2023年1月7日土曜日

キダ・タロー(作曲家)         ・浪速のモーツァルト 前編  幼い頃は内気な子

 キダ・タロー(作曲家)         ・浪速のモーツァルト 前編  幼い頃は内気な子

キダさんは独特のヘアースタイルで、学校時代音楽室に飾っていたバッハやモーツアルトの髪形に似ています。  白髪混じりのオルバック、襟足は高めです。  浪波のモーツアルトというニックネームがしっくりくるのもこの風貌からくるのかも知れません。  キダさんは昭和5年12月生まれ、92歳。  兵庫県宝塚市に生まれ、ずーっと関西で活動してきました。  一回目は生まれてから戦時中にかけての生い立ち、戦後まもなく兄のアコーディオンに触れて音楽の世界に入って行ったその経緯を伺います。

父親が警察官でしたので官舎に住んでいました。  外にあまり出なかったので庭で女の子と遊んだ程度の記憶しかないです。  父親の転勤の関係でいろんな街に行きました。  父親は勇敢で退職後に近所に泥棒が入って床下に逃げ込んだんですが、「神妙にせい。」と言って怒鳴って、出刃包丁を持った男が出てきました。  その勇敢さは私は引き継ぎませんでした。  5男1女で私は末っ子です。  昭和16年12月に真珠湾攻撃がありましたが、ヤッターという感じでした。(当時小学校5年)  日本国民のほとんどがそうでした。   娯楽はラジオ一つだけで歌謡曲、軍歌、歌曲(枢軸国のもののみ)、でした。  狭い視野の音楽を聴いていました。  軍歌の影響は強烈なものがありました。  今でもしっかり覚えています。  脳の中で勝手に鳴るんです、それが恐ろしい。  

私の1年下から疎開があり、私は疎開はしませんでした。   西宮市の大空襲が終戦直前にあり、流れ弾が防空壕にブスブス刺さって、命拾いをしました。   昭和20年8月15日、中学3年生でした。  勉強はしないでベアリング工場に行って働いていました。 ラジオを聞いて、戦争が終わったという事でその時の解放感は感激と言うか、世の中が変わってしまったので凄かったです。   兵隊に行かなくていいという事がまず頭にありました。  入ってきた欧米文明が、これは大革命でした。   アメリカの音楽、スイングジャズが入って来て、「スターダスト」(ビリー・バターフィールドのトランペット)という名曲がありますが、廃墟の中に流れてきました。  

一番上の兄が結核になり、寝たきりとなりアコーディオンが欲しいという事で、父親が無理をして買ってきました。  鍵盤の数は決まっていますが、イボの数で値段が決まります。イボが120あったらいっちょ前で、当時で40万円、安いおもちゃを購入、弾いてまもなく亡くなりました。  そのアコーディオンを弾き出しました。  キャバレーのステージに立ってやっていましたが、そのアコーディオンでは駄目だという事になり、ピアノに転向しました。(自分で持っていなくてもよかった。 18歳の時)  藤岡琢也(担当はバイオリン)等とバンドを組んでやりました。  3曲しかレパートリーがなくても、当時はダンスパーティーが流行っていて呼ばれて行きました。  学業はおろそかになりました。   ハンドボールでもキーパーを2年ぐらいやりました。   

1年浪人して関西学院大学の社会学部に入学しました。   親から入学金を貰って払ってたんですが、籍がなかったんです。  多分大学に一日も行かなかったから除籍になったのかもしれません。   千日デパート(火事で焼けてしまったが)の前にダンスホールがあり、自分の演奏する音楽で外国の兵隊さんが踊って喜んでいるという、その喜びがありました。   「義則忠夫とキャスバオーケストラ」にいれてもらってピアニストとしてキャバレーなどで活動しました。    しょっちゅうゲストが来ました。 コメディアン、歌手、俳優。 石原裕次郎さんがデビューしたての19歳ごろで、男前で上品でした。  淡谷のり子さん、ディック・ミネさん、田畑義男さんとか温かいものを持っていて違っていました。   10年ぐらいそのバンドでやっていました。  その後作曲、編曲をやるようになって、ピアノは弾かなくなりました。   初めて作曲したのは、18、9歳で当時難波にあったキャバレー「パラマウント」の曲で、その唄を歌ったのは、当時のNo.1ホステスだった「双葉」さん(後のかしまし娘の正司歌江さんでした。  

私は仮死状態で産まれて、産婆さんが両足持ってぶら下げて、おしりをパーンと叩いたらおぎゃーといって、蘇生しました。   どこかひ弱な点があり、体力には自信がなく無理なことはしないという風にしてきました。   


  

