2012年6月26日火曜日

辰巳 芳子(料理研究家88歳)   ・生きることと食べること

 辰巳 芳子(料理研究家88歳)  生きることと食べること
1924年 - 東京・目黒・長者丸に生まれる。
父・芳雄(大成建設常務取締役)、母・浜子の長女として生まれる
(辰巳家は加賀藩の家臣で、祖父は横須賀海軍造船校舎へ入学。18歳でフランス留学。
日本で初めての軍艦を造った。のちに三菱造船の創立に関わる)
料理家母親の手料理で育った 40歳の頃にイタリア、フランス料理を学ぶ  
父親の入院の為に毎日丹精こめたスープを作って届けました
其の命のスープを代表して家庭料理の大切さを訴えています

日本が持っていることと持っていないことを仕分けをした方がいいと思う  
そうするとこの国が生きてゆくすべを再発見するのではないかと思う
車や半導体を見ていると息が詰まってしまう  
祖父の影響があるかと思う  5歳の時に無くなった  
朝顔とか菊を作っていて植木鉢の裏を返して 根はこの様だという事を見せてくれた
ものの道理から入って行って 祖父がずっと一緒に居て教えてくれた 
父は大成建設 戦争末期 満州大倉土木に行った 
生きているかどうかが判らなかった 
毎晩母はお経を唱えていた 

お金にも逼迫していたと思われるが母は一度も言わなかった  
配給になる前から畑をやったことも無いのに母は畑を耕して麦、芋、そばだとか作っていた
母は美味しい食べ物を作るのが得意であった  
料理研究家 って嫌な呼び名だねと言っていた  母は私は職人ですよと言っていた  
主婦は管理職 
旬の動きと人間の生理とは車の両輪なんです   
蕗のとう よもぎ 順番に出てくるものを料理とする 
海のものと陸のものを一緒に作ることによってバランスが取れる

母からは料理そのものは教えてもらわなかった  母は物を見抜いて仕事をできた人  
お婆さんが河岸へ連れて行って大根の山を見せてこれは漬物 これは煮物、とかを教えてくれた私は自分を職人だとは思わない 勤勉だとか努力家とは思っていない 
興味のあるところを突きつめて行って判ったらおしまい  
非常に冷たく醒めてしまうことがある 
結核で苦しんできた 
結核で身に付けた、重荷が頭の上を通リ過ぎるのを待って、やり過ごすのを小さくなって見上げている様な そんな生きかたじゃないですかね
今でも戦う気持ちは全然ないですね 病気の時も闘病という気はなかった 
行ってくれるのを待っている 

料理を教えて行くうえで生徒をどう導いたらいいか ピアノの有名な演奏家が生徒を教える番組がありそれが参考になった
先ず弾かせる 間違ったら今そうやんなさい 最後までちゃんと正しくなるまで弾かせる  
ただちに直させますよ  料理もそうでただちに直さないと直らない
母からもらった手 動かしたいように手は動く  有り難いと思う  
佳子は私には持っていない理屈を持っていると母は言った  
食材を整える  克己心   
人は何故食べなければいけないのか 10年経っても判らなかった
呼吸も食もひとしく命の仕組みであると云う事を言ったり、自分をなだめた、故に食べなければならない
 
福岡伸一先生が食べる理論を示した     胸が高鳴るような興奮を覚えた
食べるということは油さしではない 生きてゆく為の油さしではない  
食べるということは生命の刷新である 
食べることによって古い細胞は身体の外に出て行って、新しい細胞が作られてゆく   
食べることの大事さを皆に励ますことができるようになった