阿刀田高(小説家) ・戦争と平和
2007年から2011年まで日本ペンクラブ会長を務め、各地で平和について語って来ました。 阿刀田さんは現在90歳。 80年前小学5年生の時に疎開先の新潟県長岡市で長岡空襲を経験します。 当時の生活や空襲の記憶、そして戦後80年の今、日本の歩むべき道をどのように考ええているかを伺いました。
父が元々東京と長岡に意仕事の関係をもっていました。 戦争が激しくなり昭和19年の夏に家族で長岡に疎開しました。 米作りを2年間しました。 川に魚影を見かけて魚を取りに行くのが楽しかったです。 昭和20年8月1日 夜に空襲があり母と川の土手に避難しました。 B29が100機ぐらい来ました。 幸い私の家は焼けませんでした。 長岡市が焼けるのを信濃川?から見ていたので、心配しましたが。 5歳うえの姉がいて、姉は独りで逃げて、同行した人と共にもっと田舎の方に行きました。 家族はそれぞれ無事に帰ってきたのに姉だけは帰って来ませんでした。 ひろまろ?小学校が緊急避難所となっていたのでそこに姉がいるかどうか見てくるように言われました。 遺体なども置いてありました。 防空壕では或る母親と子供を二人抱えて死んでいるのを見ました。(防空壕は焼夷弾だと蒸し焼きにされてしまう。) 従兄弟が材料力学の専門家で、焼け跡の焼夷弾の鋼鉄を拾ってみて、「こんな鉄を捨ててゆく国と戦争をしては勝てないな。」と言ったのを非常に強く覚えています。
私の世代は先生にも殴られ、天皇陛下に一命を奉げるという事をまるっきり信じた世代なんです。 8月15日が来て、その後9月、10月頃の授業で、これからは日本は戦争をしないんだと先生が言ったのを聞いて、天気のいい青空を観ながらもう戦争はしないんだと思ったのが凄く記憶に残っています。 これからは民主主義だとコロッと変わってしまって、大人は信用できないという事を我々の世代は根強く持っています。 (大人不信)
我が家は戦前から自由な家庭でしたので、戦後の自由な雰囲気には割となじみやすかったと思います。 長岡花火は昭和22年にあがっています。 何でやるのか釈然としないところがあります。 焼夷弾に似てるんですよ。 花火を見ると空襲のことを思い出さない日はないですね。
今は大変な時代に入ってきているなと言う実感があります。 もしかして人類は滅びやしないだろうけれども、もう一回地球の1/3ぐらいどうかなりそうなことが起きて、ようやく反戦にに至って、又次の何かが誕生するという事さえ起きるのではないかと思います。 日本は80年戦争せずにやってきたという事は凄い事だと思います。 あっちへペコペコ、こっちにペコペコしながら、平和を求めてゆく。 石原慎太郎さんのようにかっこいいことを言って頑張ってもこの国はなかなかうまくいかないよと、と言うのが私の考えです。
先進諸国との格差は絶対追いつかない。 上手く折り合いが付くわけがない。 何かの拍子でとんでもないことが起きる。 独特な宗教観もあり折り合いがつかない。 世界の95%の人間は平和を願い、望んでいると思います。 でもなかなかそういう風にはならない。宇宙人が攻めてきたら地球人は纏まるでしょう。 小説家のたわごとみたいですが、本当に難しいことだと思います。
日本人は、日本国は間違いない世界一の財産を持っているんですよ。 それがいろんなところで生きていると思います。 日本人は文字を知っている事、字が判るという事、文字がちゃんと読める、書ける、この力は国民の力にはなっている。 これを上手に生かしてゆく事、それがこの国が栄える道ではあるけれど、これで世界の混乱が何とかできるかと言うと、簡単には出来そうもない。
日本はあの戦争があって負けて、良い国になったんだと思います。 日本の軍閥をなくすことは簡単ではなかった。 軍国主義を完全に葬られたということは、日本が負けたお陰だと思います。 平和、民主主義とかをちゃんと考えられるようになったのは、戦争に負けたお陰だったと思います。 今のアメリカの国を見るとこの国は大して立派な国ではないと言う気がしてしょうがない。
あの戦争を体験しているのは我々世代でもう終わりです。 書かれたものが、個人の何かの原動力になるほどの強い印象を持つことは残念ながらないと思います。 これからは普通に賢く守ってゆくと言う事で、何とかこの国をやってゆくという事しかないんじゃないかと思います。 「日本国民は立派だ。」と言ってマッカーサーは去っていったんですね。 素朴な大切な事をちゃんと大事にしてやってゆく。 それで駄目ならその時は仕方ないんだと私は思っていますが。 平和を愛し、隣人を愛し、つまらないことに染まらず、極普通に人間として正しいと言われることを、ちゃんと素朴に守って行く、それが大多数であれば何とかそれなりの国でやってゆけるのではないかと思っています。