兼元謙任(インターネットサイト運営会社経営)・ホームレスから会社上場へ
53歳、在日韓国人3世として生まれた兼元さんは小学生時代いじめにあい、一時は車椅子生活を余儀なくされたこともありました。
高校生の時に日本に帰化、大学を卒業した後デザイナーとして働き始めました。
ところがあてにしていた仕事ができず、工事現場や公園で寝泊まりするホームレスの日々が続きました。
そのころ知り合った人から甘えるなと一喝されたことが契機となり再び仕事を探しようやくデザインの仕事を受注することができました。
その後インターネット上で利用者が質問と解答を利用するサイトを立ち上げ、会社は急成長、2006年に株式の上場を果たしました。
兼元さんに軌跡やそこから生み出された考え方について伺いました。
今会長になったからやる事は社長時代より少なくなりました。
名古屋で在日韓国人の3世として生まれました。
在日だという事で小学5年生の時友達に知られていじめがありました。
髪の毛をつかまれたり、殴られたり、トイレに押し込められたりと、あらゆることを経験しました。
韓国の言葉がしゃべれなくて国籍が違うという事だけで、いじめにあったこと自体理不尽の一言だったと思います。
ただ耐えることしかなかったです。
ストレスが溜まって、免疫系が壊れたしまって神経に菌が入るところまで免疫が落ちてしまって、ギラン・バレー症候群という診断を下されて車椅子に乗らざるを得ないところまで行ってしまった経験をしました。(小学校6年~中学1年生の頃)
ステロイドの集中投与をしていただきそのことで助かったが、つい先ごろまで実はその女医を恨んでいて、人をモルモットのように扱って、背中から髄液をぬいたり、手に針を刺して筋力を測ったりして治療していました。
恨んでいたが実はそれが一番効力があったと、つい先ごろ知っていい方向に向かったんだと思います。
段々回復するようになりました。
祖父が韓国から中学校の時に渡ってきて、両親も学校に行けなかったりして、このまま日本にいるいるならば国籍を取ることが必要であろうという事で、日本国籍を取ることを両親が決断してそれに従いました。
いじめ、両親の体験を見ていると、先々かなり悲観的に見ていました。
愛知県立芸術大学のデザイン科に入学しました。
周りは2浪、3浪している人たちが多くて、絵も上手いし経験も積んでいるので私は落ちこぼれでした。
課題を彫刻の人とか他の分野の人と相談して作成したり、自分の経験を生かして身障者のデザイン(ユニバーサルデザイン)をどうしたらいいか研究会を立ち上げました。
色々コンペがありそこで志を同じにする人たちがいて研究会は大きくなっていきました。
京都のデザイン事務所に就職しました。
研究会を通して知った或る社長さんからうちに来ないかとヘッドハンチングされて、名古屋の建築会社に入ることになりました。
そこでは働くことが上位で、デザインでは体を動かさないでクーラーの効いた室内でパソコンを扱って遊んでいるのがデザイナーだという様な偏見がありバッシングがありました。
ある経営者の雑誌を見て社長さんが或る街をデザインで作り替えるんだと言っていて、直接電話しました。
研究会のことは並行してやっていたので、いきさつ、成果などを説明しました。
身障者でも使えるパソコンのデザインをしてそれを提案して、それをアメリカで作ろうという事になりました。
メンバーも選定した時に、活動資金を持っていかれたようなところもあり、賞とかでお金をもらっていたが、一緒にやってきた仲間が新しい活動に使っていたもので皆さんに還元しなかったので、付いて行っても利用されるだけだと思い、仲間から離反がありうまくいきませんでした。
そのころは結婚していましたが、妻から離婚の届けがありました。
社長さんから研究会から離脱したあなたにはもう価値がないといわれてしまって、いじめ、離婚よりもダメージがあり、目の前が真っ暗になってしまいました。
東京駅の再開発工事をやっていて大きな下水管のところで一夜を明かしました。
翌朝工事に来た人がお弁当を廃棄処分するものを配っていてそこに連れて行ってくれて、消費期限切れのお弁当をわけてくれました。
嬉しくて涙が止まらなくなりました。
公園、駅のロータリーなどで寝泊まりすることになりました。
気持ち的に自由な感じがして楽な気持になりました。
思い出すのは妻と子どもの事だけでした、家族は大事だんだなあと思いました。
ホームレスは2年程度続きました。
働きながらホームレスをやっている人がいて、自分と同じようだという中国人の女性がいるということでその女性に自分の鬱積をきいてもらいましたら、その女性から顔を殴られました。
彼女は中国の田舎で育って貧しい生活をしていたが、どうしたらいいか考えたところ、ある本を開いたら日本という国は原爆を2発落とされたくさんの街が絨毯爆撃され、それでもGNP2位まで這いあがったという記事を見て、これは絶対行かなくてはいけないと思って、いろんな手を尽くして日本に来た。
赤々と24時間電気がつけっぱなし、食べれるだろうというお弁当を捨て、水はだらだらで止めない、30そこそこでちょっと虐められたぐらいのやつがこんなところでホームレスをしているのかというゲンコツを受け、心に響く一発でした。
甘えていたんではないかという事と、今の自分にも何かできるんじゃないかという風に思わせてもらった。
もう一度東京の流通会社の社長さんに仕事をくださいと申し出ました。
デザインの仕事を発注を頂きました。
名刺マークのリデザイン、会社のカタログなどを持っていきました。
いいねと受け取って、報酬は1000円でした。
金額に変えられないお金だったと思いました。
会社の紹介をしてもらって段々デザイン料も多くなっていきました。
自分に生活費として一日400円としてそれ以外は妻に送りました。
それまでは不安に駆られた欲だったような気がいますが、正しい道を見つけられたような感じになりました。
ウエブ、ホームページのデザインがちょっとづつ出はじめて来た時で、ホームぺージのデザインをやる事になり、知識がないのでインターネットにつながったパソコンから質問をさせていただく機会がありましたが、自分の知りたいことがインターネット上でわからなかった。
インターネットで質問したら回答を得られればこんなにいいことではないかと思いました。
Q&Aサイトを立ち上げました。
子育ての悩みで自殺まで考えたという様なことに対しての質問と解答がありましたが、300万ビュウを越えて皆さんに閲覧されることになったというのがつい最近の事です。
