2019年9月29日日曜日

2019年9月28日土曜日

三國清三(フランス料理シェフ)      ・増毛の海があったからこその料理人生

三國清三(フランス料理シェフ)      ・増毛の海があったからこその料理人生
1999年の映画「ぽっぽや」のロケ地としても知られている増毛町 、この町で生まれ育ったのがフランス料理の世界的シェフ三國清三さんです。
「なにくそ」で自身を盛り立てた半生、三國さんに伺います。

家の親父が漁師で、おふくろが農家をやっていて、増毛はニシンが一杯取れて昭和28年にニシンが取れなくなった、その翌年昭和29年に生まれました。
兄弟7人で男が5人で、僕は清三で、兄貴が清一、で番号になっています。
僕の歳ぐらいから高校に行くのが当たり前の歳になりました。
町でも1,2の貧乏で姉ふたりも中学を出て出稼ぎ、兄ふたりも大工、みんな仕送りをしてきても貧乏でした。
母は早朝3,4時にちょっとした朝食を作ってすぐに父と一緒に畑に行っていました。
高校に行きたくても親には言えず、先生に相談したところ、米屋の丁稚奉公で夜間学校に行けるという話がありました。
卒業して米屋の丁稚奉公に入りました。
すぐ前に学校がありました。
30㎏を3個担いで配達に行きました。
フェンス越しにテニスをやっている学生を見てあいつらだけには負けたくない、と思いました。
「なにくそ」というその気持ちがそのあとの人生の原点になりました。
「何苦曽」という風な言葉を座右の銘にしている野球の人は三原さん始めいるそうです。
「人生は何事も苦しい時が自分の基礎を作るのだ」という意味だそうです。

或る日奉公先の姉さんがハンバーグを出してくれて、いったいこれは何だろうと思いました。
黒いソースが甘酸っぱい味がしました。
ソースと一緒にハンバーグを食べたらめちゃめちゃ美味かった。
このハンバーグに恋い焦がれてしまいました。
札幌グランドホテルに行けばもっと100倍おいしいとお姉さんから言われ、札幌グランドホテルが15歳の僕にインプットされました。
札幌グランドホテルに行けばハンバーグが作れるんだと思いました。
入るにはどうしたらいいかと思っていたところ、卒業記念に札幌グランドホテルでテーブルマナーがあるという事で行くことになり、テーブルマナー終了後洋食の厨房に行って、後ろに隠れていました。
そこに青木さんが来て、どうしても札幌グランドホテルで働きたいといいました。
中卒でも従業員食堂のおばちゃんがたのところはパートだから学歴関係ないから、明日からくるかといわれて、明日から米炊きやるかといわれて、米炊きに入りました。

ホテルの洗い場を6時から10時まで一人でやりました。
半年後、青木さんと人事課の人が話し合って、明日から正社員だと告げられました。(16歳)
青木さんは札幌グランドホテルの最初の料理長の息子さんで一番仕事もできた方で、特例で社員にさせていただきました。
12時で仕事が終わって寮に帰らずに料理の勉強をしました。
17,8歳になると一通りの料理ができるようになり鼻高となり、先輩と喧嘩したりしました。
東京の帝国ホテルには村上さんという料理人の神様がいて、お前なんかは足元にも及ばないといわれました。
神様といわれる村上さんに会いたくて、18歳の時に青木さんに頼んで、紹介状をもらって一人で帝国ホテルに行きました。
オイルショックで希望退職を募っていて、社員にはすぐにできないが厨房で順番を待っていたらそのうち社員になれるので、洗い場だったらすぐに入れてやるという事で、洗い場に入りました。

3年間洗い場にいて挫折感を感じました。
札幌グランドホテルはコックさんが50人いましたが、帝国ホテルは650人でした。
20歳の誕生日を迎えて、ひっそり増毛に帰ろうと思いました。
18のレストランがあり全部の厨房の洗い場をやってひっそり帰ろうと思いました。
それからその仕事分の給料はもらわずに毎日やりました。
10月ごろに村上料理長に呼ばれ、650人の料理人の中から一番腕のいい料理人をすぐ年が明けたらジュネーブの大使館のコック長に一人紹介してくれと社長から言われたという事でした。
お前に決めたといいました。
想定外だったので、びっくりしましたが増毛を思い出し、3秒してハイと答えました。
貰った給料は自己投資をして、10年後には君たちの時代が来るからちゃんと修行をしなさいと言われました。
28歳で帰ってきて、30歳で四谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」をオープンしました。

大使館は天皇の代わりにおもてなしをするわけで、晩餐会をするので用意するように言われました。
当時20歳でフルコースなんて知りませんでした。
フルコースだという事で、アメリカ大使がいつも行っているフルコースを食べるレストランを調べることになりました。
3日3晩、アメリカ大使が食べるフルコースを仕入れから料理まで全部勉強しました。
当日、アメリカ大使が吃驚して、日本の大使にどうして俺の好みを知っているんだ、素晴らしいと言っていただきました。
ほかの国からも来るのでそのたびに研修にいって、暗記して料理を出して評判を得ました。
「モーツアルト」と呼ばれたフレディ・ジラルデさんはロザンヌにいて、後に彼は世界一になるが、彼のうわさを聞いて日曜日にジラルデさんのところに通うようになりました。
そこで教わった料理を毎回出すようになりますます評判が上がりました。
2年間の約束が4年間を勤めするようになりました。
ジラルデさんは天才ですよ、彼は命を懸けています。
本気に命を懸けてフランス料理を作らなければいけないんだと学びました。

