2023年1月2日月曜日

安部龍太郎(作家)           ・徳川家康を語る

 安部龍太郎(作家)           ・徳川家康を語る

1955年福岡県八女市(旧・黒木町)生まれ。  国立久留米工業高等専門学校卒業後、図書館司書を経て本格的な執筆活動に入りました。   1990年『血の日本史』で単行本デビュー。 以後『信長燃ゆ』をはじめとする歴史大作を次々と発表し、2013年『等伯』で直木賞を受賞します。   2015年からは徳川家康の一代記となる『家康』の連載を始め、現在文庫本で7巻目迄刊行されています。

今、ウクライナで戦争が始まったり、コロナで世の中の混乱が続いたりするときに、戦国と言えば信長、秀吉、家康とありますが、信長は体制を壊して新しい時代を作ろうとした破壊者のイメージ、家康はその仕上げとして260年近い平和の世を作った指導者ですから、今一番人々が平和な世の中、持続可能な世の中を願っていると思います。  それを実現した日本で唯一の為政者であり、260年という平和な体制を築いた、これが一番興味の中心だと思います。  注目した点は家康の旗印、「厭離穢土欣求浄土」を書いて本陣に立てているわけです。    往生要集に出てくる浄土宗の用語ですが、家康がこの言葉を使っているという事にあまり評価されてこなかった。   単に宗教的なスローガンではなくて、「厭離穢土欣求浄土」を政治スローガンとして戦っている、という事に気付きました。   この世を浄土に近いものに変えてゆくんだという高い理想を掲げて戦っているという事がわかりました。  それが家康を取り上げた一つの理由です。

信長は室町幕府を突き崩して新しい世の中を作るために戦い続けた。  秀吉が或る程度国の形を作っていた時にそれを引く継ぐ形で新しい体制を作って行った。  政治には覇道と王道があるが、目指すは王道で覇道はそれに次ぐものです。   戦国時代は王道が機能しなくなった時代で、覇道を信長、秀吉、家康は歩いて行くが、それを家康は王道に近づけて行った、というのがこの本の主な趣旨です。   王道は日本では天皇がいて、天皇が幕府に統治権を任せて、幕府は各大名に地方を分権させる、これが日本人がずーっと考えてきた王道の形です。  家康は天皇から征夷大将軍に任じられて、各地方の統治権は各大名に預けてゆくという幕藩体制を作るわけです。  それを作るその後ろ側に「欣求浄土」の思想があったという事です。  

山岡荘八さん、司馬遼太郎さんとかの先人たちの作品を意識しないと言うと嘘になりますが、執筆するときには過去の作品は読まないようにしています。  欣求浄土」の意味から家康の生涯を捉え直すという作家は今まで居ない。   歴史学もどんどん進んできて、戦国時代は世界の大航海時代のなかで捉えないといけない、という事が共通認識になって来て、一番象徴的なのは鉄砲です。   信長は鉄砲の大量使用で武田軍などの勢力を圧倒して天下人にのし上がっていったという考え方は一般的です。   しかし、鉄砲に使う鉛玉はどうしたのか、火薬の原料である硝石はどうしたのか、といった考察がそっくり抜けていたんです。   

最近の研究で鉛玉もほぼ3/4は東南アジアからの輸入だった。  日本では硝石が取れないので、ほぼ全部東南アジアから輸入していた。   その貿易を取り仕切ったのは誰かという事です。  マカオを拠点としていたポルトガルなんです。  ポルトガルの使者となって日本の大名に取りついたのがイエズス会の宣教師たちなんです。  貿易にはポルトガル政府の許可が必要で、マニラのポルトガル総督府の許可を得て貿易が出来るので、その外交官役もイエズス会が果たしている。  銀をヨーロッパに持ち込めば何倍かの値打ちで使えた。  スペインはチリのトポシ銀山を主な採鉱地としている。  ポルトガルは日本の岩見銀山を狙って来た。  それには鉄砲の技術と生産方法を教えることだという事で、種子島を通じて売り込みに来た。   僕はそれが正しい解釈だと思っています。  

