2018年3月12日月曜日

荒井秀樹(ノルディックスキー日本代表監督)・【“2020”に託すもの】障害者スキーとともに歩む道

荒井秀樹(ピョンチャンパラリンピックノルディックスキー日本代表監督)
・【“2020”に託すもの】障害者スキーとともに歩む道
アルペンスキー、クロスカントリースキー(ノルディックスキー)。
私が担当しているのはノルディックスキーと、射撃を組み合わせたバイアスロンという競技です。
目に障害がある方たち、身体に障害のある方達で競っているのがパラリンピックになっています。
バイアスロンは視覚障害の方も行います。
長野パラリンピック迄は全盲の方もエアーライフルを撃っていましたが、用具の進歩が進んで現在は視覚障害の方は音を聞き分けてビームライフルと言うものがあり、音響装置を付けて的の中心部に近づくと高い周波数の音が出て、撃ってゆくという競技に成って来ています。
2.5kmのコースを走って来て、息を殺して的を射て行くと言うことで、聴力検査と同じような音が出て1570HZの高い音になると10m離れた所に2.4cmの的が有り、それを撃ち抜いていきます。
至難の業です。
7.5kmの場合は、2回の射撃が有り、1回に付き5発、全部で10発撃って、1発外すごとにペナルティーが加算されて、150mのループを回ってコースを走って行く。

ノルディックスキーはスタンディングとシッティングがあります。
手や足の障害がある方たちが、障害の軽い重いについて一定の係数であわせてハンディー制にして平等にレースができるように成っています。
脊髄損傷などの選手はシットスキーでレースを行います。
2002年のソルトレイクは障害ごとに、全盲だったら全盲の選手だけで競っていました。
世界チャンピオンを一人にして欲しいとの要望から大きなカテゴリーに成りました。
それを平等にやる為にハンディー制を取り入れてのレースをおこなっています。
私は北海道の旭川の出身でクロスカントリースキーの盛んな地域です。
中学からクロスカントリースキーを始めて、大学出て江東区の役所に勤めていて、スキー部があり、クロスカントリースキーをやっていて、中学高校生もやっていることが判り、子供たちに教えたり、自分も国体を目指していた時代が有って、東京都のスキー連盟の部長だった工藤さんから1998年の白馬のオリンピックパラリンピックがあるが、パラリンピックの指導者を探していて、どうだろうかとの話が有りました。(1995年)

子供達と一緒にトレーニングをすればいいかと思って返事をしました。
しかし、まだ選手がいないということで吃驚した記憶があります。
パラリンピックには関心が向いていなかったようでした。
障害者スキーの振興はしていたが、競技として強化して行くところは進んでいなかった状況でした。
長野パラリンピックでは小林深雪(こばやし みゆき)さんがバイアスロン視覚障害で金メダルを取りました。
まさか2年間の強化で金メダルを取ると言うのは、思っていませんでした。
小林さんの力もありますが、日本中の方たちの応援する風が吹いて、小林さんに金メダルを取らせてくれたと思います。
1か月前にダボスで世界選手権があるのでそこに出場したかったが、協会費がなくて遠征にはいけませんでした。
チーム全員はいけませんでしたが、5人の代表で行ってきました。
その時に小林さんが3位に入りました。
スタンディングで8位に成った選手もいました。

1996年スウエーデンでIPC( International Paralympic Committee)の大会が開催されて、競技関係者が大会を見に行きましたが、凄くレベルが高くて、2年後にそこそこのレベルを持っていけるか心配でした。
岐阜県での全国中学校大会に片腕の中学生が出ていたと教えてもらって、名前も知りませんでした。
長野のときに出てもらおうと言う思いがありました。
資料を調べたが判らなくて、宿の人に聞けばわかると思って一軒一軒電話をしました。
岡山県のスキー連盟に電話して新田佳浩君だと教えてもらいました。
彼はバンクーバーで金メダルを2つ取って現在もピョンチャン目指していますが、新田君に会えたのはそういう経過でした。