僕が27歳の時に当時アラン・シャペルさんは厨房の「ダビンチ」といわれていました。
彼のところで修行しました。
日本で自分の好きなフランス料理を本気で作ろうと思って28歳で帰って来ました。
青木さんから始まってみんな怖い人でしたが、表面的に怖い人って懐に入ると、めちゃめちゃ面倒見がいいんです。
「お前ね、自分の家だと思ってやれ」とよく言われました、家族ですよ。
許容量を感じました。
北海道の後輩佐藤君他みんな我々の時代から比べたらすごい活躍をしています。
自分がオーナーでミシェランの星をとるんですから。

僕の味覚を鍛えたのは貧乏です。
味覚体験は12歳までにさせていかなければいけないが、僕は増毛でホヤを食べて、甘い、しょっぱい、うまみなどの5つの味覚がホヤには全部入っていました。
ホヤが僕の味覚を鍛えてくれました。
世界ラグビー大会の顧問と2020年のオリンピック、パラリンピックの顧問をさせていただく事になりました。
日本中の料理人を集めてみんなで世界的な高い水準の料理をこさえて、全国に料理人が散らばって料理人のレベルを上げていければなあと思っています。
ありのままの姿を求めて外国からは来るので、皆さんはそういったおもてなしをしていただければいいと思います。














2019年9月27日金曜日

谷川俊太郎(詩人)            ・【人生のみちしるべ】"へいわ"についてぼくが考えること

谷川俊太郎(詩人)    ・【人生のみちしるべ】"へいわ"についてぼくが考えること
1931年東京生まれ、87歳。 終戦の時は中学2年生で13歳でした。
戦時中には東京への空襲の時には沢山の焼死体を見たという体験があります。
そんな谷川さんが今年3月に"へいわ”について考える絵本を出版し、話題になっています。
絵本のタイトルは平仮名で「へいわとせんそう」 文は谷川俊太郎さん、絵は人気イラストレータのりたけさんです。
谷川さんが平和について考えていること、「20億光年の孤独」でデビューしてから間もなく70年を迎える谷川さんの人生の道しるべは何だったのか伺いました。

90年近く住んでいるとここが故郷だと感じるようになりました。
10年ぐらい前までは何にもしないことができなかったが、今は何にもしないことが平気でできるようになりました。
詩は言葉で作るわけだからどうしても意味が付きまとうが、音楽は意味が全然ないのでそれはうらやましいし、聞いていると意味がないという事に開放感を感じます。
言葉の意味に感動することとは違う感動をするので、それが快くて聞いてしまいます。
人類が発生して言語ができてから言語に意味がついてきて、意味に我々はがんじがらめになってしまって、音楽はそれを解放してくれる。

東京都の杉並区ですが、5月の東京西部の大空襲がありました。
環状7号線のあたりまでは相当の被害を受けました。
家の辺は焼夷弾が落ちなくて助かっていました。
夜中に焼け出された人達がうちのすぐ横の道をぞろぞ通っていたのは覚えています。
環状7号線のあたりまでいってみたら、焼死体がごろごろしていました。
実際の経験は小説で読んだり、映像で見たりしたのとは全然違います。
悲しいとか怖いとかは殆どなかったですね。
親戚とか知り合いが戦争で被害を受けたことが無かったから、そのような感じで済んでいたんでしょうね。
反戦のためにいろんな人がいろんなことをするが、忘れてはいけないというわけですが、絶対人間は忘れると思う。
唯一忘れないとしたら戦争の現場ですね。
実際に戦地に行って鉄砲を撃っていた人は忘れないだろうし、命からがら逃げたことは忘れないと思う。
僕の場合は環状7号線のあたりの焼死体なんです。
京都に疎開しました。(母親の里)
京都の中学校にいって東京弁について差別されました。
授業などはさぼるようになりました。
ラジオを作るようになりました。
手を動かして何かを作るのが好きでした。

絵本「へいわとせんそう」シンプルで目立ちます。
ピクトグラム 絵で直接サインを出す。(トイレの男女の絵など)
彼の絵はそれに近い絵です。
表紙には男の子の絵が描かれていて、開くと谷川さんのシンプルな言葉とイラストレーターののりたけさんのピクトグラム的なイラストが描かれています。
村上アナ:最初の左は「へいわなぼく」 男の子が腰に手を当ててすくっと立っています。
右は「せんそうのぼく」 男の子が目を閉じて眉を八の字にして膝を抱えて座り込んでいる。
「へいわのちち」、「せんそうのちち」、「へいわのはは」、「せんそうのはは」と続いている。
「くも」のところだけ写真 原子爆弾のきのこ雲(イラストでは伝えきれない)
後になって「てきとみかた」という発想を入れようと思いました。
「みかたのかお」、「てきのかお」 敵も味方もおんなじだというのをどういう風にやってくれるのかなと思っていましたが、のりたけさんが一種ユーモラスに対称的に描いてくれたので、凄くおもしろかったです。
最後は「みかたのあかちゃん」、「てきのあかちゃん」が右と左に並んですやすや眠っています。

