2023年7月11日火曜日

山本學(俳優)              ・〔出会いの宝箱〕

 山本學(俳優)                   ・〔出会いの宝箱〕

昭和30年(1955年)俳優座養成所に入所、1958年のデビュー以来、存在感のある演技で活躍しています。(86歳。)

40年ほど前のテレビ番組「絵描きと戦争」に出演。  8月というと必ず原爆の話になります。  戦争の責任の話もあんまり出てこない。  「絵描きと戦争」は1981年(昭和56年)に放送。  木村栄文監督はドキュメント番組に精通していました。  これをやることで改めて戦争責任を考え直すことになりました。  レポーター、インタビュアー、ナレーション、画家坂本繁二郎の役も演じる。   絵描きにとって戦争とはなんだったのか。      藤田嗣治と坂本繁二郎の対照的な足跡をたどりながら、この問いについて考えるテレビドキュメンタリー番組。  

藤田嗣治は明治生まれで、父は森鷗外の後任として最高位の陸軍軍医総監中将相当)にまで昇進した人物で、金持ちでフランスまで藤田嗣治を行かせた。  坂本繁二郎は久留米の人で貧乏だが15,6歳の時から絵を描くことが好きだった。  ぼやっとした馬の絵(代表作『水より上がる馬』)を描いている。  

60年安保の時に、稽古をするか、安保のデモに行くかで、劇団が総会をして結局劇団が3つに割れてしまうんです。  僕は新人会というところ(大元のところ)に残してもらいました。  裏方で入ったが、役者もやって稼げと言われました。  テレビにも出なくてはいけなくなって俳優の道に入って行きました。  「絵描きと戦争」に出演することになりました。  

坂本繁二郎をブリジストンの石橋さんが応援して、彼が30歳の時にパリに行っています。藤田嗣治は20代で行っています。   そして戦争に向かい合う事になる。      石橋さんが坂本繁二郎に頼んだのが「爆弾三勇士」という上海事件の時に3人の久留米の兵隊が爆弾を抱えて自爆するんです。(特攻の一番最初)   頼まれて一生懸命描こうとするが、その年も描けず翌年も描けず、3年かかってやっと描けた。  ブリジストンの美術館に掛けたが、お客さんは忘れていて反応がなかった。  以後彼は戦争画を一切描かなかった。  

藤田嗣治は戦争前にパリに行って、裸婦を描いたりして世界で引っ張りだこになるような売れ方をして、時代の寵児としてもてはやされた。  彼は第二次世界大戦のぎりぎりに帰って来て、軍部の戦争記録画を引き受け、南方などに行って戦場の絵を描いたりした。    「絵描きと戦争」に二人が取り上げられた。  最初に高村光太郎の開戦の激励の詩文が入るんです。  智恵子抄と戦争讃歌との落差が気になって 調べたらいろいろ変転した詩を書いている。  

藤田嗣治はGHQの戦争犯罪の第一候補として仲間から指名され、告発される。     或る評論家からは「絵描きは絵を描くことが本能なんだから、時代がどうのとかではなく、与えられた題材で必死になって描いたのが藤田嗣治だったんだ。」というんです。

藤田嗣治の戦争の絵は保管されていて、300号とか大きくて迫力に満ちています。    「アッツ島玉砕」という作品は、自身が「私の最高傑作である。」と言っている。     敗戦になってみんな筆を変えて、山村の絵を描いている。     藤田嗣治は「仲間喧嘩をしないでください、日本画壇は早く世界的水準になってください。」と言ってパリに行ってしまう。(日本を捨てざるを得なくなる。)  国籍もフランスになる。   

僕は終戦の時に小学校2年生でした。  母は戦争と結びつけて僕を教育してきました。   戦争が終わったという事で母親は家中を踊りまわりました。   僕は戦争に負けて泣いていたのに、それを観て呆然としました。  父は戦争に行ってしまっていて、母と子供3人で飢え死にしそうでした。  戦争と芸術は難しいなあと今も思います。 

「爆弾三勇士」は3人が棒のようなものを抱えて、ぼやっしていて勇気をたたえる様な絵ではなかった、むしろ戦意を喪失するような絵でした。  今この絵はどこにあるのか判らない。  坂本繁二郎と藤田嗣治は全く対称的な道を歩んだ。  藤田嗣治は裸婦を描くのに、歌舞伎の「との粉」から」ヒントを得たという話があります。   原爆も日本の人の心に沁み通っていないなという事も感じます。  

高村光太郎の戦争に関する詩、戦争を賛美した詩の戦後の反省した生き方。

高村光太郎の三篇の詩を朗読。

記憶せよ、十二月八日

「この日世界の歴史あらたまる。

アングロ サクソンの主権、

この日東亜の陸と海とに否定さる。

 否定するものは我等ジヤパン、

 眇たる東海の国にして、

また神の国たる日本なり。

そを治しろしめたまふ明津御神なり

世界の富を壟断するもの、

 強豪米英一族の力、

われらの国において否定さる。

われらの否定は義による。

 東亜を東亜にかへせといふのみ。

 彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。

われらまさに其の爪牙を摧かんとす。

われら自ら力を養いてひとたび起つ。

 老若男女みな兵なり。

 大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。

 世界の歴史を両断する。

 十二月八日を記憶せよ。」 


終戦の時の詩

「一億の号泣」

「綸言一たび出でて一億号泣す

昭和二十年八月十五日正午

われ岩手花巻町の鎮守

島谷崎神社々務所の畳に両手をつきて

天上はるかに流れ来る

玉音の低きとゞろきに五体をうめる

五体わななきてとゞめあへず

玉音ひゞき終りて又音なし

この時無声の号泣国土に起り

普天の一億ひとしく宸極に向ってひれ伏せるを知る

微臣恐惶ほとんど失語す

ただ眼を凝らしてこの事実に直接し

荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさゞらん

鋼鉄の武器を失へる時

精神の武器おのずから強からんとす

真と美と到らざるなき我等未来の文化こそ

必ずこの号泣を母胎として其の形相を孕まん」

 

昭和22年の詩

暗愚小伝に中の「山林」の一部

「私はいま山林にゐる。

生来の離群性はなほりさうもないが、

生活は却て解放された。

村落社会に根をおろして

世界と村落とをやがて結びつける気だ。

強烈な土の魅力は私を捉へ、

撃壌の民のこころを今は知つた。

美は天然にみちみちて

人を養ひ人をすくふ。

こんなに心平らかな日のあることを

私はかつて思はなかつた。

おのれの暗愚をいやほど見たので、

自分の業績のどんな評価をも快く容れ、

自分に鞭する千の非難も素直にきく。

それが社会の約束ならば

よし極刑とても甘受しよう。」


高村光太郎は空襲で、智恵子と暮らした家も失い、岩手県の花巻で小さい家で独り暮らしを始める。  自分を見つめ終戦。 「一億の号泣」

「山林」 非難する人は非難してくださいと言い切っている。 

ウクライナもそうですが、何でこういう風に戦争は繰り返されるのでしょうか。