2015年4月10日金曜日

佐藤由美子(米国認定音楽療法士)  ・アメリカ・ホスピス体験10年を語る

佐藤由美子(米国認定音楽療法士)  ・アメリカ・ホスピス体験10年を語る
佐藤さんは1977年昭和52年福島県で生まれ東京で育ちました。
6歳からピアノを10年間学び、19歳の時にアメリカに留学、大学在学中に難病患者、末期がん患者の心をやわらげる音楽療法を知り、26歳の時ホスピス緩和ケア専門の米国認定音楽療法士の資格を取得しました。
アメリカ各地の病院や施設で終末期を迎えた癌や難病患者の人たちにギターやハープを奏で、歌で語りかける音楽療法を行ってきました。
アメリカ社会の中で様々な出会いと音楽療法の体験を語っていただきます。

ピアノの練習は好きではなかったが、15歳まで続けてきた。
ギター、アイリッシュハープ、フルート、ウクレレ等を使ってやっている。
米国でホスピス と言うと余命6か月以内の人で有れば、だれでも受けられるケアの事。(家族を含め 心のケアも提供する)
大学では音楽専攻、心理学が副専攻だった。
音楽療法が有ることを知る。
ジム・ボーリング教授と出会って、それがきっかけで音楽療法をやろうと思った。
他の人に使えることを知った時に、それができるのであればそれは素晴らしい職業だと思って、教授の最初の授業の時に音楽療法士になろうと思った。
26歳で米国認定音楽療法士を取る。
MTBCという称号が与えられる。 6000人程度が米国では取得している。
日本では日本音楽療法士は2600人ぐらいいる。(資格等は違うところもあるが)

聴覚は最後に残る感覚である。 
最初半信半疑でしたが、音楽療法士になって1年目に出会った患者さんに出会ったのがきっかけで分かった。
80歳の肺がんの女性末期患者さんで、いつ亡くなってもおかしくない状態だった。
音楽療法を始めたが、音楽療法について家族は良く知らなかった。
患者さんは昔からミュージカルが好きだった。
「エーデルワイス」の曲を弾いたあとに息子さん等と話を始めた。
笑いがでて、リラックスして思い出話などをした。
リクエストをしてもらったら「サイレント ナイト」を要望された。
弾いている間に患者さんの変化が有って吃驚した。
患者さんの呼吸が急に規則的になったのである。
3番目の歌詞に差し掛かった時にそれまでずっと閉じていた患者の眼が微かに開いたのだ。
驚きを隠せなかった、息子さん等も異変に気付き、眼は少しずつ開いていき最終的には完全に開いた。
そして彼女はにっこりとやさしく微笑んだのである。
歌の終りに差し掛かると彼女はゆっくりと息を吸い込んだが、その息を吐き出すことはなかった。
私が生まれて初めて間近に見た死だった、とても自然で信じられないほどおだやかな死だった。
息子さんがこんな形で母さんが最後を迎えて良かった、今まで生きていた中で最も美しい瞬間だった、母さんは素晴らしい女性だったから母さんにふさわしい死に方だったと思う、有難うと私に言ってくれた。
これがその後の私の音楽療法士としての活動にかなり影響を与えた。
聴覚が最後まで残る感覚であるという事を実感した。

アメリカのホスピス
①病院  ②自宅  ③老人ホーム が有るがほとんどは②,③が多い。
音楽療法士に関しては看護師が委託する形になる。
音楽療法が適してしているかどうかを、検討して適しているかどうかを判断し、プランを立てる。
患者さんのニーズに合わせて対応する。
一人一人の人生が違う様に死に方も違います。
認知症に対しても効果を発揮する。
認知症の末期の人でも音楽を聞くと覚えているという事が多い。
懐かしい曲を聞くという事は心の支えになる。
認知症の患者さんは考える事は出来ないかもしれないが、感じることはできる。
音楽はその気持ちに響くんです。

2002年7月 老人ホーム 80歳代のアルツハイマーの人
ジャズシンガーだった人で、 音楽療法に適していると思った。
彼は末期であり、車椅子に座って下を向いていて、ほとんど寝ている状態だったが、音楽を聞くと別人のようだった。
顔の表情が生き生きする、本来の姿が一瞬見えるような感じだった。
彼が亡くなる2日前に、一緒に歌おうといっても今まで歌ったことはなかったが、今日は君のために歌うよと言ってくれて歌ってくれた。
彼の顔は本当に生き生きとした顔で、この人の本来の姿はこれなんだと思った。
私は聞いた事はなかったが、ラブソングだったと思う。
最後に歌ったという事は娘さんにとっても凄く心の支えになったみたいです。
音楽の力は凄いと思います。

