2026年6月16日火曜日

三輪主彦(大人のための科学塾主宰)     ・「東京にも富士がある」

三輪主彦(大人のための科学塾主宰)     ・「東京にも富士がある」 

7月1日の富士山の山開きの日が近づいてきました。 富士山に1度は登りたい、でも体力に自信がない、混雑が気になる入山料もかかるなどと諦めている方がいらっしゃるのではないでしょうか。 実は東京都内にも気軽に登れる富士山がいくつかあるといいます。 一体どんな富士山なのか若い頃はヒマラヤのカラコルム山脈の山などに挑戦し、高校の教諭を退職してからは、東京の富士山巡りを続けている三輪主彦さんに案内してもらいます。

都立高校30年ほどやっていました。 毎日走って学校に行ってました。  理科の先生でした。  研修で海外にも行きました。  大学では山岳部にいたので、1986年にヒマラヤのカラコルムに行きました。 6000メーター位のところで引き返さざるを得なくなり、カラチと言う乾燥地域に行きましたが、そこは意外と面白く乾燥地域回るようになりました。  1978年から79年にかけてトルコのアンカラ大学に留学して、火山の研究をしました。 戒厳令で大学には行けなくて、トルコをバスで回りました。 

宮本常一先生の主催している日本観光文化研究所に出入りさせてもらっていました。  旅の文化を研究するところでした。 地球環境問題に触発され、マングローブを植えることに参加して、湾岸、ミャンマー、ベトナム、エクアドルにも行きました。 1979年から地平線会議第1回目の報告があり、その報告会は現在まで続いてます。カナダに旅行に行った時に、走って旅をすることに出会い、その後続けています。東海自然歩道と言うのは1200キロあって、高尾山から箕面まで30数日間かけて行きました。 四国遍路も1200キロありますが、そこも走って行きました。

生徒と接していて科学離れと言うことを感じて、大人に理解してもらいたいと思って、定年前に辞めて大人のための科学塾を開こうと思いました。 最初は、宇宙の話とか、地球のマントルの話をしてましたが、実践が伴わないので化石川巡り(昔は流れていたけれども、現在は流れていない川)をしました。 次に山巡りを考えました。 品川神社のところに結構大きな山があって富士塚と言うとこでした。  東京には実は富士山がたくさんあります。 江戸時代に富士講と言うものがありました。 富士山は女人禁制でした。 ミニ富士を作ろうと言うことになり、高田馬場に初めての富士塚ができました。 

富士講の代表の人が富士山に行った帰りに溶岩を持ってきて、富士塚に貼り付けるわけです。 女子供もその富士塚に登れば富士山に登ったと、同じご利益が得られるということです。 昔からのものは3つしか残っていません。 上野の小野照崎神社にある富士山が重要文化財として残ってます。(下谷坂本富士)  西武線の江古田駅の前ある江古田富士、東長崎駅のそばに長崎富士、あるいは高松富士と言われる富士、 十条富士と言うのはあります。 東京の中では1番縁日のすごいところです。 山開きに合わせてやります。 

現在都内には77ぐらいあります。 明治の時に廃仏毀釈があり、仏教系のものは全部取り壊してしまいました。 富士講を仏教の1派でということで壊されてしまいました。 神道であると言うことで生き延びるために鳥居を立てるわけです。 明大前と言う駅のそばに松原富士と言う富士山があります。 江戸にはかつては800から1000があったと言われてます。 江戸川区には14の富士が残っています。 めぐると10キロメーターあります。

富士講はみんな仲良くしようと言うのが1つ登拝いろいろ考えながら、自分の体を鍛えながら登るというのがあります。 江戸の七富士は公式には残っていません。下谷坂本富士、品川富士、江古田富士、千駄ヶ谷富士、十条富士、音羽富士、長崎富士、重要文化財が3つ入ってます  現在は無いんですが、江戸の広重が描いた名所江戸百景と言う浮世絵のシリーズがあります。 その中に富士が二つ描いてあります、目黒元富士目黒新富士。 中目黒の駅から目黒川を渡って、代官山に出るちょっと前に大きなマンションがあって、その脇に目黒富士跡と書いてあります。そこにあったと思われます。