2023年1月6日金曜日

田中幸子(全国自死遺族連絡会代表理事)・優しい人が優しいまま生きられる世の中に

 田中幸子(全国自死遺族連絡会代表理事 )・優しい人が優しいまま生きられる世の中に

自ら死ぬと書いて「自死」、田中さんは自殺の殺という字の強い印象を和らげるために、この言葉を使っています。   仙台市に住む田中さんは2005年11月警察官だった長男を自死で亡くしました。   深い悲しみを抱える中、胸の内を明かせるのは同じような悲しみを抱える遺族だけでした。  今田中さんは自死や災害で家族を亡くした人どうしが支え合う相互支援の活動を続けています。   当事者だからこそできる支援とは何か、伺いました。

全国自死遺族連絡会は自死遺族による自死遺族のためのネットワーク、相互支援してゆくためにネットワーク、法律の専門家、精神の専門家などのネットワークもその周りに作りました。 普段は電話を24時間365日、携帯2台と自宅の電話を公開して受けています。  そのほかにホームページからお問い合わせをまずきいて、会を薦めたり、実際に会ったりしています。  労災申請、事故物件としての賠償金請求など出てくるのでそういった話を聞きながら、それぞれの専門家に繋いでゆくこともしています。  悲しい気持ちは家族同士でないと判り得ないと思います。 子供を亡くした親はやはり子供を亡くした親でないと判らない。 同じ思いをした遺族同志が分かち合う、という事が基本となります。  会は全国にあって、地元に住んでいるところにない場合もあるので、今ではオンラインでも分かち合いの会もあります。   自分でも相談しましたが、繋がらないほど苦しいことはないです。  複数人の遺族を紹介して支えてもらう。  それぞれ違うので、まずは聞くということから始まります。  7,8時間ずーっと聞いているという時もあります。 

2005年5月22日、宮城県の国道で酒気帯び運転をしていた4輪駆動車が、横断歩道を渡ってた高校生の列に信号を無視して列に突っ込み、3人が死亡、22人がけがをしました。 これが引き金になった出来事でした。  息子がその事故担当処理係長でした、毎年思い起こします。   結婚して官舎に住んでいましたが、息子は休みでしたが、早朝に起こされて事故の現場に行き、休日もなく一日も休まず事故の処理をしなければいけないために対応、10月に自宅療養を取りました。  当時4月から交通課初めての勤務で、5月の事故でした。  対策本部を立てなかった。 立てれば本部からの応援があったが。  塩釜警察署だけの対応で、当時息子は係長だった。    夜中に救急車の音が聞こえると飛び起きるようになってしまって、玄関から足が踏み出せないような状況になってしまいました。 部下に割り振りするようなアドバイスもしました。  まじめな性格で俺がやるしかないと言っていました。   謝らずに弁解している加害者に対して、「俺は耐えられないよ」と話していたのを今でも思い起こします。  

結婚して子供もいたので、連絡はしていましたが、余り深く立ち入らない様にはしていました。  或る日突然警察から連絡があり、「亡くなりました。」という話でした。  11月16日の夜でした。  タクシーで家族で行きましたが、実感としてわきませんでした。  「検死しています。」と言われて死んだんだと思って、気絶というか、ひっくり返りました。    どこを触っても氷以上に冷たかったです。    上司のパワハラのようなものがあり、一日も休めなかった。  当時34歳でした。  幸せがずーっと続くものだと思っていましたが、長男の死を機にがらりと変わりました。  自分も狂ったようになり暴れまわり、亡くなった息子もののしり、お前が死んだからこんなに苦しいんだとか、一家でボロボロでした。  ストレスで血圧が上がり過ぎて、安定剤、睡眠薬を飲まされて、主人などは後追いをするのではないかと思って、主人と弟が交代で24時間見張っていました。 当時一気に13kg痩せました。   死んで息子が食べられないのに親の私がご飯を食べているなんて、という罪悪感がありました。  救いを求めて占い、カウンセリング、医療関係、教会、お寺、などありとあらゆることをしました。  朝から晩まで泣いている後ろから弟が「優秀なお兄ちゃんが死んで、駄目な僕が生き残ってごめんね。 僕が死んでもこんなに悲しんでくれるの。」とつぶやいたんです。  次男も悲しいんだという事にはっと気が付きました。  夫も悲しんだという事にも気が付きました。  

長男の為にも家族の為にもどうやって生きていったらいいんだろうと考えました。    2月に支援者の会に行きました。    悲しみにも波があり、その時にはあまり感じない時でした。  しゃべっても自分自身であまり悲しくもなく、聞いている人たちはわんわん泣いていましたが、凄く違和感を感じました。  息子が見世物になっているような感じがしました。(相手が当事者ではない)   2回目の時に後で遺族同士5人でお茶会をしましたが、その時には居心地が良かったです。   仙台に遺族同士「藍の会」を作りました。  警察官の制服は藍色なのでその名にしました。  自死遺族の会は判らないほうがいいと思います。  参加する人たちは自死の遺族であるという事は知られたくないと思います。  

