2011年9月11日日曜日

末永陽市(漁業)         ・禍を転じて福となす

末永陽市(漁業)                禍を転じて福となす  
宮城県漁協雄勝湾の人達は港だけでなく海の中のがれきまで自分対達の手で撤去した後、これまでの養殖業とは一味違った販売から観光まで手掛ける
新しい事業展開を目指す会社を先月スタートさせました  
現在残っている家屋の解体作業をしている 
47軒中被災しなかったのが1軒だけ 
水が上がって家屋が残っているのが15~6軒 その解体作業をやっている
復興は集団移転、高台への移転 という案がちらほら聞こえてきている 
食住分離を言われている  現在仮設住宅に住んでいる
雄勝湾はリアス式海岸で水深が深くて入江があり波が静か 
水深が深く潮の通りもいいのでプランクトンが豊富で養殖に適している 

波が荒いと養植物にストレスが掛り成長が遅くなる  
養殖漁業は主にホタテ、(牡鹿半島より南は養殖が出来ない) 牡蠣、(つぶ牡蠣、むき牡蠣)ほや、銀鮭  
銀鮭は川で2年生育する 川はなかったが養殖にする会社が有 爆発的に広まった 
始めたのは昭和60年からだったと思う
系図で24代目 ずっと漁業を営んでいた 
父親の代の時に鰹漁が少なくなってきて養殖の方にスライドしてきた 平成3年ごろだった
3/11の午後2時46分頃 如何していたか→当日は中学校の卒業式があり来賓で呼ばれていて式が終了して家に帰って着替えて間もなくでした
瞬間的に津波は来る事は想定した
 
船を流されないようにし、 門扉(防波堤)を閉める フォークリフトを高台に移動させる 
チリ津浪でも家には水が来なかったので、安心はしていた 
引き波と渦で海の底が見えた 家が流される 空が一面まっくらで猛吹雪だった  
4300人が当時の人口 現在は1000人を切っている   
「オオガッツ」という合同会社を立ち上げる 
社員は10名 資金面でも苦労すると思われる 
出資して頂いた方には5月に来ていただく
体験漁業を従来町レベルでは行ってきたが、全国規模で出来ないかという事で展開し始める  会社組織にする事で作業が協力しあえる

自分たちで加工販売までしていきたい(従来は成長した物を売って終了) 
消費者との交流 体験学習、体験漁業も取り入れたい 
地域住民を増やして行きたい  
被災した事によって今までの漁業ではなく新しいやり方をしなくてはいけないと考えた 
若い後継者がいなかったのでこれを機に育てたい 
アイディアのきっかけは当社代表社員の伊藤氏がほやの養殖し、小売りをやっていたが漁業の6次産業化を目指したいと絵を描いてきて説明、私も前からやりたかった
体験漁業とか消費者との係わりが持てる機会が合同会社で作れるんじゃないかと思った そ
ういう思いがマッチした

6次産業→一次、二次、三次 もろもろの 流通、教育、観光等足して 6次産業 
トレーサビリティー(どこで何時どのようにして獲れたものか)水上げしてから24時間で消費者に届けられるようなシステムを作りあげたい 
みずあげにも参加してもらいたい 
オオガッツが魅力を作り上げてゆく クルージング、バーベキューその他アイディアを考える 
9月18日に牡蠣の種をロープに挟んで投入式というイベントをする 
その時に1口1万円でオーナーさんになって頂いて3000円は諸経費として発送手数料その他諸経費として、7000円は漁業者に渡して出来た漁業物を育ての住民に渡すというシステム 

牡蠣はホタテの貝殻に種を付着させる それをロープにつなぎ海に下げる  
2~3年後に収穫 1口1万円で育ての住人を募る 一緒に育てて行ってもらう  
5万人ぐらい出来れば嬉しい 仲間がいると云うのは支えになる
人材育成 組合経営も人数が少なくなると難しいので「オオガッツ」としてもサポートしてゆきたい 個人で漁業を再開しようとしても資材等がいっぱいあるのでそれを共同で使って共同で立ち上げようと「共同体」が他のところでは出来てきたりしている  
前年11月頃15cmの銀鮭の稚魚を仕入れてくる
 
海のいけすに入れる 餌をやり始めて3月で50cm 1.2kg 8/10で水揚げ終わるその頃で3.5kgになる
船 実働出来る船が2艘しかないが 転覆船7隻 国の補助で修理に出している船がある 
流出した人達が共同で使おうとしている 
新潟 16~20フィートの小舟を新潟漁業のかたから無償提供してもらえる 
32艘 運搬は新発田市の費用負担で全てやってもらえる
手ごたえ→神奈川から船の提供が有ったので対応中  
自分たちで魅力のある漁業 自分の子供に自信を持って言える漁業を模索してゆきたい