こういうサイトを立ち上げたいと、いろいろ持ちかけたがすべて断られてしまい、妻と子どものことを思い浮かべて、こういうサイトをつくりたいと名古屋に帰って妻に報告しました。
今までの謝りとこういうサイトをつくりたいと言ったら、今まで送っていた400万円ぐらいのお金を使わずに持っていて、このお金を使ってほしいと妻が言ってくれました。
それをもとにサイトを立ち上げました。
Q&Aサイトで3000人ぐらいのお客さんが来た時に、或る企業がQ&Aサイトをベースに新しいシステムをつくってくれないかという依頼を受けたのが収益のきっかけになりました。
ショッピングモールとか、車会社さんのお問い合わせの窓口にシステムを提供させていただき、一般のお客さんのQ&Aサイトと連携する形で、月額の費用を企業さんからいただくという事になりました。
2006年 会社の株式が上場されることになりました。
株式の時価総額については証券会社さんと相談する中で思っていた以上の価値を評価されました。
こんな友達がいたのかという様ないろいろな友達から、お金を貸してほしいという事でお金を貸してばらまいてしまって、その後音信不通になったりしました。
今は1年間で売り上げは40億円ちかくになっていて、従業員は300人近くになっています。
すべては繋がっているんだなと思っています。
虐めにあったことも、妻との関係も、友人に裏切られたことも含めて、その時にはショックでしたが、いろんな学び教えを頂いたような気がします、それがあったからこそ今続けられているし、ここに立てているんだなあと思います。
20年前のインターネットで変わったように、今また転換期が来ていると思います。
会社もピラミッド構造ではなく、それぞれが有機的に繋がってくる新しい組織形態、考え方も必要になって来るのではないかと思って、皆さんと一緒に考え啓蒙していけたらと思っています。
2019年11月7日木曜日
2019年11月6日水曜日
中村一雄(唄三線奏者) ・元銀行員の人間国宝
中村一雄(唄三線奏者) ・元銀行員の人間国宝
中村さんは沖縄県久米島出身の73歳、今年国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。
銀行員として長年働いた経歴を持ちながらも、ひたむきに芸を磨き続けている中村さんに伺いました。
前触れもなく発表されたので周囲も吃驚私も吃驚です。
重要無形文化財の組踊、琉球舞踊の唄三線の保持者として総合認定では二つ前に頂いているのですが、今回は前触れもなく連絡を受けて大変なことだと思いました。
NHKでまず全国放送されてまずメールなどが舞い込みました。
昭和21年久米島の生まれで、農業が盛んでした。
祖父が三線をやっていて、父も三線で活躍していたので耳に入っていました。
戦争が終わったあとですが、久米島の人が宣伝広報して歩いていたら日本兵からスパイだといわれて家族を含めてやられた(殺された)というのがあり、今でも一つの悲しい出来事として伝えられています。
父は左利きでしたので左で演奏していました。
宴会場とかに父と一緒についていったりしていました。(土)
高校を卒業してから三線を始めて本格的に習い始めたのは24歳の頃からです。
急に思い立って一挺しかない父の三線を黙って持ち出して師匠に習い始めました。
家でも徹底的に人の2、3倍ぐらい稽古をしました。
就職して銀行員になり24歳の頃結婚もして、何か芸を身に付けようという思いもあり、やるんなら徹底的にやろうと思いました。
朝1時間稽古して出勤して、家に戻ってきて又夜中まで毎日稽古をしました。
久米島に「白瀬走川節(しらしはいかわぶし )」というのがあり、愛しい人にあげようと女性から男性へ思いを花に託して表現するという歌の形で、それでは歌います。
声をよく出すために海にのどまで浸かって稽古をしなさいと言われて、よくそれをやりました。
山から集落が見えるが、その集落に聞こえるようにという事で山の上から声の稽古もやりました。
家は農業はやっていましたが、借地で出来上がった米とかサトウキビを地主に渡すわけですが、厳しい条件でした。
久米島では食えないと思って、中学2年の頃に移民予備隊という事で、挫折もあり思うように出来ない時がありました。
農協に入っているころに銀行の支店長が銀行に来ないかとお誘いがあり、沖縄本島に来て本格的に唄三線ができるようになりました。
久米島では激励があったが、本島では仕事をしっかりやらないと唄三線の稽古への影響もあると思って仕事も頑張りました。
シフト勤務だったのでうまく時間を利用して稽古をして、職場の皆さんにはいろいろ助けられました。
54歳で辞めましたが、銀行も芸も忙しくて、そのまま続けたら両方とも中途半端になるという時期がありました。
子どもも3人とも大学も卒業したし、家の借金も無くなったのも重なって芸の道に進むことにしました。
沖縄では芸事だけでは食ってはいけないです。
すべてが芸能人で、誰でも三線が弾けるし誰でも踊りも踊れるという事で、高い出演料をもらえるという事はないです。
沖縄の人口も少ないのでロングランの公演もできない、1,2回の公演ということになってしまう。
色んな関係の役員とかもあって、稽古の時間も取られてしまってきて、重要無形文化財保持者に認定されましたので、役員も減らして時間をつくっていかなければと思っています。
毎月舞台もあり、舞台監督とか演出の依頼もありやはり毎月舞台があるので、来年からはこれも遠慮しようと皆さんに言っています。
組踊も年間6件、平成7年からずーっとやっていますし、海外にも行っています。
40年ぐらい前に南米に行きましたが、久米島から移民していった親戚などもいて、唄三線を歌ったら沖縄を思い出して涙して、話もできないほどでした。
やはり生半可にしては駄目だと思いました。
三線の魅力は、琉球王国時分から上流階級の教養を高めるために始めた音楽ですが、いろんな苦難の歴史がありました。
琉球処分、第二次世界大戦とか途絶えてもいいようなほどいろんな苦難に会いながらも、それを受け継いでこられたのは先達が頑張って来られたという事もあるが、何かがあるのではないかと思います。
沖縄は琉歌(8,8,8,6調)が盛んでそれを三線に乗っけて歌うという事で、感情をあらわす演奏、歌に魂を入れるという事があるものですから、琉球古典音楽は地味ですが、組踊もなくてはいけないし、お祝いであれ悲しい告別式でも歌われる訳です。