2006年7月が第一回目でした。 狭いところに35,6人が集まりました。     一人ではないんだという事が大きいですね。   生き方を学んでゆくという感じです。 たくさんの人から学んだほうがいいですね。   悲しみは消えないと思っています。   愛する気持ちが消えれば悲しみも消えると思います。  17年になりますが今も深く悲しみはありますが、折り合いをつけて日常生活は送っています。   経験を語り合って。自分の生き方と合うものを見つけて生きていけばいいのかなと思います。    

私の活動の原点は息子のあの冷たい死に顔ですね、それで頑張ろうとか、やりたいことが沢山見えてきます。   国の自死対策協議会への参加、ほか様々な活動をしています。  国、行政、民間団体でも連携を取りながら相互支援を目指してくださいと言っているんですが、自死遺族支援に関してもほとんど相互支援をしていません。   そこが凄く残念なところです。  自死についての偏見、差別がまだまだあります。  自殺対策基本法が2006年にできて、大綱ができ、自殺の多くは社会的要因によって追い込まれた死であるので、要因を変えていかなければいけない、人を追い込まない社会にすべきだという事が書かれているが、世間にあるいろんな問題は自死は個人の問題、勝手に死んだ、という意識がまだまだあります。  自死遺族の方にも悪い事をしてしまったというような気持をぬぐい切れないところもあります。  活動も息子と共にあると思っているので、いろいろな経験、沢山の人との出会いがあり、深い人生を生かされてもらっていると思います。  自死の問題は教育にあると思っていて、自死の多くは言葉の暴力によって追い込まれた末の死だと思っています。  他人の気持ちを思いやる人たちが救われる社会であってほしいと思います。 そのためには教育を変えてゆくしかないのかなあと思います。  優しさの恩送りをして行ってもらいたいと思います。  

2023年1月5日木曜日

前田速夫(元・編集者)         ・老年に効く読書

 前田速夫(元・編集者)         ・老年に効く読書

19444年福井県生まれ。 東京大学を卒業後1968年に新潮社に入社、初めて担当した作家は両親の媒酌人を務めた武者小路実篤さんでした。  その後文芸誌「新潮」の編集長を務め、まだ学生だった平野啓一郎を見出したことでも知られています。  定年退職後は文壇を離れ白山信仰など民俗学の研究に専念しましたが、2013年にステージ4の癌患者となり手術、退院後書斎や書庫を整理してもう一度しっかり読んでおこうと思った本だけを選り分けたことが、去年出版した「老年の読書」という著書に繋がりました。   

手術をして約10年で、気力だけで頑張っているような毎日ですが、3か月に一度検査を受けながらですが、もう問題ないと言われています。    退院後、気分一新するために書庫の整理を考えました。  約1万冊は有ったと思います。  愛着のある本、思い出の本があるので思ったほどは進んでいませんでした。   もう一回読み直そうと思った本を書斎の手の届くところに置いて読み始めました。  老年期をどう過ごすのか、死と対面してみると、正面から向き合ってみようという本がありませんでした。  定年後にゆっくり本を読んでみたいという人は大勢いるのではないかと思いました。  そこで今回「老年の読書」を出版する事になりました。  

ハイデッガーは難解な本でしたが、入院中に読んで、死をどういう風に考えればいいのか、とか熟読しました。  それを読者の皆さんにお伝えしようと書きました。    本を読むことが暮らしのような生活をして来ました。   父親が文芸春秋とか新潮とかを定期購読していて、母が倹約家でそれを切り裂いて、トイレットペーパー代わりに隅に積んでおくんです。   それを手に取って読むことになりました。  それがきっかけで小説も読むようになりました。   高校時代はロシアの作家を多く読み、アメリカの文学にも興味があったため東京大学文学部の英文科に進みました。(ロシア文学科は当時なかったので)   大学紛争が激しい時でしたが、いわゆるノンポリでした。 実際の行動にはできなかったが、精神的には規制の体制に対しては歯向かうような気持はありました。  日本文学、世界文学など乱読していました。  

文学部だと、新聞社、出版社などへの就職となるので、作家への興味もあり新潮社に入りました。   文芸誌の新潮に回されたのがラッキーでした。   原稿の依頼から始まって完成まで待ちながら出来上がるとまっさきに読んで、いろいろチェックをしてこまごまとしたことがいろいろあります。  担当の作家だけではなく、締め切りがぎりぎりで先輩の替わりに遠いいところまで取りにいかされたりもします。  でも川端さん、小林さんだとかに直に会えて楽しかったです。  正月明けに、特別分厚い書面が来て、自分は京都大学の4年の学生ですがという事で、文学に対することを延々と書いてあり、今の文学はおかしいと、本来文学はこういうものでなくてはいけないとか、文学論が延々と書いてありました。    書き上げた小説があるから読んで欲しいという事でした。  送ってもらって読んだら吃驚仰天しました。  これは一挙掲載だと自分で決めて、掲載しました。  芥川賞を受賞することになりました。  平野啓一郎さんでした。