日本でも老人ホームに行っています。
童謡を聞くと涙を流して、うれし涙だと言ってくれる。
子供の頃のことを昨日のように思い出させてくれる。(音楽は記憶を刺激する力が有る)
自分と同じ年ごろの人と出会ったりすると、自分自身もいつか死ぬんだなと気付く時が有って、死を見つめる事は生きることを考えることなんですよね。
この仕事をしていくうちに、限られた時間でどうやって生きようかという事を考えるようになりました。
音楽療法は日本ではまだまだ普及していないというのが現状ですが、ニーズは高まっている。
グリーフ(grief)は、深い悲しみの意、身近な人と死別して悲嘆に暮れる人が、その悲しみから立ち直れるようそばにいて支援すること。
感情の変化、体の変化があるが、グリーフには時間がかかる。
悲惨な事故に遭ったときには精神的なケアをすることが多い。
子供は感情が上手に表現できないので、それが行動に出たりする、暴力とか。
音楽療法を取り入れながらやると子供は心を開いてゆくので、音楽療法を取り入れる事は効果的だと思います。

悩みをもっている人の心を癒すことに、音楽は力強いものが有る。
音楽が人と人をつなぐ役割もする、特に認知症の人の家族は何年もケアをしているので、心身ともに疲れているので家族にケアをする事はすごく重要なことです。
夫婦、親子の関係が無くなり、看護する人、看護される人の関係になってしまっているので、音楽療法の時だけでも家族を含めて音楽療法をすることによって、夫婦なり、家族の関係に戻すという事が出来るという事は、それがあることと無い事では凄く違うと思う。
こういう仕事を永年やってゆくという事は精神的に結構つらいことですが、日本に帰って来て「ラスト・ソング」という本を書かせて頂いて、初めて自分が今までどれだけ感情を抱えてきたのか、初めて判ったんです。
この本を書いてきて毎日涙がとまらなかった。
当時のそのときにはそんなに泣かなかったが、積もり積もっていたんだなあと気付いて、ちょっと休んで本を書いた事は自分のケアになったんだなあと思います。
「音楽は人間が言葉で言えない事で、しかも黙っていられない事柄を表現する」
ヴィクトル=マリー・ユーゴーの言葉
音楽の力そのものをいっていると思う。




























2015年4月9日木曜日

吉野誠一(製茶園六代目)       ・和紙を使って、名茶を守る

吉野誠一(製茶園六代目)       ・和紙を使って、名茶を守る
去年国際教育科学文化機関ユネスコの無形文化遺産に日本の伝統手すき和紙技術、岐阜県の本美濃紙、島根県の石州半紙、埼玉県の細川紙が登録されました。
埼玉県日高市で製茶業を営む吉野さん68歳は細川和紙を使って作る伝統製茶法を守り続けている数少ない製茶技術者です。
狭山茶産地では戦前まで畳ほどの大きさの木脇に厚めの細川和紙を貼って下から炭火であぶる火いれを行ってきました。
戦後は短時間で大量生産できる鉄板ドラム式が普及し、火加減が必要な和紙は使われなくなってきました。
吉野さんはこくのある伝統の味わいを残したいと、鉄板を5枚がさねの和紙に置き換えお茶の製造を続けてきました。
寒冷地に適したお茶の品種改良や国産紅茶の製造、葉が黄金色や紫色のお茶を育てるなど、地域のお茶の改良に努力を続けています。

狭山茶の産地にとって細川和紙が無かったら、昔からお茶ができなったというぐらい重要な和紙だった。
畳一枚分の大きさの高さ20cmの枠の木枠の中に全面細川和紙を張って、そこの上でお茶を造る。
下から炭火で熱して、細川和紙の上で手でもんで作っていました。
現在は機械化されて製造面では細川和紙は使わないが、狭山には狭山火入れという独特の火入れ方法が有るので、和紙の上でじっくりと転がしながら入れてやる、和紙火入れ。
昭和50年代に火入れの機械を発明されて、現在残っているのはごくわずかです。
昔の焙炉(ほいろ)の味がすると言われて、これは続けなくてはいけないと思って、能率は悪いが本当の狭山の和紙火入れを残したいと、鉄板の代わりに和紙を用いて、時間を3~4倍かけないと火は入らないが、柔らかいまろやかなお茶に仕上がってくる。
和紙は高価で、すでにある和紙を使った手紙だとか、本だとか和紙のものを代用に昔は使っていたと聞いていた。

