2021年12月7日火曜日

杉本肇(水俣病語り部)          ・【人権インタビュー】いま水俣病を語り継ぐということ        

 杉本肇(水俣病語り部)      ・【人権インタビュー】いま水俣病を語り継ぐということ

水俣病は熊本県南部の水俣市で最初に確認されました。   チッソ水俣工場が海に流した有機水銀が魚介類に取り込まれ、それを人間が長くたくさん食べることで中毒症を引き起こす公害病です。    今年で公式確認から65年となりますが、今もなお症状に苦しむ人達、患者として認定してもらいたいと訴える人たちが後を絶ちません。  杉本さんは60歳。   祖父母と両親が水俣病の認定患者でした。   ご自身も感覚障害などの症状があり、水俣病の被害者手帳を持っています。   幼いころから身近に患者を見つめ、向き合って来た自らの人生を今水俣病の語り部として多くの人に伝えています。 

今日も目の前にある海でシラスを獲ってきました。 無添加で加工します。  祖父母と両親が水俣病の患者であり、食べ物は安全でなくてはいけないと心から感じていたので、こだわっています。   水俣の海は生活の一部ですし、大好きなところで、これを守りたいと生涯にわたって水俣に接していたいと思うような、そんな海です。    水俣湾はかつて汚染され、たくさんの生命が亡くなりました。  ここは水俣湾から少し離れているので毎日魚を捕るという日常です。   真の水俣を知っていただきたいと語り部をやっています。   

小学校6年の時が家族が大変な時期でした。  5人兄弟でにぎやかに過ごしていました。    うちは網元で人が20,30人出入りしていました。   この茂道地区で症状が出たのは祖母が最初でした。  そこから我が家の苦しみが始まりました。   症状はろれつが回らなくて草履をはいてるのがわからないので、草履をなくしたりしていました。(感覚障害)   湿布薬が家にはたくさんあり漁師が貼っていて大変なんだろうぐらいにしか思っていませんでした。   小学校に行って両親が運動会などには来てくれるが走れない。  そのころから段々両親の身体が弱いことが判って来ました。  おじいさんが小学校の2年生の時に亡くなりショックでした。   母の具合が悪かったので、次は母が亡くなってしまうのではないかと考え心細くなりました。    3年生ぐらいから父も具合が悪くなり、周りには相談できないというのがこの水俣病にはあるんです。   水俣には加害者であるチッソも一緒にいるという事です。   子供も大人も水俣病に関しては何も言えない状況でした。   隠したいという思いが働き始めました。

先生にも言えないし、ストレスを溜めながら学校に通っていました。 小学校5年生の時に父は精神的ストレスで胃潰瘍になり、母は手に痛みがあったり足が腫れたりして、握力が4~5kgでした。   ごはんが入った茶碗が持てなくなりました。   二人が病院に入り子供たちで暮らすことになりました。    長男ですし、不安で夜眠れない時がありました。    水俣の魚が売れなくなってきた状況では漁師をあきらめるしかないと思うようになりました。    水俣の町が嫌になって出ていろいろ学びたいと思いました。    

高校卒業後東京に就職しましたが、周りに出身地を隠していました。   目の前で水俣病の患者の物まねをされた時にはショックでした。    結婚しようと思った人が水俣の人だったら結婚するなと言われて破談になったという人もいました。   僕たちは田舎自慢が出来なかったです。    後になって親と一緒に海に行って漁をしたことを話すと羨ましがられるようなことでしたが。   32歳の時に水俣に戻る事になりましたが、もう一度漁師をやってみないかという両親からの手紙でした。    少年の頃の心が動きました。 家族でもう一回漁が出来たんです、それが一番良かったです。(平成5年)  その後徐々に水俣病のことは語られるようになりました。     母が語り部になりましたが、なんでつらい話を人前でするのかと、賛成ではなかったです。    

母が亡くなって、全国から800通ぐらいの手紙を頂いて、母から励まされたという内容の手紙が多かったです。     母が「国も県もチッソも許す。」という言葉を残しましたが、一番の母の思いというのは「人が人ととも思わない。」というのが一番つらかったことで、それが差別、いじめだったと思います。    もう私(母 栄子)で終わりにしたい、私は許すから、同じ失敗をもうしないでくれ、という願いが含まれていると思います。  