退職後は民俗学の方に進みました。   中学生の時に平凡社「風土記日本」という7冊のシリーズが出ていて、読んだ時に全国各地にいろんな歴史、風土があり人間がいて、夢中になって目が開きました。  谷川健一さんが編集者時代に編集した本でした。  そこには宮本常一さんとか起用して書いてもらった本でした。  谷川さんにはあこがれていて、仕事でお付き合いするなかで、自分も定年後はそういったことをやろうと決めてぼつぼつ書き始めました。   2005年『余多歩き菊池山哉の人と学問』で読売文学賞受賞。     現場に足を運ぶことが一番大事な学問ですが、病気をしてそれが出来なくなり、今まで残してくれた記録、文献を読んで、今まで行き届かなかったものなどを学んでいこうと思いました。  

『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』 谷川健一さんと弟の谷川雁さんを相対的に比較しながら考えてゆくと何か見えてくるのではないかと思って、雁さんの本も読み直して、共通部分、正反対な部分もあり、ドラマみたいにして見えてきたので書こうと決めました。    

『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』  「新しき村」は全国から集まってきた若者20人ぐらいからスタートして、どんどん大きくなってきた時に、当時の国策としてダムの底に沈められてしまう。   本体は埼玉県の毛呂山に引っ越すことになる。  高齢化が進み、今は3人になってしまった。  私は村外会員として何とかしなければいけないと思って、共同体、共同性という事がどんどん失われている中で、大切にしなければいけない、みんなにも勇気を与える事になるのではないかと思って、『老年の読書』の後ですが、『未完のユートピア 新生・新しき村』を書き上げました。  両親、武者小路通さんへの思いがあります。

目の前のことも大事ですが、何のために我々だ生き生かされて死んでゆくのかという事はいつも頭から離れないんですが、死んでからは宗教などではそこに救済があるとかあるし、神様はいるのかいないにかという事も大問題ですし、生きているという事はただ生きているというのではなく、生かされていることでもあるし、自分、個を大切にすることは大事ですが、共同性というか他者と共に生きてゆくことの中に、生きることの本質があるのではないかと思います。   書店が衰退してきて、怒りがわいてくる中、どうしてこうなってしまったのか、どうすればいいのかそこも考えていきたいと思います。

2023年1月4日水曜日

中村恵(国連UNHCR協会事務局長特命/渉外担当)・真の国際人 緒方貞子の生き方

 中村恵(国連UNHCR協会事務局長特命/渉外担当)・真の国際人 緒方貞子の生き方

1989年に国連難民高等弁務官事務所UNHCRに就職、ジュネーブの本部やミャンマーの援助現場での活動を経験したのち、2001年から緒方貞子さんのパーソナルアシスタントを務めました。   緒方貞子さんと言えば日本人初女性初の国連難民高等弁務官として10年間に渡り世界の難民のために尽くした人物です。   中村さんは比類なきリーダーとしての緒方さんをそばで見つめ、その強さとは何かをエッセンスを本にまとめ去年出版しました。   中村さんが緒方さんから引き継ごうとしているバトンとはどういうものか伺いました。

「難民に希望の光を 真の国際人 緒方貞子の生き方」という本を昨年出版。  中村さんは12年半に渡って緒方さんの近くで仕事をしながら見続けてきました。  

緒方さんと最初に出会ったのが1991年国連難民高等弁務官としてジュネーブに赴任された時でした。   その後ご縁があってパーソナルアシスタントとして約2年半緒方さんのそばでお手伝いさせてもらえる機会がありました。   近くにいていろんなことを理解できるようになりました。   その後のお付き合いでも緒方さんからたくさんのことを学んだので、自分だけではなくこれからの若い世代の方に伝えることが出来れば、私なりに役割を果たせるのではないかと思って、3年ぐらいかかって本を出版することになりました。  

緒方貞子さんは1927年、東京府東京市麻布区(現東京都港区)に生まれる。  父は外交官元フィンランド特命全権公使、母方の曽祖父は5・15事件で海軍青年将校に暗殺された元総理大臣の犬養 毅さん。  父に伴って幼少期にはアメリカで暮らし、聖心女子大学の一期生になりました。   

英語が堪能で、どこに出ても全く物おじしない、品格があります。  日本語も綺麗な日本語を話します。  日本的でありながら国際的である、その二つが同居している魅力がありました。  聖心女子大学学長のマザーブリットは教育に心血を注いだ方で、何人かに聞いたんですが、自分が一番マザーブリットに愛されていたと思っていたというんです。 凄いことだと思います。  緒方さんも一身に受けて学生時代を過ごしたわけです。  自治会の会長も務める。    「自分の頭で考えなさい」と言われたそうです。   大学のテニス部の創設にも関わった様です。  国連難民高等弁務官になってもテニスは続けて居ました。  アメリカに留学して国際政治学を学んで博士号を取得。  国連の日本政府代表部の講師、上智大学の外国語学部長を経て、1991年に第8代国連難民高等弁務官に就任。 

