2018年3月14日水曜日

荒井良二(絵本作家)           ・【人生のみちしるべ】“日常”の旅人(H29/4/12 OA)

荒井良二(絵本作家)    ・【人生のみちしるべ】“日常”の旅人(H29/4/12 OA)
1956年山形県生まれ、61歳。
1990年に絵本作家としてデビュー、2005年児童文学のノーベル賞と言われるスウエーデンの児童少年文学賞アストリッド・リンドグレーン記念文学賞を日本人で初めて受賞しています。
山形出身の荒井さんは2011年の東日本大震災で、作家としての活動に大きな影響を受けました。
誰の為に何を書くのか自問自答の迷いの中に落ち込んでいってしまったと言います。
迷いの中からやっと生み出した絵本で描いたものとは、伺いました。

60歳になってしまいましたが、頭の中は3~5歳ぐらいじゃないですかね。
書いているときとか、そんなふうに感じることが有ります。
二人いるような感じで、冷静な大人もいます。
はみ出してもいいんだと昔に思いました。
締め切りに頑張ってきましたが、ここ5,6年ちょっと変わってきました。
2011年12月出版 『あさになったので まどをあけますよ』
2016年9月出版  『きょうはそらにまるいつき』
この2冊は対になっています。
3・11の大震災で東北の被害が有って、その年はワークショップをやりに行きました。
何回か東北に通ってワークショップをやりました。
旗を作ろうとして「フラッグシップ」という名前にしました。
それをやりながら、この本を書いていました。(『あさになったので まどをあけますよ』)

僕のやっていることって何だろうなと言うことを考えてばっかりしていました。
気持ちが今までとは違う、迷い方と言うか、それが有りました。
これを描いていいのかな、から始まり、誰の為に描いているのかとか、自問自答しながら描いていました。
描くのは早い方なんですが、これからスローになってしまいました。
描けない時は描けなくていいんだと、自分に言い聞かせた記憶が有ります。
この本は通常より何倍もかかっています。
風景を一杯描きたくて、どっかしらに日本を感じさせて、どっか日本じゃないという風景をごちゃ混ぜにして、朝からの連鎖、暗い事とか夜になると怖いと言う子供たちの声を聞いたりして朝を繋げればいいのかなあと思って、朝だけにしようと思いました。
だから淡々としています、窓を開けるだけですから。

「朝になったので窓を開けますよ。 山はやっぱりそこにいて、木はやっぱりここにいる。
だから僕はここが好き。 
朝になったので窓を開けますよ。 町はやっぱり賑やかで、皆やっぱり急いでいる。
だから私はここが好き。
朝になったので窓を開けますよ。 川はやっぱり流れていて、魚はきっと跳ねていて。
だから僕らはここが好き。
君の街は晴れているかな。  
朝になったので窓を開けますよ。 晴れているのに雨が降っている。 やっぱり僕はここが好き。
朝になったので窓を開けますよ。 今日は大好きな木の下が私の部屋。
いつも風が吹いていて。 やっぱり私はここが好き。 
朝になったので窓を開けますよ。 海はやっぱりそこにいて空はやっぱりそこにある。 だから僕はここが好き。  君の街は晴れてるかな。 
朝になったので窓を開けますよ。」

海の絵は物凄く考えました。
窓から見える風景、これが有るから、俺なんだよな、僕なんだよな、と言うのを朝に0.何秒で感じていると思う。
それを描きたかっただけです。
 
『きょうはそらにまるいつき』 こちらは夜の風景です。
『あさになったので まどをあけますよ』と対にという意識は全然ありませんでした。
随分前から夜と月をそのうち作るぞ、と思っていました。
月から何かしら力を貰っているんだろうなと昔から思っていました。
それって大事だなと思っていました。
夕暮れの公園、乳母車の中から赤ちゃんが空を見ている絵。
赤ちゃんは空を月を感じているんじゃないかなと思いました。
バレエから帰る女の子、仕事を終わった洋裁店の親子、人間だけではなくて、公園に集まった猫たち、山の中の熊の親子、海のクジラまで出てきて月を感じる。