母が亡くなって3か月後に語り部になりました。  小学校5年生の俺を救えるのではないかと思いました。   水俣の子供たちがこの町に生まれて良かったと思うようにしたいんです。    水俣市民が率先して水俣を伝えるという、そんな機運が高まっています。   水俣は公害との戦いなので、市民がどう戦って来たかという歴史が一番重要ではないかと思うし、原点だと思います。  水俣病の患者さんが一番つらかったことは差別だと母が言っていましたので、日本や世界に伝わってゆくようなメッセージを水俣から発信してゆきたい。

   


2021年12月6日月曜日

松中権(LGBTQ社会活動家)       ・【人権インタビュー】故郷を帰れる街に

松中権(LGBTQ社会活動家)       ・【人権インタビュー】故郷を帰れる街に 

今月10日までは人権週間です。   LGBTとはレズビアン(Lesbian)、ゲイ(Gay)、バイセクシュアル(Bisexual)、トランスジェンダー(Transgender)という各単語の頭文字をとってLGBT。  最近はもっと広くとらえたLGBTQという言い方もします。  Qはクィア(Queer)もしくはクエスチョニング(Questioning)。  今年夏に開催されたオリンピックでは多様性と調和が大会の理念として掲げられ、LGBTQなど性的マイノリティーであることを公表して出場した選手が180人と過去最多となりました。   ここ数年の間にLGBTQをめぐる社会の意識がすこしづつ変化してきています。  一方広告会社の調査によると日本のLGBTQ当事者に自分がLGBTQであることをカミングアウト(公表する)出来る社会ですかと質問すると、まだまだそんな社会ではないという回答が7割以上もあり、日本の社会では差別や偏見が根強く残っていることが判ります。   自身も当事者であり、長年この問題の理解、促進に取り組みを続けているNPO代表の松中さんに、日本の現状や、目指す社会の思いについて伺います。

保育園のころから男の子の友達といると楽しいなとか、その子が誰かとおしゃべりをしていると悔しいなとか、という感覚は有りました。   誰かが好きかなと感じ始めたのは小学校の高学年からですかね。    もやもやしていましたが、パッと霧が晴れたような感覚になったのは、ある番組に登場したキャラクターのお陰でした。  ホモだという事でした。  同じ人がいたと思いました。    図書館で調べて、このことを誰かに知られてしまったら、自分の居場所がなくなってしまうだろうし、両親からも追い出されてしまうかもしれないし、友達からいじめられるかもしれないと思って、空元気を演じる子供時代を過ごしてきたと感じます。    LGBTQは子供の頃気づくと言われています。  自分が当事者であるという恐怖と親の期待に応えられない、親を裏切ってしまうんじゃないかという怖さ、プレッシャーを感じて居場所を失ってしまう若者が多いのではないかと思います。   

東京の大学に行きたいと思ったのは、金沢に居場所がないと気づき始めて、いつかは東京、いつかは海外に行きたいと思っていました。  大学ではフィールドホッケー部に入っていましたが、合コンとかでは盛り上がっているふりをしていました。  このままだと自分の人生はどうなっちゃうんだろうと、大学4年生の頃は考えました。   オーストラリアでは国を挙げて多様性を大切にしているという事で、1999年、4年生の冬から2年弱メルボルンに留学することにしました。   一番最初にしたことはカミングアウトでした。    クィア(Queer)ルームがあり、そこで物凄く緊張してカミングアウトしました。  そうしたら「I See」 でした。  こんなに素直に受け止めれくれるんだと吃驚しました。 「ちなみに彼氏は?」と次に聞かれました。 凄い開放感があり恐怖感が無くなりました。 

