スワーダ・アル・ムダファーラ(元私立学校長)・オマーンで日本の心を伝えたい
スワーダさんは東京都出身の72歳、日本名は森田美保子さん。 高校卒業後銀行に就職、19歳で結婚し娘さんを設けましたが離婚、その後文化センターを経営し、洋裁や生け花などを教えていました。 1978年に日本とオマーンの文化交流の催しで、メンバーの一人としてオマーンに渡りました。 それがきっかけでオマーンでの結婚、学校の設立に繋がります。 その学校で日本式の教育を行い多くの成果をあげました。 スワーダさんはオマーン人になった初めての日本人、先日スワーダさんはオマーンで日本式の教育で成果を上げているとして、旭日章受章を受賞しました。
この受賞の喜びは娘にしか伝えられないのが残念です。 父は2000年に亡くなって、実母は子供のころに亡くなっていて、その後継母が育ててくれて、継母も2019年に亡くなりました。 姉も亡くなり、その人たちには聞いて欲しかった。 娘はニュージーランドで学校の先生をしています。
小さいころからバレエをやっていて、世界と交流が出来たら面白いなと思っていました。 1985年ぐらいまでは森田美保子という名前を使っていました。 戸籍の名前を変更しました。 1979年日本とオマーンの文化交流事業の一人として、初めて行きました。 文化の違いに吃驚しました。 人々がとっても優しかったです。 着物着て琴で「さくらさくら」を弾いたら知っている人がいて一緒に歌っていただきました。 最後の夜にさよならパーティーをしてくれて、やり取りがあり日本に帰った後に、内大臣の秘書から電話がかかって来て、オマーンは好きかと尋ねられました。 もう一度来たいかと尋ねられて機会があれば行きたいと答えたら、本当にチケットが届いてしまいました。 貴方の日本の心をオマーンの女性に教えて欲しいと言われました。 再度行っていろいろ教えて、何回か行き来しました。当時私はシングルマザーで住みにくさはありました。 彼は日本に来て父親に娘さんと結婚してほしいと言われました。
誠意のある人だったので承諾しましたが、国際結婚は許可ならない時代でした。 正式に結婚したのは1983年でした。 一夫多妻の制度でしたが、離婚が成立して誰もいないという事でした。 相手には3人の子がいて、突然4人を育てることになりました。 買い物は夫がして私は料理を作りました。 ハウスボーイは2人いました。 段々物足りなさを感じるようになりました。 自分で学校を開けば、みんなにいろいろ教えてあげられると同時に、 障害のある子にも何かできるのではないかあなと思って、学校を作ろうと思いました。 主人の兄弟も学校の先生だったので、OKがもらえると思ったらNOだったんです。 しつこく言っているうちに、お金は出さない、自分は一切なにもやらないが、それでもいいんだったらやりなさいと言われました。
まずお金を生み出すことから開始しました。 自分自身でアラビア語の小学校に行きました。 1990年1月に、弁護士の方に書類を書いてもらって、文部省に提出して、7月に許可が出て9月に始まる予定でしたが、8月1日にイラクがクエートを攻撃しました。 無理かなと思ったのですが、遅れてもいいと言われて開校しました。 5人が来てくれて、私を含めて先生が7人でバスのドライバーが1人いました。 収入を得るためにサマースクールを別途開いて、凄い人数の生徒が来ました。 9月には年少、年長の幼稚園だけではなく、小学1年の3クラスを開きました。 オマーンでもサマースクールが定着しました。
日本の文化を教えるという事で、折り紙、運動会、水泳を教えました。 イスラムで3つの大切なことを教えなければいけないことは、剣、乗馬、水泳でした。 朝礼、ラジオ体操も毎日やっていました。 ラジオ体操をやる事によって脳の活性化が始まるわけです。 上履きを履く。 靴の紐を結わえたりして指を動かすことが脳の発展になる。 指先を使う事を教育の中に入れていきました。 小遣い帳も付けるように言いました。 整理整頓も出来るようになりました。 学校を楽しいところにしたかった。
2010年に校長職を引退しました。 その当時、小学校から高校生まで850人いました。 これからは大学生を対象に、社会人になるための何かをしてみたいと思いました。 オマーンの大学生と日本に大学生との交流をしようという事でやって来ました。 その延長線上で、子供だけではなくて、大学生ということでいろいろ交流しています。 そして女性の自立を奨励してきました。 日本語を話せる人が結構いて、どうして話せるのか聞いたら、アニメから学んだようです。 日本語ブームは凄いですね。 日本の教育を私は輸出しましたが、輸出した先で学んだ人が、また逆に輸入してくれる。 そこで付加価値がちょっと変わってきて、価値あるものになって行けばいいなあと思います。