深澤吉隆(元中学校教諭) ・仏像疎開、その真意を伝承する
太平洋戦争のさなか、国宝の仏像など貴重な文化財の数々は所蔵する寺などを離れより安全だと思われる地域へ移送、疎開させられていました。 しかしその資料はあまり残っていません。 中学校教諭だった奈良市の深澤吉隆さん(62歳)はこの事実を若者たちに伝えるため、おもに奈良県内の仏像疎開について、数少ない資料から調べたり関係者に聞き取りをしたりして、学校現場で使う教材を作成しました。 仏像疎開とはどういうものだったのか、戦争の知られざる一面を次の世代に伝える意味とはなにか、伺いました。
平和学習はどこでも取り組んでいることだと思います。 奈良市では修学旅行で小学校では広島、中学校では沖縄に行くことが多いです。 地元の奈良のことをどれだけしているのかなとふっと思いました。 それがきっかけとなりました。 仏像の疎開と言うのはあまり知らないんじゃないのかなあと思いました。 それを教材化していこうとしました。
基本は文献資料を当たってゆく事ですが、仏像疎開に関しては出てこないんです。 疎開をしているので現地に行ってみる。 関わった人がいたら聞いてみたいと思いました。 昭和16年3月に、国立博物館(当時は帝室博物館)から「東京帝室博物館有事の際における御物並びに保管美術品の処置方針」と言うものが政府に上申された。 これがスタートです。 この12月にアメリカに宣戦布告します。 その場所に選ばれたたのが奈良だったと言われます。 天皇を中心に国家を形成しようというあり方だったので、天皇家に伝わる御物をまず疎開させるという事はあったと思います。 戦況が悪化すると、「国宝、重要美術品の防空施設整備要綱」を閣議決定して、奈良にある国宝、美術品をさらにもっと安全なところに移動させようという方針が決定される。(昭和18年年末ごろ)
昭和19年1月に文部省と県が協議をして、東大寺、興福寺、法隆寺と言ったお寺の仏像疎開、偽装(空から見てお寺とは判らないようにする)とい織ったことが決定される。 3月に東大寺、興福寺の国宝66点ぐらいが奈良市の円照寺に移送された。 その後ほかのお寺にも移送された。 昭和19年4月さらに疎開をしていこうという事が決められた。 昭和20年3月に大阪の大空襲がある。 三月堂、二月堂、大仏殿廊下と言ったものの解体の要請がある。 三月堂の解体は拒否していたようです。 昭和20年6月1日に東大寺の転害門(国宝)から西大寺に向かう一条通り沿いに空襲があった。 危機に瀕して三月堂の解体の承認をしてゆく。 興福寺の阿修羅像などの疎開も準備されてゆく。
法隆寺はその何年も前から解体修理を進めていた。 仏像などは民間のところに疎開させるという事をしていました。 釈迦三尊像と救世観音像については断固拒否をしたそうです。(お寺の要) 唐招提寺の鑑真和上像の疎開には応じなかった。 興福寺は6月1日の空襲をきっかけに移送を決めます。 移送先が吉野の当時の町長宅(民家の土蔵)だった。 阿修羅像などが鉄道で運ばれたようです。 奈良側では移送には人手が無くて刑務所の受刑者を動員した様です。 終戦後直ぐには戻らなかった。 アメリカ軍の接収を恐れた。 戻ったのは昭和20年の年末。
戦争になると異常な状態になる。 最悪の状況を想定して行った仏像の疎開など、全部情報が流れていたら、あの戦争ももっと早く終わっていたのかもしれない。 経験した方がいるかいないかという事は凄く大きいことだと思います。 やがて戦争を知らない人ばっかりになってしまう。 忘れないためには今判っている事実に基づいて正確に次世代に繋げてゆく、そういう事が大事だと思います。