最初パラリンピックに出ることについて父親からは、普通の子として育ててきたので障害者のパラリンピックに出ることにいい返事はもらえませんでした。
3歳の時にコンバインに左手を入れてしまって事故を起こして片腕を失ってしまったが、
その時に家族全員が、佳浩君を障害の子として育ててしまうと、負い目を負ってしまうので辞めようと言うことに成ったそうです。
一般の子供と同じように育てて行く訳です。
世界で活躍するパラスキーのビデオを見せて、佳浩君も挑戦したいという気持ちを持ってもらうことができました。
全国から60名位てをあげてくれましたが、経験者はほとんどいなかったです。
佳浩君が入ってくれたおかげでレベルもぐんと上がって、チームも纏まってきました。

1995年 60名から20名位にセレクトしてほしいと言われて、私は障害を持った人との交流がなくて、大浴場で背中を流しあったりした方がいいよと言われて、そこで色んなことが見えて来ました。
脊髄損傷の人の仕草、全盲の人で湯気、音を聞き分けて入浴する感覚、等それらを見て凄いなあと思いました。
スキーはバランンスが重要で、佳浩君は左手側の筋肉が細くてアンバランスでそちらを鍛えることを行ってきました。
ソルトレイクでは銅メダルでしたが、金メダルを取るまでには10年間かかりました。
大切なことは彼らをよく知ると言うことで、知ったうえで彼らの一番強みを見付けてあげて、継続する。
日立ソシューションズスキー部監督、その創設に関わりました。
スポンサー、強化費などの苦しい中、ソレトレイクに行きましたが、海外の選手たちが凄くレベルが高くなっていて、バックアップ体制もしっかりしていました。
日本は惨敗だったと思いました。
実業団チームをつくらないと強化はできないと思いました。
企画書を作ったりして手探りで活動を始めました。

結婚式での妙高高原からの帰りに、同席した人がいて、そのひとが日立ソリューションの役員の方でした。
環境の悪さなどでメダルが取れないといった話をして、実業団のチームを作りたいと言って名刺交換しました。(2004年4月)
8月にニュージーランドにスキーのトレーニングに行きましたが、日立ソリューションの渡辺さんに絵葉書を送りました。
渡辺さんが役員、社長に話をしてくれました。(2004年 アテネオリンピックの年)
9月にアテネパラリンピックが始まる。
11月にスキー部を創設することになりました。
私と小林さん、新田佳浩さん、太田渉子さんとともに実業団スキー部を創設しました。(公務員を辞めて飛び込む。 50歳)

それまでぼんやりした目標設定でしたが、最初に言われたことは目標を数字で表してほしいと言われて吃驚しました。
数値化することはトレーニングに大きな効果を出していると思います。
それが小林さんの金メダル、新田さんの2つの金メダルに、太田渉子さんが銀メダルを取ったのも企業が数値化をしてくれていろんなサポートをしてくれたお陰だったと思います。
本を出版した時の3つミッション ①勝利 ②普及 ③資金
体系的、理論的に勉強したいという思いが有って、大学院に行こうと思って、平田先生のところでこの3つの事がスポーツを発展すると言うことを学びました。(52,3歳)
色んな企業に実業団チームが生まれるといいと思っています。
ホームページに「情熱日記」を毎日投稿しています。
バンクーバーの事前合宿をしているときに、女性選手がお雛様を紙で作っていいなあと思って写真と日記風に書いて、2010年3月3日から毎日書いています。
そのことで自分もそこにいると言うことを確認できてよかったかな,とこれからも続けていきたいと思います。

長野の時に選手たちは、障害のある方たちがやっているスポーツだから凄いねと言うことはやめたい、と言っていました。
しかし、障害のある方たちの取り巻く環境はまだまだだと思います。
オリンピックもパラリンピックも同じ様に語られるようなそういう時代を今迎えているし、そういう時代にしなければいけないと思っています。
グットマン博士「失ったものを数えるな、有るものを最大限に生かせ」と言っています。
パラリンピックの精神だと思っていて、共生社会で実現しなければいけないし大切なことだと思います。
北海道では冬はスキー教室などがありますが、車いすの人は自習をしたりしているわけですがシットスキーはだれでもできるので、普及していければと思っています。