8月の末に山終いと言うのがあります。 富士吉田の火祭りがあります。 それに合わせて富士塚でも火祭りをするところがあります。 清瀬中里富士があって、火の花祭りというのをやっています。 大きな松明を燃やします。(9月1日に実施)  みんな仲良くしよう、男女平等、畏敬の念を持って山に登ろうとか、そういう精神は残していかなければいけないと思います。






2026年6月15日月曜日

高橋克実(俳優)              ・師匠を語る「演出家実栗山民也を語る」

 高橋克実(俳優)          ・師匠を語る「演出家・栗山民也を語る」

映画やテレビ、そして舞台で活躍する高橋克実さんが師と仰ぐのは、舞台、演出の第一人者栗山民也さんです。 演出家栗山民也さんと俳優高橋克実さんの師弟関係を伺いました。

映画、ドラマに憧れてこういう世界に入りましたけれども、舞台と言う魅力と言うものがわからないでやり始めていました。 栗山さんと仕事をするようになってそう思いました。

栗山民也さんは、1953年東京町田市で生まれます。 早稲田大学文学部演劇学科卒業後、小沢昭一さんが主宰する芸能座に所属。その後演出家の木村光一さんに師事して、1980年「ゴドーを待ちながら」で、演出家としてデビューしました。 文化庁派遣在外研修員として、イギリスのナショナルシアターでの研修を経て、1996年「ゲットー」の演出で紀伊国屋演劇賞、芸術選奨新人賞などを受賞、演出化としての評価を不動のものとします。 2000年には新国立劇場演劇部門芸術監督に就任、監督就任後、目玉となった作品を井上さんに依頼します。 これが「東京裁判三部作」です。  第1部「夢の裂け目」第二部「夢の涙」そして第三部「夢のかさぶた」これで完結する「東京裁判三部作」です。 また芸術監督を7年間勤める一方で、新国立劇場演劇研修所の初代所長として、高い水準の演劇教育体制を確立しました。 2013年の紫綬褒章に続いて2023年には旭日小綬章を受賞。さらに今年、第82回日本芸術院賞・恩賜賞を受賞、活躍観続いています。

私の初主演作は2008年NHKテレビドラマ「フルスイング」大河ドラマでは、「龍馬伝」など数々のNHKのドラマに出演しています。 最近では連続テレビ小説「虎に翼」で演じた、新潟県三条市の杉田太郎役、新潟県三条市は私の出身地です。  最初は劇団に憧れて入りました。 劇団離風霊船に入団。 劇団主宰・大橋泰彦の作・演出作品の「ゴジラ」にモスラ役で出演、新進劇作家の登竜門と言われる岸田國士戯曲賞を受賞しました。

栗山さんを一言で言うと、初めて会ったプロの演出家です。  「メディスンの薬」?の稽古の時にサンダル履きで行った覚えがあります。 ジャージに裸足で行きましたが、靴の紐を結ぶというト書きに書いてあることが出来ずに、栗山さんから注意を受けました。 以後稽古への向き合い方が変わりました。 20代から30代に所属した 劇団離風霊船「ゴジラ」で岸田國士戯曲賞を受賞。(1998年 27歳) その時には、栗山さん自身のことも岸田國士戯曲賞がすごいっていうことについてもあまり知りませんでした

ミュージカル「阿国(おくに)」の初演が1990年で栗山さんの演出でした。    観客として初めて見に行きました。 木の実ナナさんが主演。 当時、日本のミュージカルが人気のあると言うものではありませんでしたが、力強さエネルギーを感じました。 「東京裁判三部作」の第一部の「夢の裂け目」が2001年、第二部「夢の涙」が2003年、2006年が第三部「夢のかさぶた」これに出演しました。     栗山さんとは1番距離が縮んだ時でした。 この三部作は自分にとってはターニングポイントとなりました。 井上さんの本と栗山さんは相性が良かったんだと思います。 