あまりに戦争の在り方が複雑にこんがらかってきているので、できるだけ単純にしたらどうなるだろうと思って作りました。
平和というのも複雑な関係で成り立っている。
思い切って一番基本的なところをどうやって抑えるかという事だったと思います。
平和の奥に戦争の原因が隠れているという感じです。
平和の状態そのものが戦争の種を隠している。
世界中が経済的なネットワークでつながっているし、原材料の争奪戦があるし、宗教関係があるし、だからそれを単純に描くという事ができなくて、結果だけを書くしかないという感じがします。
読む人がそれぞれ考えたり想像してもらえればありがたいと思います。
詩などは特にそうだと思っていて、詩の場合は言い足りない方が詩の場合は生きると思っています。

「戦争と平和」では戦争をしてようやく平和が戻りましたという様な発想で、戦争がずーっとあって平和が貴重だというのではなくて、普通は平和であるべきだと思ったんです。
平和が常の状態であって戦争が異常事態だという風に思いたかった。
「へいわとせんそう」にしたのが一つのアイアディアでした。
自分の心の平和を保つのが一番いいんじゃないかと思います。
穏やかな心が凄く大事だと思う、直ぐ嫉妬したり喧嘩をしたりする、人間の心の動きが戦争の元にはあると思う。
敵というものを自分がもっと広い心で受け止められるようになれば、戦争の理由は少しは減るだろうと思います。
身近な関係でも繋がっていると思う。

村上アナ:以前一番大事なものは女と言っていましたが。
この頃考えが変わって愛という事にしました。
何かをとにかく好きになるという事です。
男性性、女性性があるが歳を取ると女性性が強くなってくる。
言葉ではなく行動だと思います、愛と言ったらまずハグすることでしょう、そういう習慣が日本人にはなかったからちょっとぎこちないかもしれないが、そういったことが社会に広がったらユートピアですね。
歳をとる事の長所というものを自分で考えます、人に対して寛容になる。
友達で半身不随になっている人がいるが、身体が不自由になってくるとよくわかるようになります。
考えが深くもなってきていると思います。
本でも若いころは読み過ごしていたところが、凄く心に深く感じるという事があります。
同年代の人間が自分と同じように歳を取っているのを見ると心が休まりますね。
辛いこと苦しいことがあるが、若い頃にはわからなかった人生の味は判るようになりました。

詩は人を元気付けたいし、気持ちを豊かにしてもらいたいから歳をとる事のネガティブなことを強調しては書けないが。
死んだ後の世界には好奇心があります。
どんなところに行くんだろうと思います。
死への恐ろしさはないですが、しかし実際に病気になって死期が近づいたらちょっとまた変わるのではないかと思います。
無限ともいえる宇宙の中の小さな地球というものがあって、宇宙内での自分、人類の一員であるという事の方が先行するという事が若いころから変わってはいないと思います。
人間的に色々やっているけれども、基本は草木と同じ自然なんであって、自分が生きたり死んだりするのも自然の一つのプロセスの一つだという事があります。
恵まれた環境にいたから人間的な環境を飛び越して、宇宙内での自分の環境みたいなところに飛んじゃったんだと思います。
一人っ子だったので人間関係が希薄で、母親と密接な関係の母親っ子でした。

変わったことは一杯あっていえないです。
人間世界というものを見切ったという風に詩で書いたことがあるが、根本的な存在、構造はもうわかったよみたいな、どんなに頑張ってもそこは変わらないのではないかみたいな、ところが出てきました。
見切ったことで見切った先に行けるのではないかと思ってます。
人間とはどうにもならないもんだなあとか、言葉とは困ったもんだなあとか、解決のしようがないことが見えてくる。
死も一番大きなものかもしれないが、戦争もその一つですね。
若いころは戦争はどうにかなると思っていたが、戦争は続くだろうなという様な。

18歳で詩を発表してから間もなく70年、愛は一つの道しるべになっていると思います。
若いころよりもはるかに自然は自分にとっていかに大事か、外なる自然というものをずーっと思ってきたが、実際には自分自身が自然なんだということがより強く深く自覚されるようになりました。
自然に逆らわないでいようという様な気持ちも出てくるわけだし。
若いころは詩を書くのが苦痛に思っていた時期があるが、段々楽しくなってきています。
6,7年前ぐらいからですね。
詩を書くのが自分にとって救いになっています。
詩には意味以上の何かがある、詩というものは草花のような存在になるのが理想だと思っています。
存在というものをどこまで感じ取れるかというのが、歳をとってわかってきた感じがします。
言語に対する疑いは詩を書き始めたころから今まで続いていて、外の世界を見る時にもその意識があると思います。
名前よりも存在であると、人間社会内での大事さよりも、名前のない自然、宇宙の中での存在が大事だみたいな、それも言葉で言っているんですが。
読者が喜んでくれるような美しい日本語を書きたいと思っているが、言葉の美しさは難しい。












2019年9月26日木曜日

箭内道彦(CMプランナー)        ・【私のアート交遊録】復興五輪で東北に元気を!