魂のこもった唄三線だと思います。
場面場面によって色々と歌詞を変えて歌います。
古典伝統音楽の会長として500名の会員がいますが、ハワイ支部も作って、関東支部も作って発表会をやってきまして、頑張っています。
若い人を中心に久米島の古い民謡も歌っていただく行事も始めて10回目になります。
琉球古典音楽は「死するまで学ぶべし」という言葉があり、一生懸命精進して、伝承して後輩の指導もしていきたいと思っています。
中村さんは沖縄県久米島出身の73歳、今年国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。
銀行員として長年働いた経歴を持ちながらも、ひたむきに芸を磨き続けている中村さんに伺いました。
前触れもなく発表されたので周囲も吃驚私も吃驚です。
重要無形文化財の組踊、琉球舞踊の唄三線の保持者として総合認定では二つ前に頂いているのですが、今回は前触れもなく連絡を受けて大変なことだと思いました。
NHKでまず全国放送されてまずメールなどが舞い込みました。
昭和21年久米島の生まれで、農業が盛んでした。
祖父が三線をやっていて、父も三線で活躍していたので耳に入っていました。
戦争が終わったあとですが、久米島の人が宣伝広報して歩いていたら日本兵からスパイだといわれて家族を含めてやられた(殺された)というのがあり、今でも一つの悲しい出来事として伝えられています。
父は左利きでしたので左で演奏していました。
宴会場とかに父と一緒についていったりしていました。(土)
高校を卒業してから三線を始めて本格的に習い始めたのは24歳の頃からです。
急に思い立って一挺しかない父の三線を黙って持ち出して師匠に習い始めました。
家でも徹底的に人の2、3倍ぐらい稽古をしました。
就職して銀行員になり24歳の頃結婚もして、何か芸を身に付けようという思いもあり、やるんなら徹底的にやろうと思いました。
朝1時間稽古して出勤して、家に戻ってきて又夜中まで毎日稽古をしました。
久米島に「白瀬走川節(しらしはいかわぶし )」というのがあり、愛しい人にあげようと女性から男性へ思いを花に託して表現するという歌の形で、それでは歌います。
声をよく出すために海にのどまで浸かって稽古をしなさいと言われて、よくそれをやりました。
山から集落が見えるが、その集落に聞こえるようにという事で山の上から声の稽古もやりました。
家は農業はやっていましたが、借地で出来上がった米とかサトウキビを地主に渡すわけですが、厳しい条件でした。
久米島では食えないと思って、中学2年の頃に移民予備隊という事で、挫折もあり思うように出来ない時がありました。
農協に入っているころに銀行の支店長が銀行に来ないかとお誘いがあり、沖縄本島に来て本格的に唄三線ができるようになりました。
久米島では激励があったが、本島では仕事をしっかりやらないと唄三線の稽古への影響もあると思って仕事も頑張りました。
シフト勤務だったのでうまく時間を利用して稽古をして、職場の皆さんにはいろいろ助けられました。
54歳で辞めましたが、銀行も芸も忙しくて、そのまま続けたら両方とも中途半端になるという時期がありました。
子どもも3人とも大学も卒業したし、家の借金も無くなったのも重なって芸の道に進むことにしました。
沖縄では芸事だけでは食ってはいけないです。
すべてが芸能人で、誰でも三線が弾けるし誰でも踊りも踊れるという事で、高い出演料をもらえるという事はないです。
沖縄の人口も少ないのでロングランの公演もできない、1,2回の公演ということになってしまう。
色んな関係の役員とかもあって、稽古の時間も取られてしまってきて、重要無形文化財保持者に認定されましたので、役員も減らして時間をつくっていかなければと思っています。
毎月舞台もあり、舞台監督とか演出の依頼もありやはり毎月舞台があるので、来年からはこれも遠慮しようと皆さんに言っています。
組踊も年間6件、平成7年からずーっとやっていますし、海外にも行っています。
40年ぐらい前に南米に行きましたが、久米島から移民していった親戚などもいて、唄三線を歌ったら沖縄を思い出して涙して、話もできないほどでした。
やはり生半可にしては駄目だと思いました。
三線の魅力は、琉球王国時分から上流階級の教養を高めるために始めた音楽ですが、いろんな苦難の歴史がありました。
琉球処分、第二次世界大戦とか途絶えてもいいようなほどいろんな苦難に会いながらも、それを受け継いでこられたのは先達が頑張って来られたという事もあるが、何かがあるのではないかと思います。
沖縄は琉歌(8,8,8,6調)が盛んでそれを三線に乗っけて歌うという事で、感情をあらわす演奏、歌に魂を入れるという事があるものですから、琉球古典音楽は地味ですが、組踊もなくてはいけないし、お祝いであれ悲しい告別式でも歌われる訳です。
魂のこもった唄三線だと思います。
場面場面によって色々と歌詞を変えて歌います。
古典伝統音楽の会長として500名の会員がいますが、ハワイ支部も作って、関東支部も作って発表会をやってきまして、頑張っています。
若い人を中心に久米島の古い民謡も歌っていただく行事も始めて10回目になります。
琉球古典音楽は「死するまで学ぶべし」という言葉があり、一生懸命精進して、伝承して後輩の指導もしていきたいと思っています。
2019年11月5日火曜日
豊竹咲太夫(文楽太夫) ・命ある限り芸の道を
豊竹咲太夫(文楽太夫) ・命ある限り芸の道を
今年75歳にして重要無形文化財保持者(人間国宝)認定されました。
父と同じ人間国宝になるまでの道のりを伺いました。
八代目竹本綱太夫の長男として生まれる。
家では生まれてこの方三味線の音が聞こえてきて、父が義太夫に限らず他の邦楽が好きでしたので三味線音楽など聴いていました。
劇場が歩いて5,6分にありましたので、遊び場になっていました。
入門は9歳でした。
民放局で7歳の時に収録があり、父親に連れらてきましたが、子どもを出そうという事になって初舞台を文楽座ですることになりました。
その時の演題が『伽蘿先代萩』(めいぼく せんだいはぎ)という伊達騒動を扱ったお芝居でした。
舞台稽古の時に恐れ多いことですが、僕が鶴千代君役で一番上座に座って当時は豊竹山城少掾と言えば一番偉い人でその師匠が脇に座ってくださったんです。
今から思えばそんなことはないですが。
昭和19年生まれです。