若山牧水の手紙を使ってしまったとの事ですが?
私の妻の実家が若山牧水のお祖父さんのでた家で、(所沢) 牧水が学生時代に長く逗留していたり後に奥さんを連れてきたりして、お礼の手紙が一杯あったというんですが、その手紙も一緒に細川和紙の代用に使ってしまったそうです。
若山牧水のお祖父さんは医者になるために長崎に行って宮崎で開業してもどってこなかった。
牧水はお祖父さんの家を訪ねようと探して所沢に長く逗留したそうです。
「飲む湯にも 焚火の煙 匂いたる 山家の冬の夕餉なりけり」 
牧水の詠んだ狭山茶に関する石碑が有る。(所沢市内の神米金

屋敷の周りには全てお茶の木が植わっていた。
茶畑、桑畑、普通の畑が有った。 
狭山はお茶が美味しくて、農家の茶を家で製茶をしていた。
5代目の時に手揉みから機械化になった。
一般の家庭で飲むお茶は販売ができたが、二番茶の販売ができなくて、販売の方法を勉強をして
販売ができるようになった。
狭山のお茶は全量自分で販売するという形は、九州から静岡まではないパターンです。
宇治茶、静岡茶は暖かい地域なので4回収穫ができたが狭山は2回しかできない。
香り宇治、色は静岡、味狭山 (味は狭山でとどめさす)
年間2回しか収穫しない事と、冬は寒さに耐えるように養分を一杯蓄えて冬を越すので、葉肉は厚いが濃厚な味の出るお茶が飲まれるようになって、飲みごたえのあるお茶が狭山茶だと思っています。

狭山かおりという品種が有る。 品種改良の一番は耐寒性のある品種でした。
5月 新茶の香りがするもの 夏は爽やかな味を出す品種を使う。 冬は濃厚な味のする火の強いお茶にする。(細川和紙を使う)
和紙を使ったものはまろやかさが全然違う。
国産紅茶を研究して販売をしている。
見学会で小学生から紅茶はつくっていないの?と質問を受けて、それが耳に残っていた。
17,8年前に、ネパールから来た留学生が紅茶の技師だったが、国に帰ったら緑茶をやりたいと言っていた。
家に何度も足を運んできていて、緑茶の事を教えるばっかりではつまらないので、紅茶も出来ないかと言ったら、教えてもらってそれがきっかけになった。
試験場に行ったら、いい紅茶品種があって、40年前交配した良い品種が有ると言われて、指し木をしてそれから10年間はお茶の製造はできないので、留学生から教えてもらった現存の品種の中から研究を進めた。
紅茶を作る情報を提供して、全国的に紅茶を作る事になる。

子供のころに、祖母がお嫁に来た時に、5月になると家には黄色く芽が出るものが有ると教えてくれた。
一枝だけだったが、それを増やす技術が無かった。
指し木を始めて、増やしていって一枚の畑にしていった。
玉露の味がするので、これならいけると思って始めた。
目で綺麗で飲んでおいしくないと駄目だという事だが、いけるという事で品種登録した。
煎茶道に使うには喜ばれる。
もうひとつ赤いものを作りたいと思って、九州で開発されたサンルージュという品種が有るが、真っ赤な芽が出る。
もうひとつ紫色の芽が出るお茶が有るが、これは極秘です。

農家なので「道」の付くものは何にもやっていなかったので茶道をやるようにいわれて、冬場に毎週茶道のお稽古にいかしてもらった。
違った世界を勉強させてもらって人間形成にかなり役立ったと思います。
いろんな方から知らないことを教えて頂ける、皆さんから可愛がって頂けるというのは茶道からの影響が大きいです。
挫折を感じたのは天候、気温ですね。 
温度の関係でお前のところではお茶はできないよとか、5月に霜が降りると一晩で真黒になってしまう事が有るが、何回も味わった。
今は設備が良くなって安定した経営になってきました。

