田名部和裕(日本高等学校野球連盟理事) ・【“2020”に託すもの】高校野球と歩んだ半世紀 (1)
今年の全国高校野球は100回を迎えます。
関西大学卒業後、1968年 日本高等学校野球連盟の事務局に入り、事務局長、参事、2010年からは理事として半世紀に渡って高等学校野球を内側から支えてこられました。
1968年は50回大会の年で大阪興國高等学校が優勝、翌年は三沢-松山商業の延長18回決勝再試合があった年です。
大学時代もマネージャーをしてきました。
関西大学は朝日新聞の運動部のお手伝いをしたりスコアブックを付けたりなどしていました。
高野連が人を探していて、どうだと言うことでが話がありました。
野球のことが出来ればと思いました。
戦後高校野球の再開の話があり、GHQが日本の大改革を進めてゆく中で、新聞社が大会を主催すると言うのは適当ではないと言うことだったが、文部省の助言もあり、連盟と言う組織を作って両方でやったらどうかということで、大会を復活するために高野連を作ることになりました。
ルールの整備、大会参加資格など徐々に固めて行きました。
野球統制令を廃止して独立した組織を作らないと学生野球は発展しないと、当時の人が随分苦労したようです。
戦後の1946年 第28回大会、西宮球場で復活、19校(全国でも745校)だった。
50回の時には全国で3900を超える数になる。
2県で1チームでは予選で負けると出られないので、自分の県から出したいと言う思いが強くて、増やしてゆくという事もありました。
宿舎(大部屋)、練習場の確保の問題などがありました。
起きている間はビジネスホテルのドアを開けて解放的にするとかアドバイスしたりしていました。
洗濯機の調達とか、宿舎側の協力などがありました。
出場校が49校になり、練習場の確保をなんとか70か所ぐらい行いましたが、結構大変でした。
当時高野連会長は佐伯達夫さん、高校野球は教育、人間形成の場であるということで高校野球を引っ張って行く。
不祥事に対しては厳しかった。
佐伯さんは常にかばんの中にはがきが入っていて、筆まめな人でした。
情報を沢山の人から収集するのが得意でした。
佐伯さんは野球はお金がかかるので質素にということをやかましく言っていました。
1973年にハワイのチームがアルミのバットを持って行って使っていいかどうかの話があり、佐伯さんはそれを見て翌年には直ぐに決めました。
最初は周りからの反対意見がありましたが、進めて行きました。
金属バットで一番お世話になったのは芝浦工大の学長をされた大本修先生、金属バットは宇宙開発事業の一つの成果である軽い金属、先生は終生出来るだけ木製に近づけるようにという話はありました。
もう一人お世話になった人として加藤正夫?先生、東京大学校工学部、金属の材料工学 戦前ゼロ戦の制作にもかかわった人です。
1990年に亡くなったが弔辞のなかで戦前は戦争にかかわったが、晩年は平和の仕事、高校野球の金属バットのお手伝いが出来て本当に良かったという内容を聞いて感動しました。
1995年阪神淡路大震災、牧野会長の安否、甲子園球場はどうなんだろうと思いました。
一段落した後にバイクで出かけましたが、ゆく所の景色では野球はしばらく無理だと思いました。
高速道路は真横になぎ倒されていましたし、2,3年は無理だろうなあと思っていましたが、甲子園はシーンとして大丈夫でした。
高校野球をやることで復興の邪魔になるのではという思いもあり、意見が別れました。
えんどうやすお?さん(朝日新聞運動部長)から、モスクワオリンピックのことを知ってるかといわれて、JOC委員長の栗本?さんに晩年お会いした時に生涯で一番つらかったのはモスクワオリンピックに行けないこと選手に伝えたことだったという話をしてくれて、努力しないでやらないと言うことでは駄目だと言うことで、まずは頑張ってみろと言われて踏ん切りがつきました。
2月15日に知事さんに相談に行きましたが、「被災地にも桜が咲く頃明るい話題がいるでしょう、おやんなさい」と言われました。
電車もなく交通対策が大変でした。
佐伯さんの不祥事に対する厳しさが、交通対策に関する交渉でも信頼してもらい、了解してもらいその時涙が出ました。
その時は高野連は牧野さんでした。
牧野さんは21年間高野連を務めました。
ストライクを先に言うのは日本だけで、牧野さんに言ったら替えたら方がいいんではないかと言われて、東京にいって話を進めようとしたが反対された。
物事が定まるには3つの法則がある、と言われた。
①なんか最初にやろうとすると馬鹿にされる。
②更に進めると猛烈に反対される。
③或る日自明の理と突然認められる。
最初リズムが違うという感覚があったが、今ではそうしないと不自然な感じさえします。
2018年5月14日月曜日
2018年5月13日日曜日
土門正夫(元NHKアナウンサー) ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪放送の証言(H21/9/25 OA)
土門正夫(元NHKアナウンサー) ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪放送の証言(H21/9/25 OA)
去年の5月に87歳で亡くなった元NHKのスポーツアナウンサーの土門さんを偲んで再放送お聞きいただきます。
昭和26年NHKに入り、以来37年間スポーツ実況アナウンサとして数々の名放送をしてきました。
野球、バレーボール、体操、駅伝、ラグビーなど担当種目は30を越えました。
30歳の時の昭和35年のローマ大会から昭和59年のロサンゼルス大会まで夏と冬、併せて7回のオリンピック放送を担当し、日本人選手の金メダル放送は20回を数えました。
又紅白歌合戦の総合司会や、スタジオ番組スポーツアワーも担当し、笑顔とさわやかな口調と、心に残るコメントは多くのファンの感動を呼びました。
NHKを退職したのは57歳で辞めて今79歳ですから22年前になります。
健康診断は13,4年やっていませんので体は大丈夫だと思います。
松本:入社4年目で昭和50年春の選抜で第二試合を放送することになっていたが、緊張で夜眠れず大遅刻をして入場行進開会式に間に合わず、土門さんから「入場行進開会式を見ずに選抜放送が出来るか、何を思ってるんだ」と怒られました。
土門:あの感激に満ちた入場行進を見ずして高校野球の雰囲気の何が判るんだと、怒った覚えがあります。
昭和26年に赴任しましたが、アナウンサーになる気はなかった。
5年生の中学も精密機械でずーっと理工系でした。
昭和39年東京オリンピック 当時34歳、東洋の魔女と言われた女子バレー、ソ連との決勝。
一番印象的に覚えているのは、物凄い歓声でサイドアウトが5,6回あって最後のソ連のオーバーネットの瞬間静寂が訪れて、その後ウワーっと物凄い歓声があり、河西キャプテン 彼女だけ泣いてないんです。
後でどうしてと聞いたら、キャプテンだけは審判などに挨拶にする、それまでが私の役目なんです、泣いていられますかというんです。
彼女がいたからコントロール出来たんですね。
カラーのTV放送でした、マラソンも全コース中継であのオリンピックはNHKの技術さんの大勝利だったんです。
閉会式ではTV担当。
日本の運営なので何分何秒までびしっと決まっていたが、旗の列のむこうから山のように人がなっていて、後は滅茶滅茶でした。
だからこっちは真っ青でした。
これを言ってやろうと思っていたが何にもなしで、何を言ったか覚えていませんでした。
放送が終わった瞬間に皆が真っ青で、東京オリンピックの放送をめちゃくちゃにしてしまったと皆黙って、暫く坐っていて皆で謝ろうといって放送スタッフの大部屋に行ったら、
大拍手です、良かった、面白かった、と言われました。
僕はその後打ち上げなど色々やったらしいんですが、覚えて居ないんです、どういうふうに家に帰ったのかも覚えて居ないんです。(酔っぱらってじゃなくて)
イギリスの有名なジャーナリストが東京オリンピックの最高の成功は閉会式であると言っていました。
その後のオリンピックは全部あのスタイルですからね。
その閉会式を実況したのが土門正夫です。
昭和47年ミュンヘンオリンピック、男子団体4連覇の時に決勝の模様を放送。
TV実況放送。 最後の演技 塚原の鉄棒 月面宙返り
体操で3つ団体優勝の放送を担当して幸せな男だと思います。
同じミュンヘンの男子バレーボールが金メダルをとる。
準決勝、決勝で大逆転する。
2年前、ブルガリアに2セット取って逆転負けしている。