当時は物資も乏しいし、興行成績も上がらないし、いろんな事情が重なって、その道にいらっしゃた太夫、三味線、人形の御子息たちが戦死なさって後継者が少なかったという事ですね。
松竹株式会社だからできたことだと思います。
マスコミが盛んに取材してくれました。
初舞台のときには右も左もわからず、当時生意気で新富町の旅館からで公演先の新橋演舞場に人力車で通っていました。
小学校、中学校に進んでいって、中学になると声変りをしてそうすると限られた演目しかできないようになってしまって、しばらくでたりでなかったりしまして学業に重きを置いた時期がありました。
高音が出にくくなって、舞台に立ってもやってみないとわからないような感じでした。
義太夫の場合は洋楽でいう4オクターブでないといけないので、限られたものしか出られませんでした。
楽屋にはしょっちゅう遊びに行っていたというのが正直なところで、そうすると自然と演目に関することを教えられなくても入ってきました。
楽屋の空気を吸うという事は自然と覚えてくるものです。
今は義太夫の字幕が出るのでわかるようになりましたが、数を見ていただく以外にないです。
今は忠臣蔵が判らなくなってきたり、源平の戦いでも源氏と平家の区別が判らないし、こんな時代で本当に難しい時代になりました。
古典芸能の場合は一番上はお能、狂言、二番目が文楽、三番目が歌舞伎と言われて、その順番で世界遺産になりました。
どういう風にしてお客さんにわかっていただけるか、近松門左衛門は外国の人が知っていただけるが、日本では近松門左衛門を知らない人もいて、大阪にいたという事も知らないという事があります。
近松門左衛門の作品は入っていただくと判り易いが、こんがらがって難しいものは嫌だという事になってしまいます。
判り易いものだけをやるというのも、いわゆる「通」と言われる人たちが離れて行ってしまうので、プロデューサーとしては難しい所です。
20歳の時に咲太夫に改名して、それからずーっと咲太夫で来ています。
竹本綱太夫から咲太夫の襲名の時にいろいろな候補がありましたが、師匠の裁断で咲太夫になりましたが、9代目が明治3年に亡くなっており、竹本咲太夫を名乗っていました。
昔は竹本流と豊竹流がありトレードがあったみたいです。
初代豊竹咲太夫という名前に改名し、紋は島津家と同じ丸に十字の紋でした。
或る学者が本を持ってきてくれて、それが初代豊竹咲太夫の墓石の図が見つかって、(義太夫大系図)拝名が男徳斎と言って、その墓石の上に丸に十の紋があったんです。
その人の生まれ変わりかと思いました。
9代目の命日の日にそれが判ったんです、運命的な思いがあり、一生豊竹咲太夫という名前は変えないようにしました。
10年前に「切り場語り」という文楽のクライマックスをかたる最高峰の地位に就く。
実際には20歳ぐらいから語っていますが、「切り場」になったからと言ってどうといった感じは無いですが、責任は感じます。
シリアスなものをやるときには気が重いです。
落語を聞いたり、演劇を見たりして勉強しています。
「知らないよりも知っている方がいい、やらないよりもやった方がいい」これは父親の口癖でした。
50歳の声を聴いてようやく、太夫らしい声になってきたのかなあと思います。
関西の演劇の人たちは割と悪声です、義太夫に縁があるんでしょうね。
今の子はしつこく言うのをあまり良しとしないところがあり難しいし、大阪出身の人が少ない。
後進を育てるというのが一番頭が痛いです。
昔はこうやらなくてはいけないとか、心理描写はどうとか、いろいろ考えましたが、いまは考えないでやっています。
今年75歳にして重要無形文化財保持者(人間国宝)認定されました。
父と同じ人間国宝になるまでの道のりを伺いました。
八代目竹本綱太夫の長男として生まれる。
家では生まれてこの方三味線の音が聞こえてきて、父が義太夫に限らず他の邦楽が好きでしたので三味線音楽など聴いていました。
劇場が歩いて5,6分にありましたので、遊び場になっていました。
入門は9歳でした。
民放局で7歳の時に収録があり、父親に連れらてきましたが、子どもを出そうという事になって初舞台を文楽座ですることになりました。
その時の演題が『伽蘿先代萩』(めいぼく せんだいはぎ)という伊達騒動を扱ったお芝居でした。
舞台稽古の時に恐れ多いことですが、僕が鶴千代君役で一番上座に座って当時は豊竹山城少掾と言えば一番偉い人でその師匠が脇に座ってくださったんです。
今から思えばそんなことはないですが。
昭和19年生まれです。
当時は物資も乏しいし、興行成績も上がらないし、いろんな事情が重なって、その道にいらっしゃた太夫、三味線、人形の御子息たちが戦死なさって後継者が少なかったという事ですね。
松竹株式会社だからできたことだと思います。
マスコミが盛んに取材してくれました。
初舞台のときには右も左もわからず、当時生意気で新富町の旅館からで公演先の新橋演舞場に人力車で通っていました。
小学校、中学校に進んでいって、中学になると声変りをしてそうすると限られた演目しかできないようになってしまって、しばらくでたりでなかったりしまして学業に重きを置いた時期がありました。
高音が出にくくなって、舞台に立ってもやってみないとわからないような感じでした。
義太夫の場合は洋楽でいう4オクターブでないといけないので、限られたものしか出られませんでした。
楽屋にはしょっちゅう遊びに行っていたというのが正直なところで、そうすると自然と演目に関することを教えられなくても入ってきました。
楽屋の空気を吸うという事は自然と覚えてくるものです。
今は義太夫の字幕が出るのでわかるようになりましたが、数を見ていただく以外にないです。
今は忠臣蔵が判らなくなってきたり、源平の戦いでも源氏と平家の区別が判らないし、こんな時代で本当に難しい時代になりました。
古典芸能の場合は一番上はお能、狂言、二番目が文楽、三番目が歌舞伎と言われて、その順番で世界遺産になりました。
どういう風にしてお客さんにわかっていただけるか、近松門左衛門は外国の人が知っていただけるが、日本では近松門左衛門を知らない人もいて、大阪にいたという事も知らないという事があります。
近松門左衛門の作品は入っていただくと判り易いが、こんがらがって難しいものは嫌だという事になってしまいます。
判り易いものだけをやるというのも、いわゆる「通」と言われる人たちが離れて行ってしまうので、プロデューサーとしては難しい所です。