2001年大手広告会社に就職したが、カミングアウトはしませんでした。   3年目にこの上司なら伝えてもいいかなと思って、タイミングを計っていましたが、機会を失ってしまいました。   なんで又同じ人生を歩んでいかなければいけないのか、という思いがあり研修制度を利用してニューヨークに行く機会を得ました。  2008年オバマ大統領が誕生して「We can change」という事で凄く盛り上がっていました。  自分も社会を変えて行くことに関わりたいと思って、帰国後NOP法人を立ち上げ、会社でもカミングアウトしようと思いました。  2010年二足のわらじがスタートしました。  ばれないように過ごしてきたので皆さん吃驚しました。   私の場合は周りに恵まれていると感じます。LGBTQの活動を通してカミングアウトしやすいような社会つくりをしていきたいと思います。  まだ差別や偏見が根強く残っています。   

一橋大学アウティング事件、 一橋大学法科大学院に通う学生が自分がゲイであることを友達に告白したが、本人の許可を得ずに周りにばらしてしまった。  悩み心身に変調をきたし最後には校舎の6階から転落死した。  ニュースを読むとまさにそこにいたのは自分ではないかと思い、全身の血が引いてゆくような感覚でした。   たまたま自分は生き残っているという感覚でした。   社会が変わらないと命を落として行く人たちは毎年生まれてくると感じて、仕事を辞めることを決意して、2017年6月に退社(16年間勤務)、以降LGBTQ活動一本で生活しています。   35年ローンでマンションを買っているし、給料もぐっと減るのですが、どうやって生活するかは考えていませんでした。  回りから応援を頂いて今日にいたっています。  

今年10月10日には地元金沢の有志の方と共に北陸初の金沢プライドパレードも開催。   北陸は保守的な街でどうにかして金沢の街を変えてゆきたいと思うようになって、地元の人とチームを組んで活動しています。  差別、偏見があるのは情報がないという事も一つの原因かなと思います。   パレードの準備段階ではポジティブな反応があり大丈夫かなと思っていましたが、街に暮らす人々が不安に思えてきて、当日を迎えました。  当日は全国から300人以上の方が参加しました。   街の多くの方々が手を振ってくれたり、笑顔で迎えてくれて、北陸も変わり始めているんだと体感しました。  

LGBTQ活動をしていて知った言葉は「アライ(ally)」という言葉で「同盟」とか「仲間」という意味の英単語ですが、そこから転じて「LGBTを理解・支援する人」を指します。 「アライ(ally)」という考え方がLGBTQ活動を通して全国に広がっていくといいなあと思っています。 







 

2021年12月5日日曜日

津久井教生(声優・演出家)        ・【時代を創った声】

 津久井教生(声優・演出家)        ・【時代を創った声】

津久井さんはNHKのEテレで放送中の「ニャンちゅう!宇宙!放送チュー!」の猫のキャラクター「ニャンちゅう」を演じています。    現在身体を動かすのに必要な筋肉が徐々に痩せて力が無くなってゆく難病 筋萎縮性側索硬化症(amyotrophic lateral sclerosis:ALS)と診断されて闘病中です。 

声優、俳優、演出家、音響監督、ミュージシャンなど実に多くの肩書を持っています。    3年ほど前にはALSと診断されて現在闘病中です。   足から始まった症状が手にまで進行してほとんど手足が動かなくなってしまっています。   しゃべる事以外は自分一人ではできる事が無くなってしまいました。   重度障害者の訪問介護の24時間体制という風になっています。   悲しくしゃべるには性分があっていないのでこんな感じでしゃべっています。(凄く明るい声でしゃべっている。)     

ALSなのでコロナ禍ではほとんど自宅で過ごしています。   「ニャンちゅう!宇宙!放送チュー!」でのキャラクター「ニャンちゅう」というキャラクターは手に装着して装演する方式なので、ワンハンドパペットと呼ばれ、現場に行って「ニャンちゅう」を動かす人と同時進行でやるのが一番「ニャンちゅう」が生きている状態になるので、「ニャンちゅう」の収録日だけはNHKにいって、5mの周りには人がいない状態で収録しています。   

