2011年8月31日水曜日

山田脩二(日本の写真家、瓦師)   ・売れっ子カメラマンから瓦焼き 2

山田脩二(日本の写真家、瓦師)   売れっ子カメラマンから瓦焼き 2  
江戸から明治にかけて、だるまさんが背中合わせになったような釜で、地元の土で瓦を焼いていた  
現在は殆どその形状の釜は無くなてしまった
50年前までは200基有ったが、30年前には3基しかなかった 
現在伝統的にやっていたこの形状の釜は一基もない
だるま釜の復活をしようと思った 
資料をもとに高さ2.5m(内側1.8m) 長さ4m近く 幅2.5m 1000枚焼ける大きさ  
土の釜で土を焼く 原点に帰る 効率効率で、これからの若い世代がこれでいいと云えばいいのかもしれないが、どっしりした瓦屋根を残したい
 
30年前から始める 
無表情な景観で覆われてしまって、これでいいのかと思う 
畳が絨毯になり、壁が別のボードで張られ、障子がカーテンに変わる  
原点に近いようなものを残したい 
だるま釜を作り、地域にのこった若い人と日本特有の風土、瓦を造りたかった  
70代~80代の人に聞きながら、今の残っている20代後半から30代の連中を集めて作った  
80代の人でも初めから作ったのは50年ぶりと言っている
瓦製作に転向して収入も1/10になった 
最初の2年間で小さな窯元に入って、時給700円で瓦にするプロセスを学ぶ  
土を触る労働というのはきつかったが 何とか続けられる  
瓦を造る街で新たに立ち上げるのに、戦争の焼け野原、25,6の時の旅行等の経験が糧になった 
8割以上はもの好ききやがったなあと生まれた時から瓦を触っていた人達からは思われた  
2年で修業先を辞める 
石の上には3年、瓦のうえには2年・・・飲み屋で知り合いから2年で修業を止めたことに対する冗談半分の受け答え  
2割は同調してくれる窯元もいる
2年の修行ぐらいですぐ屋根の瓦は厳しいと思い、地べた感覚で瓦を見直そうと 思い立つ  
屋根の瓦以外の使い方

1995年に淡路・神戸大震災に会う 家は大したことが無く済む  (窯が倒れる  瓦が破壊)  
炭でも焼こうかなと思ったが、もう一回頑張ってみるかと思う  
街を起こしたいんだったら、しっかり寝てから起き出す 
(あっちこっちの街おこしを見に行く  独自の町おこしをしないといけない 地域を感じさせる) 
瓦を焼くのに木を使っていてその後石炭になり (軍需産業で石炭が使えなくなり)、戦後重油になり 今はプロパンガス(化石燃料) 管理しやすい 安定している コンピューター制御  
瓦の作り方はスマートになり、行儀のいい 工業製品となる 
しかし日本特有の風土、 土を火で焼く もう一回 若い連中と焼く事が希望
淡路瓦 いぶし瓦 手作り  
陶芸家になったらとも言われたが瓦と陶器は違う
燻し(いぶし) 土の燻製 燻し瓦 最後900℃以上で焼いた後 火を止める直前に焚き口に、松葉とか木を入れて密閉する その時にすす(炭素)がでる
炭素が行き場が無くなって瓦の表面に付着したのが燻しです 
毎回やるたんびに炭が出来る 
楽しく、冗談と本気を織り交ぜて行かないといけないと思い続けている