箭内道彦(CMプランナー)    ・【私のアート交遊録】復興五輪で東北に元気を!
1964年福島県郡山市生まれ、結婚情報誌のCMやレコード会社のノーミュジック、ノーライフのCM、TV番組の司会、紅白にも出場したロックバンド「猪苗代湖ズ」のギターリストを務めるなどまさに多方面の活動を展開されています。
箭内さんが今手掛けているのが「東京2020日本フェスティバル」、オリンピックやパラリンピックはスポーツの祭典だけでなく文化の祭典でもあるとして、復興五輪プロジェクトで東北を盛り上げようとこのプロジェクトを立ち上げました。
ここには脚本家で俳優の工藤勘九郎さん、絵本作家でイラストレータの荒井良二さん、作家の又吉直樹さんなど各分野のスペシャリストが集まりそのシンボルであるモッコという10mを超える巨大な人形作りを軸に準備が進められています。
完成後は来年の5月9日から巨大人形モッコが東京に向けて被災地からの旅を始めることになっています。
東京2020日本フェスティバルや広告にかける思いを伺います。

今は巨大操り人形モッコを長野県の高森町で製作中です。
旅先の岩手の陸前高田、宮城の岩沼、山形の東北絆祭り、福島の南相馬市のそれぞれの会場でどんなことをするのか地元の方とプログラムを組み立てているところです。
10mを超える大きな人形、モッコ オダズモッコという言葉が宮城の方言で、工藤勘九郎さんが「モッコ」と名付けてくださいました。
人の形で東北人の気質を持ったモッコです。
一見遠慮深く無口の感じがするが仲良くなってみるととっても温かくて面白くて、東北人らしさを持った人形です。
東北の子どもたちが描いたものを参考に荒井良二さんがイラストレーションを描いてくれて、世界的人形デザイナーの沢則行さんが参加しました。
モッコの存在としてのストーリーが必要だという事で、又吉さんにお願いしました。
3mで、5mでいいのではないかという声もありましたが、みんなで力を合わせたら出来そうもないものもできるのではないかという事で、復興というものを、勇気,自信、プライドになったらいいなあと思いました。
オリンピックもパラリンピックも「自己ベストの更新」を掲げているので、我々も「自己ベストの更新」をしたいと思いました。
5月9日に東京に向けてスタートします。

2回目のオリンピックを東京で開催されるときに、まだ東北では復興ができてないのに、東京に資材や人が全部東京に行ってしまうのではないかと不安を感じたり怒っている人もいました。
震災からの復興五輪と掲げて呼んだからには東北にとっていいことが沢山あったなあと思えるように、自分にできることがもしあればチャレンジしてみようとこれができました。
聖火リレーが福島県楢葉町からスタートするとか、聖火トーチが福島県浜通りの子どもたちとのやり取りの中から桜というヒントが生まれたとか、いろいろ発表になって段々と復興五輪が見えてきたが、僕がこれを受けたときには3,4年まで何も見えていませんでした。
やらなかったらどうなってしまうのだろうと勝手な使命感を持ったのがきっかけです。
ロックバンド「猪苗代湖ズ」は2010年の秋に結成しました。

活動の全収益はすべて福島県の災害対策本部に寄付をする形になっていましたので、よりたくさんの人に福島県の今を知ってもらって、2011年が終わる中で思いを一つにできたらと強く思っていました。
紅白歌合戦で「I love you & I need you ふくしま」この歌を届けることができたら、もっと寄付も集まり、福島に思いをはせてくださる人もたくさんいると思って、ああいうメッセージを発信しました。
自分にとって故郷は若いころは故郷への反発もあり、距離を置いていた時期もあるが、福山雅治さんに諭されたりしました。(震災のだいぶ前)
自分にとって恩返しというか、罪滅ぼしというか、故郷と向き合う中で起きた2011年3月11日でしたので、「広告」をしたいと思いました。
2020モッコも何らかの形で現在の東北を「広告」したいと思っています。

小さいころは漫画家に成りたいと思っていました。
高校でデザインを目指すようになりました。
店をやっていて名札を書いたり看板を描いたりしていました。(幼稚園の頃)
大阪万博で太陽の塔ができて、クラスで太陽の塔を作ろうという事で、先生から顔の部分を書くように言われ岡本太郎さんの中央の顔を模写したのが模写の最初の経験でした。
それも振り返ると大事な経験だったと思います。
広告について、自分が何かを決めつけて世の中の人たちに教えるとか、押し付けるとかはやめたいと思っていて、一緒の目線で一緒に考えましょう、というスタンスで作るようにしています。

結婚情報誌のCMやレコード会社のノーミュジック、ノーライフのCMなど、しっかりは考えてはいるんですが、ふっと浮かびあがる感じの方が受け取ってくれる側も共感しやすいのではないかと考えています。
福島県の観光ポスター 「来て」というものだけ。
今の福島を見ていただいて友達も作っていただいて、リアルな関係が始まるのではないかと思って、くどくど書くよりもただ「来て」というものにしました。
世の中がなんかぎすぎすしていますが、僕が「猪苗代湖ズ」で「I love you & I need you ふくしま」を歌って、様々な反応を頂きいい方への捉え方、反対の捉えか方がありましたが、捉え方の違いで溝ができてゆくんだなあと思いました。
新しい歌を作らなければいけないと思って「ツーショット」という曲、違う二人が一つのフレームに収まる、それがなにもひとつにならなくてもいいのかなあと思って、「ツーショット」の歌詞に「君と僕の違うところを尊敬しあいたい、僕と君の同じところを大切にしたい」と書きました。
お互い謙虚さをもって、お互いに話し合えたらと感じます。