「きょうはそらにまるいつき 赤ちゃんが空を見ています。 
きょうはそらにまるいつき  バレエの練習が終わって、女の子がバスで帰ります。
きょうはそらにまるいつき  遠い遠い山のなかです。沢山遊んだ帰り道です。
きょうはそらにまるいつき  新しい運動靴を買って男の子がバスで帰ります。
きょうはそらにまるいつき  猫たちがたくさん集まってきました。
ミシンで洋服を作るお店です。仕事が終わってカーテンを閉めるところです。
きょうはそらにまるいつき 赤ちゃんが空を見ています。 空を見て笑っています。
皆の夜にそれぞれの夜に御褒美のようなお月さま。
ギターの音が聞こえます。 同じ歌を何度も何度も練習しています。
きょうはそらにまるいつき 遠い遠い海でクジラが大きく大きく跳ねました。
きょうはそらにまるいつき ご飯が終わっておじいさんが食器を洗っています。 
おばあさんが食器やコップをかたづけます。 
きょうはそらにまるいつき  赤ちゃんが空を見ています。 
きょうはそらにまるいつき  皆が空を見ています。
きょうはそらにまるいつき  御褒美のようなお月さま。」

月がそこにあると言うことを伝えたいから出来るだけ文章を削って、「今日満月だ」「本当だ」というそれを書きたかった。
絵本を描くとき、子供達を意識して、結果的に意識しないように完成させます。 
子供に見せたいけど、フィニッシュはただ子供向けにだけはフィニッシュさせないと考えています。 
絵本を描き始めると、子供と言うキーワードにぶつかり、大人は評論している。
子供の壁にぶつかって越えることはできないと思って、どうやって乗り越えたらいいんだろうとか、子供を乗り越えることは無理なのではないかと考えたりしました。
子供に寄り添えばいいんじゃないかと考えましたが、今でも回答なんてないです。
最初描けなくて、自分が子供の頃に何が好きだったか、全部文章に書き出しました。

絵本て、名作とかを今読んでみると、良い本だなあと思うが、時代って有るんだなあと言う気がしました。
受け取り方が違ってくる。
子供用に手取り足取り全部話が有って、絵本的事件が有って最後はハッピーエンドで終わるという、いい本だねと言う物の方が今は好きなのかなあと思いました。
名作と言われるものに感情の起伏が無い絵本で、一般の人でこれっていいと思う人でどれぐらいいるのかなあと思ってしまいました。
「ゆきのひ」(エズラ=ジャック=キーツ)とかとってもいい絵本ですが、今こういう本を読み取れる力ってあんまりないんじゃないかなあと思いました。
感動の質が均一化しているみたいな気がする。
自分が感動を引き寄せる力が有るような気がするんですが。
その時代時代に合わせると言うことも大事だが合せないと言うところも大事かなあと思っています。
合せないと言うところが作家性に繋がる大事な部分かと思います。






2018年3月13日火曜日

鈴木典夫(福島大学教授)         ・震災を乗り越え強くなる“支えあう力”

鈴木典夫(福島大学教授)     ・震災を乗り越え強くなる“支えあう力”
被災地では復興住宅の整備が進み、被災した人々も以前に比べて安定してきました。
しかし、東京電力福島第一原発の事故によって、避難が長期化している福島県では、住み慣れた地域から離れ、仮設住宅での生活を余儀なくされている人が少なく有りません。
そうした中で高齢者の支援は大きな課題です。
福島大学の教授で長年地域福祉に携わってきた鈴木さん(57歳)は、支援にはボランティアの力が欠かせないと話します。
日本全国で災害が発生するたびに発達してきたボランティア文化についての話、地域コミュニティーを支えるためには何が必要なのかについて伺いました。