準決勝でブルガリアと対戦、2セット取られていて、松平監督は選手を集めて、「おい、これから2時間半じっくり試合を楽しもうぜ、やろうぜ。 2年前を思い出せ。」と言ったんです。
中村祐造、南 克幸選手のベテランを2人を入れて雰囲気を変えて大逆転した。
日本はソ連に弱かったが、準決勝で東ドイツがソ連を破って、相性のいい東ドイツと決勝を行うことになる。
東ドイツを破って日本が金メダルを取る。
選手は喜びに舞いあがっていました。
高校野球で自分が放送した中で一番印象に残っているのは昭和53年 60回大会
決勝での高知商業とPL学園。(この時初めてPL学園が優勝する)
監督が鶴岡さん(鶴岡一人さんの御子息)、解説が松永怜一さん(鶴岡監督の恩師)
優勝した瞬間に松永さんは目を真っ赤にして絶句し何も言えなかった。
0-2でリードされていたPL学園が9回の裏に一挙3点をいれて逆転サヨナラ優勝する。
準決勝でも中京に0-4リードされていたのを9回裏で同点にして延長戦で勝っている。
監督の一声があり逆転のきっかけを作っている。
昭和60年10月16日タイガースが対ヤクルト戦、21年ぶりに神宮球場で優勝するが、その時に実況をしました。
掛布選手のポールに当たるホームランから追撃が始まった。
物凄い歓声でした。
吉田監督はキャンプから徹底的に基本からやりました。
僕は自分が楽しむことを兼ねて言うと、スポーツで一番好きなのがラグビーです。
男と男がガーンとぶつかり合うあの迫力は最高です。
釜石の7連覇の時の試合に入る時に放送に入った時に歓声が凄くぞくぞくとして喋れなかったです。
昭和26年に広島に赴任、ガーンとやられて、辞めてやろうかとふてくされていました。
翌年ヘルシンキでオリンピックがあり、和田信賢さん(大先輩)が出かける時に一緒に行った志村正順さんが医師から「この方はこのまま仕事をしたら命の保証はありません」と言われるぐらい和田さんはからだの具合が悪かった。
でもオリンピックのテーマ音楽が始まると、今までの具合の悪さは吹っ飛んで、別人のような声で喋り始めて、和田さんの放送を聞いて何故か背すじがゾクゾクとするような感覚があり、じーっと聞いていました。
大会中に倒られてパリで一人で入院して日本に帰りたいと言って亡くなられました。
それを聞いて、この商売は命を掛けてまでやる仕事なのだと、初めて和田さんに教えてもらいました。
よし、一つやってみるか、それから真剣にやり出しました。
負けたくないから人が一やれば二をやってやると思いました、資料を調べるとか勉強すると言うことはだれでもやることですから。
しかし申し訳ないと言うことでは、家庭サービスは全くしませんでした。
スポーツ実況アナウンサーは楽しかったかと問われると、楽しくはありません、NHKを辞めて60歳過ぎてから、こんな面白い部分があるのかと思いました。
NHKという枠を自分ではめていたような気がします。
それまでは常に色々反省点を考えてしまいました。
パーフェクトはないです。
ロサンゼルスオリンピックのことに繋がるのですが、女子マラソンが初めて行われて、アンデルセンという選手が30何番目かに入って来てヨロヨロやっとゴールインして、静寂だったところに大歓声が起こり、その放送をラジオでやっていて高橋進さんと二人で涙が出てラジオなのに喋れなかった。
やっとぽつぽつ喋って、その後大反省して、上司に大変申し訳ないことをしたと、どういう理由があるにせよ放送出来ないほど涙を流してしまったことに対して謝りました。
でも「あれはあれでいいんだよ」と言ってもらいました。
頭で考えた言葉、作られた言葉は他人の心は打たない、あれでいいんだよと言ってくれました。
心の息づかい、鼓動、心の言葉が本当の実況なんだと思いました。
最近のことを一言言えば、あまりにも大向こう受けする放送が多過ぎるのではないか。
自分で人に受けようと思って放送している気持ちはあなたの気持の中にありませんか、
そういう言葉がちょっと耳について気になる今日この頃です。
去年の5月に87歳で亡くなった元NHKのスポーツアナウンサーの土門さんを偲んで再放送お聞きいただきます。
昭和26年NHKに入り、以来37年間スポーツ実況アナウンサとして数々の名放送をしてきました。
野球、バレーボール、体操、駅伝、ラグビーなど担当種目は30を越えました。
30歳の時の昭和35年のローマ大会から昭和59年のロサンゼルス大会まで夏と冬、併せて7回のオリンピック放送を担当し、日本人選手の金メダル放送は20回を数えました。
又紅白歌合戦の総合司会や、スタジオ番組スポーツアワーも担当し、笑顔とさわやかな口調と、心に残るコメントは多くのファンの感動を呼びました。
NHKを退職したのは57歳で辞めて今79歳ですから22年前になります。
健康診断は13,4年やっていませんので体は大丈夫だと思います。
松本:入社4年目で昭和50年春の選抜で第二試合を放送することになっていたが、緊張で夜眠れず大遅刻をして入場行進開会式に間に合わず、土門さんから「入場行進開会式を見ずに選抜放送が出来るか、何を思ってるんだ」と怒られました。
土門:あの感激に満ちた入場行進を見ずして高校野球の雰囲気の何が判るんだと、怒った覚えがあります。
昭和26年に赴任しましたが、アナウンサーになる気はなかった。
5年生の中学も精密機械でずーっと理工系でした。
昭和39年東京オリンピック 当時34歳、東洋の魔女と言われた女子バレー、ソ連との決勝。
一番印象的に覚えているのは、物凄い歓声でサイドアウトが5,6回あって最後のソ連のオーバーネットの瞬間静寂が訪れて、その後ウワーっと物凄い歓声があり、河西キャプテン 彼女だけ泣いてないんです。
後でどうしてと聞いたら、キャプテンだけは審判などに挨拶にする、それまでが私の役目なんです、泣いていられますかというんです。
彼女がいたからコントロール出来たんですね。
カラーのTV放送でした、マラソンも全コース中継であのオリンピックはNHKの技術さんの大勝利だったんです。
閉会式ではTV担当。
日本の運営なので何分何秒までびしっと決まっていたが、旗の列のむこうから山のように人がなっていて、後は滅茶滅茶でした。
だからこっちは真っ青でした。
これを言ってやろうと思っていたが何にもなしで、何を言ったか覚えていませんでした。
放送が終わった瞬間に皆が真っ青で、東京オリンピックの放送をめちゃくちゃにしてしまったと皆黙って、暫く坐っていて皆で謝ろうといって放送スタッフの大部屋に行ったら、
大拍手です、良かった、面白かった、と言われました。
僕はその後打ち上げなど色々やったらしいんですが、覚えて居ないんです、どういうふうに家に帰ったのかも覚えて居ないんです。(酔っぱらってじゃなくて)
イギリスの有名なジャーナリストが東京オリンピックの最高の成功は閉会式であると言っていました。
その後のオリンピックは全部あのスタイルですからね。
その閉会式を実況したのが土門正夫です。
昭和47年ミュンヘンオリンピック、男子団体4連覇の時に決勝の模様を放送。
TV実況放送。 最後の演技 塚原の鉄棒 月面宙返り
体操で3つ団体優勝の放送を担当して幸せな男だと思います。
同じミュンヘンの男子バレーボールが金メダルをとる。
準決勝、決勝で大逆転する。
2年前、ブルガリアに2セット取って逆転負けしている。
準決勝でブルガリアと対戦、2セット取られていて、松平監督は選手を集めて、「おい、これから2時間半じっくり試合を楽しもうぜ、やろうぜ。 2年前を思い出せ。」と言ったんです。
中村祐造、南 克幸選手のベテランを2人を入れて雰囲気を変えて大逆転した。
日本はソ連に弱かったが、準決勝で東ドイツがソ連を破って、相性のいい東ドイツと決勝を行うことになる。
東ドイツを破って日本が金メダルを取る。
選手は喜びに舞いあがっていました。
高校野球で自分が放送した中で一番印象に残っているのは昭和53年 60回大会
決勝での高知商業とPL学園。(この時初めてPL学園が優勝する)
監督が鶴岡さん(鶴岡一人さんの御子息)、解説が松永怜一さん(鶴岡監督の恩師)
優勝した瞬間に松永さんは目を真っ赤にして絶句し何も言えなかった。
0-2でリードされていたPL学園が9回の裏に一挙3点をいれて逆転サヨナラ優勝する。
準決勝でも中京に0-4リードされていたのを9回裏で同点にして延長戦で勝っている。
監督の一声があり逆転のきっかけを作っている。
昭和60年10月16日タイガースが対ヤクルト戦、21年ぶりに神宮球場で優勝するが、その時に実況をしました。
掛布選手のポールに当たるホームランから追撃が始まった。
物凄い歓声でした。
吉田監督はキャンプから徹底的に基本からやりました。