小さいころは運動が大好きで好奇心旺盛な子でした。   中学は水泳部でしたが、陸上は借り出されていました。   100mのクロールでは大学1年の時に1分を切りました。   高校では漫画研究会に入ってまして、小さいころから漫画が大好きでした。    ショートアニメ―ションを作って発表会にだしたところ、大学生、セミプロ、声優の人たちとも知り合いになりました。   曽我部和恭さんや中尾隆聖さんなどプロの声優と知り合う事が出来ました。    舞台のお芝居にも誘われるようになりました。(高校3年生)    日本大学芸術学部放送学科に入りました。  3年生の時にすでに事務所に所属していたので中退しました。  野沢那智さん主宰の劇団薔薇座に入り大変影響を受け勉強になりました。   お金にはなりませんでしたが、快感は有りました。   1990年頃から『アンパンマン』や『ちびまる子ちゃん』に出演するなど仕事が来るようになりました。    1992年にオーディションがあり「ニャンちゅう」役が得られました。   岡部さんが人形を作って「オカベー」という名前でした。   名前の出し方をいろいろ工夫しているうちに今の「ニャンちゅう」の声が出来上がってしまいました。   来年で「ニャンちゅう」も30年になり声優としては幸せです。   

最初なんだか足が上がらないぞ、というところから始まり、転ぶようになり、変だと思って2019年4月に整形外科に行きました。  大学病院に1か月ぐらい検査入院して病名が判りました。   ALSと判ってショックはショックでしたが、ホッとしました。  病名も判りこれで方向性がっ決められるなと思いました。   病名が判らないという事は患者にとっては足踏み状態なので。    3~5年で自力呼吸が出来なくなり死に至ると書いてありました。   不安は有りましたが、どういう風に歩んでいくかは、結構早く切り替えられました。   その3年前にスキルス胃癌で弟を亡くしています。   判ってから6か月で弟は51歳で亡くなりました。   僕はALSと判ってから2年半でこうしてしゃべっていられます。    死生観、病気に対するものに対して、両親、弟も亡くしているし、自分の心の中に準備があったのかもしれません。   不安や焦りを出すよりも、そういった中で何かできたらいいなと、思いますし、弟も最後まで前向きでしたので、その影響もあります。   SNSでもいろいろ発信しています。  僕は死にたくはないです、死ぬ気もさらさらないです。   だから今の状態でどう生きようかなあという事を、周囲の人たちと楽しくさせて頂ければいいかなあと思います。   泣く時には思い切り泣きますが、どちらかと言えばそこのところから立ち上がれないよりも、さあスッキリしたぞと、さあ今できる事は何かなという風に周りの人たちと乗っていけたらいいねというのが今の現状です。僕一人のポジティブパワーだけではなくて、周りの人が支えてくださっていると多々感じるところがあります。  特に妻には。  

若い声優に対しては、「よく声優を目指してきてくれたな」と、「声優も仕事だよ」と、声優の仕事の基盤をしっかり習う方がいいと思います。  どの仕事も同じです。  声優はなかなか食べられないので、食べられるものを見つけながらでも結構いけるんじゃないかというあたりをしっかり学び、良い先輩諸氏に恵まれてゆくといいと思います。

今できる事をやるしかないんだなという事になってくるんじゃないでしょうか。    悲観、絶望とかあると思いますが、悲観、絶望のなかで出来ることは、ちょっとでもパワーに変えていって明日につながっていくんだったらいいなあという風に思います。  生きていると楽しいことが続くし、新しい何かに遭遇出来るんだなあと思う事なんじゃないかと思います。










2021年12月4日土曜日

2021年12月3日金曜日

宇多喜代子(俳人)           ・いさかいのない日々を子どもたちに残したい

 宇多喜代子(俳人)           ・いさかいのない日々を子どもたちに残したい

昭和10年山口県周南市生まれ。  俳句の雑誌「草苑」の編集長や現代俳句協会会長などを歴任するなど、現代俳句を代表する俳人の一人で多くの評伝や評論などでも俳句界をけん引してきました。  とりわけ過酷な戦場などで俳人たちがどのように戦争と向き合い、俳句を作ってきたかを克明に調べて後世に伝えようと研究を続けてきました。    又心の奥底に刻まれた幼いころの戦争体験から、子供たちには平和な日々を残してやりたいという思いが強いと言います。    俳句の魅力と共に、平和への強い思いを伺いました。

