないのが色々あった。(用例も書いてなかった)
新語辞典、大正初期に出たもので、面白い言葉がたくさんあります。
「ハイカラ」(大流行語)→動詞になる 「ハイカる」等
「脱線する」は電車が走り始めてから出来た言葉だがそれが転じて、正しい道正しい順序を離れて、全ての行動を脱線する、当時の新語だった。
今は一般語になっている。
俗語には若者言葉、業界用語、隠語、卑語(卑猥な言葉)、流行語、砕けた口頭語など。
「ランナー」→遅れて飛行機に走って行って乗る人。(業界用語)
大学のスクールバスは全部女性で、聞こえる言葉が判らなくて、メモを取って聞いたり、色んな方法を使って言葉を集めました。
「若者ことば辞典」1993年に出版。
新聞に載り3か月間取材にあいました。
昔新しい言葉を集めていた頃に教授から何の役に立つのだと言われてしまいました。
明治時代の新語、セブン→質屋、キャット→芸者(猫をつかって三味線を作るがそれを弾く人) エム→マネー(頭文字を使う、当時から流行っていた)
旧制高等学校の言葉(ドイツ語由来の言葉が出てくる)、落第する→どっぺる(ドッペルン 落第)、女の子→メッチェン 恋人→リーベ、飲みに行く→ドリンケン。
現代になると大学生はどこにもいて、エリートの言葉ではなくなる。
男女共学になり「性」に関する言葉が出てくる。
Aライン(元々はファッション用語)→キスが出来る仲、とか言うようになって来る。
ルート8→ニヤニヤ
学生運動が激しい時代、ゲバ棒を担いだ学生の「げばる」(ゲバルト=暴力)
高度成長期、言葉が遊ばれるようになる、「マジ」 真面目から出ているが。
野菜語、「ピーマン」(話の中身がない)、「トマト」(話がぐちゃぐちゃ)とか。
80年代、豊かになりバブルと重なり遊びが言葉にも及び、ちょべりば(「超ベリー・バッド(very bad)」の略)、ちょべりぐ(「超ベリー・グッド(very good)」の略)、みつぐ君、アッシー、とか消費を謳歌している。
メディアが流して若者言葉は表に出てくる。
真面目から遊びにシフトしてくる。
楽社会が生まれたと思う。(楽と楽しいを価値基準にしている)
そこから現代の若者言葉が出てきてると思う。
TV見ない、新聞見ない、インターネットを見る。
見る社会が狭くなってきて、関心事も狭くなり、言葉も狭くなる。
ラインのグループ自身は無数にあるが、しかし人数は小さい、グループごとに新しい言葉が生まれる。
昔は同じ様な価値観だったが、共有できなくなり、価値観が多様化して、自分さえよければいいと言うような、それぞれが別の方向を向いている。
ネット社会が若者に大きく影響している。
時代がどんな時代かによって、若者言葉の質が全く違う。
今の社会は、お笑い、楽しい、楽、そこから出てくる。
俗語を広く考えて、大人の世代の言葉も俗語があり、間違った言葉も平気で使ったりして、一般化して辞書にも載って行くと正しい日本語では無くなる。
「大丈夫」(箸は大丈夫ですか?)、「むかつく」(胃がむかつくが従来使われていた)と言う言葉の使い方も変わってきている。
厭な感情をどう発散するか、親しみのある言葉、俗語だと上手く表現できたり感じることが出来る。
一緒に楽しめる、作りだす楽しみが俗語にはある。
息苦しい世の中の息抜き、ほっとできる、楽しくできるなどいい意見があると思っています。
若者も仲間内の言葉と、そうでない言葉をわきまえていると思う。
最近の若者たちの言葉がわからない、と言うことはないでしょうか。
「とりま」は「とりあえず、まあ」のことです。
「ふろりだ」はアメリカの「フロリダ」州のことではありません。
「まんじ」(今流行っている)は何のことかわかりますか?