僕は自分が楽しむことを兼ねて言うと、スポーツで一番好きなのがラグビーです。
男と男がガーンとぶつかり合うあの迫力は最高です。
釜石の7連覇の時の試合に入る時に放送に入った時に歓声が凄くぞくぞくとして喋れなかったです。
昭和26年に広島に赴任、ガーンとやられて、辞めてやろうかとふてくされていました。
翌年ヘルシンキでオリンピックがあり、和田信賢さん(大先輩)が出かける時に一緒に行った志村正順さんが医師から「この方はこのまま仕事をしたら命の保証はありません」と言われるぐらい和田さんはからだの具合が悪かった。
でもオリンピックのテーマ音楽が始まると、今までの具合の悪さは吹っ飛んで、別人のような声で喋り始めて、和田さんの放送を聞いて何故か背すじがゾクゾクとするような感覚があり、じーっと聞いていました。
大会中に倒られてパリで一人で入院して日本に帰りたいと言って亡くなられました。
それを聞いて、この商売は命を掛けてまでやる仕事なのだと、初めて和田さんに教えてもらいました。
よし、一つやってみるか、それから真剣にやり出しました。
負けたくないから人が一やれば二をやってやると思いました、資料を調べるとか勉強すると言うことはだれでもやることですから。
しかし申し訳ないと言うことでは、家庭サービスは全くしませんでした。
スポーツ実況アナウンサーは楽しかったかと問われると、楽しくはありません、NHKを辞めて60歳過ぎてから、こんな面白い部分があるのかと思いました。
NHKという枠を自分ではめていたような気がします。
それまでは常に色々反省点を考えてしまいました。
パーフェクトはないです。
ロサンゼルスオリンピックのことに繋がるのですが、女子マラソンが初めて行われて、アンデルセンという選手が30何番目かに入って来てヨロヨロやっとゴールインして、静寂だったところに大歓声が起こり、その放送をラジオでやっていて高橋進さんと二人で涙が出てラジオなのに喋れなかった。
やっとぽつぽつ喋って、その後大反省して、上司に大変申し訳ないことをしたと、どういう理由があるにせよ放送出来ないほど涙を流してしまったことに対して謝りました。
でも「あれはあれでいいんだよ」と言ってもらいました。
頭で考えた言葉、作られた言葉は他人の心は打たない、あれでいいんだよと言ってくれました。
心の息づかい、鼓動、心の言葉が本当の実況なんだと思いました。
最近のことを一言言えば、あまりにも大向こう受けする放送が多過ぎるのではないか。
自分で人に受けようと思って放送している気持ちはあなたの気持の中にありませんか、
そういう言葉がちょっと耳について気になる今日この頃です。
2018年5月12日土曜日
本郷由美子(精神対話士) ・娘の思いを支えに生きる(H28/12/10 OA)
本郷由美子(大阪・池田小事件遺族 精神対話士)・ 娘の思いを支えに生きる(H28/12/10 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/12/blog-post_10.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/12/blog-post_10.htmlをご覧ください。
2018年5月11日金曜日
若竹千佐子(作家) ・63歳、デビュー作で“芥川賞”
若竹千佐子(作家) ・63歳、デビュー作で“芥川賞”
今年1月「おらおらでひとりいぐも」で63歳で芥川賞を受賞しました。
1954年岩手県遠野市生まれ、岩手大学教育学部を卒業し、数年間に渡って臨時教員を経験、その後結婚し上京、専業主婦として過ごしてきました。
小説を書き始めたきっかけは、ご主人を脳梗塞で亡くし落ち込む若竹さんに息子さんが小説講座を薦めたことでした。
8年間通い小説の基礎から学びました。
受賞作は夫を亡くした74歳の女性桃子さんの物語で東北弁を随所に活かして書かれています。
受賞して夢にも思っていなっかったことで4カ月たってはしゃぎ過ぎで、もうすぐいい加減前を見て次のことを思うようになりました。
岩手県遠野市生まれです。
子供のころから大柄な小娘で、三人兄弟の末っ子で、賑やかな家族で大事に甘やかされて育ちました。
本は大好きで兄、姉が借りてきた本を読んだり、最初に買ってもらった本が「安寿と厨子王」で祖母に字を習いながら、今度は自分が読んで祖母に聞かせるようになりました。
「風と共に去りぬ」は暗記するぐらい読みました。
岩手大学教育学部へ入学して、趣味で小説を書くようなライフスタイルを望んで居ました。
臨時教員をしながら本採用を目指していましたが、駄目でした。
どう生きていったらいいか考えていた時期でした。
向田邦子さんが大好きで、全編書きうつしたのが何作かありました。
シナリオの勉強をしたいと東京に行ってみようと思って、現在の埼玉県さいたま市の学習塾に住みこんで塾の先生をやりました。
慣れてきた頃、親から見合いの話があり会ったら、私の好きな男のタイプで、結婚しました。
私が30歳の時に千葉の方に来ました。
専業主婦で暮らしてきましたが、小説家になりたいという思いは頭の中にありました。
自分はどういう人間だとか、世の中はどういう世の中なんだろうかということについては書き記したいという思いがあり、書いたりはしていました。
河合隼雄さん、上野千鶴子さんの哲学的な本の感想なども書いていました。
何にもないところから一人の人間を生き生きと立ち上げたいなという思いはありました。
小説に出てくる「桃子」さんは74歳。
東京オリンピックの時は10歳でしたが、こういう世界があると言う思いがすごく新鮮で「桃子」さんの人生が変転するきっかけはどうしても東京オリンピックにしたかった。
9年前に57歳で脳梗塞で主人が亡くなりました。
がっかりして、何か意味があるような気がして、それを探したいと思いました。
根本先生の小説講座があると、息子が見つけて来ました。
根本先生はどんなボールを投げても受け止めてくれる安心感がありました。
「小説は哲学です」と言われました。
小説は悲しいというような内容だけではなくて、悲しいと思っている主人公をもっと上から見つめる目線があって、客観的に書く必要があると言うことを教わったり、又講座の仲間たちとのいい出会いがありました。
書いたものをお互い同士が批評し合って、最後に先生が講評するというスタイルでやっていました。
最終的には書き続ける意志が大事だと思いました。
小説は首都近郊の住宅地、「桃子」さんが故郷を離れた形を設定、そうすると或る意味浮遊感、根無し草的な生き方、ほとんどの人が戦後してきたわけで、何処に自分の居場所をみつけるかということは大きな問題で、一人ひとりが何かに繋がっていないと自分を確定していられないという、そういった不安とかを心に抱えながら生きていっている現代人、地縁血縁を離れた新しい人、その人がどうやって心に安定感を見付けられるか、しかし「桃子」さんは周辺とは交わらないという設定。
「桃子」さんの心をとらえるのは何か、ということで八角山、故郷に繋がる言葉を大事にして、そこが「桃子」さんの出発点だと言うものを故郷と話した所に「桃子」さんの居場所を置いたんです。
ポツンと都会に生きていて、帰属するものを探さなくてないけないが何処かに安定した幸せが求められるのかなという問いかけもあったが、その時に自分の子供のころ使った言葉をツールにして、自分を掘り下げて行くと言うふうにしたかった。
孤独の良さ、孤独だから自分に深く問いかけられるし考えられる。
老いていることと孤独ということは或る意味背中合わせになっているが、プラスで考えられるようなに生き方を書いてあげたかった。
私自身も一人で生きて行くので、孤独は必要だと言うぐらいに思っています。
常に悲しみの中に喜びがあると言うのは私の発見というか、マイナスの中にプラスを見付けると言うか、そういうことだったんです。
今は子供達は大きくなって夫も亡くなって、私をこの世に引きとめるものは客観的にはなにもなくて、でも私が生きてゆくとしたらそれは何なんだろうと思うと、この世にはもう用済みだけれども、私の自由意思で自己決定権を持って考えたことを行為する、その喜びを継続することが私のこれからなんだろうと、自由だと言うのが一番ですね。
母親には母親の人生があり楽しんで生きていってお前とは別なんだよ、と言うことを子供に言ってやることが、子供にとっても親切だと思っています。
おらはおらにしたがう、が一番いいと思います。
老いをいかに生きるかという小説があっていいと思う、これから長い時間が老いの時間でどうやって生きていくかの小説がもっとあっていいと思う。
頭の中で考えている処は小説の分野だと思います。