寒さに耐える品種改良が一番苦労しました。
38年、48年、58年は青枯れで(寒害)、全く収穫不能が有りました。
農業技術研究所で2年マイナス15度ぐらいの茶畑で調査してもらって、枯れた木と耐えられる木が有るので、生きる木をどうにかすれば出来るのではないかとアドバイスを頂いた。
新しい品種をものにするのは5年、10年掛かる。
バニラの香りがするお茶の木を造りたいと思って「夢若葉」という品種を作っていただいたので、そういう木を開発している。
「おくはるか」という桜餅の香りがする木が見つかって昨年苗木を植えたばかりなので5年先になると思う。
これからは香の品種改良ではないかと思って一生懸命取り組んでいる。
試験場と共に取り組んでいます。
苦労はやっても、それを乗り越える努力をすれば、必ず報われるんだなと思って、コツコツといろんなことを積み重ねて諦めてはいけないというのが現状で、味、香、探し求めれば必ずいつかは見つかると思ってます、継続が一番大事だと思います。







2015年4月7日火曜日

保坂正康(作家)        ・昭和史を味わう(第6回)(H26.9.7放送)

保坂正康(作家) 昭和史を味わう(第6回)満州事変の頃 軍事主導体制への移行(H26.9.7放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/09/6.htmlをご覧ください。

2015年4月6日月曜日

保坂正康(作家)         ・昭和史を味わう(第5回) (H26.8.3放送)

保坂正康(作家)        ・昭和史を味わう(第5回) (H26.8.3放送)
昭和初年代の子どもたちの暮らし~学校生活、夏休み
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/08/5.htmlをご覧ください。

2015年4月5日日曜日

保阪正康(作家・評論家)      ・昭和史を味わう(15)太平洋戦争の日々~(1)学童疎開、勤労動員

保阪正康(作家・評論家)   ・昭和史を味わう(15)太平洋戦争の日々~
(1)学童疎開、勤労動員
昭和史は太平洋戦争をどのように検証してゆくかが大事なカギになる。
国のシステム全部を軍事の形に変えてゆく。
児童、生徒、女性あらゆる人たちが、軍事の機構の中に組み込まれてゆく。
昭和16年12月8日 太平洋戦争に突入。
日本の国力は米国、連合国軍等にくらべると、途轍もなく開きが有った。
3年8カ月戦争が続くが、1年7カ月ぐらいで戦力が相当ダウンしてしまうので子供といえども銃後の守り、産業戦士と言う様な形で戦争に組み込まれていく。

勤労動員 
工員、技術者が戦争に行かざるを得なくなる。
学生、生徒がこの埋め合わせをしなくてはいけなくなる。
昭和18年6月に政府が学徒戦時動員体制確立要綱を決める。(15歳以上の生徒が対象)
学業を中止して工場で働く様になる。
軍事工場が無い地域は遠方に行く事になる。
19年7月には旧制中学全員(13歳以上) 国民学校高等科の小学生5年生、6年生まで動員されることになる。(11歳、12歳ぐらから)
作業もあまり知らない状況で行うので、労働時間がかなり増える。(10時間と言うところもあった)
高等女学校の女子学生も勤労動員の対象になる。
作るものの質は上質ではなく、粗悪品しか作れないという事もある。
作家 早乙女 勝元さん12歳で学徒動員 (昭和7年生まれ)
半藤 一利さん 0戦で使う20mm機銃弾の薬きょうを造ったりしていた。(昭和5年生まれ)
無着 成恭さん 山形中学の5年生 動員日記を付けていた。
中島飛行場に行っていた。
文部省は300万人動員する予定だったと言われる。

学童疎開
19年1月から学童疎開が始まる。(任意)   最初東京が中心。  
19年7月18日にサイパンが陥落したが、サイパンからB29が飛んでくると一気に日本の本土に来ると思われ、疎開がかなり集中的に組織だって行われる様になる。
(7月7日にサイパンで玉砕)
東条内閣が総辞職する。
アメリカの爆撃機が来ると予想され緊急を要する為7月8日に学童疎開の実施が行われる。(強制)
小学校3年、4年生が集団疎開の中心になった。(首都圏中心にまず始まる)
アメリカの爆撃が広範囲になってゆくので他の大都市も行われるようになる。
昭和19年10月ごろから爆撃が激化してゆく。