石沢アナ:NHKの3文字があることでいろんな接点がつくれ、それぞれの人生を持った人があって語ってくれるのはすごい財産になります。
それを受け止められるかどうかは難しい所です。
しかし聞ききれていないのではないかと思います。
歳を経るとできるかと言えばそういうものでもないと思います。
人生の一端を聞かせていただくという感じです。

日本人はいろんなことを曖昧にして生きてきたような気がします。
曖昧にできないことが増えてきて僕らは試されてきているのではないかと思います、新しい時代をどうやって人を思いやることができるのかという事を。
いろんな人と出会うと友達もできて、震災の前と比べると何十倍にも増えて、その人たちひとりひとりは悩み、傷付くこともあるし、友達が傷付いたりしょんぼりしているのなら自分に何ができるだろうと思った時に、みんなが笑顔になるまでやらなきゃならないことは無くならないんだなあと思います。
自分のために頑張るのは絶対に限界が来るが、あの人のために頑張りたいとか、世の中のちょっとでも役に立ちたいという事は100%にはならないので、それが原動力です。
























2019年9月25日水曜日

村雨辰剛(庭師)             ・【心に花を咲かせて】日本庭園に魅せられた北欧青年

村雨辰剛(庭師)        ・【心に花を咲かせて】日本庭園に魅せられた北欧青年
NHK番組『みんなで筋肉体操』にも出演されました。
現在31歳のい村雨さんは子どものころから日本に関心を持っていたという事です。
そして来日し修行して庭師になり、日本人になると決意して帰化しました。
村雨さんはなぜ庭師として生きようとしたんでしょうか。
またなぜ帰化しようと思ったのでしょうか。
庭師が天職だという村雨さんにそう思うに至ったこれまでの歩みと、日本や庭師という仕事への思い、今後の夢を伺いました。

生まれはスウェーデンで両親もスウェーデン人です。
僕の旧名はヤコブ・セバスティアン・ビヨーク(Jakob Sebastian Björk)です。
日本国籍を取りました。
庭師をやっていたら声が掛かって、自然の流れでタレントもやるようになりました。
高校生から体を鍛えてきました。
スウェーデンにいる頃から違う国に行ってみたいと思って、調べているうちに日本に興味を持ちました。
最初は、中学、高校の世界史の授業があり日本のことが紹介されて、歴史が好きだったのではまって個人でも調べるようになりました。
特に印象的なのは各大名が争って、その中から生まれた武田信玄と上杉謙信の不思議な関係に凄く惹かれて、敵に塩を送ったりとか、いろいろ興味を持ちました。
道徳、人間としての在り方に奥深さを感じて、思いが積もってきて夏休みを利用して短期ステーをしました。
SNSの一段前のような中で、自分で日本語を勉強して日本の人と友達になりました。
両親が僕のために貯金をしていて、そのお金を使って日本に来ました。(16,7歳の頃)

神奈川県の戸塚区に行って鎌倉などに行きました。
ステー先では日本家屋風で庭も日本風の庭でした。
どこもそうなのかなあと思っていたら、後でギャップに驚きました。
絶対いつか日本で暮らそうと思いました。
そのころから帰化しようと思っていました。
和の文化、自然に対する価値観だったり、昔からのものを大切にするのが好きでした。
泊まった家も、和な生活で、毎朝仏壇の前でお経をあげたり、畳の部屋だったり、お母さんが茶道の先生だったり、そういう影響が周りにたくさんありこの暮らし方は素敵だと思いました。
最初の経験が特殊だったと思いますが。
日本に惚れてしまいましたが、日本に5年、10年住んでも同じ気持ちでいられるのかなあと思いましたが、同じ気持ちだったので帰化しようと思いました。

目標を日本にいくことに置いて、高校を卒業して就職を日本で決めたいと思って、名古屋でスウェーデン語、英語教える教師として仕事が決まりました。
両親は僕が日本語を勉強しているので、覚悟はしていたようです。
兄弟は6人いて、長男です。
いろいろ現実に向き合うと自分の夢を忘れかけたりしますが、神社お寺を観たりするといいなあと思いました。
日本にも慣れて22歳の時に日本の伝統的な職業、徒弟制度があって弟子になるのもいいなあと思って、いろいろ探し始めました。
求人誌をみていたら、日本庭園を造る仕事の募集があり、直ぐに面接してもらいました。
そこの親方は国際的な方で海外でも日本庭園を造る経験がある方でした。
初日の炎天下の現場で熱中症で倒れて、辞めたりしました。
筋トレもしていて体力には自信がありましたが、いつも空調の効いた中での仕事しかしてこなかった。