11月の立冬の日から冬になります。    障子に囲まれた部屋で冬を過ごしているので、「 亡き人の亡きこと思う障子かな」という私の句があります。  この歳になるとみんな先にあっちへ行っちゃうんですよ。   「 日短いつもふさがっている両手」 自画像です、いつも何かを持っています。   

12月は何といっても12月8日の戦争開戦の日ですね。  祖父が職業軍人でラジオがありこのニュースを聞きました。   「戦闘状態に入れり」という言葉が今でも耳に残っています。   祖父は日露戦争に行きました。  父の戦争は日中戦争、太平洋戦争、我が家は戦争を過ごしてきています。   祖母が戦地の兵隊さんはご苦労しているので、8日は梅干だけのご飯でした。    終戦後、昭和30年ぐらいまで12月8日は梅干だけでした。

「八月の赤子はいまも宙を蹴る」  赤子が手足を上に向けて宙を蹴っているような形で死んでいるのを見ました。   中東戦争でのニュースでも黒焦げになった赤ちゃんが同じように亡くなっているのを見ています。  東日本大震災の時の赤ちゃんを亡くした人と話をすると手足を上に向けていたと言っていました。  手足をあげてお母さんに助けて欲しいんじゃないかと思いました。    赤ちゃんは足で蹴って話をするんです。

飛行機が100機ぐらい来て、焼夷弾がぱらぱらと落ちてきました。  我が家にも火がついて母が夏掛けの布団に水を掛けてそれを被って母と逃げていきました。   途中で亡くなっている人を見たし、1時間ぐらいの爆撃がありましたが、周南市だけで500人ぐらいの犠牲者が出ました。   燃料廠があったためやられて市街地も回ってきました。(7月27日)   火が付いたものが空から降ってきましたが、かろうじて免れました。   橋のたもとに一人残されて、母が必ず来るからと言って去っていきましたが、心細くいてその時に「永遠」という言葉を想って、俳句を作る時に用います。   親しくしていた或るお姉さんが亡くなった姿も見ました。   矢絣のモンペを着ていて、矢絣の着物を見ると体が硬直します。   母とは祖母と一緒にお風呂に入って心が癒されていったと思います。 今何があっても戦争よりはましだと思います。   

俳句との出会いは戦後で昭和27,8年でした。  遠山麦浪さんからなんでもいいから目についたものを詠んでご覧と言われて、作りました。    料理も好きで栄養士さんになりたかったので武庫川学院女子短期大学家政学科へ行きました。    旬のものを食べるといいです。  旬は食べ物だけではないです。   鱧は夏の魚です。  土地土地にお魚のおいしい時期があります。  麦わらタコは麦が黄色くなった頃のタコがおいしい。  そういった言葉の暮らしの知恵があった。   

第一句集『りらの木』  父が戦争で中国から帰ってきて、りらの花がきれいだったという話をして、そこから付けました。   2歳で出征して12歳の時に帰ってきました。

「父までの瓦礫を越えるりらの枝」  段々お父さんだと思えるようになりました。

片山桃史という人の俳句を目にして、戦地からの句が多かったんです。  30歳で戦場でなくなっています。  この人の句を集め始め『片山桃史集』を刊行しました。       「透明な紅茶軽快なるノック.」    片山桃史                   「一斉に死者が雷雨を駆け上がる」  片山桃史                      「屍らに天の喇叭が鳴りやまず」   片山桃史

段々歳を取ってきて孫が戦死したような感じになってきています。 私自身の体験があるからジッとしていられない。   たくさんの片山桃史が日本にいたと思います。  

俳句は時代のもの、今生きている人のものですね。   風景とか時代とは無縁のものがありますが、それも大事だと思います。    俳句は私の血肉ですね。  俳句をやって退屈と生憎といういう事がない。   どんなことでも好きなことがあるという事が大事です。    日本のこの国土に森と水があって言葉が変わらないで欲しいと思っています。 戦争のない日々が何物にも代えがたいです。







