2011年6月18日土曜日

永留久恵(90歳)        ・アジアの中の対馬

永留久恵(90歳)
対馬国史全3巻を出版  古代から現在までの対馬史
対馬には上県(あがた 北)と下県(南)がある 
魏志倭人伝に対馬は森林多く 良田なく 海のものをくらって自活し 船に乗って南北にシテキする 
シテキとは商売すること
中国の後漢の頃 鏡が出てくる
14歳で師範学校にゆき 後に先生になる(それしか道はなかった) 学費の高い学校にはゆけない
 兄にお世話になった

20歳 1941年 佐世保海兵団の一員になる 最初戦艦「霧島」次に航空母艦「飛龍」→
ミッドウエー開戦にゆく 飛龍はなくなったが助かって帰ることが出来た
その時艦長が生存者を集め、訓示をする  総員の退艦を命ずる 
僕らに生きる誇りを持たしてくれた
艦長は船と運命を共にした 
お前たちはもう一度国の為に働け 責任は俺一人で取る  今でもそれを誇りにして生きている  
艦長から生命を授かったようなもの
戦後は対馬でずっと先生をすると同時に 歴史研究を続けている 
 
1921年 東西考古学会というのがあった 
対馬は軍の要塞のため、考古学の調査が出来なかった 
その先生たちが戦後対馬研究の為に島に来る その対応をしていて興味を持つように 
アジアからみたつしまというものを書きたいし、対馬から見た中国朝鮮との関係を書きたいので本を
作った 日本自費出版大賞になった
漢式土器 が僕の古里から出てくる 銅剣や銅鉾等も出ている  
弥生前期によく漢式土器が出てくる対馬から出土したものと全く同じものがピョンヤンの博物館にある
楽浪郡済州島に4回、5回と行っている

縄文前期のころはみんな対馬を通ってゆく 九州 松浦にゆく 
縄文後期になると、宗方へのルートもできる このルートがだんだん強くなる 
種子島の赤米は背が高い・・・東南アジア系  対馬の赤米は朝鮮系 
文化人類学の先生たちは北を回ったのではなく、江南から直接渡ったんじゃないかというのが多い 
日本列島に稲がどこから来たのか
正確には判らないが、古代の遺跡が物語るもの
中世になると朝鮮系の仏像が対馬に沢山ある  
室町時代は国境が有ってないようなもの、自由な交易ができた
朝鮮は青銅器文化が盛んなところ 高麗王朝が滅んで、朝鮮王朝が出来た時 廃仏毀釈をする  
朝鮮は儒教文化であるので手や足のとれた仏像が沢山出てくる

仲よくしなければ良い商売はできない 
隣国と仲良くするという事がいかに大事かということを日本史は教えた
徳川時代の260年は日本は全く戦争をしていない 
朝とは通信使を使わしてなかよくした
徳川時代が終わり、通信使がなくなると日本に征韓論がでてくる
その後日本は一杯戦争をやる様になる  
隣国を大事にするということは国防上大事な事
雨森芳州1668年生まれ 1755年亡くなる かれは子供の時から京都で育っている 
父母や兄弟たちの墓も京都にある 

雨森芳州は元禄の初めごろ対馬に来る 幕府の儒官になりたかったらしい 叶わなかった 
朝鮮方 外交交渉は対馬藩が行う
外交 雨森は通訳も兼ねる  誠信の交わり
豊臣秀吉の時代は朝鮮出兵がある 対馬の部隊が一番先頭
(相手の事を一番知っているのが一番先頭)
宗 義智(そう よしとし) 対馬領主宗氏の20代当主。対馬府中藩の初代藩主
義智は5,000人の軍勢を率いて天正20年(1592年)4月12日に対馬北端の大浦を出港し釜山に上る
中世 朝鮮半島南に多くの倭人が居留していた 朝鮮国はこうきょうわと称していた
それは海賊です 朝鮮王朝 初代王朝 李せいけいが海賊というけれど 彼らは貿易商人である
国が乱れて貿易が出来ないから海賊にならざるを得なかった 
土地を提供するから住んでもいいよ
 と飼いならす

向うに住んだ人を「こうきょうわ」という  両方に住まいを持っている(行ったり来たりの生活)  
対馬、松浦、壱岐等
朝鮮の役にたった人は官職になった人もいる
明治以降 下関から釜山に直接行くようになって 対馬にはよらず取り残された
今後は 国際観光地として観光産業を開くしかないのではないか 済州島も同じ 
済州島は見事にそれをやる
済州島:韓国の最南端(高知県や福岡県と同緯度)に位置する島
アジアを旅行して記憶に一番のこるのはシルクロードである  半農半牧である 
対馬は半農半漁なので何か通じるものがある
最近中国は都市化が進んでいるが 田舎の方が中国らしい  
物事を頼んでも良くやってくれる