若者言葉、業界用語、隠語、流行語など俗語を40年前から研究しているのが、梅花女子大学教授の米川さん、62歳です。
若者言葉の変遷をたどりながら、時代と若者気質の変化を、米川さんに読み取ってもらいます。
女性ばかりの学校です、若い女性は会話を楽しんでいる、笑いを取ろうとしているので、研究の環境としてはいいです。
「まんじ」(今流行っている)は何だろうと聞いたら、学生は色々言うんです。
面白いことはなんでも「まんじ」と言いますとか、仲間の絆を強める時に「まんじ」と言いますとか、調子に乗っている時には、「あんたまんじだね」とか、まったくわかりません。
「やば」とおんなじようなことかもしれません。
「草生える」は笑いを取るとか、笑えるとかという意味です。
Wで笑う、わ(wa)Wを重ねると wwwwとなり草が生えているように見える。
「それな」関西の共感する時に使う言葉ですが、関東でも使うそうです。
「ふろりだ」ラインを使ってグループで参加するが、風呂に行ってくることを「風呂りだ」と言うんです。
風呂の為に離脱しますと言う意味です。
「ほかる」(ホカホカしてくる)ともいいます。
省略する言葉を使います、「おか」=お帰り、「おけ」=OK、「おこ」=怒っている。
省略形を打ってしまう。
若者言葉は寿命が3年ですが、中に残る言葉もある。
「て、よ、だ、わ言葉」女性が使っていた文末に使う言葉、(綺麗だわ、よくってよとか)明治の初めにこの言葉が出どころが悪いと言って非難されたが、女学校の生徒が使って、卒業した生徒が当時の一流の人たちと結婚して、高級な家庭にも広がって、「て、よ、だ、わ言葉」は一般的な丁寧な言葉になって行く。
大正時代にラジオ放送が始まるが、アナウンサーが新しい言葉としてできる。
告知者と云うような言い回しもしたが、告げ口をする言葉と言うことで、消えていった。
戦後「エッチ」と言う言葉がはやったが、元々は変態=HENTAI(ローマ字)、の「H」でしたが、余り使われなくなりました。
80,90年代は「超」と云う言葉がよく使っていましたが、関西ではあまり使われなかった。
「なうい」、「ちょべりば」=超ベリーバッド、などと言う人は40代ですね。
スマートフォン、インターネット等通信機器を使った言葉、SNSなどで広く使われる言葉、手間を省こうとして省略語として使われる。
「了解」→「り」とか一音節で済ませる。
「お疲れ」→「おつ」 変換ミスで「乙」を使う。それで使って行くと言うこともある。
「KY」アルファベットの頭文字を使う言葉、「空気読めない」、「恋の予感」
「る」で済ませようとする。 「誤字になってしまった」→「誤字る」
口頭でも喋る様にもなってきた、新しい傾向です。
「挙動不審な行動をとる」→「挙どる」
「こん」=「こんばんわ」、「こんにちわ」
「あり」=「有難う」
「いみふ」=「意味不明」
こういった言葉が口頭で話す様になった。
父親が言葉にうるさい人だったが、子供の頃色んな言葉を教えてくれた。
「坐るとばーとる」と言う言葉を教えてくれた、坐ったら場を取るものだ、とか「おすとあんでる」、押したらあんがででくるもの(饅頭)、ひねるとジャー=水道 などなど。
その影響を受けて言葉の研究者になろうと思いました。(国語学)
大学生の時に日本で一番大きな国語辞典「日本国語大辞典」20巻が出て欲しくてしょうがなかった、10万円以上した(40年前)。
自分では買えなくて付き合っている彼女に買ってもらった。
きっちり読まないといけないと思って、本当に隅から隅まで読みました。
或ることに気づきました、こんな大きな辞典なのに載っていない言葉がいっぱいあると思いました。
新語辞典(大正、昭和)、流行語辞典で買い集めていたが、そこの言葉が載っているのか、調べたら載っていないのが色々あった。(用例も書いてなかった)
新語辞典、大正初期に出たもので、面白い言葉がたくさんあります。
「ハイカラ」(大流行語)→動詞になる 「ハイカる」等
「脱線する」は電車が走り始めてから出来た言葉だがそれが転じて、正しい道正しい順序を離れて、全ての行動を脱線する、当時の新語だった。
今は一般語になっている。
俗語には若者言葉、業界用語、隠語、卑語(卑猥な言葉)、流行語、砕けた口頭語など。
「ランナー」→遅れて飛行機に走って行って乗る人。(業界用語)
大学のスクールバスは全部女性で、聞こえる言葉が判らなくて、メモを取って聞いたり、色んな方法を使って言葉を集めました。
「若者ことば辞典」1993年に出版。
新聞に載り3か月間取材にあいました。
昔新しい言葉を集めていた頃に教授から何の役に立つのだと言われてしまいました。