私は何を考えているんだろうの方が興味があり、問いを見付けてその答えを探す過程が物凄く面白くて、判ったことを面白おかしく書きたいみたいな感じです。
自分に対しての分析癖と分析したことを面白おかしく言及する癖、そんなことを小説に書けたらいいなあと思います。
私は内省する脳内のことを書いていこうと思っているんですが、社会に目を見けた視線も必要だと思っています。
やっぱり小説は面白くなければと思っていて、面白い小説は書きたいとは思っています。
今年1月「おらおらでひとりいぐも」で63歳で芥川賞を受賞しました。
1954年岩手県遠野市生まれ、岩手大学教育学部を卒業し、数年間に渡って臨時教員を経験、その後結婚し上京、専業主婦として過ごしてきました。
小説を書き始めたきっかけは、ご主人を脳梗塞で亡くし落ち込む若竹さんに息子さんが小説講座を薦めたことでした。
8年間通い小説の基礎から学びました。
受賞作は夫を亡くした74歳の女性桃子さんの物語で東北弁を随所に活かして書かれています。
受賞して夢にも思っていなっかったことで4カ月たってはしゃぎ過ぎで、もうすぐいい加減前を見て次のことを思うようになりました。
岩手県遠野市生まれです。
子供のころから大柄な小娘で、三人兄弟の末っ子で、賑やかな家族で大事に甘やかされて育ちました。
本は大好きで兄、姉が借りてきた本を読んだり、最初に買ってもらった本が「安寿と厨子王」で祖母に字を習いながら、今度は自分が読んで祖母に聞かせるようになりました。
「風と共に去りぬ」は暗記するぐらい読みました。
岩手大学教育学部へ入学して、趣味で小説を書くようなライフスタイルを望んで居ました。
臨時教員をしながら本採用を目指していましたが、駄目でした。
どう生きていったらいいか考えていた時期でした。
向田邦子さんが大好きで、全編書きうつしたのが何作かありました。
シナリオの勉強をしたいと東京に行ってみようと思って、現在の埼玉県さいたま市の学習塾に住みこんで塾の先生をやりました。
慣れてきた頃、親から見合いの話があり会ったら、私の好きな男のタイプで、結婚しました。
私が30歳の時に千葉の方に来ました。
専業主婦で暮らしてきましたが、小説家になりたいという思いは頭の中にありました。
自分はどういう人間だとか、世の中はどういう世の中なんだろうかということについては書き記したいという思いがあり、書いたりはしていました。
河合隼雄さん、上野千鶴子さんの哲学的な本の感想なども書いていました。
何にもないところから一人の人間を生き生きと立ち上げたいなという思いはありました。
小説に出てくる「桃子」さんは74歳。
東京オリンピックの時は10歳でしたが、こういう世界があると言う思いがすごく新鮮で「桃子」さんの人生が変転するきっかけはどうしても東京オリンピックにしたかった。
9年前に57歳で脳梗塞で主人が亡くなりました。
がっかりして、何か意味があるような気がして、それを探したいと思いました。
根本先生の小説講座があると、息子が見つけて来ました。
根本先生はどんなボールを投げても受け止めてくれる安心感がありました。
「小説は哲学です」と言われました。
小説は悲しいというような内容だけではなくて、悲しいと思っている主人公をもっと上から見つめる目線があって、客観的に書く必要があると言うことを教わったり、又講座の仲間たちとのいい出会いがありました。
書いたものをお互い同士が批評し合って、最後に先生が講評するというスタイルでやっていました。
最終的には書き続ける意志が大事だと思いました。
小説は首都近郊の住宅地、「桃子」さんが故郷を離れた形を設定、そうすると或る意味浮遊感、根無し草的な生き方、ほとんどの人が戦後してきたわけで、何処に自分の居場所をみつけるかということは大きな問題で、一人ひとりが何かに繋がっていないと自分を確定していられないという、そういった不安とかを心に抱えながら生きていっている現代人、地縁血縁を離れた新しい人、その人がどうやって心に安定感を見付けられるか、しかし「桃子」さんは周辺とは交わらないという設定。
「桃子」さんの心をとらえるのは何か、ということで八角山、故郷に繋がる言葉を大事にして、そこが「桃子」さんの出発点だと言うものを故郷と話した所に「桃子」さんの居場所を置いたんです。
ポツンと都会に生きていて、帰属するものを探さなくてないけないが何処かに安定した幸せが求められるのかなという問いかけもあったが、その時に自分の子供のころ使った言葉をツールにして、自分を掘り下げて行くと言うふうにしたかった。
孤独の良さ、孤独だから自分に深く問いかけられるし考えられる。
老いていることと孤独ということは或る意味背中合わせになっているが、プラスで考えられるようなに生き方を書いてあげたかった。
私自身も一人で生きて行くので、孤独は必要だと言うぐらいに思っています。
常に悲しみの中に喜びがあると言うのは私の発見というか、マイナスの中にプラスを見付けると言うか、そういうことだったんです。
今は子供達は大きくなって夫も亡くなって、私をこの世に引きとめるものは客観的にはなにもなくて、でも私が生きてゆくとしたらそれは何なんだろうと思うと、この世にはもう用済みだけれども、私の自由意思で自己決定権を持って考えたことを行為する、その喜びを継続することが私のこれからなんだろうと、自由だと言うのが一番ですね。
母親には母親の人生があり楽しんで生きていってお前とは別なんだよ、と言うことを子供に言ってやることが、子供にとっても親切だと思っています。
おらはおらにしたがう、が一番いいと思います。
老いをいかに生きるかという小説があっていいと思う、これから長い時間が老いの時間でどうやって生きていくかの小説がもっとあっていいと思う。
頭の中で考えている処は小説の分野だと思います。
私は何を考えているんだろうの方が興味があり、問いを見付けてその答えを探す過程が物凄く面白くて、判ったことを面白おかしく書きたいみたいな感じです。
自分に対しての分析癖と分析したことを面白おかしく言及する癖、そんなことを小説に書けたらいいなあと思います。
私は内省する脳内のことを書いていこうと思っているんですが、社会に目を見けた視線も必要だと思っています。
やっぱり小説は面白くなければと思っていて、面白い小説は書きたいとは思っています。
2018年5月10日木曜日
吉岡秀人(医師) ・“日本の心”で人を救う
吉岡秀人(医師・ジャパンハート最高顧問) ・“日本の心”で人を救う
52歳、2004年国際医療支援団体ジャパンハートを立ち上げミャンマーを中心にカンボジア
ラオスなど東南アジアの発展途上国で支援活動を続けています。
1年のうち8カ月は海外に行っているという吉岡さん、支援活動の現状とジャパンハートを立ち上げる迄の道のり、医療にかける思いなどを伺います。
ジャパンハートと名付けた思いは日本の文化、伝統から生まれる考え方に裏打ちされた国際協力の支援の仕組みがきっと世の中にとって相当役に立つだろうと、欧米とは違った日本人にしかできない国際協力をやっていこうという思いを込めています。
欧米などの考ええ方は満たされたもの、豊かなものが義務として貧しきもの弱いものを助ける、そこに彼らの誇りなり喜びがあるが、日本人はちょっと違って自分が貧しくても人を助けることに美徳があり、相互扶助的な感覚ですが、僕らのカルチャーを使って世の中に貢献していこうと言うことです。
日本発祥の国際医療ボランティア団体は珍しいです。
日本は戦争に負けてから国際性が一旦落ちてきて、ヨーロッパなどは長い伝統があり元々豊かで、経済だけでなくて、周辺も発達してきた。
日本は戦争後経済だけは発展させてきたが、周辺分野の意識は仕組み作りから遅れてきた。
NGOなんかでも評価されているということはないんじゃないでしょうか。
日本人は英語が出来ないといけない、とかフランス語が出来ないといけないと思っている。
何故かと言うと日本の国際協力の大きなNGOがないから、この一言に尽きる。
多国籍の所に日本人が混ぜてもらって、言語を覚えていかなくてはいけない。
英語圏の人達がいて日本人はカルチャーは違うが入ってやると、ほんとうはその国の文化伝統を生かした、慣習を共有した同じ国の人が入ってやっていて意志の疎通も取り易い、考え方も共通しやすい、それぞれの団体にはポリシーがあってそれぞれの国のバックグラウンドにしたポリシーがある。
日本人がアメリカ人に混じっても日本人のカルチャーが出せるかというと出せない。
多様性とか日本人のいいところが発揮できないので、そういうのを解消するためには日本から国際的なNGOを作るしかないと言うことです。
