2024年1月19日金曜日

大倉由紀枝(声楽家(ソプラノ))    ・人生100年、悔いなく生きるために演じ歌いたい

大倉由紀枝(声楽家(ソプラノ))   ・人生100年、悔いなく生きるために演じ歌いたい 

大倉さんは1953年福島県いわき市出身、1975年国立音楽大学声楽科卒業、1979年東京芸術大学大学院オペラ科修了後イタリアに留学。 帰国後1981年『カプレーティ家とモンテッキ家』ジュリエッタで主役デビューして以来、プリマドンナで数々のオペラで活躍してきました。20年目に母校国立音楽大学の助教授の誘いを受け、その後は教授として20年間後進に指導に当たりました。 その任務を終えたのを機に、去年10月、大倉さんとしては初めて自主リサイタルを開きました。 数年前に病を患ったこともあり、人生100年時代に悔いなく歌い続けたいという大倉さんに伺いました。

普通65歳で定年なんですが、特任教授と言う事で5年間残りましたが、去年3月に退職しました。 50歳から勤め始めて、70歳まで20年間になります。 コロナ禍ではどうやって教えてゆくか苦労しました。 数年前に心筋梗塞を患ってしまいました。 同僚が亡くなったりして、一生は一度しかないと身近に感じました。 一昨年久し振りにオペラの重唱を歌って、やり残したことがあったのではないかと思って、オペラをやらなきゃと思って、コンサートをやることに至りました。(初の自主リサイタル)  それまでは二期会の組織の元に歌っていました。 こまごまとしたことやチケット売りもこなさなくてはいけなくて、大変さが身に沁みました。 

第一部が日本歌曲『山田耕筰』の作品より。 第二部がプッチーニの「ラ・ボエーム」のハイライトを構成しています。 

*「母のこゑ」 作詞: 大木惇夫  作曲:山田耕筰 歌:大倉由紀枝

「母のこゑ」は大学に入る時の受験曲でした。 

余りにもいろんなことを入れ込んでやってしまって、終わってから抜け殻みたいになってしまいました。 

1953年福島県いわき市出身。 小学校4年生の時に「とんび」を独唱しました。 小学校、中学校、高校まで合唱をやっていました。 一時期薬剤師になろうと思っていた時期がありました。 国立音楽大学の新任の先生が居まして、話を聞いているうちに音楽の先生の道もありかなあと思いました。 国立音大を受験することになりました。1975年国立音楽大学声楽科卒業。 同時期に二期会オペラ研修所22期生終了。(修了時最優秀賞受賞) 第13回民音?コンクールで第一位。  1979年東京芸術大学大学院オペラ科修了。 卒業と同時に留学しました。(イタリア)  大きな機会になりました。 1981年に藤原歌劇団でオペラ『カプレーティ家とモンテッキ家』ジュリエッタで主役デビュー。

一番多く歌ったのが『フィガロの結婚』伯爵夫人です。 当時日本では日本語でやっていて、日本語の発音、発声では大変でした。 何十年かしたら原語で歌うという音になってきました。   新国立劇場でリヒャルト・シュトラウスが作曲した『アラベッラ』で大役を務める。 2010年には新国立劇場で三島由紀夫の『鹿鳴館』の伯爵夫人朝子をやりました。 『アラベッラ』、ばらの騎士』が50歳前後の時で、一番充実していたのかなあと思います。 母校から後進の指導をしてほしいとの話がありました。 迷いましたが、最終的に引き受けることにしました。 

「ラ・ボエーム」、「トスカ」とかもやっていなかったし、リサイタルの時プッチーニの「ラ・ボエーム」のハイライトを構成、ミミの役をやりました。 

「ラ・ボエーム」 第3幕「別れの四重奏」  「アリア」  歌:大倉由紀枝

「いわき応援隊」の活動のなかで、歌で盛り上げられたらなあと思っています。 両親もいなくなって去年いわきの実家を処分しました。 小学校から使っていてピアノを直して母校の小学校に寄贈して、その時に歌もプレゼントしました。 主人(岸本力)はバスの歌手です。 息子はバスバリトンの歌手です。 3人でファミリーコンサ―トと言う事で何年か歌わせてもらっています。  『カプレーティ家とモンテッキ家』で私はジュリエッタ役でしたが、そのお父さん役を主人がやりました。 私の大好きな言葉が「一期一会」です。 その時その時を最善を尽くして、誠意をもって対応する、という事を心掛けたいと思っています。