緒方さんが来る前に、ベルリンの壁が崩壊して世界が大きく変動、当時UNHCRで内部スキャンダルがあって、これからいらない組織になるのではないかと言われていました。  第7代弁務官が凄いリストラをして暗い職場になっていました。   そんななかで緒方さんが就任しました。  難民というのは、 英語でrefugeeと言いますが、 refuge(避難、保護、避難所)という言葉から発生した言葉です。   避難民と和訳したほうが近いかもしれません。   昨年5月には避難民は1億人を超えてしまったと発表されている。  11月に人口が80億人を超えたという発表がありましたが、80人に1人が避難民になっているという現実です。  

UNHCRの仕事は命を助ける事です。  政治的な解決がない限り、物事は進まない。   でも命の危険のある人がいたらをけたい。   難民支援においては希望が大切です。   命を助ける事だけではなくて、希望を繋いでいくことがいかに大切か、を改めて確信しました。 希望に想いを託す、希望がないと生きて行けない。  未来への希望さえあれば今日を生き抜くことができる。  

危険なところへ緒方さんが行くから職員も奮い立つわけです。   緒方さんが満州事変について博士論文を書いています。   実証主義で満州事変のことを纏めています。   その原体験をも

って難民問題についても事実を集めて分析する態度に繋がって行ったと思います。  物事をきちんとするタイプで緒方さんはよく質問しました。  速読出来る方だったとも聞いています。(処理能力の凄さ)

緒方さんからの大事なキーワードが6つ、①並外れた体力  ②言葉の使い手  ③学ぶ力 ④超我の奉仕 ⑤楽天性  ⑥ぶれない信念   緒方さんは物事をシンプルに判りやすく伝えることが上手でした。(抽象的な言葉は使わない、具体的)  「ものは言いようですよ」と言われたことが印象的でした。   言葉を受け取る側のことを常に考えて言葉を発する。   日常生活でも同様ですね。   緒方さんは精神がぶれないです。  楽天的な性格です。   これから起こる事に対して無駄な妄想、心配はしない。  今の一瞬に最善を尽くして生きているんだと思います。   若い人には今から心身を鍛えてゆくことが重要ですよと、この本で伝えたかった。   

緒方さんの言葉、 「私は人間が生きる上で一番大切なことは人生という与えられた貴重な時間の中で、自分を十分に生かして生きてゆくことだと考えています。  地球上の誰もがそうした人生を送るためにも、まず一人一人がどこかで苦しんでいる人がいることを忘れずにいて欲しい。  そして地球上共に生きる人間として連帯感を持ち続けて欲しい。  心から願ってやみません。」 

2023年1月3日火曜日

秋本奈緒美(俳優)           ・2023年は赤いドレスを着て

 秋本奈緒美(俳優)           ・2023年は赤いドレスを着て

1963年生まれ、長野県松本市出身。  1982年短大在学中にジャズシンガーとしてデビューしました。  翌年民放の深夜番組『オールナイトフジ』の司会を担当し、女子大生ブームの先駆けとなりました。  その後俳優として活動し、テレビ、、映画、舞台に出演しています。  

テレビの司会は当時は男性とかアナウンサーとかが中心でやっていました。  鳥越マキさんと共に司会を担当することになりました。  生放送で終了時間未定と毎回出ていました。  番組と共に成長してゆきました。  いろいろなコーナーが出来てきて沢山の女子大生が出ました。   鶴太郎さんはレギュラーで出ていまして、良い具合にほぐしてくれました。  とんねるずも途中からレギュラーでご一緒しました。   当時20歳でした。  19歳でジャズシンガーとして歌手デビューしています。(1982年)    デビューした時に3枚のアルバムをだしました。   常に4,5人のマネージャーがついていて、外と触れ合う事が全くなかったです。  このまま何年続くのだろうかという思いはありました。   自分の気持ちを整理しようと思って、立ち止まってみて、やっぱり歌が好きだとか、御芝居してみたいという事が明確になりました。    歌の仕事をしていたので俳優の仕事についてはずーと断っていましたが、25歳の時に俳優を志し、遅いと言われたが一から始めました。(歌手活動はストップ)   

歌とは違う表現で楽しかったです。   良かったと思うのは、当時は現場で教えてもらえる時間があり有難かったです。    初舞台は32,3歳でした。  舞台は好きです。松本での「空中キャバレー」は、サーカス、音楽、演劇の要素を取り入れたパフォーマンスで構成・演出を串田和美さんが行います。  2年に一度行っていて初回から参加しています。  

1月26日から「ダッドシューズ」という舞台があります。  ダンスパフォーマンスが圧巻です。  舞台はコメディーが多いです。  20年前に共演した16歳年下の俳優・原田篤と再婚しました。   還暦を迎えます。  歌手活動は40代半ばからまた始めて、やはり歌う事は好きです。   舞台も好きですし、歌と融合したものが出来ればいいと思っています。   私の周りは元気な役者さんばっかりで、生き生きと過ごしています。   私は良い時代を体験してきたと思います。   先輩たちは、どこかに何とかなるだろう、とかやっちゃえみたいなのがどこかにあるのかなあと思います。  背中を見て行けるという事は有難いことです。