高度な英語のコミュニケーション能力が必要で、アメリカに語学留学を3年間する、その間に国際協力を辞めてしまう人が9割以上います。
そのエネルギーがあればどれぐらいの人たちの役に立てただろうと考えた時に凄いことになっていると思う。
その仕組みを作ればいいというのが僕の発想です。
現地の人は英語を話せないので英語を覚えるなら現地語を覚えてほしいというのがスタンスです。
ミャンマーを中心にカンボジア、ラオスなど東南アジアの発展途上国で医療の支援活動を続けています。
手術、特に子供の医療を中心にやる団体で、日本でも医療者の足らない地域医療の現場場、へき地、離島に支援という事で送っています。
医療は体だけ治したらいいというわけではなくて、心のケアも非常に大切で、こういう分野にも積極的にかかわっています。
小児がんは日本で2500人から3000人新しく小児がんになり、この中の数十%は亡くなってゆくと言うのが現実です。
当人の治療はするがメンタルな部分、家族のメンタルなことが発生するが、今まではそういったことは考えていなかった。
経済的な問題等も出てくる。
元気な間に家族と一緒に思い出を作ってあげるとか、旅行に一緒に連れていくとか、兄弟同士の時間を作って医療者が付き添ってあげる、スマイルスマイルプロジェクトと呼んで活動しています。
東南アジアでは今は、エイズ、マラリアなどで死んでゆく人達がいます。
田舎ではいまだに電気が通っていない所がおおい。
病気しても医療機関にアクセスできない。
カンボジアには大きな病院を作りました。
ミャンマーでは外国に対して受け入れが厳しい政府と、優しい政府があり、状況に合わせて病院を借りたり作ったりしています。
仏教のお坊さんが運営している病院がありその病院を借りて治療をしたりしています。
薬には問題があって、アジアで出まわっている薬は中国、インド製で物凄く質に問題があって全く効かないとか。物凄く効きすぎるかということがあります。
同じ量の麻酔でも効かなかったり、効きすぎたりしてしまう。
同じ種類の薬を日本製に変えたら効いたということが度々あり薬の扱い方に本当に困っています。
日本の企業が早く海外進出してそういう薬を駆逐していってほしいと思います。
現地のニーズに合わせて作るプロジェクトでないと上手くいくわけがないということが僕の考え方で、そうすると政府の補助金は使えないので多くは寄付と自分達でお金を生み出すことも一部やっていて成り立っていて日本ではかなり珍しい組織だと思います。
医師、看護師、ボランティア等がみずからお金を出して医療活動に参加するというスキームを作った訳です。
一人参加するのに6,7万円、他に航空券、保険代も自ら払って医療活動する事になります。
今は700人ぐらいいます。
2020年までには1000人にもっていきたいと思っています。
この方法は日本らしいところだと思います。
いまの若い人達は物から精神的な豊かさにシフトしています。
精神性の高いことが出来ると言うことは意識の進化だと思います。
ボランティアの期間はそれぞれで2,3日から2,3年ということもあります。
24,5年前は医療で国際協力には決死の覚悟で行けと言われていて、帰ってきたら就職先もない、いったら年収は途絶える、結婚はできない、家庭は持てないそういう覚悟で行けと言われていたが、僕は或る時気付いて国際協力をするのに覚悟はいるのかなと、今はアジアは発展してこの時代に東南アジアに国際協力に行くのに決死の覚悟が要るのかと気づく訳です。
時代に合った仕組みがあるのではないかと思いました。
休暇を使ったりして出来る範囲でいいと、何も犠牲にする必要はないと思います。
1人の人間がが決死の覚悟で1年行ってくれるよりも、100人の人が3日間行ってくれた方がよっぽどバリエーションが高まり良いと思ったんです。
現実に数百人が集まり増えていっています。
人の育成については言葉は限定的で生きる雛型を見せておくといいと思っていて、人と接する時に応対、表情一つで伝わることはあってそういうことを若い人たちに伝えて行く事が一番の教育だと思います。
医療は失敗したら人の体が壊れる命を失うので、努力が足りない人に対しては怒ったりするのは当たり前なのでしっかりやります。
現地の医療担当者を丁寧に扱って一緒にやる事によって現地の人の心も動いて信用してくれるようになる。
言葉があまり出来なくても時間を掛ければ伝わって行くものだと思います。
1965年大阪の吹田市の生まれです。
地下道に手足をなくした人が軍服を着て、暗くなると帰って来て子供の頃それを見て気持ち悪かった。
同じころに大阪万博があり、同じ街でそういう姿があり、そこで僕は育ちました。
1965年は中国では毛沢東の文化大革命が始まり、その後数千万人が餓死したと言われ、ベトナムではアメリカが空爆して、数年後カンボジアではポルポトが国民の1/4位殺して、韓国では80年代までが軍事政権で、飛行機で1、2時間程度の場所の差、20年程度の時間の差、人の運命は僅かな時空のずれでこんなに変わるものだと中学校のころに、はたと気が付きました。
時間と空間のずれたポイントに僕は幸運に生まれてきて幸せだと感じて、何か世の中にしなければ申し訳ないと思いだしたのが、10代の頃でした。
思い付いたのが医者しかなかったので医者になろうと決心しました。
大分大学医学部に行きました。
大学病院の医局に入ると組織の関係で抜けられなくなるので、最初から民間の救急病院に入ってしがらみから抜けることと、一日も早く技術を身につけることにしました。
2、3日に一回は当直があり厳しかったことはあります。
途上国に行くには産婦人科の治療が出来ないとだめなので、学ぶために鎌倉の産婦人科へ数か月ステーして、その後通いました。
夕方まで大阪で診察して新大阪までダッシュして新幹線でいって鎌倉に午後11時ごろに着いて、寝れるのは行き帰りの新幹線の中でした。
着いた翌日の夜8時まで産婦人科で働いて最終の新幹線に乗り帰ったら又救急病院で働きました。
それを1年位週一回やっていました。
ミャンマーでは20万人の日本兵が亡くなりその遺族の人による慰霊を行ってきたが、老齢化して慰霊が続けられなくなって、(1995年の時)ミャンマーで医療をして助けてほしいと彼らがWHOに相談していて、あるNGOを紹介されてそこから僕の方に連絡があってミャンマーに行かないかと相談がありました。
若かったし一人で行きました。
行ったところは8万人の街でした。
政府の作った診療所を巡回診療していました。
生まれたばかりの奇形児がほったらかしになっていたり、大やけどの子が皮膚が滅茶滅茶にくっついたまま生きているとか、日本にあるあらゆる病気があり、エイズは蔓延していたし酷い状態でした。
自分に与えられた中で何処まで出来るのか、何処まで挑めるかだけだと思っています。
自分の心にしたがってやってきただけです。
究極にたどり着いた結論というのは、あらゆる苦労は自分の為にやっている、苦労から得たいろんなことが自分の為の将来の役に立ち、今も役に立っている。
そのことが自分の中で理解出来ているから、その苦労を受け入れて生きている。
苦労して得たものは自分の存在の尊さです。
人は自分の事をどれほど大切に思えるか、そのためには自分がどういうものなのか理解できないといけないが、でも人間って自分の事を理解できない。
ぼくらにとっての鏡はなにかというと世の中なんです。
僕はやっていて、そうするとみんなが喜んでくれる、そうするとあなたは大切な人です価値ある人ですというメッセージを、直接的ではないが彼らは発信してくる訳です。
それが僕の中に降り積もって来て、自分の事を自分が大切に出来るようになる。
そうすると心から人の事を大切に出来るようになる。
どんどんやればやるほど世の中の人が喜んでくれる。
人を助けたら僕のことを助けたいと思う、僕に対して何かしたいと皆が思ってくれる。
皆が僕を大切にしてくれるようになる、僕が得た一番のものは結果的には、自分の人生を大切にしよう大切にしようと生きていたら、世の中の皆が僕のことを大切してくれるようになった。
これが僕が得た一番大きなものなんです。
ジャパンハート 2004年に立ち上げましたが、僕の目から見てろくな組織がなかった。
人の命を数量だけで数えているような人ばっかり周りにいて、医者としての生きざまにとって大切なことでこういう人達と一緒に医療をやって行ったら僕の人生がすり減るなと思ったんです。
助からないかもしれない子にお金を掛けて働き掛けるという発想はまずないです。
それでも家族の精神的なこと、その子が生まれてきて良かったと思ってもらえる医療があると思って実現するために作るしかないと思ったのがジャパンハートです。