20歳の時に咲太夫に改名して、それからずーっと咲太夫で来ています。
竹本綱太夫から咲太夫の襲名の時にいろいろな候補がありましたが、師匠の裁断で咲太夫になりましたが、9代目が明治3年に亡くなっており、竹本咲太夫を名乗っていました。
昔は竹本流と豊竹流がありトレードがあったみたいです。
初代豊竹咲太夫という名前に改名し、紋は島津家と同じ丸に十字の紋でした。
或る学者が本を持ってきてくれて、それが初代豊竹咲太夫の墓石の図が見つかって、(義太夫大系図)拝名が男徳斎と言って、その墓石の上に丸に十の紋があったんです。
その人の生まれ変わりかと思いました。
9代目の命日の日にそれが判ったんです、運命的な思いがあり、一生豊竹咲太夫という名前は変えないようにしました。
10年前に「切り場語り」という文楽のクライマックスをかたる最高峰の地位に就く。
実際には20歳ぐらいから語っていますが、「切り場」になったからと言ってどうといった感じは無いですが、責任は感じます。
シリアスなものをやるときには気が重いです。
落語を聞いたり、演劇を見たりして勉強しています。
「知らないよりも知っている方がいい、やらないよりもやった方がいい」これは父親の口癖でした。
50歳の声を聴いてようやく、太夫らしい声になってきたのかなあと思います。
関西の演劇の人たちは割と悪声です、義太夫に縁があるんでしょうね。
今の子はしつこく言うのをあまり良しとしないところがあり難しいし、大阪出身の人が少ない。
後進を育てるというのが一番頭が痛いです。
昔はこうやらなくてはいけないとか、心理描写はどうとか、いろいろ考えましたが、いまは考えないでやっています。
2019年11月4日月曜日
穂村弘(歌人) ・【ほむほむのふむふむ】
穂村弘(歌人) ・【ほむほむのふむふむ】
「シンジケート」1986年に俵 万智さんが受賞した角川短歌賞の次席となった連作の「シンジケート」が元になっている。
1990年に会社に入って3年後ぐらいでした。
会社に入って全部ためたお金を全部吐き出しての自費出版でした。
歌集の編集をした時には短冊にして紙で床一杯に広げてやりました。
最もいい構成を考えなくては行けなくて、必死に紙を並べ替え、並べ替えしました。
一緒にやったのが出版社に勤めていた編集者の山崎郁子さんでした。
「こんなにも風が明るくあるために調子っぱずれの僕の口笛」 山崎郁子
短歌の中の作中の主人公が僕なんです、作者は女性なんですが。
風が明るくという表現は一首全体を読むと雰囲気が判る様な感じがする。
「昨晩の事であります星月夜推進運動家よりの速達」 山崎郁子
童話みたいな感じです。
実際には星月夜推進運動家なんていないのですが。
宮沢賢治風の感じがします。
「ひなにんぎやうのかたなのつばやすらかなねむりにおちるためのおまじなひ」山崎郁子
全部ひらがなになっていて旧かな使いになっている。
落語を聞きに行って、演目にひな人形の刀の鍔が出てきて、彼女は覚えていてそのあとの会で作った短歌にした。
「空からはゆめがしぶいてくるでせう手にはきいろい傘のしんじつ」 山崎郁子
空からしぶいてくるのは普通は雨ですが、比喩でここではゆめがしぶいてくる。
雰囲気的な歌ですが、なんかリアルな感じもちょっとあるかなあと思います。
ひらがなが多くなっている。
山崎郁子さんの歌風は夢のような感じ、文体的には話し言葉でありながら全体的には旧かなつかいが使われている。
歌集のタイトルは「麒麟の休日」
麒麟は伝説上の麒麟。
歌集の帯をどうしようかと思った時に大島弓子さんにお願いしようと思って、何とか家を見つけたが緊張してブザーを押せなくて、依頼状とゲラ刷を大きい封筒に入れて、ポストに入れました。
そんなやり方でも引き受けてもらいました。
「水滴が雪になるように言葉が結晶化して歌になる。
そして降り積もって雪野原のような本になった。
今年始めて積もった雪、穂村弘の初めての歌集」 大島弓子
ありがたかったです。
「子どもよりシンジケートをつくろうよ壁に向かって手を上げなさい」 穂村弘
前回「当方は二十五銃器ブローカー秘書求む桃色の踵の」 塚本邦雄 というのがありましたが、あれも恋愛とか違う共同体、同士を求めている歌ですが、これもそうです。
それをシンジケートという風に詠んでいるわけです。
壁に向かって手を上げなさいというのはホールドアップ、銃器ブローカーが危険な感じがあった様に、それはどこか非合法なものなんだという、非合法な世界へのあこがれです。
歌集のタイトルにもなりました。
当時はカタカナのタイトルの歌集はない時代でした。
「酔ってるの私が誰かわかってるブーフーウーのウーじゃないかな」 穂村弘
「ブーフーウー」はNHKの「お母さんと一緒」の人形劇の3匹の子豚。
女性側が初めに恋人だと思われる相手に、「酔ってるの私が誰かわかってる」という風に呼びかけるが、答えが「ブーフーウーのウーじゃないかな」という冗談が返ってくる。
ウーは末っ子で賢い、賢い子豚ちゃんだよと戯れて言っている。
これは完全フィクションですが。
「呼吸する色の不思議を見ていたら火よとあなたは教えてくれる」 穂村弘
火は原始的なイメージを想起させてくれるから、じっと見つめていると火だという日常の認識が溶けてしまい、呼吸する色みたいに表現している。
ぼんやり火を見ていると突然「火よ」と教えてくれる人がいたという、広い意味での恋愛の歌です。
僕の中に理想の人のイメージがあって、ぼんやり見ていると火よと教えてくれるような人だという。
女の人の中に女神のようなイメージがある。
僕の感じ方の原型みたいなものがこの時にはもうあったんだと思います。
「朝の陽にまみれて見えなくなりそうなお前を足で起こす日曜」 穂村弘
日差しが入ってきて日差しに溶け込んだしまっていて、どこかに行ってしまいそうで、不安になってわざと乱暴に起こす。
裏返しの思いがある。
「駄目な歌が入ってしまう事よりも、良い歌があるのに入れないという事を恐れろ」といわれて凄いいいアドバイスだと思い、ほかの人たちにも言っています。
*記載した短歌の文字が違っているかもしれません。
「シンジケート」1986年に俵 万智さんが受賞した角川短歌賞の次席となった連作の「シンジケート」が元になっている。
1990年に会社に入って3年後ぐらいでした。
会社に入って全部ためたお金を全部吐き出しての自費出版でした。
歌集の編集をした時には短冊にして紙で床一杯に広げてやりました。
最もいい構成を考えなくては行けなくて、必死に紙を並べ替え、並べ替えしました。
