2020年1月4日土曜日

片岡秀太郎(歌舞伎俳優 人間国宝)    ・上方歌舞伎を守る

片岡秀太郎(歌舞伎俳優 人間国宝)    ・上方歌舞伎を守る
片岡秀太郎さんは昭和16年後に人間国宝になった13代目片岡仁左衛門の次男として大阪で生まれました。
以来、ずーっと関西に住み続け上方の香りをまとう女形として活躍、父の意志を継いで一時期衰退した上方歌舞伎を復興させるため力を尽くしてきました。
兄は片岡我當さん弟は人間国宝の15代目片岡仁左衛門さんで3兄弟で日本の歌舞伎を支えています。
ファンやご贔屓筋から贈られた胡蝶蘭の花に囲まれた楽屋で伺いました。

人間国宝になっても自然体でやっています。
顔見世の出演が前人未到の70回目となりました。
70回目は武田信玄の軍師山本勘助の母親越路を演じる。
いつもの柔らかい女形とは違って厳しい老女役でした。
優しいところもあり厳しく演じるところもあり難しい役です。
歌舞伎の時代ものでは涙を流さないのが鉄則ですが。
昭和25年9歳の時に子役として初出演しましたが、周りは東京の人で関西弁はなく苦労しました。
凄くプレッシャーがあり初舞台で吐いてしまい、周りが上手く隠してくれました。
歌舞伎はもうできないと覚悟しましたが、3代目中村時蔵の奥さんの小川ひなさんが走ってきて抱きしめて「頑張ったね 偉かったね」と言ってくれてわーっと泣いてしまいました。
二日目からはちゃんとやっていました。
兄弟では私が一番やんちゃで兄は優等生で学校で級長などをしていました。
小さい時から父親を見ていたので父親のような男役の役者になりたかったが、子役ができなくなって大人の役をするときにまず女形をするんですが、そのうちに意に反して女形の道に進むことになってしまいました。
まんざら女形も悪くないと思うようになりました。

昭和20年に家が焼かれてしまい京都で借家住まいをしてその時に初舞台を踏みました。
小さな家に12人が住んでいました。
夜遅くに父が帰ってきてからいろいろ教えてもらいました。
手の動かし方、息つかい、声の出し方 声の続け方など。
義太夫の稽古も子どものころからやりました。
昭和31年に二代目片岡秀太郎を襲名しました。
関西ではお客さんが減ってきて役者も映画に行ってしまったりして減ってきました。
父は江戸歌舞伎も好きでしたが上方も頑張らないといけないという事で、京都に居を構えて東京にはいかないでおこうという事になりました。
私も父の意志を継ぐことにしました。
関西歌舞伎が低迷していた時に父が中心になって昭和37年に自主公演、仁左衛門歌舞伎を旗揚げをしました。
みんな芝居したい人たちでしたが、お客さんは来ませんよと言われたが、別荘を処分すれば何とかなるだろうという事で、自主公演をすることにしました。
周りにも応援を依頼して、裏千家さんとか、松下幸之助さん(松下電器創業者)とか、早川徳次さん(シャープ創業者)とかに声をかけて応援してもらいました。

凄い行列ができてみんな泣きました。
超満員の中で舞台を終えて、役者さんも喜んで、赤字覚悟だったのがもうかってしまって、関係者にお渡しすることができました。
プロデュースしたのは母と姉でした。
あの時の興奮は忘れないです。
仁左衛門歌舞伎は5年続きました。
「褒められて追っついてよくなるのはいいけれど、褒められて有頂天になるのはいけないよ」と若い人に言っています。
「波には乗りなさい、調子には乗らないように」とは、言いたいです。
平成9年大阪松竹座ができ松竹の上方歌舞伎塾が開塾、主任講師を担当。
同年、道頓堀の中座で関西歌舞伎 中の芝居で自主公演を行いました。

平成6年父が亡くなり、秀太郎歌舞伎座の座付き役者になりなさいと言われたが、上方の歌舞伎の灯を守っていきたいと思ったら、上方歌舞伎塾が開塾されました。
素人の子どもたちに教えることができて、お陰で随分公演も楽にできるようになりました。
若い人が歌舞伎を見てくれる様になりました。
塾が無かったら役者はいません。
応募資格は関西に住んでいることが条件になります。
弟子もみんな大阪弁です。
これからどんどん若い人が出てきているので、70回を機に辞めようとも思ったんですが、役者を続けて舞台に出ながら若い人を教えていった方が説得力があると思って、これからも頑張りたいと思っていまして、若い人たちを育てていきたいと思っています。