2021年12月2日木曜日

今森光彦(写真家・切り絵作家)     ・オーレリアンの丘から四季だより~秋

 今森光彦(写真家・切り絵作家)     ・オーレリアンの丘から四季だより~秋

今森さんは滋賀県大津市琵琶湖をのぞむ田園風景の中にアトリエを構えて里山環境を取り戻すために活動しています。  

カマキリは種類によって割と高いところ、木の上に住んでいるカマキリもいます。   樹上性カマキリと草地にいるカマキリがいますが、それも種類があります。   マンションの3階にいるという事は花に集まって来る昆虫を狙って待機していたものと思います。    晩秋になって来るとすべてのカマキリが卵を産み終わります。    一つの塊のな中で越冬します。   母虫はおおくは茎に卵を産み付けます。  セイタカアワダチソウは2mぐらいになって茎が硬くなりそういったところに卵を産みます。    草刈りをすると倒してしまうので卵を捜しながら気を付けて草刈りをします。    

稲刈りをする頃に木が色づき始めて、ピークになるのが 11月中、下旬ぐらいです。  そのころが一番美しいです。 木ごとに色が違うので木の種類の多さを感じます。   蝶を多く住まわせたいという思いがあるので、蝶の食層であるかが結構大きいです。   雑木の環境にふさわしい植物を植えて行ったりしています。   冬は越冬しているので不用意には触らないです。  晩秋の時期は大事で生き物の締め括りの時期です。   オーレリアンの隣で里山を再生している一般社団法人の「めいすいの里山」と連携して5,6年活動してています。  凄く荒れている土地でした。   雑木林が多くて針葉樹林を伐採して広葉樹の幼木を手で植えています。    今年で3年目ですが、順調に育っています。   「おじいさんは山へ芝刈りに」とありますが、木の枝の伐採に行っていたんです。   「三分紅葉」という言葉があり紅葉が三分進んだら雑木を切りなさいという意味です。   それぐらい仕事をしないと雪が降って来るんです。   

「めいすいの里山」に鳥の種類が増えてきました。   猛禽類が増えています。  ノスリ、チョウゲンボウ 、フクロウなどいろいろです。    鳥が実を食べたらどこかへ飛んで行ってフンをして種が芽生えるという効果があります。   里山作りを目指している人間にとっては相棒が増えたような感じです。    秋の米の収穫というのは大きいですね。   稲を干す作業がありしばらくすると来年に先駆けて土の中に空気を入れるために田起こしが始まります。   「めいすいの里山」の山の上には開けたところができ、琵琶湖と棚田が見下ろせて綺麗です。   その地面にヨタカが巣をつくり(地面にくぼみがあるだけ)巣立ちしました。   

2006年「やまおやじ」という写真絵本を出版。  やまおやじはクヌギの古木のことです。樹齢は数十年ぐらいですが、背丈ぐらいのところで切れていていびつな形をしています。 *「やまおやじ」の内容の一部朗読。 

「人が入って手を入れているからこそ、豊かに保たれている。」それが雑木林なんですね。やまおやじが人の営みを語ってくれている。  

「クヌギがいる」という絵本を今年出版。 文のみ担当して、絵は画家の城芽ハヤトさん。*「クヌギがいる」の内容の一部朗読。

絵を描く人の感性と僕の感性がミックスするところがよかったと思います。        クヌギの古木は枯れてゆくが、そこは土が肥えてカブトムシの幼虫がいて、又新しい芽が生えてきていて、命が確実に受け継がれてゆく。   

 

