高田敏江(女優) ・朗読に託す平和への思い
高田さんは昭和10年群馬県前橋市の生まれ。 1954年に女優デビューし、以来、映画、テレビ、舞台で活躍してきました。 特に舞台では40年に渡って広島長崎で被爆した人たちの手記を朗読しています。
今年の誕生日で90歳になります。 1985年に戦後40年という事で、被爆者の手記とかの朗読劇をやりたいという声がかかって来て、引き受けました。 最初は6人の女優で始めましたが、皆戦争体験者なので涙が出て来てしまって、それをこらえるのが大変でした。 私は終戦の年が10歳でした。 こんなに長く続くとは思ってもいませんでした。 1995年に沖縄公演に行きました。 2007年に地人会解散して、2008年にこれは絶対続けましょうという事で18人の女優たちが「夏の会」と言うのを作りました。 製作から全部やるので大変でした。
「広島 母たちの手記」 新谷君江? 朗読
「勝次ちゃん(?) 貴方が生まれて2週間後に支那事変がはじまり、そして8月6日から10日後に終戦、戦争の間から貴方は生を受けていたのね。(?) 人間らしい楽しい生活も知らないままに、貴方が物心ついたころから夜は灯火管制で暗闇の生活。 食べものは大豆かすのご飯やぬかの混じったおだんご、貴方は大豆ご飯が大嫌いだった。 8月6日のその朝も、お母さんは仕方なく大豆ご飯を炊きました。 嫌いと言ったあなたはお母さんから叱られて涙を一杯浮かべて食べました。 そして学校に行ったのね。 ランドセルを背負って「行ってきます。」これが最後の言葉でした。 貴方は二度とお母さんの元にな帰ってこなかったの。・・・貴方はどこで死んだの。 火に包まれながら「お母さん、お母さん」と泣き叫んだのではないかしら。 全身やけどを負いながら、苦しい息の下から、「お母さん水を、お母さん水を」と言いながら、息は絶えたのではないかしら。 どんな姿になってもいい。 もう一度お母さんの元に帰って来て頂戴。 そしたらこの旨にしっかり抱きしめて、そして真っ白ご飯を腹いっぱい食べさせてあげたいの。 これがお母さんの切なる願いです。」
私も1945年8月5日前橋で空襲の体験をしました。 自分の街が燃えるのを赤城山の中腹から呆然と見ていました。 前橋の家のすぐ近くには大きな防空壕があり、家にいたらその防空壕に入っていたと思いますが、熱風でドアが開かなくて入っていた人たちは全員亡くなりました。
18人でスタートしましたが、亡くなったりして2018年に解散という事になりました。 2019年には有志が長崎に行って朗読しました。 広島の世界平和記念聖堂と言うところで朗読と公演を頼まれまして、それを聞いていたなぎさ中学がそれからずっと平和学習としてやってくださいという事で今年もやって来ました。 この平和を何としても続けていきたいといった感想文を送ってもらっています。 中学生にも一緒に朗読してもらって、それが疑似体験にもなります。
身体が続く限りはこれを皆さんに伝えてゆく事が、自分の責務じゃないかなあと思います。
峠三吉の「墓標」 峠三吉は広島で被爆をして1951年原爆詩集を出版。
「小さな墓標」 舞台用の台本で朗読
「君たちはかたまって立っている。 ・・・今はもう気付く人もない一本の小さな標。 ・・・雨が降れば泥沼となるそのあたり、君たちは立っている。 段々朽ちる木になって何を甘え、何をねだることもなく、黙って、黙って立っている。 ・・・熱い熱い風の暗い暗い息の出来ぬところで、柔らかい手が小さな首が石や鉄や材木の下で、血を吹きどんなにたやすく潰れた事か。 「兵隊さん助けて。」と呼んだ時にも、君たちに応えるものはなく、何にもわからぬままに死んでいった君たちよ。 ・・・君たちは片付けられ忘れられる。 かろうじて残された一本の標柱も、やがて土木会社の拡張工事の土砂に埋まり、その小さな手や首の骨を埋めた場所は何かの下になって永久に判らなくなる。 「斉美(せいび)小学校戦災児童の霊」 ・・・あの日の朝のように空はまだ輝く青さ、君たちよ出てこないか。 柔らかい腕を組み起き上がってこないか。 ・・・戦争を起こそうとする大人たちと世界中で戦うために、そのつぶらな瞳を輝かせ、その澄み通る声で「ワーッ」と叫んで飛び出して来い。」 そしてその誰の胸にも抱きつかれる腕を広げ、誰の心へも正しい涙を呼び変えす頬を押し付け、僕たちは広島の、広島の子だとみんなの身体へ飛びついてこーい。」