それほど面白くない所でも栗山さんがやると面白くなるんです。 女優さんの仕草とかを女優さんよりも上手に栗山さんはやります、やってみせる。  栗山さんは、稽古場のときの仕事の場とそうじゃない時では全然リラックス感が違っていました。  2023年に栗山さん演出の「海をゆく者」にしました。 翌年第31回読売演劇大賞優秀男優賞を受賞しました。 「海をゆく者」は、僕は初演も再演も見ていて、ものすごく面白かったです。 

初演、再演は、吉田鋼太郎さんが演じた役を3回目の演出では、私のほうに栗山さんからオファーが来ました。 ものすごい大変な役なので、逃げたかったです。 どうなるかなと思いながらやることになりました。  苦労した甲斐があって、第31回読売演劇大賞優秀男優賞を受賞することになりました。 栗山さんとの出会いは、1992年の「メディスンの薬」?から、今回の「花よりタンゴ」で34年の師弟関係になります。 教えとしては、言葉と言うよりは、栗山さんの姿勢だと思います。 12ヶ月ずっとここ何十年と演出し続けていてすごい本数だと思います。     常に演出の事しか考えてないんです。 生きるという事は、演出そのものなのです。

栗山さんへの手紙

「・・・今日もどこかで大好きな演出をされていることでしょう。 誰よりも早く稽古場に来て、終わると颯爽と風のように去っていく。 1年12ヶ月休むことなく演出をやり続けて何十年、やや半世紀。・・・まさに日本演劇界のマグロ、栗山さんとの一番の思い出は、2001年の新国立劇場の 井上ひさしさんの「夢の裂け目」・・・なかなか台本が上がらずに稽古ができず、その分よく飲みに行っていろんな話を聞けたことです。・・・」





2026年6月14日日曜日

棚橋弘至(新日本プロレスリング社長)    ・「多様性」と「激変」を牽引するリーダー

棚橋弘至(新日本プロレスリング社長)・「多様性」と「激変」を牽引するリーダー 

近年、新しい時代の価値観や多様性に対応できる柔軟なリーダーシップの取り方に関心が集まってます。  元プロレスラーでプロレス興行団体社長の棚橋弘至さんは個性的なレスラーの皆さんをリード、育成しながら多様化する格闘技ビジネスの世界で強いリーダーシップを発揮されています。 様々な夢、能力、キャラクターを持った人たちを先読みの難しいこの時代どう牽引していけばいいのか、選手として感じできたこと、今会社のリーダーとして思うことをお話しいただきました。

1976年岐阜県大垣市生まれ。 小、中、高と野球をやっていました。  野球選手になれたらいいなぁと思っていました。  高校生の時にたまたま夜のプロレス中継を見てこんなすごい人たちがいるんだと言うことを見て、一気に好きになってしまいました。  立命館大学法学部に入学しました。 大学4年間で体重を25キロ増やしました。 大学ではプロレス同好会に入りました。アマチュアレスリングクラブにも入りました。 22歳で新日本プロレスに入門しました。 2023年の12月23日新日本プロレス株式会社の第11代代表取締役社長に就任しました。 選手権社長2年やる。 2026年に選手を引退。