2021年12月1日水曜日

野村万蔵(能楽師狂言方和泉流)     ・伝統芸能を受け継ぎ半世紀、新たな挑戦

野村万蔵(能楽師狂言方和泉流)     ・伝統芸能を受け継ぎ半世紀、新たな挑戦 

野村萬(七世野村万蔵)の次男として東京都に生まれ,4歳で初舞台を踏みました。   2005年、兄の急逝のため39歳で野村万蔵を襲名、一門の組織 よろず狂言を率いて国内外で活動を展開、現代演劇やNHKの大河ドラマに出演するなど活躍の場を広げてきました。    又流派を越えた能楽の若手研鑽の場「立合狂言会」を発足させ、能楽の普及発展にも力を入れています。      初舞台から半世紀、思いがけなく兄の後を引き継ぎ夢中で駆け抜けてきたという万蔵さん、この12月23日自身の誕生日に新たな一歩への思いを込めて「万蔵の会第一回」公演を行います。   

「泣尼」で面を付けて老婆を演じる。 狂言では太郎冠者が有名で、狂言でも面を付けてやる事があります。   「泣尼」はあまりやらない演目で3,4度やりました。  56歳になりますが、ガタが来ました。  ジムには週一で通っています。   万蔵を継ぎまして、家全体のことを考えて切り盛りする毎日です。  去年の10月半ばに胃がんの初期ですが、摘出手術をして大分体が弱って痩せてきました。   1年ずらして「万蔵の会第一回」公演を行います。   兄が癌で44歳で亡くなり、母も胃がんで亡くなりました。  

初舞台は4歳でした。   舞台から落ちてしまいましたが、お客さんが舞台の上に乗せてくれて続けました。   父親は厳しいです。  ほかの道に進もうとは思いませんでした。   いい色に染められていて抜け出せないような感じでした。   兄が急逝したため全部ひっくるめてやっているので、頑張ってやっています。   家の方のことも万蔵という名前も自信もって名乗りながら舞台活動をしてゆくのにも10年ぐらいかかりました。   

今までやってきたこと、家なり自分が伝統をやってきたことばかりずーっとやっていると、凝り固まって来ると思って、人さまとの出会いでちょっと違うところのジャンルとやったり、新作を作ってみたりして、段々経験値を重ねて、チャレンジしてきました。   ドラマにも出たことがありますが、これも御縁ですね。    兄は破壊するパワーがありました。  自分が家を継いで、狂言を大事にしたいという事は根底にあるくせに、真反対をやるとか、改革するとか、ちょっと変わった兄でした。    兄が違うジャンルのものばっかりやっているものですから、本業の方がおろそかになってくる。   そうなると父親と共に正当なことをやって行くという事になりました。   兄は45とか50歳の節目で狂言をしっかりやって行こうと思っていたんだと思います。  兄は45歳で万蔵を継ぐ予定でした。    身体が弱ってきて二人だけになった時に、私にははっきりとは言いませんでしたが、「後を頼むぞ」と、それに「正当な事ばっかりやっていても今の時代は駄目だから、もっと新しいことにチャレンジしていかなきゃ駄目だぞ。」と言われました。

それからお笑いタレントの方たちと狂言を作ったりとかもずーっとやっています。  海外にも行っています。   母の教えの言葉の一つに、「中庸を得る。」という事をずーっと言われていました。    バランスを取りながらやっているイメージです。    家は加賀前田藩のおかかえの能狂言方の胴元役みたいな家で2022年は初世の万蔵が生まれて300年という記念の年で、来年は300年を記念した祖先祭というものを東京で予定しています。   

「万蔵の会第一回」公演という自分で自分の会を考えた時に、初めて主役をやった「痺 (しびり)」という子供の狂言で父親とやって、これを50年経って、92歳の父親と56歳の私がこの狂言の出発点となった「痺 (しびり)」をやってみようと思いました。   稽古無しでぶっつけ本番でやろうと思っています。  我々和泉流にしかない大事な曲がありまして、巨勢 金岡(こせ の かなおか)という宮廷画家が高貴な女性に惚れてしまって、妻も私だって化粧をすればそのぐらいにはなると言って顔にペインティングをするわけです。  それと「彦一ばなし」などをやります。  誕生日に決めたのは母親に頑張っているよというような思いもあります。   今よりも将来のモチベーションがとても大事だなと思っています。   繋がってゆく、繋げてゆく、繋げてくれる意志のあるもの、それが見えている、そういうものと共に生きてゆく、それが私の今のモチベーション、幸せですね。