 

2023年1月2日月曜日

安部龍太郎(作家)           ・徳川家康を語る

 安部龍太郎(作家)           ・徳川家康を語る

1955年福岡県八女市(旧・黒木町)生まれ。  国立久留米工業高等専門学校卒業後、図書館司書を経て本格的な執筆活動に入りました。   1990年『血の日本史』で単行本デビュー。 以後『信長燃ゆ』をはじめとする歴史大作を次々と発表し、2013年『等伯』で直木賞を受賞します。   2015年からは徳川家康の一代記となる『家康』の連載を始め、現在文庫本で7巻目迄刊行されています。

今、ウクライナで戦争が始まったり、コロナで世の中の混乱が続いたりするときに、戦国と言えば信長、秀吉、家康とありますが、信長は体制を壊して新しい時代を作ろうとした破壊者のイメージ、家康はその仕上げとして260年近い平和の世を作った指導者ですから、今一番人々が平和な世の中、持続可能な世の中を願っていると思います。  それを実現した日本で唯一の為政者であり、260年という平和な体制を築いた、これが一番興味の中心だと思います。  注目した点は家康の旗印、「厭離穢土欣求浄土」を書いて本陣に立てているわけです。    往生要集に出てくる浄土宗の用語ですが、家康がこの言葉を使っているという事にあまり評価されてこなかった。   単に宗教的なスローガンではなくて、「厭離穢土欣求浄土」を政治スローガンとして戦っている、という事に気付きました。   この世を浄土に近いものに変えてゆくんだという高い理想を掲げて戦っているという事がわかりました。  それが家康を取り上げた一つの理由です。

信長は室町幕府を突き崩して新しい世の中を作るために戦い続けた。  秀吉が或る程度国の形を作っていた時にそれを引く継ぐ形で新しい体制を作って行った。  政治には覇道と王道があるが、目指すは王道で覇道はそれに次ぐものです。   戦国時代は王道が機能しなくなった時代で、覇道を信長、秀吉、家康は歩いて行くが、それを家康は王道に近づけて行った、というのがこの本の主な趣旨です。   王道は日本では天皇がいて、天皇が幕府に統治権を任せて、幕府は各大名に地方を分権させる、これが日本人がずーっと考えてきた王道の形です。  家康は天皇から征夷大将軍に任じられて、各地方の統治権は各大名に預けてゆくという幕藩体制を作るわけです。  それを作るその後ろ側に「欣求浄土」の思想があったという事です。  

山岡荘八さん、司馬遼太郎さんとかの先人たちの作品を意識しないと言うと嘘になりますが、執筆するときには過去の作品は読まないようにしています。  「欣求浄土」の意味から家康の生涯を捉え直すという作家は今まで居ない。   歴史学もどんどん進んできて、戦国時代は世界の大航海時代のなかで捉えないといけない、という事が共通認識になって来て、一番象徴的なのは鉄砲です。   信長は鉄砲の大量使用で武田軍などの勢力を圧倒して天下人にのし上がっていったという考え方は一般的です。   しかし、鉄砲に使う鉛玉はどうしたのか、火薬の原料である硝石はどうしたのか、といった考察がそっくり抜けていたんです。   

最近の研究で鉛玉もほぼ3/4は東南アジアからの輸入だった。  日本では硝石が取れないので、ほぼ全部東南アジアから輸入していた。   その貿易を取り仕切ったのは誰かという事です。  マカオを拠点としていたポルトガルなんです。  ポルトガルの使者となって日本の大名に取りついたのがイエズス会の宣教師たちなんです。  貿易にはポルトガル政府の許可が必要で、マニラのポルトガル総督府の許可を得て貿易が出来るので、その外交官役もイエズス会が果たしている。  銀をヨーロッパに持ち込めば何倍かの値打ちで使えた。  スペインはチリのトポシ銀山を主な採鉱地としている。  ポルトガルは日本の岩見銀山を狙って来た。  それには鉄砲の技術と生産方法を教えることだという事で、種子島を通じて売り込みに来た。   僕はそれが正しい解釈だと思っています。  

イベリア半島は1500年代まではイスラム勢力が支配していた。  それを取り返すのがヨーロッパカトリック教国の悲願だった。   レコンキスタ(カトリック教徒の国土回復運動)をやるわけです。  (スペイン国旗は「血と金の旗」と言われ、黄は豊かな国土、赤は外敵を撃退した時に流れた血の象徴、中の紋章はイベリア半島の初期の5つの国(カスティーリャ、レオン、アラゴン、ナバラ、グラナダ)のもの。)  これが成功するのが1580年代ぐらい。  その熱気が止まらないで世界に出てゆき、大航海時代となる。  片やコロンブスを支援してアメリカ大陸に到達する。  片やヴァスコ・ダ・ガマを支援してアフリカ航路を開発する。  一つは宗教的熱狂、もう一つは資金不足。(十字軍の遠征。)  資金を確保するために外国貿易に掛けて打って出て植民地化して輸入する。  この二つがレコンキスタが生んだ大航海時代のエンジンなんですね。  