2000年代から格闘技、K1とかテレビで放送され、プロレス業界は方向性を見失う時代でした。 かつて経営は丼勘定だったんですが、数字の分もしっかり見なくてはいけなくなったので、ビジネスとしての成長を求められました。  選手時代は、プロレスのイメージを変えると言うことに力を注ぎました。 「愛してます。」と言う言葉が出てきっかけと言うのは、2006年の北海道の大会でしたが、チャンピオンシップに挑戦することが決まっていました。 チャンピオンがドタキャンでトーナメントで勝ち抜いてチャンピオンになりました。 チャンピオンを目当てにチケットを購入した方に申し訳なくて、その時に「ありがとう。」「愛してます。」という言葉が出ました。(感謝の最大級と言う意味合い) 試合の締めの言葉では「愛してます。」という言葉を使うようになりました。 メインイベンターには決めポーズ、決めゼリフ、きめ技、この3つがないとなかなかなれないと言う型を作りました。

新日本プロレスには現在50名前後います。 みんな個性を出していって、フアンの方にアピールしていかないと生き残れない社会です。 リング上は1つの形ができてるので言う事はありません。  選手が戦いに集中できる状況を常に作っていきたいって言うふうに思ってます。 現在3人ずつランチミーティングを行っていろいろ聞いたりしてます。 ピンチはチャンスだと思ってます。 リーダーがうろたえると、会社自体に動揺が広がると思いますので、常に笑顔でいようと思ってます。   プロスは楽しいとか、盛り上がりとか、そういった外側のところに僕はフォーカスを当てただけです。 

リングの中は以前からのスタイルのままです。 喜怒哀楽の感情が全部詰まっています。  プロレス会場に来たら怒ってもいいし、泣いてもいいし、そういった感情を振ることによって心がすかっとします。 プロレス会場はお客さんと選手のエネルギー交換だと思ってます。 ①疲れない②落ち込まない③諦めない。それを逸材3箇条と呼んでいます。 チャンピオンになってから6年間ぐらいチャンピオンらしくないと言うことでブーイングがありました。 その時に二つの軸が必要だと思いました。 ①会社側の評価、②自分の中で100%出したかと言う軸、それが進化の秘訣です。 

努力している人は、目つき、生き方、生きる姿勢そういったものに全部出てきます。 自分じゃない誰かが、きっと見てくれていると思います。 自分がやりたいことを仕事にできていると言うことが一番大きかったかなぁと思います。 人の喜びを自分の喜びにできる人間でありたいと思います。 仕事の中で自分の充実感を見つけてほしいと思います。 戦いを通じてエネルギーを売ってる会社だと思ってます。  100年続く長寿企業さんのイベントに行った時に、100年続く社訓があって、①会社の方針がしっかりしていること②製品がしっかりしてること③柔軟に時短に対応すること 僕は3つ目に特に注目してコスチュームを派手にしたり、プロモーションもいっぱいしてきました。


2026年6月13日土曜日

高島幸次(大阪天満宮文化研究所所長)    ・変革が伝統になる~千年つづく天神祭~

高島幸次(大阪天満宮文化研究所所長) ・変革が伝統になる~千年つづく天神祭~ 

担い手不足などで衰退の一途をたどる祭りが少なくない中、疫病退散などを祈願する大阪天満宮の天神祭は、ますます盛況で7月24日の宵宮と25日の本宮、合わせて約130万人の人出があります。  神様を乗せた神輿を中心に、総勢3000人余りが練り歩く陸渡御、神様の乗った船とそれをお迎えする100隻もの船が中心部の大川(旧淀川)を行き交う船渡御、そして奉納花火が有名で、そのほかにもたくさんの神事や行事が、夏の大阪で盛大に繰り広げられます。 高島さんは、天神祭は変革を繰り返すことで、伝統行事としての魅力をいっそう増してきた、その仕掛けのキーワードは、疑似的な伝統、疑似伝統だといいます。 1000年余り続く大阪の天神祭りはどのような変革を繰り返してきたのか、高島幸次さんに伺います。

お祭りの日に着る装束を宮司から重要な人に与える、それが装束賜式(しょうぞくたばりしき)といいます。 そういう意味から言うと天神祭は既に始まっています。  江戸時代から始まった2メートル位の豪華なお迎え人形と言う人形がたくさんありますが、事情によって今はそれを船に乗せられないと言う事情があります。   最盛期は50体位ありました。 現在残っているのは16体です。 大阪有形文化財に指定されています。 8体位を設置してスタンプラリーとしてやっています。(7月1日)