一緒にやったのが出版社に勤めていた編集者の山崎郁子さんでした。
「こんなにも風が明るくあるために調子っぱずれの僕の口笛」 山崎郁子
短歌の中の作中の主人公が僕なんです、作者は女性なんですが。
風が明るくという表現は一首全体を読むと雰囲気が判る様な感じがする。
「昨晩の事であります星月夜推進運動家よりの速達」 山崎郁子
童話みたいな感じです。
実際には星月夜推進運動家なんていないのですが。
宮沢賢治風の感じがします。
「ひなにんぎやうのかたなのつばやすらかなねむりにおちるためのおまじなひ」山崎郁子
全部ひらがなになっていて旧かな使いになっている。
落語を聞きに行って、演目にひな人形の刀の鍔が出てきて、彼女は覚えていてそのあとの会で作った短歌にした。
「空からはゆめがしぶいてくるでせう手にはきいろい傘のしんじつ」 山崎郁子
空からしぶいてくるのは普通は雨ですが、比喩でここではゆめがしぶいてくる。
雰囲気的な歌ですが、なんかリアルな感じもちょっとあるかなあと思います。
ひらがなが多くなっている。
山崎郁子さんの歌風は夢のような感じ、文体的には話し言葉でありながら全体的には旧かなつかいが使われている。
歌集のタイトルは「麒麟の休日」
麒麟は伝説上の麒麟。
歌集の帯をどうしようかと思った時に大島弓子さんにお願いしようと思って、何とか家を見つけたが緊張してブザーを押せなくて、依頼状とゲラ刷を大きい封筒に入れて、ポストに入れました。
そんなやり方でも引き受けてもらいました。
「水滴が雪になるように言葉が結晶化して歌になる。
そして降り積もって雪野原のような本になった。
今年始めて積もった雪、穂村弘の初めての歌集」 大島弓子
ありがたかったです。
「子どもよりシンジケートをつくろうよ壁に向かって手を上げなさい」 穂村弘
前回「当方は二十五銃器ブローカー秘書求む桃色の踵の」 塚本邦雄 というのがありましたが、あれも恋愛とか違う共同体、同士を求めている歌ですが、これもそうです。
それをシンジケートという風に詠んでいるわけです。
壁に向かって手を上げなさいというのはホールドアップ、銃器ブローカーが危険な感じがあった様に、それはどこか非合法なものなんだという、非合法な世界へのあこがれです。
歌集のタイトルにもなりました。
当時はカタカナのタイトルの歌集はない時代でした。
「酔ってるの私が誰かわかってるブーフーウーのウーじゃないかな」 穂村弘
「ブーフーウー」はNHKの「お母さんと一緒」の人形劇の3匹の子豚。
女性側が初めに恋人だと思われる相手に、「酔ってるの私が誰かわかってる」という風に呼びかけるが、答えが「ブーフーウーのウーじゃないかな」という冗談が返ってくる。
ウーは末っ子で賢い、賢い子豚ちゃんだよと戯れて言っている。
これは完全フィクションですが。
「呼吸する色の不思議を見ていたら火よとあなたは教えてくれる」 穂村弘
火は原始的なイメージを想起させてくれるから、じっと見つめていると火だという日常の認識が溶けてしまい、呼吸する色みたいに表現している。
ぼんやり火を見ていると突然「火よ」と教えてくれる人がいたという、広い意味での恋愛の歌です。
僕の中に理想の人のイメージがあって、ぼんやり見ていると火よと教えてくれるような人だという。
女の人の中に女神のようなイメージがある。
僕の感じ方の原型みたいなものがこの時にはもうあったんだと思います。
「朝の陽にまみれて見えなくなりそうなお前を足で起こす日曜」 穂村弘
日差しが入ってきて日差しに溶け込んだしまっていて、どこかに行ってしまいそうで、不安になってわざと乱暴に起こす。
裏返しの思いがある。
「駄目な歌が入ってしまう事よりも、良い歌があるのに入れないという事を恐れろ」といわれて凄いいいアドバイスだと思い、ほかの人たちにも言っています。
*記載した短歌の文字が違っているかもしれません。
2019年11月3日日曜日
TARAKO((たらこ)俳優)) ・【時代を創った声】
TARAKO(たらこ)(俳優) ・【時代を創った声】
アニメ「ちびまる子ちゃん」のまる子ちゃん役30年目、あっという間でした。
私も20代でみんな若かったが、今では座りながらではないと声をとれない方とか、あの世に行ってしまった方とか、時間が経つのは怖いなと思う事があります。
ベテランの方が多いのでぎすぎすしません。
私とまる子ちゃんは似ていますが、さくらももこさん(漫画の原作者)もそっくりです。
喋り方がそっくりで、歌手のイルカちゃんも似ていて、3人でラジオで一緒にしゃべっていても、誰が誰だかわからないといわれました。
声が似ていると顔も似ています、3人で写真を撮っても顔が似ていたのにはびっくりしました。
子どものころからアニメは好きでした。
中学の時には保母さんになりたいと思っていました。
高校の時には保母の専門学校に行こうか、芝居の世界に行こうか悩んでいましたが、親から「好きなほうに行きな」と言われて芝居の方に行くことにしました。
2年間演技の専門学校に行きました。
声優になって最初の頃古川登志夫さんからはいろいろ学びました。
『名探偵コナン』の江戸川コナン役の高山みなみさんからはちょっとしてテクニックを教えてもらいました。
技術もハートも高山みなみさんは天才だと思った時期もありました。
声優デビューは1981年、テレビアニメ『うる星やつら』で演じた幼稚園児役でした。
生活が厳しくてアルバイトはまる子が始まる前までやっていました。
1983年にシンガーソングライターとしてもデビューしました。
漫画「サザエさん」のタラちゃんに似ているといわれて、タラと言われていたが、それに子をつけて「TARAKO(たらこ)」で行こうということになりました。
アニメ「ちびまる子ちゃん」では一次予選に呼んでいただけなくて、見本をとったらももこ先生が違うという事で、オーディションをもう一回やる事になり、35,6人の中の最後の最後に5人選ばれて、ももこ先生にこの子がいいという事になり決まりました。
「ちびまる子ちゃん」の人気がでてきてびっくりしました。
変な声だという事は声優になった後にも言われていました。
家に帰って泣くとか、現場ではトイレで泣いたりしていました。
支えてくれた人が一杯いたのとまる子ちゃんが好きだというファンがいたので、まる子がある限りは続けていいんだという事で続けられてきました。
声にコンプレックスがあったが、「スプーンおばさん」の子ネズミのどんちゃんの役をやったときに、のどを締めたり形からはいったら、これがまる子の原型になりました。