歴史の意味を自分なりに問いかけて、答えを得て、その母材の上に物語を作りたいというのが僕のやってきた方法です。  現地往くようにしていて、三方ヶ原では自転車で回りました。   家康は武田信玄に大敗するが、その現場の道、高低差、広さなどを見ることにより見えてくるものがあります。   資料だけではわからないので、僕は火縄銃も実際に撃っています。  撃つのにいくら早くても40秒ぐらいかかります。

戦国時代の家族の物語として書きたかった、家康は女性に支えられたという側面の多い人でした。   最初の奥さんの築山御前、ほかたくさんの女性が出てきますが、秀吉は良いところのお姫様などを側室にするのに、家康は一旦結婚して夫が戦死したりとか、子持ちの既婚者を側室にする。  何故かと考えると家康はおばあちゃん子だった。  人質時代8歳から元服を迎える何年かを抱いてかばうように育てた。  このおばあさんが大変な豪傑で、浄土宗の信仰家でもあり、頭のいい人でもあった。   抱きしめられたいタイプだった。  於大の方(母親)の夫(義父)も家臣してその息子たち迄大事に雇用していって、重要な役割を任されてゆく。  

家康が人質になった時に一緒に行った酒井忠次、鳥居元忠などは同世代か少し上、自分たちがしっかりしないといけないという事で責任感とプライドを持って家康と接していたと思います。  自由に言える家風が出来た。  三方ヶ原の戦いで、家康の部下が1000人以上転々と敵に向かった姿で亡くなっていて、信玄に家康を決して侮らないようにと、馬場信春がそういう武将はいないと言った、と書かれている。  

福岡県八女市生まれですが、南北朝時代に南朝方の人々が山の中に逃げ込んだ場所なんです。  母がたもそういう先祖を持った家で、囲炉裏端とかで南北朝時代の話を祖父母がやっていました。  後醍醐天皇の息子の懐良親王が福岡に下って来ます。  その時に一緒について来た五条頼元という公家の子孫が住んでいます。  正月にはそこへうちの先祖が正月の挨拶に行っていました。  そういったことから歴史への興味が傾きました。   日本の歴史に語られていることが違うのではないかという違和感をずーっと持っていました。  その最大のものが日本国内と外国との関係がちゃんと捉えられていない、という事でした。  国内的な視野で日本を語っているというのは違和感がありました。   それと経済とか技術とかへの目配りが日本の歴史を語る中でないなあと思いました。  自分が考える歴史像を書きたいと思いました。   戦国時代の流通は海運(海の輸送)と水運(川の輸送)で陸の輸送は大量には運べない。  石見銀山によって銀の輸出と共に大量の輸入品が入ってくる。  農業から重商主義に変わってくる。  一番重要なのは流通のインフラで港を支配していると港湾利用税、関税が取れる。 農業生産とは比較にならないぐらいの収入を生んだ。   織田信秀は尾張下四郡の奉行でしかなかったころ、織田一国の軍勢を率いて今川、斎藤と戦っていた。  熱田、津の港を押さえていてそこからの収益があったからです。  

大河ドラマが始まりますが、家康の人格、高い理想をもって何事にも耐えてゆくという生き方、遺訓のなかで「人の世は重き荷を負うて長き道を行くがごとし、急ぐべからず。」、「己を責めて人を責めるな。」、「心に望みが起こらば困窮した時を思い出せ。」と言っています。

 




2023年1月1日日曜日

鈴々舎馬桜(落語家)          ・昭和の寄席のお正月

鈴々舎馬桜(落語家)          ・昭和の寄席のお正月 

馬桜さんは長年にわたって落語をはじめとする伝統芸能の楽しみ方や昔の落語界の様子についてご自身の独演会や大学市民講座などで語っています。   

入門した昭和45年ごろの寄席の年末年始の雰囲気は一言で言うと、「いい時代でした。」と言うしかないですね。   不便な中でやっていたのでそれが良かったんじゃないかなあと思います。   入門したころの70歳以上は志ん生師匠と文楽師匠ぐらいで、圓生師匠が60代で、小さん師匠も50代前後、談志師匠が30代でしたから。  

昭和24年(1949年)東京都台東区の生まれ、昭和44年立川談志師匠に入門、前座名談吾で楽屋入り。  昭和50年二ツ目の時に談生と改名、昭和57年真打昇進、昭和60年10月に五代目鈴々舎馬風の門下に移籍し、鈴々舎馬桜と改名。