大阪天満宮は、菅原道真公をお祭りしています。 讒言により菅原道真公は太宰府に流され亡くなります。  亡くなった後、いろんな天変地異、流行病が流行ったりします。 道真公の祟りではないかと言うことで、道真公をお祭りするようになります。 大阪天満宮の場合には949年に天満宮ができます。 疫病を鎮めてくださいと祈願する神社としてできています。  太宰府は当時古代の外交の玄関口でしたので、中国大陸や朝鮮半島から人がたくさんやってきて、日本に無かったウィルスを持ち込んでいたようです。 それが道真公と結びついてくるわけです。 平安京で起こった疫病、多分天然痘と思われますが、神事で日本中の疫病をお神輿に閉じ込めて川に流していくと、大阪天満宮の前あたりで、一気に海に流れ出す場所でした。 道真公が太宰府へ流される際に天満宮の場所あたりから船で向かったと言われています。 いくつかの条件が重なってそこに天満宮の場所が決まったようです。 

日本には夏祭りと秋祭りがあります。 お祭りは基本的には神様が年に1回だけ外に出てこられます。 村の神様は農業で収穫を気にされます。 刈り入れが終わった頃に出てこられて、今年1年よく働いたねと、そして村人たちも収穫していただきまして、ありがとうございますと感謝する、それが賑やかなお祭りになります。  天神祭は夏祭りですけれども、収穫とは関係なく街の人々は、疫病を退散する祈願をします。  大阪天満宮の場合には、船渡御と陸渡御と2つあります。  

天神祭の「大阪締め」は独特で、お祭りに特別に参加している人たちと、全く縁もゆかりもない見物に来られた人たちの間で交わされます。 去年、大阪天満宮と天神祭の本を書くときに、大阪天満宮の歴史だけを書くつもりでいました。 お祭りの存続の仕方を天神祭の中にヒントがあるのではないかと思って、疑似伝統と言うことを説明しました。 時代の変化に応じて変わってなかったら途絶えてしまいます。 今伝わっているのは必ず時代の変化に合わせて対応して変革を繰り返しながらやっています。 伝統を感じさせる変革を繰り返す、それは日本の文化の中にちゃんとあります。 例えば、天皇の即位の時に、江戸時代最後の孝明天皇までは中国の皇帝の装束を真似してましたが、明治天皇から初めて現在の装束のように変わりました。 

年に1回神様が神社から外に出てこられるときには、鳳神輿に天神様が乗って、玉神輿と言う乗り物に法性房尊意(天台宗の1番偉いお坊さん)が乗って出てきますが、の神輿と共に2つ出てきます。  明治に神仏分離と言うことで、神社とお寺を明確に分けれるようになりました。 お坊さんをまつわることができなくなり、道真公のご先祖にあたる神様と、天照大神が岩戸に隠れたときに、力づくでその岩戸を開けた人、2人の神様が今度はお祭りにお供する形になります。  天神祭は、静と動のお祭りと言われますが、疑似伝統として新しい形のお神輿の関係性です。(仏法で鎮めようとしたことを力で鎮める考え方)  

陰暦では6月の25日で行われていましたが、新暦に変わったときに、それに天神祭りが相当するのは7月25日という事にしました。 7月25日にすることによっての時期からずれて、この30年間雨が降ってない状況でお祭りが行われます。  昔は天神様から大川から下流のほうに行ってましたが、地盤沈下で下流に行けなくなって上流に行くようになりました。 船の上で神事ををやるようになって、それを見物人が見ることができるようになりました。 おもてなしの心が天神様の祭りの中にたくさんあります。 御迎え人形は芝居の1番の決めのポーズをとっています。   町内会ごとにちょうちんの文字が変わっていきますその文字について、地元の人と見学に来た人との間で交流が生まれたりもします。 