明治時代の新語、セブン→質屋、キャット→芸者(猫をつかって三味線を作るがそれを弾く人) エム→マネー(頭文字を使う、当時から流行っていた)
旧制高等学校の言葉(ドイツ語由来の言葉が出てくる)、落第する→どっぺる(ドッペルン 落第)、女の子→メッチェン 恋人→リーベ、飲みに行く→ドリンケン。
現代になると大学生はどこにもいて、エリートの言葉ではなくなる。
男女共学になり「性」に関する言葉が出てくる。
Aライン(元々はファッション用語)→キスが出来る仲、とか言うようになって来る。
ルート8→ニヤニヤ
学生運動が激しい時代、ゲバ棒を担いだ学生の「げばる」(ゲバルト=暴力)
高度成長期、言葉が遊ばれるようになる、「マジ」 真面目から出ているが。
野菜語、「ピーマン」(話の中身がない)、「トマト」(話がぐちゃぐちゃ)とか。
80年代、豊かになりバブルと重なり遊びが言葉にも及び、ちょべりば(「超ベリー・バッド(very bad)」の略)、ちょべりぐ(「超ベリー・グッド(very good)」の略)、みつぐ君、アッシー、とか消費を謳歌している。
メディアが流して若者言葉は表に出てくる。
真面目から遊びにシフトしてくる。
楽社会が生まれたと思う。(楽と楽しいを価値基準にしている)
そこから現代の若者言葉が出てきてると思う。
TV見ない、新聞見ない、インターネットを見る。
見る社会が狭くなってきて、関心事も狭くなり、言葉も狭くなる。
ラインのグループ自身は無数にあるが、しかし人数は小さい、グループごとに新しい言葉が生まれる。
昔は同じ様な価値観だったが、共有できなくなり、価値観が多様化して、自分さえよければいいと言うような、それぞれが別の方向を向いている。
ネット社会が若者に大きく影響している。
時代がどんな時代かによって、若者言葉の質が全く違う。
今の社会は、お笑い、楽しい、楽、そこから出てくる。
俗語を広く考えて、大人の世代の言葉も俗語があり、間違った言葉も平気で使ったりして、一般化して辞書にも載って行くと正しい日本語では無くなる。
「大丈夫」(箸は大丈夫ですか?)、「むかつく」(胃がむかつくが従来使われていた)と言う言葉の使い方も変わってきている。
厭な感情をどう発散するか、親しみのある言葉、俗語だと上手く表現できたり感じることが出来る。
一緒に楽しめる、作りだす楽しみが俗語にはある。
息苦しい世の中の息抜き、ほっとできる、楽しくできるなどいい意見があると思っています。
若者も仲間内の言葉と、そうでない言葉をわきまえていると思う。
2017年12月1日金曜日
中山欽吾(東京二期会理事長) ・エンジニアのオペラ改革
中山欽吾(東京二期会理事長) ・エンジニアのオペラ改革
大分県出身、昭和38年九州大学工学部を卒業後、三井金属鉱業株式会社に入社しました。
エンジニアとして日本各地を飛び回り、平成7年には同社米国社長となりニューヨークに赴任します。
アメリカ在任中に叔父で二期会創立者のひとりでもある、バリトン歌手、中山悌一に請われて二期会に入ります。
技術屋から声楽団体という全く畑違いの分野に転身、それまでの経営状態を分析、新しい改革を打ち出すなどして、成果を上げ、平成26年に二期会理事等に選出されました。
又出身地である大分の芸術活動にも熱心に取り組み、大分芸術短期大学学長、大分県総合文化センター館長などを勤めています。
音楽の世界に身を置いて今年で20年になります。
音楽の専門家は一杯いるので、私はその方たちが一番いいコンディションで演奏が出来るような、縁の下の力持ち的な働きが要請されていると思っています。
オペラを一回やると、大抵物凄い赤字が出ますので、赤字をどうやってキャンセルするとか、ビジネスをやってきた中で培われた経営してきたスキルとかが役に立っていると思います。
大分芸術短期大学学長としては後進を育てると言うことです。(美術もあり)
絵はずーっと何十年も描いてきました。
1940年生まれ、高校までは大分、九州大学の応用化学科に行って、プラスチックが世の中に勢い始めたころですが、無機の世界で勉強していました。
先生からこの会社が合っているからと言われたのが三井金属鉱業でした。
高校時代に絵の道にも進もうかと思ったが、自分よりはるかに上手い人が2人いたのであきらめました。
音楽は1年生の時に合唱部に入っていました。(テノール)、2年から美術部に入りました。
父は長男で医者でしたが、歌ったりしていました。
私は中山悌一(6男)の甥にあたります。
高校、大学時代は演奏旅行で九州に来た時などは泊って休んでいきました。
代々医者の家系なので兄は医学部に行きました。(私は次男)