辞めたことに後悔しましたが、後釜の人も直ぐにやめてしまってチャンスが来ました。
もう一回やらせてくださいと言って、その後は自分にとって天職だと思いました。
そこはアルバイトだったので弟子にはしてもらえず、次は愛知県の西尾市という違う造園に弟子入りしました。
紹介で弟子入りしてもらいました。
最初修行は切ったものを掃除するなどして、親方、兄弟子のやっていることを観察していました。
1年間のアルバイトの中で日本の美意識の中で仕事をするのはなんて素晴らしいんだろうと思って庭師になることを決意しました。
美術館にいくように毎日仕事にかかわって刺激的でした。
体力的には辛くても凄く楽しい修行でした。
1年後手が空いてくると切り方など少しずつ増えていき、鋏を頂きました。
木によって剪定の仕方がいろいろあり勉強していきました。
最初は低木の刈込、生垣、古木の刈込などをして、うまくできなくて叱られたりもしました。

弟子入りしようと決めたときには、これとは一生関わっていきたいと思いました。
和の良さは自然の美しさから成り立っていることが多いと思う。
特に日本らしさを庭で感じました。
庭園は大きくは池泉庭園、枯山水、茶庭に分けられるが、経年変化、経年美化がより感じるものと、枯山水は心の内面で見る、自分で想像して考えて考えさせられて、これで何が見れるのかその世界観に魅了されます。
タレントとしてTV出演するのにも庭師として出ることが多くて、日本文化の内容も多いので、もっと日本の良さを知りたいとか、伝えたいとか、番組に出ることによって自分も成長できるかと思います。
タレントはお金にはなりますが、中心は庭師でやっていきたいと思っています。
愛知県は日本庭園の多いところでそこを修行の場に選んだという事もあります。
松の手入れだけでも、1年の中にもいろいろ作業があり奥深いものがあります。
日本の木に対する奥深さ、凄さを感じました。

愛知では庭の管理はできたが設計施工が少なかったので、声が掛かって千葉に来ました。
その間5年間親方と二人でやってきて、辞めることに関しては1年前から相談はしていました。
帰化するときには、いろんな書類が必要で、改名もしたかったので親方の字ももらって変えました。
25,6歳の頃に帰化できましたので、これから知識を付けて魅了された日本をもっと知って、胸を張って僕は日本人ですと言えるような知識、日本人の良さを語って行けるような人になりたいと思いますし、庭師としても成長していきたい。












2019年9月24日火曜日

黒田征太郎(イラストレーター)      ・アートで問い続ける「命」

黒田征太郎(イラストレーター)               ・アートで問い続ける「命」
昭和14年飯坂生まれ、昭和44年デザイン事務所 ケイツー( K2)を設立、以来イラスト、ポスター、壁画などで国際的な賞に輝き、 日本のグラフィックデザインをけん引してきた第一人者です。
一方で作家の野坂昭如さんや漫画家の手塚治虫さんの作品に共感し、ライフワークとして命の尊さや平和の大切さを自身の絵を通して訴え続けてきました。

今年80歳、大阪心斎橋の近くでライブぺインティングを行いました。
絵を描くことは精神衛生的にいいんです。
ご飯を食べないと生きてはいけないが、いつごろからか絵もそれに近いものになってしまいました。
僕自身が戦争のことは避けて通れない、1939年に生まれてその年に第二次世界大戦がはじまった。
黒田征太郎の名前の「征太郎」は征服の征で、出征の征で、そんな意味合いで父親は付けているはずです。
父親は軍需工場の端っこのことをしていました。
兵隊が僕の家に来るのが好きだった、軍国少年でした。
その後大変悲惨な目を体験しました。
西宮で空襲に会い、防空壕にいたが、家に直撃弾が落ちて二階から縁の下まで空いていました。
不発弾だったので僕は今こうして生きているわけです。
命のはかなさなど体に染み込んでいるところがあります。

雑誌で野坂昭如さんが小説を連載して、挿絵に新人を使おうという事で僕に白羽の矢が立って、顔合わせしました。
作家はインテリでめんどくさい人が来るのかと思っていたら、見るからに怪しげな人がちょっと酔っぱらってるような感じでした。
持っているグラスにはウイスキーが入っていました。
僕が思っていた作家とは全然違っていました。
「俺も同じものを頂けますか」といったのが出会いでした。
人間というものは戦争を辞めれない生き物だと、戦争という馬鹿な行為をするのは人間だけだ、戦争がはじまると弱いものから巻き添えになってゆく。
人間以外の命あるものも殺してしまう。

「戦争童話集」戦争にまつわる12の童話を本として出版。
(野坂昭如 作 挿絵 黒田征太郎)
戦後50年という節目でしたが、ドイツなどでは戦争の事、アウシュビッツのことなど絶対忘れないという思いがありましたが、日本では戦争のことは忘れられてきている。
「戦争童話集」を読んだら、明快に戦争のことを書いている。
絵本化してみようと思って絵を描きだしました。
その中の「タコになったお母さん」は印象深いです。
最後には毛穴という毛穴から血を噴出して助けようと少年をくるむ話、少年を助ける愛、野坂さんの思いを絞り出しているなあと思いました。

野坂さんが自宅療養中に、「当然小説を書こうと思ってますよね、どういうものですか」と聞いたら、ゆっくりと「昭和20年8月15日に決まっているじゃないか、馬鹿」といわれました。
身体の芯まで打ち付けられたこと、両親を亡くして、結果的にも妹を亡くしてしまう。
戦争が始まって、そんなおぞましいことはしないといっていた人も最後には自分まで来てしまう。
僕は拷問にあってしまうと戦争反対と言えなくなってしまうような気がする。
戦争と言う言葉で何が一番怖いかというと、ひょっとすると順応する俺が怖い。
多くの人間がそうではないかと思う。
今でもどこかで戦争をやっています。