天神祭りの1番中心には、神主による神事があり、周辺に氏子の神賑行事というのがあり、一般市民の観光行事の三重の行事があります。 この三重の行事のバランスが全国の中で最もうまくいってると思います。  それがどうしてうまくいっているかと言うと、疑似伝統の使い方とか、おもてなしの心、そういったものが可能にしているものと思います。  伝統を守ろうと思って、無理をして滅びさせてしまうよりも、どのように伝統を変革したが、存続できるんだろうと言う変革の仕方にコツがあると思います。


2026年6月11日木曜日

持田叙子(近代文学研究者)         ・「荷風は女性の味方です」

持田叙子(近代文学研究者)         ・「荷風は女性の味方です」 

持田さんは、1959年東京都生まれ。 1995年から発刊が始まった折口信夫全集の編集解説を担当、荷風研究では、2009年「荷風へようこそ」でサントリー学芸賞を受賞しました。 荷風の他折口信夫や泉鏡花についての著書もあります。最新の著書は去年出版された「ことばで愛し、ことばでたたかう日本文学の宝石箱」です。  また去年創設された永井荷風新人賞の選考委員をされています。 

6月は荷風の季節と言っていいと思います。 梅雨を取材にした「雨、少々」と言う小説も若い時に書いています。  男の方の荷風論と言うのは、非常に尊敬するし、調査も行き届いていますが、遊びの世界、荷風は粋だ、男としては憧れるというのが多いです。 評論家の川本三郎先生が荷風の評論の先人を切ってますが、川本先生自身がエッセイで早く女性の研究家が出て、こういう見方を変えてちょうだいと言うふうに呼びかけていましたので、違った口調で発掘してみたいと思いました。 

平和こそ一番尊いものなんだと言っています。 荷風は甘いものが好きで、「砂糖」と言うエッセイで、日々のおやつこそ平和の証だ。 そういうものはゆとりがないとおやつなどできないと言ってました。 日々のおやつを大事にして平和のシンボルにしましょうと、「砂糖」と言うエッセイで呼びかけていました。 全集も35巻あります。 20歳前から亡くなる直前まで書き続けました。

私の経歴は、大学、大学院では、民族学者、国文学者、歌人でもあった折口信夫の研究をしました。 荷風も折口信夫もずっと独身でした。 結婚するとかなり自由が束縛されるので独身を通しています。 荷風は若い頃2度結婚していますが、その後は独身、平和を愛したということで2人に共通点があります。 乙女、少女を平和のシンボルとして詩や小説で主題にしていると言うところがこれが大きく結構重なっていると思います。 

私は40代の時に体調を崩し折口信夫を研究することは厳しいと思っていた矢先に、荷風の作品との出会いがありました。 荷風は柔らかくて優しくて助けてもらったらという感じがしました。  来青花と言う花のエッセイに引き込まれれました。(38歳の時の作品) 荷風は庭が大好きでした。 荷風といえば、散歩の達人。     荷風は男子たるもの裁縫はできねばならぬ、料理もできねばならぬと言っていました。 真の人間の独立は家事ができなければ話にならいと言う主義でした。 

荷風は24歳でアメリカに留学して、その後銀行員になってフランスも行ってます。 荷風には「アメリカ物語」と言う短編小説集がありますが、アメリカの乙女の自由な姿に感激しています。 荷風は、アメリカやフランスに行く前から、ほとんど乙女が基本です。  結婚などに関する乙女たちの恨み、怒りを初期から荷風は小説にしています。  荷風は最初の結婚が父親の言うなりのお見合いでした。2人目の奥様が芸者さんです。 離婚した後付き合ったのは玄人の女性です。 日本でも自由な女性が出ればいいと思ってたんですが、絶望したんではないでしょうか。 自分は絶対に素人の女性を騙したり遊んだりはしない、それは自分の誇りだと書いています。 