自分の声は好きになろうとしています。
一番楽なしゃべり方はまる子に近いです。
私はナレーションは第三者的にはできないです。
ナレーターと声優は或る意味一緒です、もっと淡々と読まないと聞いている方には伝わらないといわれて、その時はちゃんとナレーションしました。
ずーっとしゃべりぱなしではなく言葉を止めるという事そういうしゃべり方もしました。
想像することが大好きで延長線で脚本へと向かいました。
1992年頃にまる子が一回終わった後に、或る番組が拾ってくださって、そこで書くようにになりました。
自分だけがそのキャラに命を吹き込める喜び、キャラと声で楽しませることができる、いくつになってもできる、それが声優の魅力だと思います。
好きでいることが続けられる元になっていると思います。
この世にはいろんな声の持ち主がいますが、自分だけというものを見つけてほしいと思います。
そのためには一杯物まねをすることだと思います、そうすると新しい自分がひろがると思います。
映画、ドラマを一杯見ること、そのほかいろいろなものを見ること、本を読む、自分の引き出しを増やしてゆくといいと思います。
何があっても自分が好きでいて欲しいと思います。
怒ったときには1秒息を止めて、大きな深呼吸を3回してから、自分の心にこれは今言って大丈夫か自分に聞いてほしい。
これは許せないと思ったら言葉を選んでいう事ですかね。
夢は多くの方に笑ってほしいので笑顔が増えればいいなあと思って、その一個のお手伝いができればいいなあと思います。
映画をつくりたいです。
アニメ「ちびまる子ちゃん」のまる子ちゃん役30年目、あっという間でした。
私も20代でみんな若かったが、今では座りながらではないと声をとれない方とか、あの世に行ってしまった方とか、時間が経つのは怖いなと思う事があります。
ベテランの方が多いのでぎすぎすしません。
私とまる子ちゃんは似ていますが、さくらももこさん(漫画の原作者)もそっくりです。
喋り方がそっくりで、歌手のイルカちゃんも似ていて、3人でラジオで一緒にしゃべっていても、誰が誰だかわからないといわれました。
声が似ていると顔も似ています、3人で写真を撮っても顔が似ていたのにはびっくりしました。
子どものころからアニメは好きでした。
中学の時には保母さんになりたいと思っていました。
高校の時には保母の専門学校に行こうか、芝居の世界に行こうか悩んでいましたが、親から「好きなほうに行きな」と言われて芝居の方に行くことにしました。
2年間演技の専門学校に行きました。
声優になって最初の頃古川登志夫さんからはいろいろ学びました。
『名探偵コナン』の江戸川コナン役の高山みなみさんからはちょっとしてテクニックを教えてもらいました。
技術もハートも高山みなみさんは天才だと思った時期もありました。
声優デビューは1981年、テレビアニメ『うる星やつら』で演じた幼稚園児役でした。
生活が厳しくてアルバイトはまる子が始まる前までやっていました。
1983年にシンガーソングライターとしてもデビューしました。
漫画「サザエさん」のタラちゃんに似ているといわれて、タラと言われていたが、それに子をつけて「TARAKO(たらこ)」で行こうということになりました。
アニメ「ちびまる子ちゃん」では一次予選に呼んでいただけなくて、見本をとったらももこ先生が違うという事で、オーディションをもう一回やる事になり、35,6人の中の最後の最後に5人選ばれて、ももこ先生にこの子がいいという事になり決まりました。
「ちびまる子ちゃん」の人気がでてきてびっくりしました。
変な声だという事は声優になった後にも言われていました。
家に帰って泣くとか、現場ではトイレで泣いたりしていました。
支えてくれた人が一杯いたのとまる子ちゃんが好きだというファンがいたので、まる子がある限りは続けていいんだという事で続けられてきました。
声にコンプレックスがあったが、「スプーンおばさん」の子ネズミのどんちゃんの役をやったときに、のどを締めたり形からはいったら、これがまる子の原型になりました。
自分の声は好きになろうとしています。
一番楽なしゃべり方はまる子に近いです。
私はナレーションは第三者的にはできないです。
ナレーターと声優は或る意味一緒です、もっと淡々と読まないと聞いている方には伝わらないといわれて、その時はちゃんとナレーションしました。
ずーっとしゃべりぱなしではなく言葉を止めるという事そういうしゃべり方もしました。
想像することが大好きで延長線で脚本へと向かいました。
1992年頃にまる子が一回終わった後に、或る番組が拾ってくださって、そこで書くようにになりました。
自分だけがそのキャラに命を吹き込める喜び、キャラと声で楽しませることができる、いくつになってもできる、それが声優の魅力だと思います。
好きでいることが続けられる元になっていると思います。
この世にはいろんな声の持ち主がいますが、自分だけというものを見つけてほしいと思います。
そのためには一杯物まねをすることだと思います、そうすると新しい自分がひろがると思います。
映画、ドラマを一杯見ること、そのほかいろいろなものを見ること、本を読む、自分の引き出しを増やしてゆくといいと思います。
何があっても自分が好きでいて欲しいと思います。
怒ったときには1秒息を止めて、大きな深呼吸を3回してから、自分の心にこれは今言って大丈夫か自分に聞いてほしい。
これは許せないと思ったら言葉を選んでいう事ですかね。
夢は多くの方に笑ってほしいので笑顔が増えればいいなあと思って、その一個のお手伝いができればいいなあと思います。
映画をつくりたいです。
2019年11月2日土曜日
平野暁臣(岡本太郎記念館館長) ・ベラボーなものを作る(初回2018/9/22)
平野暁臣(岡本太郎記念館館長) ・ベラボーなものを作る(初回2018/9/22)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/09/blog-post_22.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/09/blog-post_22.htmlをご覧ください。
2019年11月1日金曜日
高橋久美子(作家・作詞家) ・音楽と言葉と私
高橋久美子(作家・作詞家) ・音楽と言葉と私