小児がんへの取り組み、治療の概念を変える、治療だけだったものに加えて家族へのメンタルなこと、経済的なことを含めてアプローチするのが医療なんだと言う形で日本社会に発信していきたいという思いがあります。
医療の奥にある色々なものにアプローチする、それは医療者だけでは出来ないので多くの人に活動に協力して貰って、もっと大きな医療を作って行くというのが僕の目標となります。
52歳、2004年国際医療支援団体ジャパンハートを立ち上げミャンマーを中心にカンボジア
ラオスなど東南アジアの発展途上国で支援活動を続けています。
1年のうち8カ月は海外に行っているという吉岡さん、支援活動の現状とジャパンハートを立ち上げる迄の道のり、医療にかける思いなどを伺います。
ジャパンハートと名付けた思いは日本の文化、伝統から生まれる考え方に裏打ちされた国際協力の支援の仕組みがきっと世の中にとって相当役に立つだろうと、欧米とは違った日本人にしかできない国際協力をやっていこうという思いを込めています。
欧米などの考ええ方は満たされたもの、豊かなものが義務として貧しきもの弱いものを助ける、そこに彼らの誇りなり喜びがあるが、日本人はちょっと違って自分が貧しくても人を助けることに美徳があり、相互扶助的な感覚ですが、僕らのカルチャーを使って世の中に貢献していこうと言うことです。
日本発祥の国際医療ボランティア団体は珍しいです。
日本は戦争に負けてから国際性が一旦落ちてきて、ヨーロッパなどは長い伝統があり元々豊かで、経済だけでなくて、周辺も発達してきた。
日本は戦争後経済だけは発展させてきたが、周辺分野の意識は仕組み作りから遅れてきた。
NGOなんかでも評価されているということはないんじゃないでしょうか。
日本人は英語が出来ないといけない、とかフランス語が出来ないといけないと思っている。
何故かと言うと日本の国際協力の大きなNGOがないから、この一言に尽きる。
多国籍の所に日本人が混ぜてもらって、言語を覚えていかなくてはいけない。
英語圏の人達がいて日本人はカルチャーは違うが入ってやると、ほんとうはその国の文化伝統を生かした、慣習を共有した同じ国の人が入ってやっていて意志の疎通も取り易い、考え方も共通しやすい、それぞれの団体にはポリシーがあってそれぞれの国のバックグラウンドにしたポリシーがある。
日本人がアメリカ人に混じっても日本人のカルチャーが出せるかというと出せない。
多様性とか日本人のいいところが発揮できないので、そういうのを解消するためには日本から国際的なNGOを作るしかないと言うことです。
高度な英語のコミュニケーション能力が必要で、アメリカに語学留学を3年間する、その間に国際協力を辞めてしまう人が9割以上います。
そのエネルギーがあればどれぐらいの人たちの役に立てただろうと考えた時に凄いことになっていると思う。
その仕組みを作ればいいというのが僕の発想です。
現地の人は英語を話せないので英語を覚えるなら現地語を覚えてほしいというのがスタンスです。
ミャンマーを中心にカンボジア、ラオスなど東南アジアの発展途上国で医療の支援活動を続けています。
手術、特に子供の医療を中心にやる団体で、日本でも医療者の足らない地域医療の現場場、へき地、離島に支援という事で送っています。
医療は体だけ治したらいいというわけではなくて、心のケアも非常に大切で、こういう分野にも積極的にかかわっています。
小児がんは日本で2500人から3000人新しく小児がんになり、この中の数十%は亡くなってゆくと言うのが現実です。
当人の治療はするがメンタルな部分、家族のメンタルなことが発生するが、今まではそういったことは考えていなかった。
経済的な問題等も出てくる。
元気な間に家族と一緒に思い出を作ってあげるとか、旅行に一緒に連れていくとか、兄弟同士の時間を作って医療者が付き添ってあげる、スマイルスマイルプロジェクトと呼んで活動しています。
東南アジアでは今は、エイズ、マラリアなどで死んでゆく人達がいます。
田舎ではいまだに電気が通っていない所がおおい。
病気しても医療機関にアクセスできない。
カンボジアには大きな病院を作りました。
ミャンマーでは外国に対して受け入れが厳しい政府と、優しい政府があり、状況に合わせて病院を借りたり作ったりしています。
仏教のお坊さんが運営している病院がありその病院を借りて治療をしたりしています。
薬には問題があって、アジアで出まわっている薬は中国、インド製で物凄く質に問題があって全く効かないとか。物凄く効きすぎるかということがあります。
同じ量の麻酔でも効かなかったり、効きすぎたりしてしまう。
同じ種類の薬を日本製に変えたら効いたということが度々あり薬の扱い方に本当に困っています。
日本の企業が早く海外進出してそういう薬を駆逐していってほしいと思います。
現地のニーズに合わせて作るプロジェクトでないと上手くいくわけがないということが僕の考え方で、そうすると政府の補助金は使えないので多くは寄付と自分達でお金を生み出すことも一部やっていて成り立っていて日本ではかなり珍しい組織だと思います。
医師、看護師、ボランティア等がみずからお金を出して医療活動に参加するというスキームを作った訳です。
一人参加するのに6,7万円、他に航空券、保険代も自ら払って医療活動する事になります。
今は700人ぐらいいます。
2020年までには1000人にもっていきたいと思っています。
この方法は日本らしいところだと思います。
いまの若い人達は物から精神的な豊かさにシフトしています。
精神性の高いことが出来ると言うことは意識の進化だと思います。
ボランティアの期間はそれぞれで2,3日から2,3年ということもあります。
24,5年前は医療で国際協力には決死の覚悟で行けと言われていて、帰ってきたら就職先もない、いったら年収は途絶える、結婚はできない、家庭は持てないそういう覚悟で行けと言われていたが、僕は或る時気付いて国際協力をするのに覚悟はいるのかなと、今はアジアは発展してこの時代に東南アジアに国際協力に行くのに決死の覚悟が要るのかと気づく訳です。
時代に合った仕組みがあるのではないかと思いました。
休暇を使ったりして出来る範囲でいいと、何も犠牲にする必要はないと思います。
1人の人間がが決死の覚悟で1年行ってくれるよりも、100人の人が3日間行ってくれた方がよっぽどバリエーションが高まり良いと思ったんです。
現実に数百人が集まり増えていっています。
人の育成については言葉は限定的で生きる雛型を見せておくといいと思っていて、人と接する時に応対、表情一つで伝わることはあってそういうことを若い人たちに伝えて行く事が一番の教育だと思います。
医療は失敗したら人の体が壊れる命を失うので、努力が足りない人に対しては怒ったりするのは当たり前なのでしっかりやります。
現地の医療担当者を丁寧に扱って一緒にやる事によって現地の人の心も動いて信用してくれるようになる。
言葉があまり出来なくても時間を掛ければ伝わって行くものだと思います。
1965年大阪の吹田市の生まれです。
地下道に手足をなくした人が軍服を着て、暗くなると帰って来て子供の頃それを見て気持ち悪かった。
同じころに大阪万博があり、同じ街でそういう姿があり、そこで僕は育ちました。
1965年は中国では毛沢東の文化大革命が始まり、その後数千万人が餓死したと言われ、ベトナムではアメリカが空爆して、数年後カンボジアではポルポトが国民の1/4位殺して、韓国では80年代までが軍事政権で、飛行機で1、2時間程度の場所の差、20年程度の時間の差、人の運命は僅かな時空のずれでこんなに変わるものだと中学校のころに、はたと気が付きました。
時間と空間のずれたポイントに僕は幸運に生まれてきて幸せだと感じて、何か世の中にしなければ申し訳ないと思いだしたのが、10代の頃でした。
思い付いたのが医者しかなかったので医者になろうと決心しました。
大分大学医学部に行きました。
大学病院の医局に入ると組織の関係で抜けられなくなるので、最初から民間の救急病院に入ってしがらみから抜けることと、一日も早く技術を身につけることにしました。
2、3日に一回は当直があり厳しかったことはあります。
途上国に行くには産婦人科の治療が出来ないとだめなので、学ぶために鎌倉の産婦人科へ数か月ステーして、その後通いました。
夕方まで大阪で診察して新大阪までダッシュして新幹線でいって鎌倉に午後11時ごろに着いて、寝れるのは行き帰りの新幹線の中でした。
着いた翌日の夜8時まで産婦人科で働いて最終の新幹線に乗り帰ったら又救急病院で働きました。