荷風は、子供の頃から芸者さんと言うものに非常にピュアに馴染んでいました。 父親の家にしょっちゅう芸者さんが来てました。 家庭の宴会のお手伝いなどもしました。 乳母のような存在とエッセイで書いています。 荷風の時代には60歳になると隠居、荷風の視点からすると、社会とも競争しなくても良い。社会の外の世界に生きられると言う思いがありました。 組織から抜けた人の尊い眼差しと言うことを荷風は大切にしています。 素敵なおじいさんをたくさん小説に登場させています。  荷風は平和を徹底的に守った文学者と言う面を見ないというのは非常に私たちの損ではないかと思います。  荷風は戦争に迎合するようなことを一切書かなかった。 私が荷風から影響受けたのはすごくありますけれども、あんまり頑張らない、頑張って自分の野心を達成しようとすると、かえって人の迷惑になったり、人を傷つけたり、自分も傷つく。 文体も断言しないと言う風に、柔らかく、素直な文章を書いていきたいと言うふうに意識が変わりました。

私は本が好きで、少女漫画、児童文学、純文学の境目が私にはないんです。   日本画を描くのが好きでした。 手を悪くてしまったので描くことが出来なくなり、見るのも好きです。 荷風と日本の古い伝説は、まだ焦点が当てられていないと思いますので、古い日本の古い良き物に出会おうした柳田邦夫と永井荷風をテーマに書いてみたいなと思っています。  去年創設した永井荷風新人賞の選考委員になりました。 

永井荷風は79歳で亡くなりました。  荷風から学ぶシニアの生き方、生活は、その知恵は荷風のエッセイにいっぱい出て来ます。 孤高を保て、孤独を恐れるなとか、なかなか難しいところはあります。 荷風から教えてもらったものの、1つに毎日夜の空を見なさい、月とか星のことを見てメモすることによって、ちょっと心がロマンチックになります。


2026年6月10日水曜日

松村雄基(俳優)              ・還暦過ぎて、俳優も書道もまだまだ勉強

松村雄基(俳優)          ・還暦過ぎて、俳優も書道もまだまだ勉強 

松村さん(62歳)は、1980年17歳で芸能界デビュー。 テレビドラマ「不良少女と呼ばれて」や「スクール☆ウォーズ」、「ポニーテールはふり向かない」などで人気を集めました。 今はテレビドラマのほか舞台やミュージカルで活躍、7月にはミュージカル「赤毛のアン」の出演が予定されています。 また松村さんは30歳の時にある本を読んだのをきっかけに、書道を本格的に始めました。 書道を始めて2年で師範の免許を取り、その翌年に東京新聞主催の第17回東京書作展で内閣総理大臣賞を受賞しました。

3月から始まったミュージカルがちょうど5月末で一段落つきます。「天使にラブ・ソングを」という日本では初演から12年目になります。(6回目の再演) 去年は舞台でミュージカルを含めて4本やりました。 ミュージカルは短くて1ヵ月長いと3ヶ月位練習をします。 泣いているように歌う、悲しいように歌う、嬉しいように歌うと言うことが必要です。 本当に感情を込めて歌うと歌えなくなってしまいます。 冷静な気持ちを持ちつつ、音符をしっかり、リズムをしっかり、メロディーをしっかり芝居と芝居の間にしっかりはめて踊りながら芝居をする。これは普通にする芝居の3倍労力がかかります。  初めて会った人と、いきなり恋人、親子、ライバル関係を構築するのは本当に大変です。  役者と役者のキャッチボール、スタッフとのキャッチボール、お客様とのキャッチボール、呼吸、駆け引きが舞台の素晴らしい魅力であり、難しいところであると思います。 

