2023年1月21日土曜日

加藤りつこ(阪神・淡路大震災遺族)   ・忘れない「親愛なる母上様」

加藤りつこ(阪神・淡路大震災遺族)   ・忘れない「親愛なる母上様」

阪神淡路大震災で当時一人息子だった大学生の貴光さんを亡くした加藤りつこさん(74歳)へのインタビューです。  震災の記憶と命の大切さを語り続けてきた加藤りつこさん、この28年支えとなってきたのは生前貴光さんから送られてきた一通の手紙でした。     「親愛なる母上様」で始まる手紙をめぐって、大きな変化のあった去年の暮、広島市内で伺ってきました。

この一月で大震災から28年、当時21歳でした。  いま何歳だろうと歳を毎年数えています。   いまだったら何をやっているのだろうとか、いろいろ考えて悲しい思いをしました。   子供を亡くすという事は大変な事です。   時はいやしてくれるというけれど癒してはくれないです、逆に時が経つと別の悲しみを抱いてきます。

1993年に書かれていました。  神戸大学に入学する前でした。    母親の介護をしていましたが、ショートステイがあり、息子の下宿先へ行くことが出来ました。      帰りに新大阪の駅まで送ってくれました。    子離れのためにこの子の母親を辞めようと思いました。   その瞬間に号泣してしまいました。  息子がポケットを指さす仕草があったので、自分のポケットを見たら手紙が折りたたんでありました。  ずーっと車内で読み返しながら、泣きながら帰りました。 

「親愛なる母上様」  

「貴方が命を与えてくださってから、早いものでもう20年になります。  これまでにほんのひと時として貴方の優しく温かく大きくそして強い愛を感じなかったことはありませんでした。  私は貴方から多くの羽を頂いてきました。   人を愛する事、自分を戒める事、人に愛されること、この20年で私の翼には立派な羽が揃って行きました。  そして今私はこの翼で大空に飛び立とうとしています。  誰よりも高く強く自在に飛べるこの翼。これからの私の行き先は明確ではなく、とても苦しい旅をすることになるでしょう。   疲れて休むこともあり、間違った方向に行くことも多々ある事と思います。  しかし、私は精一杯やってみるつもりです。  貴方のそしてみんなの期待を無にしないためにも、力の続く限り飛び続けます。  こんな私ですが、これからもしっかり見守っていてください。  住むところは遠く離れていても、心は互いの元にあるのです。  決して貴方は一人ではないのですから。   それではくれぐれもお体に気を付けて、又帰る日を心待ちにしています。  最後に貴方を母にしてくださった神様に感謝の意を込めて。  翼の生えた丑より。」

アナウンサーの朗読で加藤りつこさんは嗚咽する。 息子は丑年でした。  こういう風に思っていてくれたのかと思うと同時に、私の子育ては間違っていなかったんだと思いました。  新幹線のなかでは泣き通しで帰って来ました。  この手紙が新聞で紹介されて、大きな出会いを沢山いただくきっかけになり、交流も生まれました。   1月20日ごろには地元で中学1年生に話をする機会も貰って命の大切さなどを語っています。  人と人との出会いのお陰で又歩き始めることが出来ました。  自分の人生を変えてくれる存在にもなります。  素敵な人に出会うためには、自分もそれなりのものを持っていないと、出会ってもそこで終わってしまうんだと、繋がってはいかない。  だから勉強するんですよという事も話します。  

息子は高校時代から自分の生きる道は平和への貢献でした。  入り口にも立たないまま亡くなってしまって、どう無念だったか、どういう事をしたかったのか、語り継いでいかなければいけないんじゃないかなあと思いました。   東日本大震災で私と同じように苦しんでいる方がいると思って、足を運んで、最初に阪神淡路大震災の経験を福島の高校生に話して、泣いてくれました。  原発事故もあり、風評被害で漁にも出られず、福島と交流しようと思って、広島と福島を結ぶ会を立ち上げました。(2012年)  最初は広島でイベント(コンサート、講演会など)をして、収益金を全額届けていました。  何か思い出になるものはないかと考え始めて、海外を含めて折鶴が沢山集まります。  市の取り組みで再生紙を作ろうという事で業者が何社か作り始めました。  卒業証書にもなるという事を聞いて、世界中から集まった折鶴で卒業証書を作って、それを手にして巣立ってくれればいいなあと思って、2016年から始まりました。   卒業するときには必ず卒業証書のいわれを校長先生が話してくださいます。   ピンク、黄色、緑のちいさな点々がありますが、折り鶴の名残で、残すのが難しい技術だそうです。  少なくとも卒業するときには平和について考えてくれると思います。   天国への電話があれば、この卒業証書のことそのほかいろいろなことを話したいと思います。  

奥野勝利さんが「親愛なる母上様」を元に歌を作りました。   2007年1月17日に彼が東京にいました。  30歳で日本に帰って来て作曲の仕事をする様になりました。  作曲が人のために役に立つのか悶々としていたそうです。  インターネットで手紙のことを知ったそうです。   物凄く感動して、曲が出来てしまったそうです。  妹がそれを発見して、聞いてびっくりしました。  連絡を取って2008年1月2日に広島に来てくださいました。   コンサートを開こうという事になり、会場を確保しました。

*「親愛なる母上様」 作曲、歌:奥野勝利

奥野勝利さんは2022年9月に癌で亡くなりました。(48歳)    繋がりが出来た人の中には私の孫みたいな世代の方がいますが、「お母さん」と呼んでくれます。  貴光がいなくなったら「お母さん」と呼んでくれる人がいなくなったと思っていたんですが、嬉しいです。  「僕は親に物凄くよくしてもらっているのに、何にもお返しが出来ていない、どうしたらいいんでしょうか。」という高校生からの質問がありました。  「あなたが一生懸命生きる事、その姿を親が見るのが一番うれしいんだから。」と言いました。