会社では現場に行って亜鉛を作っていて、ふたつ会社を渡り歩いて、その後研究所に行って、金属の粉を利用して新しいものを開発する研究を10年やってその後、その開発したものを売るようにと言われて、新しいものを売って歩く業務もやりました。
当時日本の自動車会社がアメリカに移して、部品も来るように言われて、全米で会社を10か所作って、全体を見るようにと言われてニューヨークに行きました。(50歳頃の時)
メトロポリタンでは片っ端からオペラを観ました。
定年で辞めたら叔父の仕事を手伝う様になるのかなとは、なんとなく思っていました。
叔父とは養子縁組もしていましたので。
こんなにお金がかかるオペラが日本では出来るのかなとは思っていました。
アメリカにる時に叔父から、会社を辞めて手伝うように電話がかかって来ました。
当時、歌い手さんが800人いました。
その人たちを使っていろんなオペラ、コンサートをやっていましたが、オペラを1本やると凄く赤字が出てしまうので、どうやって赤字を出さずにやれるのか、プロの経営者の問題なのだがそういう人はいなかった。
叔父は手を引いて後輩が中心になり経営の方もやっていたが、その道のプロではなかった。
あつれきもあったが強引にやってゆきました。
以前の決算報告書を調べたりして、レポートもずーっと書いて来ました。
会社を辞めて、経営を立て直すのも一つの魅力かなと思っていました。
めどが立つのに10年近くかかりました。
赤字がどんどん減って行ってついに黒字になりましたが、全部データが残っていますが、それは宝です。
会社時代にそういう仕事をさせてもらったのはラッキーだったと思います。
二期会の人々が路頭に迷うことは、大変なので叔父は内心凄く心配していたと思います。
現在二期会には3000人近くいます。
研修所には実際オペラを歌ったことのある先生方を講師に据えて、若い人たちを鍛えることが絶対将来良いぞと思って力を入れました。
先生方のアルバイトにもなるし、若い人が育つのでいまだに続いています。
その研修所から会員になり、トップを歌うようになった人が何人もいます。
上手くシステムが回るようになりました。
「中山悌一メモリアル」と言うCDが出ましたが、中山悌一の家の大掃除をしたらNHKが放送する目的で録音されたものだったが、何かの理由で放送されなかったものだった。
ピアニストが判らなかったが、調べてみたら小林道夫先生と言うことが判りました。
私家版として作ったものも含めて、一つにまとめ上げました。
*シューベルトの「盲目の少年」 歌 中山悌一(バリトン) 演奏紹介
中山悌一は自ら律すると言うことで非常に厳しかったです。(89歳で亡くなる)
故郷の短期大学で900名位の生徒が全国から集まってきています。
卒業すると頑張って、いい大学に編入学をするというようなことも進めてきています。
女性が多いので県内に就職してもらう様に、インターンシップという制度を作って、企業と一緒になって、学生が企業に行って勉強してくることをやっていて、それが即戦力になって会社の方からも喜んでもらっています。
「小さくてもキラキラ輝く宝石のような大学になろう」と着任の時に言いましたが、今そうなりました。
どうやったらいいオペラを廉価なコストでお客様に見ていただけるか考えたときに、ヨーロッパは各都市に沢山のオペラ劇場がある。
毎日やっていて、新しいバージョンに替えると言う事になり、要らなくなって捨てるのにも費用がかかるので東京に捨ててと思って、コンテナ船を利用して空の時に乗せてきて、茨城県の山奥の倉庫に保管する、それを今やっています。
歌うのは日本人でどんどん歌う場が増えてくる。
ヨーロッパで活躍する有名な指揮者にも来てもらうと言うこともやっています。
大分県出身、昭和38年九州大学工学部を卒業後、三井金属鉱業株式会社に入社しました。
エンジニアとして日本各地を飛び回り、平成7年には同社米国社長となりニューヨークに赴任します。
アメリカ在任中に叔父で二期会創立者のひとりでもある、バリトン歌手、中山悌一に請われて二期会に入ります。
技術屋から声楽団体という全く畑違いの分野に転身、それまでの経営状態を分析、新しい改革を打ち出すなどして、成果を上げ、平成26年に二期会理事等に選出されました。
又出身地である大分の芸術活動にも熱心に取り組み、大分芸術短期大学学長、大分県総合文化センター館長などを勤めています。
音楽の世界に身を置いて今年で20年になります。
音楽の専門家は一杯いるので、私はその方たちが一番いいコンディションで演奏が出来るような、縁の下の力持ち的な働きが要請されていると思っています。
オペラを一回やると、大抵物凄い赤字が出ますので、赤字をどうやってキャンセルするとか、ビジネスをやってきた中で培われた経営してきたスキルとかが役に立っていると思います。
