友吉鶴心(薩摩琵琶奏者) ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠
友吉鶴心さんは1965年東京浅草出身。 明治生まれの祖父の影響で幼少から様々な伝統芸能を学ぶ。 日本舞踊、三味線、お花、お琴、お香、書、鼓、狂言、などで自分が好きでした。 常磐津、義太夫、清本、長唄などもやりました。 1987年(22歳)薩摩琵琶奏者の鶴田錦史さんに入門、演奏活動を始める。 今年はプロバスケットボールBリーグの試合でもオープニングで演奏しました。 チームの紹介をするわけですが、名前を言うだけでファンの歓声が凄かったです。
戦国時代薩摩地方(現在の鹿児島)で武士の教育をするために、琵琶と竹の笛のどちらかをやらないといけないという教育をしていました。 (島津家) 琵琶も 音楽的なメロディーを弾くというよりも、唄う事、語る事が中心です。 私の家は父方も母方も薩摩琵琶の奏者でした。 幕末から明治にかけて凄く流行るんです。 その時に曾祖父が始めるんですね。 母方は琵琶を教える人でした。 父方が友吉鶴心で母方が山口速水でした。 薩摩琵琶と言う言葉は明治14年なんです。(薩摩では単に琵琶と言っていた。) 明治14年に明治天皇が東京に下った時に、島津公が大きなパーティーをやって、琵琶の名手二人に御前演奏をさせる。 明治天皇が素晴らしいと言って、琵琶ですと言ったら、薩摩琵琶かといって薩摩琵琶と言う言葉が生まれました。
今は琵琶屋さんは都内に一軒しかありませんが、明治、大正、昭和の第二次世界大戦の前までは45軒ぐらいありました。 海軍は宮崎出身者が多くて、みんな琵琶をやっているので、琵琶がかっこいいという事で広がって行きました。 東京ぽい節回しになって、芸能として錦心流ができて傾倒していきます。 琵琶のボディーに半月とか丸いお月様がついていて、月を崇拝する国、(中東)で作られて、シルククロードを経て、琵琶が仏教と一緒に日本にやってきたと推測されています。 糸は今でも絹の糸です。
雅楽琵琶、盲僧琵琶、平家琵琶、薩摩琵琶、筑前琵琶(薩摩琵琶と三味線とミックス 女性用)の5つが大きな流れとして伝わっています。 それぞれ素材から違います。 平家琵琶は雅楽琵琶と盲僧琵琶を足して生まれたものです。 持ってきた楽器は120~130年ぐらい経っています。 関ヶ原のころに植えられたものを江戸時代に伐採されて、天然の乾かしが入って朽ち果てた木をそぎ落として、なかの芯の桑の木でつくられたものです。 大正、昭和の大名人と言われた大館 洲楓先生がこの楽器を発注して作て頂きました。 それを今私が預かっているという状態です。
*祇園精舎 演奏
私の師匠は鶴田錦史です。 鶴田流です。 女性ですが怖かったです。 悲しいところを悲しそうに歌うと駄目だというんです。 もっと朗々と歌えと言うんです。 私は死のうとしてる人を跨いでここまで生きて来た。(戦時中) 助けてと言うのを自分の命を優先してしまったから生涯その言葉は耳に残っている。 悲しさを越えている。 あんたたちは悲しさなんて判らないと、いつも言っていました。 聞いてくれる人が100人居たら100人の悲しさに音曲が落ち込めば、心の中に入れば、100人の悲しさがある。 役の人の悲しさとドラマの聞いた方の悲しさとがあいまった時に悲しさは広がるのではないかと言うのが師匠の考えでした。
鶴田 錦史師匠は1911年北海道の生まれで、13歳のころから演奏活動をはじめて、1967年に武満徹に見いだされて、『ノヴェンバー・ステップス』にて琵琶奏者として世界デビューを果たす。 世界のコンサートホールで100回以上演奏をしています。 琵琶での風の音、波の音、擦る音、など鶴田 錦史と武満徹先生の考案した奏法です。 稽古ではカセットテープをとって、それが今は宝の山になっています。 糸の具合とさわりでどれだけ稽古をしてきたのか判ります。 うちの師匠の凄いところは人前では絶対褒めるんです。 あんた私よりうまくならないと駄目よといつも言っていました。 弟子が上手くできないような師匠では師匠ではない、と常に言っていました。
日本の音とは、日本人が持っている感性じゃないですかね。 感性が表現された音が日本の音だと思います。