当時圓生師匠が会長で新しい人は入れるなというお達しがあり、見習いは何人かいました。  談志師匠の方針として寄席に行って覚えろと言う事で、昼席などにも出ましたが、御給金はゼロでした。   小さん師匠の代になった時に、見習いにもいくらか上げろと言う事でしたが、落語を覚えなくてはいけない、師匠の癖を覚えなければいけない(お茶の好みを理解しないといけない。)着物の畳み方もいろいろありました。   年末に談志師匠のところへ掃除にいって奥さんからうな重をご馳走になりました。  奥さんから口止めされましたが、あのうな重はおいしかったですね。  元旦の挨拶に伺うんですが、談志師匠の師匠が柳家小さん師匠で目白に住んでいて、上野の黒門町に住んでいた8代目の文楽師匠がいてそこへ全部行かなければいけない。  着物で来いと言われて談志師匠に行った時にはまだ明けてなかったですね。  その後新大久保から目白に行って小さん師匠のところに行くわけですが、弟子が沢山いましたから、僕らみたいな孫弟子もいたので大所帯でした。   小さん師匠のところでお雑煮で祝って、その後黒門町に行きます。   噺家が朝一番早いのは元旦ですかね。  今は緩くなって来ました。

元旦の正月興行があり、前座は開場時間の少なくとも30分前にはいきました。   開場は9時でした。  一番太鼓をやるのが前座でした。  お茶の用意などもそれまでにやっておかなければいけません。  お正月は皆さん着物で来るので、着せたり、たたむ世話はなかった。   お世話の見返りとしてお年玉があるという事で、お年玉は当時は100円でした。(板垣退助の100円札でした。)  名前が売れていた林家三平さん、江戸や猫八さんが500円でした。   前座の給金が150円ぐらいでした。   落語家だけでなくて出演者が20人いれば2000円になりました。   帯を新しくした方がいいと言われて帯は当時で8000円でした。  今は3万5000円ぐらいしています。   山手線の一駅が当時で30円でした。  

元旦から10日までが初席で、11日からが二の席で、21日から通常興業に戻って下席となります。  お年玉の時効はいつなのか質問したら、立春迄だそうで、それ以降は新しい年という事でした。  今残っているのが上野、浅草、新宿、池袋です。 親席があり、新宿、池袋が山の手地区と上野、浅草の下町地区があります。   10日間ずつ落語協会と落語芸術協会が替わりばんこにやっています。  そこに立川流と圓楽党さんは出られない。 昭和45年ごろには人形町末広があって、人形町末広で前座をやったのは私より上の人たちです。  でも一人だけ若手がいてそれが今の林家正蔵です。  林家三平師匠が初席のとりだったもので、小三平という名前で出ました。(小学校上がるかどうかのころ)   

人形町末広は畳敷きだったので通常は2人ぐらいですが、初席は混むので6,7人が座らせられていた。    浅草は凄かったです。 入るところがなくて、お客様を上手に10人、下手に10人と高座にいれました。   奇術だと横から見ると丸見えになってしまうという心配があったが、アダチ龍光さんは普段と全く変わらなくやっていました。  下手の人たちが何とかタネを見ようと首を伸ばしているのを覚えています。  コロナになってしまってお正月の寄席らしくないと思います。   志ん朝、柳朝、圓楽、談志は当時四天王と呼ばれていました。  でも「めくり」で拍手の大きさは三平師匠にはかなわなかったですね。  月の家圓鏡も人気が凄かったですね。  志ん朝、圓鏡、圓楽、談志が四天王だと言う人もいます。  

楽屋では初席では酒は飲まないです。  池袋演芸場は初席は圓生師匠がとりで、本来もっと短いのですが30分ありみっちり元日からやっていました。   柳家さん生師匠は酒が好きで高座に上がって15分の持ち時間なのに降りないので、前座二人で降ろそうとするが降りない、このやり取りが面白いという事で話題になったが、飲んで高座に上がることを禁じられて、その年はしらふで高座に上がり、前回見たお客さんがなんで酔ってないんだと、あれが正月の風景じゃないかと言ったそうです。     そのようにおおらかでしたね。  

桂文楽師匠は黒紋付に袴でしたが、元旦から3日間だけは小紋のおついでした。  えっと驚くぐらい派手でした。  今ではそれが一般的になり黒紋付が珍しいという時代になってしまいました。   二ツ目からはお年始に行くという事があって、お世話になった方のところに行くわけです。 昭和51年、 稲荷町、先代の正蔵師匠が住んでいて、行くと手ぬぐいと牛めしを頂けます。  3日間すじ肉を煮込むそうです。  アクとか油をマメにとります。  それは美味かったですね。  志ん朝師匠がその牛めしのやり方を継ごうという事で奥さん弟子がやったそうですが1年で音を上げて、カレーにしましたが、カレーも美味かったですね。    先代の金馬師匠は魚河岸のおせちで美味しかったです。  うちの師匠はローストビーフなんです。  食い物の話は切りがないです。