それを1年位週一回やっていました。
ミャンマーでは20万人の日本兵が亡くなりその遺族の人による慰霊を行ってきたが、老齢化して慰霊が続けられなくなって、(1995年の時)ミャンマーで医療をして助けてほしいと彼らがWHOに相談していて、あるNGOを紹介されてそこから僕の方に連絡があってミャンマーに行かないかと相談がありました。
若かったし一人で行きました。
行ったところは8万人の街でした。
政府の作った診療所を巡回診療していました。
生まれたばかりの奇形児がほったらかしになっていたり、大やけどの子が皮膚が滅茶滅茶にくっついたまま生きているとか、日本にあるあらゆる病気があり、エイズは蔓延していたし酷い状態でした。
自分に与えられた中で何処まで出来るのか、何処まで挑めるかだけだと思っています。
自分の心にしたがってやってきただけです。
究極にたどり着いた結論というのは、あらゆる苦労は自分の為にやっている、苦労から得たいろんなことが自分の為の将来の役に立ち、今も役に立っている。
そのことが自分の中で理解出来ているから、その苦労を受け入れて生きている。
苦労して得たものは自分の存在の尊さです。
人は自分の事をどれほど大切に思えるか、そのためには自分がどういうものなのか理解できないといけないが、でも人間って自分の事を理解できない。
ぼくらにとっての鏡はなにかというと世の中なんです。
僕はやっていて、そうするとみんなが喜んでくれる、そうするとあなたは大切な人です価値ある人ですというメッセージを、直接的ではないが彼らは発信してくる訳です。
それが僕の中に降り積もって来て、自分の事を自分が大切に出来るようになる。
そうすると心から人の事を大切に出来るようになる。
どんどんやればやるほど世の中の人が喜んでくれる。
人を助けたら僕のことを助けたいと思う、僕に対して何かしたいと皆が思ってくれる。
皆が僕を大切にしてくれるようになる、僕が得た一番のものは結果的には、自分の人生を大切にしよう大切にしようと生きていたら、世の中の皆が僕のことを大切してくれるようになった。
これが僕が得た一番大きなものなんです。
ジャパンハート 2004年に立ち上げましたが、僕の目から見てろくな組織がなかった。
人の命を数量だけで数えているような人ばっかり周りにいて、医者としての生きざまにとって大切なことでこういう人達と一緒に医療をやって行ったら僕の人生がすり減るなと思ったんです。
助からないかもしれない子にお金を掛けて働き掛けるという発想はまずないです。
それでも家族の精神的なこと、その子が生まれてきて良かったと思ってもらえる医療があると思って実現するために作るしかないと思ったのがジャパンハートです。
小児がんへの取り組み、治療の概念を変える、治療だけだったものに加えて家族へのメンタルなこと、経済的なことを含めてアプローチするのが医療なんだと言う形で日本社会に発信していきたいという思いがあります。
医療の奥にある色々なものにアプローチする、それは医療者だけでは出来ないので多くの人に活動に協力して貰って、もっと大きな医療を作って行くというのが僕の目標となります。
2018年5月9日水曜日
渡辺達生(カメラマン) ・心にピントを合わせる(2)
渡辺達生(カメラマン) ・心にピントを合わせる(2)
還暦を過ぎてから新たな写真にチャレンジしています。
家族は妻長男3人でしたが、長男は独立して妻とねこが8匹います。
ねこは怒った顔を携帯で撮ってSNSに載せています。
近くに依らなくてはいけなくて、ねこは近寄られるのが嫌いなので撮るのが難しい。
車(古い車)とゴルフが好きです。
ゴルフでは一番行っていた時にはハワイへは120回以上行っています。
今は数ラウンドです。
59歳の時に食道がんが出来て食道を全摘出しました。
背中から切って食道を切って胃を繋いでいます。
沢山は食べられなくなりました。
煙草は50歳で辞めましたが遅かったです。
酒は手術のあとに辞めましたが、3年後にちょっと試して今は以前と同じ量になりました。
年配の方を撮るようになりました。
最初友人から撮り始めました。
遺影ではなく寿影としました。
親族を撮ったりしていたがNGを喰らいました。
自分の知っている主人とは違うと言うようなことを言われました。
背景は白あるいは薄いグレーにしています。
撮る時に宝物を一つだけ持ってきてほしいと言います。
刀であったり、石であったりしました。
それをもちながら僕と話をするんです、そうすると顔がほぐれるんです。
緊張が随分ほぐれて良い顔をするんです。
みんな喜びましたが、残念ながら何人かその写真を使いました。
笑っている顔なので心配はしたが、楽しそうだといって喜んでもらいました。
何年かやっているうちに有名な方も撮るようになりました。
漫才師の内海桂子さん、竹中平蔵さん、川渕三郎さん、野球の江本 孟紀さん、三遊亭円楽さん、萩本欽一さんなどがいます。
内海桂子さんはサンゴ(指輪と帯締)でした。(96歳)
いい顔をして話してくれて凄く良かったです、エネルギーを貰いました。
竹中平蔵さんは初めて書いた本(300ページ位)を持ってきました。
毎日3ぺージ書くことに決めて書いてきたそうです。
誇らしげな良い顔でした。
三遊亭円楽さんは扇子を持ってきて一人でずーっと喋っていました。
僕は後で扇子を買いに行きました。
川渕三郎さんはテーブルナプキンに色んな人のサインが書いてありそれを持ってきました。
楽天の球団の関係者、360人から730人のVサインを撮りました。(顔が判るように撮って欲しいとの要望がありました)
その時は5分位の時間で撮りました。
鈴木亜久里さんは家族の写真を持ってきて撮りました。(ハンドルとかヘルメットかと思ったが)
3年ごとに更新しようと思っていて自分が元気でないと撮れないです。
心にピントを合わせると本当に良い表情が出てくると思います。
宝物が上手く取り持ってくれます。
寿影は5~10分で撮ります。(300~500枚)
ルノワールの「可愛いイレーヌ」を国立新美術館で見たが、目にピントが合っていると思った。
ピントを何処にするかはカメラマンの意志だと思います。
様々なところでテストで助手に撮ってもらっています。
僕の宝物はやはりカメラです。(複数)
最初にグラビアを撮った時のニコンFはまだ持っています。
寿影はまだ100人満たないです。
寿影を撮るのに移動スタジオでやって行きたいという思いがあります。
還暦を過ぎてから新たな写真にチャレンジしています。
家族は妻長男3人でしたが、長男は独立して妻とねこが8匹います。
ねこは怒った顔を携帯で撮ってSNSに載せています。
近くに依らなくてはいけなくて、ねこは近寄られるのが嫌いなので撮るのが難しい。
車(古い車)とゴルフが好きです。
ゴルフでは一番行っていた時にはハワイへは120回以上行っています。
今は数ラウンドです。
59歳の時に食道がんが出来て食道を全摘出しました。
背中から切って食道を切って胃を繋いでいます。
沢山は食べられなくなりました。
煙草は50歳で辞めましたが遅かったです。
酒は手術のあとに辞めましたが、3年後にちょっと試して今は以前と同じ量になりました。
年配の方を撮るようになりました。
最初友人から撮り始めました。
遺影ではなく寿影としました。
親族を撮ったりしていたがNGを喰らいました。
自分の知っている主人とは違うと言うようなことを言われました。
背景は白あるいは薄いグレーにしています。
撮る時に宝物を一つだけ持ってきてほしいと言います。
刀であったり、石であったりしました。
それをもちながら僕と話をするんです、そうすると顔がほぐれるんです。
緊張が随分ほぐれて良い顔をするんです。
みんな喜びましたが、残念ながら何人かその写真を使いました。
笑っている顔なので心配はしたが、楽しそうだといって喜んでもらいました。
何年かやっているうちに有名な方も撮るようになりました。
漫才師の内海桂子さん、竹中平蔵さん、川渕三郎さん、野球の江本 孟紀さん、三遊亭円楽さん、萩本欽一さんなどがいます。
内海桂子さんはサンゴ(指輪と帯締)でした。(96歳)
いい顔をして話してくれて凄く良かったです、エネルギーを貰いました。
竹中平蔵さんは初めて書いた本(300ページ位)を持ってきました。
毎日3ぺージ書くことに決めて書いてきたそうです。
誇らしげな良い顔でした。
三遊亭円楽さんは扇子を持ってきて一人でずーっと喋っていました。
僕は後で扇子を買いに行きました。
川渕三郎さんはテーブルナプキンに色んな人のサインが書いてありそれを持ってきました。