イベリア半島は1500年代まではイスラム勢力が支配していた。  それを取り返すのがヨーロッパカトリック教国の悲願だった。   レコンキスタカトリック教徒の国土回復運動)をやるわけです。  (スペイン国旗は「血と金の旗」と言われ、黄は豊かな国土、赤は外敵を撃退した時に流れた血の象徴、中の紋章はイベリア半島の初期の5つの国(カスティーリャ、レオン、アラゴン、ナバラ、グラナダ)のもの。)  これが成功するのが1580年代ぐらい。  その熱気が止まらないで世界に出てゆき、大航海時代となる。  片やコロンブスを支援してアメリカ大陸に到達する。  片やヴァスコ・ダ・ガマを支援してアフリカ航路を開発する。  一つは宗教的熱狂、もう一つは資金不足。(十字軍の遠征。)  資金を確保するために外国貿易に掛けて打って出て植民地化して輸入する。  この二つがレコンキスタが生んだ大航海時代のエンジンなんですね。  

歴史の意味を自分なりに問いかけて、答えを得て、その母材の上に物語を作りたいというのが僕のやってきた方法です。  現地往くようにしていて、三方ヶ原では自転車で回りました。   家康は武田信玄に大敗するが、その現場の道、高低差、広さなどを見ることにより見えてくるものがあります。   資料だけではわからないので、僕は火縄銃も実際に撃っています。  撃つのにいくら早くても40秒ぐらいかかります。

戦国時代の家族の物語として書きたかった、家康は女性に支えられたという側面の多い人でした。   最初の奥さんの築山御前、ほかたくさんの女性が出てきますが、秀吉は良いところのお姫様などを側室にするのに、家康は一旦結婚して夫が戦死したりとか、子持ちの既婚者を側室にする。  何故かと考えると家康はおばあちゃん子だった。  人質時代8歳から元服を迎える何年かを抱いてかばうように育てた。  このおばあさんが大変な豪傑で、浄土宗の信仰家でもあり、頭のいい人でもあった。   抱きしめられたいタイプだった。  於大の方(母親)の夫(義父)も家臣してその息子たち迄大事に雇用していって、重要な役割を任されてゆく。  

家康が人質になった時に一緒に行った酒井忠次、鳥居元忠などは同世代か少し上、自分たちがしっかりしないといけないという事で責任感とプライドを持って家康と接していたと思います。  自由に言える家風が出来た。  三方ヶ原の戦いで、家康の部下が1000人以上転々と敵に向かった姿で亡くなっていて、信玄に家康を決して侮らないようにと、馬場信春がそういう武将はいないと言った、と書かれている。  

福岡県八女市生まれですが、南北朝時代に南朝方の人々が山の中に逃げ込んだ場所なんです。  母がたもそういう先祖を持った家で、囲炉裏端とかで南北朝時代の話を祖父母がやっていました。  後醍醐天皇の息子の懐良親王が福岡に下って来ます。  その時に一緒について来た五条頼元という公家の子孫が住んでいます。  正月にはそこへうちの先祖が正月の挨拶に行っていました。  そういったことから歴史への興味が傾きました。   日本の歴史に語られていることが違うのではないかという違和感をずーっと持っていました。  その最大のものが日本国内と外国との関係がちゃんと捉えられていない、という事でした。  国内的な視野で日本を語っているというのは違和感がありました。   それと経済とか技術とかへの目配りが日本の歴史を語る中でないなあと思いました。  自分が考える歴史像を書きたいと思いました。   戦国時代の流通は海運(海の輸送)と水運(川の輸送)で陸の輸送は大量には運べない。  石見銀山によって銀の輸出と共に大量の輸入品が入ってくる。  農業から重商主義に変わってくる。  一番重要なのは流通のインフラで港を支配していると港湾利用税、関税が取れる。 農業生産とは比較にならないぐらいの収入を生んだ。   織田信秀は尾張下四郡の奉行でしかなかったころ、織田一国の軍勢を率いて今川、斎藤と戦っていた。  熱田、津の港を押さえていてそこからの収益があったからです。  

大河ドラマが始まりますが、家康の人格、高い理想をもって何事にも耐えてゆくという生き方、遺訓のなかで「人の世は重き荷を負うて長き道を行くがごとし、急ぐべからず。」、「己を責めて人を責めるな。」、「心に望みが起こらば困窮した時を思い出せ。」と言っています。