大分芸術短期大学学長としては後進を育てると言うことです。(美術もあり)
絵はずーっと何十年も描いてきました。
1940年生まれ、高校までは大分、九州大学の応用化学科に行って、プラスチックが世の中に勢い始めたころですが、無機の世界で勉強していました。
先生からこの会社が合っているからと言われたのが三井金属鉱業でした。
高校時代に絵の道にも進もうかと思ったが、自分よりはるかに上手い人が2人いたのであきらめました。
音楽は1年生の時に合唱部に入っていました。(テノール)、2年から美術部に入りました。
父は長男で医者でしたが、歌ったりしていました。
私は中山悌一(6男)の甥にあたります。
高校、大学時代は演奏旅行で九州に来た時などは泊って休んでいきました。
代々医者の家系なので兄は医学部に行きました。(私は次男)
会社では現場に行って亜鉛を作っていて、ふたつ会社を渡り歩いて、その後研究所に行って、金属の粉を利用して新しいものを開発する研究を10年やってその後、その開発したものを売るようにと言われて、新しいものを売って歩く業務もやりました。
当時日本の自動車会社がアメリカに移して、部品も来るように言われて、全米で会社を10か所作って、全体を見るようにと言われてニューヨークに行きました。(50歳頃の時)
メトロポリタンでは片っ端からオペラを観ました。
定年で辞めたら叔父の仕事を手伝う様になるのかなとは、なんとなく思っていました。
叔父とは養子縁組もしていましたので。
こんなにお金がかかるオペラが日本では出来るのかなとは思っていました。
アメリカにる時に叔父から、会社を辞めて手伝うように電話がかかって来ました。
当時、歌い手さんが800人いました。
その人たちを使っていろんなオペラ、コンサートをやっていましたが、オペラを1本やると凄く赤字が出てしまうので、どうやって赤字を出さずにやれるのか、プロの経営者の問題なのだがそういう人はいなかった。
叔父は手を引いて後輩が中心になり経営の方もやっていたが、その道のプロではなかった。
あつれきもあったが強引にやってゆきました。
以前の決算報告書を調べたりして、レポートもずーっと書いて来ました。
会社を辞めて、経営を立て直すのも一つの魅力かなと思っていました。
めどが立つのに10年近くかかりました。
赤字がどんどん減って行ってついに黒字になりましたが、全部データが残っていますが、それは宝です。
会社時代にそういう仕事をさせてもらったのはラッキーだったと思います。
二期会の人々が路頭に迷うことは、大変なので叔父は内心凄く心配していたと思います。
現在二期会には3000人近くいます。
研修所には実際オペラを歌ったことのある先生方を講師に据えて、若い人たちを鍛えることが絶対将来良いぞと思って力を入れました。
先生方のアルバイトにもなるし、若い人が育つのでいまだに続いています。
その研修所から会員になり、トップを歌うようになった人が何人もいます。
上手くシステムが回るようになりました。
「中山悌一メモリアル」と言うCDが出ましたが、中山悌一の家の大掃除をしたらNHKが放送する目的で録音されたものだったが、何かの理由で放送されなかったものだった。
ピアニストが判らなかったが、調べてみたら小林道夫先生と言うことが判りました。
私家版として作ったものも含めて、一つにまとめ上げました。
*シューベルトの「盲目の少年」 歌 中山悌一(バリトン) 演奏紹介
中山悌一は自ら律すると言うことで非常に厳しかったです。(89歳で亡くなる)
故郷の短期大学で900名位の生徒が全国から集まってきています。
卒業すると頑張って、いい大学に編入学をするというようなことも進めてきています。
女性が多いので県内に就職してもらう様に、インターンシップという制度を作って、企業と一緒になって、学生が企業に行って勉強してくることをやっていて、それが即戦力になって会社の方からも喜んでもらっています。
「小さくてもキラキラ輝く宝石のような大学になろう」と着任の時に言いましたが、今そうなりました。
どうやったらいいオペラを廉価なコストでお客様に見ていただけるか考えたときに、ヨーロッパは各都市に沢山のオペラ劇場がある。
毎日やっていて、新しいバージョンに替えると言う事になり、要らなくなって捨てるのにも費用がかかるので東京に捨ててと思って、コンテナ船を利用して空の時に乗せてきて、茨城県の山奥の倉庫に保管する、それを今やっています。
歌うのは日本人でどんどん歌う場が増えてくる。
ヨーロッパで活躍する有名な指揮者にも来てもらうと言うこともやっています。
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