高橋さんは昭和57年愛媛県生まれ、平成16年徳島県鳴門市にある鳴門教育大学在学中にロックバンド「チャットモンチー」にドラム、作詞家として加入、翌年平成17年大学卒後メジャーデビューを機に上京、平成23年に「チャットモンチー」を脱退します。
現在は作家、作詞家として活躍中です。
絵本の翻訳なども幅広く活動されています。
今は愛媛と東京を行ったり来たりしています。
メインは作詞家をしています。
幼少期は走り回って遊んだり、みんなを集めて先生役などをしたりしていました。
天真爛漫に思われましたが、小学校高学年ぐらいから人の中に入っていけなくなりました。
自己表現ができないような感じでした。
中学生ぐらいからはクラスで友達という様な人はいなくなりました。
そんな時に中学3年生の時に詩を書くようになりました。
点数ではない自己表現、正解も間違いもない世界があることを始めて思いました。
授業をボイコットするような子も詩を書く授業の時には参加して詩を書いて、先生から褒められたりしていました。
吹奏楽部でクラリネットもやっていました。
音楽と詩を一生懸命やっていました。
高校時代はますます学校へ行くのが嫌で学校を休んだりしました。
そんな時に詩を書くと自分が浄化されるような気がしました。
吹奏楽部でも当時名門だったところに通いました。
大学は鳴門に行って心が解き放された気がしました。
自分の弱さ、自分の思い通りに行かなかったことなどを詩に書いていました。
軽音部に入って楽譜を見ながらドラムをたたいていたらダサイと言われました。
1年生の時にはフィルハーモニー管弦楽団と軽音部に入っていましたが、いつの間にかフィルハーモニー管弦楽団はやめて軽音部だけになり、歌詞も書くようになりました。
ドラムの人口が少なくてほかのいろいろなバンドにも入ってやっていました。
「チャットモンチー」に入ったのは大学4年生の時でした。
「チャットモンチー」ではドラムと歌詞を担当しました。
歌詞が先で曲を作っていました。
大学時代は音楽と勉強で一日が60時間だったような気がしました。
大阪など関西に出かけて音楽を聴いてもらった方がいいということになって、3人で車で運転して寝泊まりをしたりしていました。
2005年にデビューして2011年に脱退しました。
半年後に依頼が来るようになり、歌詞をつくるようになりました。
若い人も年配の方でも人間の核の部分は変わらないのではないかと思いました。
脱退後は詩の朗読を自分でしていましたが、朗読合唱団みたいなものをつくって、歌うのではなくて声を楽器のようにして朗読をやり始めました、
「コール アンド レスポンス」 (会場の人たちと行う)
詩「湯舟」 朗読 (会場の人たちと行う)
詩「十年」 朗読
「背骨は真ん中で辛抱強く立つ楠木 まつげは先端で風に耐える小鳥
血は滝のように命を叫ぶ 落ち葉が重なって腐葉土ができるように
湧水が山際を滑り 海へたどり着くように 私の身体は地球だ
3652日洗って干してアイロンかけて又汚れて くたくたになって
破れて繕って 私の地球は何度も何度も再生する
そして今日も新しい朝の中で目を覚ます
ベッドから足のばし カーペットを踏みしめ3653本目の旗を立てる
10年 10年」
高橋さんは昭和57年愛媛県生まれ、平成16年徳島県鳴門市にある鳴門教育大学在学中にロックバンド「チャットモンチー」にドラム、作詞家として加入、翌年平成17年大学卒後メジャーデビューを機に上京、平成23年に「チャットモンチー」を脱退します。
現在は作家、作詞家として活躍中です。
絵本の翻訳なども幅広く活動されています。
今は愛媛と東京を行ったり来たりしています。
メインは作詞家をしています。
幼少期は走り回って遊んだり、みんなを集めて先生役などをしたりしていました。
天真爛漫に思われましたが、小学校高学年ぐらいから人の中に入っていけなくなりました。
自己表現ができないような感じでした。
中学生ぐらいからはクラスで友達という様な人はいなくなりました。
そんな時に中学3年生の時に詩を書くようになりました。
点数ではない自己表現、正解も間違いもない世界があることを始めて思いました。
授業をボイコットするような子も詩を書く授業の時には参加して詩を書いて、先生から褒められたりしていました。
吹奏楽部でクラリネットもやっていました。
音楽と詩を一生懸命やっていました。
高校時代はますます学校へ行くのが嫌で学校を休んだりしました。
そんな時に詩を書くと自分が浄化されるような気がしました。
吹奏楽部でも当時名門だったところに通いました。
大学は鳴門に行って心が解き放された気がしました。
自分の弱さ、自分の思い通りに行かなかったことなどを詩に書いていました。
軽音部に入って楽譜を見ながらドラムをたたいていたらダサイと言われました。
1年生の時にはフィルハーモニー管弦楽団と軽音部に入っていましたが、いつの間にかフィルハーモニー管弦楽団はやめて軽音部だけになり、歌詞も書くようになりました。
ドラムの人口が少なくてほかのいろいろなバンドにも入ってやっていました。
「チャットモンチー」に入ったのは大学4年生の時でした。
「チャットモンチー」ではドラムと歌詞を担当しました。
歌詞が先で曲を作っていました。
大学時代は音楽と勉強で一日が60時間だったような気がしました。
大阪など関西に出かけて音楽を聴いてもらった方がいいということになって、3人で車で運転して寝泊まりをしたりしていました。
2005年にデビューして2011年に脱退しました。
半年後に依頼が来るようになり、歌詞をつくるようになりました。
若い人も年配の方でも人間の核の部分は変わらないのではないかと思いました。
脱退後は詩の朗読を自分でしていましたが、朗読合唱団みたいなものをつくって、歌うのではなくて声を楽器のようにして朗読をやり始めました、
「コール アンド レスポンス」 (会場の人たちと行う)
詩「湯舟」 朗読 (会場の人たちと行う)
詩「十年」 朗読
「背骨は真ん中で辛抱強く立つ楠木 まつげは先端で風に耐える小鳥
血は滝のように命を叫ぶ 落ち葉が重なって腐葉土ができるように
湧水が山際を滑り 海へたどり着くように 私の身体は地球だ
3652日洗って干してアイロンかけて又汚れて くたくたになって
破れて繕って 私の地球は何度も何度も再生する
そして今日も新しい朝の中で目を覚ます
ベッドから足のばし カーペットを踏みしめ3653本目の旗を立てる
10年 10年」
登録:
投稿 (Atom)