「18歳のアトム」 絵本を出版、アニメーションにする作業をすすめている。
手塚治虫さんとの出会い、昭和22年(9歳)で「新宝島」という漫画を出版されて、それを偶然見て、2,3ページ目で虜になりました。
学校では写真のように描けと言って絵が嫌いだったが、その絵を見て子供心に感動しました。
僕の生業を決めたのが手塚さんでした。
思いつくままに手塚さんを描いているうちにアトムが出てきました。
手塚さんの美術館が宝塚にあり観にいたんですが、映像が流れていて目をつぶって聞いていたら、手塚さんがしゃべっていることと野坂さんがダブったんです。
それが一番の原因でした。
命のことをずーっとしゃべっていました。

僕なりのアトムを映像にしようと思いました。
アトムがあまりにも活動しすぎて引きこもりになってしまう。
そこにベレー帽が飛んできて(手塚治虫)、「いつまでも閉じこもってはいけない、もっとでていけ」というんです。
太陽に向かって、「僕たちのことをどう思われますか」と聞くと「駄目だね、僕が送ってあげた火の使い方が間違っている。 火を使って人間同士が殺し合いをしているじゃないか。最初は小さな火だったけれども最後の最後にこれだけは手を出すなといった核に手を出した。
「アトミック」認められない。 アトムはショックを受けて、海に同じ質問をする。
「人間は何でもかんでも海に垂れ流してしまっている、いずれ食べることすらおぼつかなる」と天と海から否定されて、最後に地面の割れ目から出ている雑草にも聞く。
「僕らは生きています、生きているだけで充分です、それでいいじゃないあの」といわれアトムはびっくりする。
アトムはそういう実感はそれまでなかったので、僕は生きてるんだと飛び上がってしまう。
アトムが人間の18歳の子どもになる。(原子力のパワーをなくし普通の人間になる。)
ロボットだったアトムを人間に生まれ変わらせる。

18歳に選挙権があたえられたが、その先に徴兵制が見えるわけで、いろんな場所に行ける限り行って18歳の人たちと戦争の体験がありますと話し合いをして、そういうことができればいいなあと思います。
たった一回だけ、奇跡的にせっかく生まれてきて、殺したり殺されたりしてしまっている。
もうちょっと考えないと寂しいですよ。
自分一人では何もできない、「ありがとう」と言って死にたいが、それができないのが戦争ですよ。
遠慮しないで好きな絵を描いて遠慮しないで好きな歌を歌える、それすらも規制されるのが戦争。
戦争に対して自分のペースでやっていきたい。



























2019年9月23日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】正岡子規

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】正岡子規
「病床六尺これが我が世界である。 しかもこの六尺の病床が余には広すぎるのである。
わずかに手を伸ばして、畳に触れる事はあるが、布団の外へまで足を延ばして身体をくつろぐ事もできない。 はなはだしい時には極端な苦痛に苦しめられて五分も一寸も身体の動けないことがある。」 (正岡子規)

俳句や短歌の世界に革命を起こした人で俳人であり歌人である人です。
1867年10月14日に生まれたが、明治維新の前の年です。
生まれた翌月11月が大政奉還、12月が王政復古です。
武士の家に生まれたが、明治になって俸禄ももらえなくなる。
2歳の時に火事で家が全焼してしまって、4歳の時に父が亡くなってしまう。
母親は子規と妹を育てるのにかなり苦労をする。
子規は言葉をしゃべれるようになるのが遅かった、ほかの子どもたちがちゃんと喋れてる頃でも、正しい発音ができなかったりした。
身体も弱く腕力もなくて、気も弱くてほかの子どもにはかなわなかった。

「僕は子どもの時から弱みその泣きみそと呼ばれて小学校に行ってもたびたび泣かされていた。
例えば僕が壁にもたれていると右のほうに並んでいた友達がからかい半分に僕を押してくる。
左へよけようとすると左からもほかの友達が押してくる。
僕はもうたまらなくなる。
そこでその際足の指を踏まれるとか、横腹をやや強く突かれるという機会を得てすぐに泣きだすのである。
そんな機会がなくても2,3度押されたらもう泣きだす。」
(「墨汁一滴」の中の一節)

成長するにつれて段々気も強くなって行って、運動は苦手だが野球は大好きだった。
ベースボールが入って来たばっかりで「野球」という言葉もなかった。
正岡子規が自分でバッターを「打者」、ランナーを「走者」、デッドボールを「死球」とか日本語に訳している。
20歳の時に病気になってしまい(結核)、この時に子規という名にしている。
子規とはホトトギスのこと、鳴いて血を吐くホトトギス。(口の中が赤いためにそう見える)
28歳の時に歩くこともできなくなる、脊髄カリエスになってしまう。
34歳で亡くなるが、その時までずーと寝たきりになってしまう。
「病床六尺これが我が世界である。 しかもこの六尺の病床が余には広すぎるのである。
わずかに手を伸ばして、畳に触れる事はあるが、布団の外へまで足を延ばして身体をくつろぐ事もできない。 はなはだしい時には極端な苦痛に苦しめられて五分も一寸も身体の動けないことがある。」 (「病床六尺」という文章の書き出しの部分 正岡子規)
「病床六尺」は新聞連載で毎日127回連載して死ぬ2日前まで書いている。
正岡子規が病床でどうなっているのか、読者は実況中継のように毎日読んでいた。
私(頭木)は正岡子規は避けていました、20歳で難病になり13年間病症にあったので読むのが怖かった。
絶望の言葉がすべていいわけではない。