30歳の時に初めてミュージカルの話が来ました。 14歳の時に、同級生から芸能事務所の社長を紹介されました。 社長が私を預からせて欲しいと言うことになりました。 祖母の一声で芸能界の道に入ることになりました。  「劇団俳小」に2年間通って演技の基礎を学びました。  その間公演に2回出ました。1980年高校2年生の時にテレビドラマ「生徒諸君」の沖田成利役でデビューしました。(大阪から来た不良の役) それから学校へは行かず、半年間ずっと撮影ばっかりでした。   留年しました。 手取り足取りの17歳でした。 ただただ現場で怒られ夢中にやっている日々でした。 1984年の放送の「少女が大人になる時、その細き道」で大映テレビドラマの初レギュラーに出演して、僕の運命がそこでぐんと動いたと思います。 「スクールウォーズ」と言う伏見工業高校の実話を元にしたスポーツ根性ドラマでした。  その後、いろんなテレビドラマに出演するようになりました。   「スクールウォーズ」は普通のドラマではないけれども、脚本家の方々がこの作品にかける情熱を言葉に託したその思いがあったからこそ、今40年経っても注目していただけると言うことに本当に感謝しています。

子供時代は内向的で小学校から4年から詩吟と剣舞をやってました。 絵が好きで運動は苦手でした。 中学1年の時に持久走をいつの間にかやらされることになって、1ヵ月以上練習して出場したら、学年で1番になりました。  やればできるんだと言う成功体験を学びました。 私は指導していただいた人たちに恵まれました。 最初は祖母、次が事務所の社長、剣舞の女の先生、書道の先生も女性で、お茶の先生も女性で、女性の先生にとても恵まれました。 うまく字を書くと祖母が褒めてくれて、字を丁寧に書くようになりました。 祖母からはいろんなことを鍛えられました。 事務所の社長からは、今はお前があるのはおばあちゃんのおかげだからと言うことを常に言っていました。 18歳の時に祖母が脳梗塞で倒れてしまいました。高校3年生の時 在宅が10年で10年間ほど特別老人ホームに入って合計20年です 在宅時には祖母の介護をしました。

書道に興味を持ったのは30歳の時です。 書店で「くたばれ日展」と言う本を読んで読んだらすごく面白かった。  著者の大渓洗耳先生のところの体験入学があり、そこに入ることにしました。 女性の先生の前で上手く書くことができなかったのは、あまりも悔しくて、それをバネにしてエネルギーにしました。 書道を始めて2年で師範になりました。 結構大変な試験でした。 当時は、書道の合間に撮影に行くと言う風な感じでした。  

東京新聞社主催の第17回東京書作展で内閣総理大臣賞を受賞しました。 師範試験を受かった翌年でした。 書いた作品と言うのは、自分が映る時があります。   心理状態、自分の持っている何かとか、書は自己顕示欲の塊だと言われました。 良い書をを作ろうと思ったら、どんどん経験して失うと何かを得る。 そこにエネルギーが生まれて創作ができるんだと言われました。 なにくそと思って頑張ったときにエネルギーが生まれて得るものがある。 

書いた自分の字があまりにも形だけだったりすると愕然とします。  芝居でも同じです。 舞台に立つときには役柄として舞台に立つ自分、客席で見ている自分、全部俯瞰して見ている自分、同時に3人ぐらいなさい、そうでないと自己満足だけで芝居したらお客様は喜ばない。 お客様に受けるだけの芝居をしても駄目、全部を見渡した中での役作りとかがあるべき。 冷徹な穂先の冷徹にある気持ちがないと書けない、情にほだされて書いたのはそれだけの書です。 そう言われたときには自分では何も考えてないなぁと思いました。 書の向き合いが自分の仕事芝居にも生きます。 冷静に見ると言うことが芝居にも必要であると言うことを改めて感じてます。  知らないことを知りたいと言う気持ちが湧いてきます。 もっともっと勉強しないといけないと思います。  音楽も書ももう一度勉強ですね。    学ぶと言うものは何か得られるじゃないですか。 そういう得られるものが嬉しいです。