①北部軍管区(北海道)        ②東部軍管区 (東北、関東、甲信越、北陸 )
③中部軍管区(東海、近畿、四国)  ④西部軍管区(中国、九州)
日本の軍需産業の中心地がこの区域にそれぞれある。
昭和20年になると爆撃がかなり日常化してゆく。 学童疎開は各地域が対象に広がってゆく。
疎開病 単なるさびしさではなくて、そういう心理状態から呼吸、内臓疾患、子供なりの幽鬱な精神状態等を総称して疎開病といった。
疎開病を味わった人たちはかなり多いと思います。
この世代の人たちは長じて、作家になった人が多い、野坂昭如、藤本義一、黒井千次さん等。
文学的に何か書き残そうと思ったのではないでしょうか。
海老名 香葉子さん (林家三平の奥さん) 「ことしの牡丹はよいぼたん」 エッセー
学童疎開のことを記載している。(学童疎開に行くときの家族との別れなどの悲しさを記載)

沖縄の学童疎開 19年8月22日に始まる。
船で南九州に疎開しようとして出航するが、アメリカ軍の魚雷に依り沈没してしまう。
対馬丸の悲劇 1500人位が亡くなる。(学童疎開の悲劇)
日常生活、戦争とかかわりのない子供達にも戦争の厳しさ、恐さが日常に入ってくるという事を知っておく必要がある。




















2015年4月4日土曜日

田中恒清(石清水八幡宮・宮司)    ・”中今(ナカイマ)”を生きる

田中恒清(石清水八幡宮・宮司)      ・”中今(ナカイマ)”を生きる
田中さんは代々石清水八幡宮の宮司の家に生まれ、平成13年に宮司に就任しました。
現在仏教など神道以外の宗教と手を結び、日本の信仰の姿を見つめ直す活動に取り組んでいます。
人は中今を一生懸命に生きることが大切だといいます。
中今とは過去と未来の中間点に在る現在の事、中今を一所懸命に生きるとはどういうことなのでしょうか?

過去、現在、未来の時の流れが有って、我々は今の時代を生かされている。
生かされている時代を一生懸命に全力を尽くして生きてゆく、これが神道の根本的な考え方です。
この世に生まれている事自体が或る意味奇跡だと思うし、生かされている事も奇跡です。
祖先の営みが有って、それをわれわれは引き継いで今ここに生かされているという事を考えてみると、自分一人の命ではない、自分一人で生きているわけでもない。
日本人は神社に詣でるという事は感謝の気持ちで、神社にお参りする、それが一つの大きなきっかけになって、その場で物事をいろいろ考える。
参詣 参も詣も同じ意味、同じ言葉の重なり。
詣でるという事が最も大切。
神道と仏教はべつのものだが、信仰心に変わりは無かった。
神社お寺にお参りをする、極自然な日本人の信仰心の表れで、生活そのものが祈りであり信仰であり、その事によって日本人は長い間生活を営んでいた。

石清水八幡宮は貞観2年 西暦860年 平安京の南西に当たる裏鬼門を守る社として創建されました。
創建に深くかかわったのが大安寺の僧侶行教です。
1400年余り続いていた神仏習合の歴史、しかし明治の新政府が定めた神仏分離令によって、神と仏は分けられ、区別されるようになります。
石清水八幡宮でも多くの宿坊や、堂塔が破壊されるなど神仏習合の様式は姿を消しました。
表向きは神社も統廃合させられたが、お寺、神社を信仰されている方々の気持ちは、信仰心は脈々と流れている。

東日本大震災 3月末に田中さんは被災地に入りました。
瓦礫の山と化した建物、津波で全て流された町並みの跡。
絶望的な状況に直面しながらもお互いを労わりあい、一生懸命に生きる人々の姿がそこには有りました。
大槌町にある小槌神社は流されなかった。
宮司の息子さんが、夜になって大槌町に住んで初めての星の数を見ましたと、何もなくなった大地を煌々と照らしていた。
大自然はこんなときにも、人々を見まもっているんだという気持ちになって、これが日本人の自然観なんだなあと、おっしゃって、この話を聞いて心を打たれた。