楽天の球団の関係者、360人から730人のVサインを撮りました。(顔が判るように撮って欲しいとの要望がありました)
その時は5分位の時間で撮りました。
鈴木亜久里さんは家族の写真を持ってきて撮りました。(ハンドルとかヘルメットかと思ったが)
3年ごとに更新しようと思っていて自分が元気でないと撮れないです。
心にピントを合わせると本当に良い表情が出てくると思います。
宝物が上手く取り持ってくれます。
寿影は5~10分で撮ります。(300~500枚)
ルノワールの「可愛いイレーヌ」を国立新美術館で見たが、目にピントが合っていると思った。
ピントを何処にするかはカメラマンの意志だと思います。
様々なところでテストで助手に撮ってもらっています。
僕の宝物はやはりカメラです。(複数)
最初にグラビアを撮った時のニコンFはまだ持っています。
寿影はまだ100人満たないです。
寿影を撮るのに移動スタジオでやって行きたいという思いがあります。
2018年5月8日火曜日
渡辺達生(カメラマン) ・心にピントを合わせる(1)
渡辺達生(カメラマン) ・心にピントを合わせる(1)
69歳、独学で写真を学び篠山紀信さんと並び称されるグラビアカメラマンとなりました。
これまで40年間に4000人以上のモデルを撮影、これまでに出版した写真集は230冊を越えます。
女性グラビアの巨匠と言われるまでになった足跡を訪ね撮影の苦労、エピソードなどを伺います。
写真は親爺がカメラを何台か持っていたので小学校のころから気になっていました。
生まれは山梨県で、8歳の終わりごろまでいました。
父の転勤で代官山の社宅にきました。
事務所も麻布などに行きましたが、こっちに戻ってきてしまいました。
大学は成蹊の経済学部に籍を置きました。
高校に行く頃には写真に自信がありましたが、親爺の意向もあり成蹊大学に行くことにしました。
大学の3年の終わりごろ映画が好きな人がいて、現場を手伝いに来るように言われて、演出家に紹介されて週刊サンケイに知り合いがいるからということで行きました。
週刊サンケイの写真部の暗室で現像する仕事をしました。
直ぐ先輩に色々聞いてその繰り返しで覚えて行きました。
篠山紀信さんが好きでした。
『GORO』という雑誌の編集部に移って仕事をしている時に、篠山さんのゲラ刷りを貰って研究しまくりました。
機械の操作だけは一杯やらないとだめです。
どのレンズを使ったらいいかとか、常に考えています。(野球で言うと素振り、キャッチボールに相当します)
何処から何処まで区切って撮るか、常に訓練しています。
カメラを向けて1対1で撮ろうとする時に、お互いが知らないとちょっと気まずいし厭なのでお互いが喋って、友達になってからでないと厭だと思っています。
褒めること、貶すのも一つです。(ただただ褒めても駄目)
メーク中などに顔の形を物凄く見ていて特徴を見つけます。
また撮って欲しいと言う人が結構いて、小野真弓さんは6冊(1冊100ページ)撮りました。
40年間でモデルを4000人以上撮りました、230冊になりました。
雑誌の表紙は1枚ですが、10分位で400から500枚撮りその中から一枚を選びますから、それを考えるとかなりな枚数になります。
海外にいって500~600本とってX線から保護してテスト現像するが、大丈夫かどうかその時は怖いです。
デジタルで今は自分でもモデルさんも見る事が出来るが、緊張感がなくなると言うこともあり良い面、悪い面もあります。
武田久美子さんの貝殻のビキニは30万部を越えました。
残念ながら僕のアイデアではなかった。
彼女が貝殻で水着を作ったら面白んじゃないかということで作りました。
川島なお美さんの写真集は50~60万部になりました。
最近はネットで、なんで本の手触りを感じないのかなあと思います。
15歳の片平なぎささんの水着のページを作ったのですが鮮烈に残っています。
広告で宮沢りえさんと後藤久美子さんの写真を撮りましたが 12歳の時に2人で一画面を撮りましたが、可愛かったです。
グアムで斎藤慶子さんを撮りましたが、それも記憶に残っています。
人里離れたビーチに行ったりするとチームとの一体感が出てきたりして楽しいです。
鈴木優華さんの笑顔が好きです、会うとまず笑うんです。
美空ひばりさんの「河の流れのように」のジャケットを撮りました。
レコードが出て直ぐに亡くなりました。
良い表情を撮ることが出来ました。
石川さゆりさん、山下久美子さんなどなども。
グラビアはちょっとしたニュースだと思います。
10,20年たった時にこの時私はこんなことをやっていたと、思いだしたりできる様なそんなつもりでもやっています。
どうやって撮っているのか、ほんとうは見てほしいとは思いますが。
弟子は24人ぐらいいます。
撮影現場はお祭りみたいに大騒ぎです。
最後には必ず笑顔でピースサインを撮ります。
69歳、独学で写真を学び篠山紀信さんと並び称されるグラビアカメラマンとなりました。
これまで40年間に4000人以上のモデルを撮影、これまでに出版した写真集は230冊を越えます。
女性グラビアの巨匠と言われるまでになった足跡を訪ね撮影の苦労、エピソードなどを伺います。
写真は親爺がカメラを何台か持っていたので小学校のころから気になっていました。
生まれは山梨県で、8歳の終わりごろまでいました。
父の転勤で代官山の社宅にきました。
事務所も麻布などに行きましたが、こっちに戻ってきてしまいました。
大学は成蹊の経済学部に籍を置きました。
高校に行く頃には写真に自信がありましたが、親爺の意向もあり成蹊大学に行くことにしました。
大学の3年の終わりごろ映画が好きな人がいて、現場を手伝いに来るように言われて、演出家に紹介されて週刊サンケイに知り合いがいるからということで行きました。
週刊サンケイの写真部の暗室で現像する仕事をしました。
直ぐ先輩に色々聞いてその繰り返しで覚えて行きました。
篠山紀信さんが好きでした。
『GORO』という雑誌の編集部に移って仕事をしている時に、篠山さんのゲラ刷りを貰って研究しまくりました。
機械の操作だけは一杯やらないとだめです。
どのレンズを使ったらいいかとか、常に考えています。(野球で言うと素振り、キャッチボールに相当します)
何処から何処まで区切って撮るか、常に訓練しています。
カメラを向けて1対1で撮ろうとする時に、お互いが知らないとちょっと気まずいし厭なのでお互いが喋って、友達になってからでないと厭だと思っています。
褒めること、貶すのも一つです。(ただただ褒めても駄目)
メーク中などに顔の形を物凄く見ていて特徴を見つけます。
また撮って欲しいと言う人が結構いて、小野真弓さんは6冊(1冊100ページ)撮りました。
40年間でモデルを4000人以上撮りました、230冊になりました。
雑誌の表紙は1枚ですが、10分位で400から500枚撮りその中から一枚を選びますから、それを考えるとかなりな枚数になります。
海外にいって500~600本とってX線から保護してテスト現像するが、大丈夫かどうかその時は怖いです。
デジタルで今は自分でもモデルさんも見る事が出来るが、緊張感がなくなると言うこともあり良い面、悪い面もあります。
武田久美子さんの貝殻のビキニは30万部を越えました。
残念ながら僕のアイデアではなかった。
彼女が貝殻で水着を作ったら面白んじゃないかということで作りました。
川島なお美さんの写真集は50~60万部になりました。
最近はネットで、なんで本の手触りを感じないのかなあと思います。
15歳の片平なぎささんの水着のページを作ったのですが鮮烈に残っています。
広告で宮沢りえさんと後藤久美子さんの写真を撮りましたが 12歳の時に2人で一画面を撮りましたが、可愛かったです。
グアムで斎藤慶子さんを撮りましたが、それも記憶に残っています。
人里離れたビーチに行ったりするとチームとの一体感が出てきたりして楽しいです。
鈴木優華さんの笑顔が好きです、会うとまず笑うんです。
美空ひばりさんの「河の流れのように」のジャケットを撮りました。
レコードが出て直ぐに亡くなりました。
良い表情を撮ることが出来ました。
石川さゆりさん、山下久美子さんなどなども。
グラビアはちょっとしたニュースだと思います。
10,20年たった時にこの時私はこんなことをやっていたと、思いだしたりできる様なそんなつもりでもやっています。
どうやって撮っているのか、ほんとうは見てほしいとは思いますが。
弟子は24人ぐらいいます。
撮影現場はお祭りみたいに大騒ぎです。
最後には必ず笑顔でピースサインを撮ります。
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