「悟りという事はいかなる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたことは間違いで、悟りという事はいかなる場合にも平気で生きていることであった。」 
(「病床六尺」の中の言葉 正岡子規)
当時痛みに苦しんでいて死にたいと願うほどだった。
痛みには凄くレベルもあり、種類もある。
健康な人は痛みが限られているが、病気になって人間にはこんな痛みがあるのかと私は驚きました。
本当に我慢しにくい痛みがある。

「痛みの激しい時にはしょうがないから呻くか、叫ぶか、泣くか、または黙ってこらえているかする。
その中で黙ってこらえているのが一番苦しい。
盛んに呻き、盛んに叫び、盛んに泣くと少しく痛みが減ずる。」(「墨汁一滴」の一節)

「笑え笑え、健康なら人は笑え。 病気を知らぬ人は笑え。 幸福なる人は笑え」
(「病床六尺」の中の一節)

「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」 (正岡子規)
*お寺の鐘の音を組み合したミュージックコンクレートによるカンパノロジー
 (黛敏郎作曲)
子規がまだ歩けるころに奈良にいき、好きな柿をドンブリ一杯若い女性が持ってきてくれて柿の皮をむいてくれて、柿を食べた。
「柿も美味い、場所もいい、余はうっとりとしていると ボーンという釣り鐘の音が一つ聞こえた」
そういった中で生まれた句だそうです。
「柿食うも今年ばかりと思いけり」 という句も作っている。(翌年亡くなる。)

「世の中の重荷降ろして昼寝かな」 (正岡子規)
実際には世の中の重荷降ろせず昼寝できず、かもしれませんが。
この句は子規の願望かもしれません。
病気には休みがない。
病人の何よりの願いは一日でもいいから休みが欲しいという事ではないかと思う。
そんな一日があればどんなに幸せかと思います。
「願わくは神 まず余に一日の間を与えて24時間の間自由に身を動かし、たらふく食をむさぼらしめ」と子規は言っています。
深刻な悩みを持っている人も同様かと思います。

「梅も桜も桃も一時に咲いている。 美しい丘の上をあちこちと立って歩いて、こんな愉快なことはないと人に話し合った夢を見た。
睡眠中といえども暫時も苦痛を離れることのできぬこの頃の容態に、どうしてこんな夢を見たか知らぬ。」

「誠を申せば死という事よりほかに何の望みもこれなく候。
生きている間に死にたいとは思うはずはないようになればいい。
回復の望みなくして苦痛を受くるほど余に苦しきものはこれなく候。
この世にてそわれぬために情死するのも同じことと存じ候。
他より見れば心弱きようにみゆべけれど、今日苦痛減じて多少の愉快を感ずる時でさえ、未来を考え見れば再びどんな苦が来るやら判らずと思えば、今が今にても死ということは辞せず候。」  (「漱石子規往復書簡集」のなかの一節 明治30年 正岡子規)
本当に悩み苦しんできた一節。

「少し苦痛があるとどうか早く死にたいと思うけれど、その苦痛が少し減ずるともはや死にたくも何にもない。
人間は実に現金なものであるという事をいまさら知ることができる。」

死にたいと思う事と、死にたくないと思う事の両方を同時に同じぐらいの強さで思う事はいくらでもある、そういうものです。
「人としての子規を見るも、病苦に面して生悟りを衒わず歎声を発したり自殺したがったりせるは、当時の星菫(せいきん)詩人よりも数等近代人たるに近かるべし。」
(星菫(せいきん)詩人→星や菫(すみれ)に託して、恋愛や甘い感傷を詩歌にうたったロマン主義詩人)
(「病中雑記」より 芥川龍之介)

「その時分は冬だった。 大将、雪隠に入るのに火鉢を持って入る。
雪隠へ火鉢をもっていったとて当たることはできないじゃないかというと、いや当たり前にすると金隠しが邪魔になるから後ろ向きになって、前に火鉢を前に置いて当たるのじゃという。
それでその火鉢で牛肉をジャージャー煮て食うのだからたまらない。」
(漱石と子規とのやり取り)

夏目漱石がロンドンに滞在しているときに子規が送った手紙
「僕はもう駄目になってしまった。 毎日訳もなく号泣している次第だ。
いつかよこしてくれた君の手紙は非常に面白かった。
近代僕を喜ばせたものの随一だ。 
僕が昔から西洋を見たがっていたのは君も知っているだろう。
それが病人になってしまったのだから残念でたまらないのだが、君の手紙を見て西洋に行ったような気になって愉快でたまらぬ。
もし書けるなら僕の目の開いているうちに今一便よこしてくれぬか。
ロンドンの焼き芋の味はどんなか聞きたい。」  (正岡子規)