漁師 津波でやられて漁船も無くなってしまっていたが、必ず海は又我々に豊かな恵みを与えてくれるし、もっとこの漁場は豊かになると、それは大自然の力によって素晴らしい漁場になる、それを私たちは待っています、という事だった。
自然と言うものを日本人がどうとらえてきたかという究極な問題と、とっさに感じた。
自然はおのずとそうなる。 
折り合いを付けて自然とともに生きてゆく、それが我々の生き方に希望を与えてくれる。
起こってしまった過去は過去とし、その時その時の瞬間である、中今を懸命に生きる人達でした。
災いは罰ではないが、しかしそれと向き合わなければならない。
われわれに対する示唆と捉えて、自然との折り合いを付けて生活を営むにはどうしたらいいかと、
かんがえながら日本人は数千年間暮らしてきたと思います。

神社、社 復興を考えると、地域に在った神社を中心にした伝統文化の復活を大事にして行かなくてはいけないものだと思う。
あと祭りの再興。
機運が盛り上がってきている。
神社は命がそこに生まれ、育ち、命の世界の一つの大きな空間でもあると思う。
普段は気にしなくてもいいが何かあった時に、何か思い立った時に、神社に詣でて自分の心の整理をする、神々に大して何か、自分の思いを伝える、日本人にとっては神社は身近なものであるという事は変わりは無い。

1月18日 青山祭りという祭りが創建以来続いている。
国の安泰が宮司によって祈願されます。
祭りを通して感謝をして、神々との交流を行い、地域社会の連帯につながってゆく。
祭りは潤いと地域の結束をその行為によってはかってゆく。
祭りは同じことを繰り返すのが祭りなんだと先人からいわれた。
経済至上主義、経済対効果、時代の流れは政治も含め複雑に絡みあった状況にあるが、本来の祈りが何かそこに吸い取られてしまっていく様な感じもするが、神社の存在は決してそうではなくて、基本的には1年に一度、何回か、神前に詣でることが一つの生活の豊かさにつながっていると捉えています。
祈りの精神は人々の幸せを願い、地域の繁栄を祈ってゆく、そういった中に自分の日々生かされている感謝の気持ちを祈りの中に含まれている。
ある場所だけではなく、いろんな場面が有ると思う、瞬間的な場面もあると思うが、祈りという事を常に自分自身の精神の中にしっかりと植えつけておく、その事によって多くの方々に幸せをかんじて頂ける、そういう祈りにつながってゆくと思う。

神道は布教しない信仰なので、参拝に来られる方の中で神々の事を考える、いろんな機会に神社に詣でるが、言挙げをしないことは大切なことだが、言挙げをすることによって皆さんの希望が生まれ、もっと一生懸命やってみようという気持ちが起こってもらう為に、もっとおおいに言挙げをしないといけないと思う。
アンケートで貴方がなやんだ時に真っ先に相談する人はどういう方ですかという問いに、神職は高い位置にいない。
神主に聞けば判る様な事でも他に聞くという様な人も結構おられる。
われわれから進んで人々の悩み、苦しみを聞いてあげる。
神職は話上手よりも、聞き上手になりなさいというのが私の考え方です。
窓口をしっかりと神社のなかにも設けておくべき時代だと思います。

中今の精神は一生懸命と相通じるものが有るが、しかし一生懸命しても自分が報われるとは限らない、逆の方向で見られる可能性もあるが、自分がやらなければならない事は神々からわれわれに与えられた大きな役割が有ると思う。
それに一生懸命取り組んでゆく。
一生懸命 一所懸命 一ところ(所)に懸命に、自分が住んでいる土地に命を懸けて守る、その土地から離れることは無い、それが本来の意味だと思う。
神社は最も古くて最も新しいものだと思っている。
神楽舞 五穀豊穣が圧倒的に多い。
奇抜な服装、所作は当時の人は驚いたと思うが、今は当たり前な形になっている。
神楽舞はミュージカル、歌劇だと思う。 
最初は神社でやる、神様にご覧頂く。(能、狂言等も)
人生儀礼、年中行事は日本人に取っては季節季節、年齢年齢のけじめだと思うがけじめが無くなってきている。

今この瞬間、一分一秒を神々から与えられた命を大切に、その命を全うするために一生懸命に生きる。
一生懸命に生きるという事は、世の中のために公のために生きるという事を本分として、生きていかなければいけないという事だと思います。




















  

2015年4月3日金曜日

鈴木大地(日本水泳連盟会長)    ・挫折が育てた水泳人生

鈴木大地(日本水泳連盟会長)    ・挫折が育てた水泳人生
ソウルオリンピック100m背泳ぎで金メダルを獲得したのが1988年21歳の時の事、当時の日本の競泳界では16年ぶりの金メダルでした。
しかしその4年後に引退を表明、母校の順天堂大学で体育学、スポーツ医科学の研究をおこない医学博士を取得しました。
現在は順天堂大学の教授として学生の指導をおこない、日本水泳連盟の会長も勤め水泳界を支えています。

自分自身最大限の努力をして来たので、どんな結果が出ても自分の実力だろうと言う事で納得する形でやって来たので、悔いはなかったです。
リラックスしてレースが運べたのかなと思います。
バルセロナオリンピックの代表選考会前に引退。
オリンピックでメダルを取るという事は、いまではいろんな選手が目標にして高い意識の中でやっているが、当時はだれも何十年と取っていなかったので、どうやってトレーニングをしてどうやって実現するのか、が判らなかった。
出来るだけハードトレーニングをやった、見本は無かった。
自分の体が壊れるぐらいまで追い込んでいたので、ここが自分の限界、臨界点という事だった。
実際身体も壊してしまった。(腰痛)
プールの練習以外の筋力トレーニングも手を抜かずにやってきた。

オリンピックの目標にしていた事が自分なりにやる事はやったと満足した部分はあった。
大学の教員になろうと思っていたので、オリンピックが終わって1年間は練習らしい練習はやっていなかった。
1年後アメリカに行ってトレーニングを始めてみると面白くなって、続ける様な形になって行った。
楽しいが「楽」になってきてしまって、楽して勝とうというような思いがあり、調子が上がらなくなってしまって、バルセロナオリンピックの選考会の前に辞めて、競技生活にピリオドをうった。
次の人生のスタートだと思ってそれなりにわくわくはしていた。
バルセロナオリンピックは解説者としていかせてもらった。
いろんなことに勉強不足だったので。もっと自分が勉強した後に、そういった仕事につかなくてはいけないのかなと思った。
暫く本業にすることは置いておいた。

最近はプロの選手はいるが、当時は認められなかった。
右肩上がりで選手生活を続けるのは、まず難しい。
体力の衰え、気力の衰え、怪我、故障、スランプだったりとかで一番で居続けることはないんですね。
そこに結構意味が有って自分の人生を考えるわけです。
浮力と推進力で発揮しながら進んでいくわけですが、体組成が変わってゆくので、休んだりしていたので、泳ぎとの感覚がマッチしていなかったと思う。
休み過ぎてしまったのがいけなかったと思う。
楽をしてはいけない、毎日コツコツやらないとしっぺ返しが来るんだと思う。
ただその時はそうするしかなかったと思う。

最初順天堂大学の教員になりコーチもやっていた。
外国に勉強させていただく機会が有り、外国の人との話、意見交換して行く中で、自分に足りないことが判って来て、いろいろ勉強しないといけないと思う様になった。
コロラド大学でトレーニングの勉強をして、一度帰って来て1998年、ハーバード大学の水泳部のゲストコーチとして現地に行った。
学業とスポーツをどう両立させているのか、見てみたいと思って行った。
イエール大学、コロンビア大学と3校見に行ったが、2校は是非にという事だったが、ハーバード大学はそんな話は全然なくて、最後は押しかけみたいな形で行った。
最初は試合に行っても顔の見分けがつかなくて生徒にどんな状態だったのか問われても答えられなくて苦労した。
アメリカの選手は全体として積極的ですね。

スポーツも一生懸命やるが学業も一生懸命にやる。
時間もうまく使う。
ハーバードで2年のゲストコーチを終了して、母校の水泳部の指導と教員生活に戻った。
夜の練習から朝の練習に切り替えて、帰って来て2年後に関東学生選手権でチームで総合優勝したことが有る。
選手の晩年時代の挫折経験が人を教えるときにいろいろと役立った。
何を言ってもしょうがない時にはこちらが我慢しなくてはいけない時もある。
2013年6月から日本水泳連盟の会長になる。
東京オリンピック ハード面や、選手の育成が刻々と迫ってきている。
8月14日 水泳の日 いろいろな競技を知ってもらう。
水難事故の防止の啓発。
水泳は自分の弱い身体を強くしてくれただけでなく、自分の世界を広げてくれたので感謝している。
水泳界に恩返ししたい。