7年間と言うのは長いというのは有りますが、今後10,20年と言うスパンで続くのかなと思います。
生活者が日常生活を取り戻すのが復興と思っています。
災害と言うことでボランティアを意識したのは、1991年雲仙普賢岳の火砕流災害だと自分の中では思っています。
仮設住宅が出来るんだと判り、それだけ大きな被害だったと思います。
当時、社会福祉協議会の職員として京都市の方に勤務していました。
1995年に阪神淡路大震災、なまでの映像が朝流されて、尋常ではない事が起こったと思いました。
応援体制を直ぐに組まなければいけないということで、私は芦屋市を担当して避難所の運営とかのサポートをしました。
2か月間で100万人の方が応援に駆け付けてくれて、ボランティア元年と言うふうに評価されました。

あれほどのボランティアの人達のマネージメントの経験がなかったので、私たち自身もかなり混乱しました。
震災でやるべきことは対人だけではなくやるべきことはたくさんあります。(物資の仕訳等々)
なるべく人に直に接して応援したいと思う人達が多い。
中に何が入っている判らないものは後回しになってしまう。
阪神淡路大震災の時のような小口物資(タオル、ハブラシ、石鹸、鉛筆などが少量入っている)の混乱は、その後は緩和されていると思います。
その後をみていると、支援物資の心得も変わってきていると思います。
中身に何が入っているか明記されていたり、同一物資は纏めて段ボールに入れてあったりするようになりました。

今は必要なボランティアが整理されてきた面があります。
多様なボランティアが必要だというふうに気付かされている。
仕分けだけを取って見ても、中越地震の時には福島大学の学生と共に山古志村の支援物資(体育館4個分)をひたすら仕分けをしていました。
おむつ一つでも詳細に仕分けをしました。
人に直に接したいと言う思いはあるが、ひたすら仕分をするなかでも人と接する時間は取れるので、それが続いてゆくと仕分けをしながら子供とか高齢者との話をする時間などが取れるようになってきて、信頼と言うものを厚くしていったと思います。
避難所は一つの避難の生活のスタイルになるが、自分たちも何かやろうと言うふうに高まってきたのではないかと思います。
中越地震の時には地元の中学、高校の学生が一緒に入ってくれるとか有りました。
映像で見ましたが、熊本の避難所の中で中学生が作業をしたり、子供達と遊んだりしていて、その姿を見て、災害が起きた時のボランティアの姿は外からの人達だけではなく、うちうちから若い人たちまで浸透していると思ったら、災害時のボランティアは少しづついい方向に定着が進んでいると思いました。

阪神淡路大震災の時は仮設住宅がコミュニティー単位ではなかったので、住む人がなかなか人間関係が作りにくいということもあり、孤立死と言うようなこともありました。
孤立が問題として解消していなくて、現在も続いていてそういうことは見逃してはならない。
30~50人が孤立死をしている。
10,20年のスパンで考えなくてはいけない震災と感じたときに、20年たてば故郷に戻れると言うところでの新しい故郷でのコミュニティー作りの中で孤立が起こる可能性もある。
中越地震では地域ごとに仮設住宅に入った。
東日本大震災でも自治体ごとでもって、その地域の人たちで生活できるように配慮がなされたが、お隣さんがお隣ではなくてコミュニティー単位と言えないと思う。
原発事故の影響で、浜通りの人たちが仮設住宅に暮らす時に、色々な地域分散していって、一旦ばらばらになった状態の時にお隣さん同士ということは非常に困難だった。
コミュニティー単位でという考え方が進んではきたが、それぞれ分散避難する中で東日本大震災ではかなわなかった。
原発事故の影響は大きかった。
7年経過して、仮設住宅からの住み替えが終盤に入った。
復興公営住宅への住み替え、故郷に帰る人も少数だがかなえられるようになってきた。
仮設住宅でのケア、復興公営住宅でのケア、戻れた人たちへのケア、新たな第3地域での生活者に対するケアも必要です。
多様な住まい方のケアが福島での現状だと思います。

福島大学の学生の災害ボランティアセンター(鈴木氏が顧問)、いまでも仮設住宅に住み込んでいる人たちがいます。
2か所の仮設住宅に2人づつ、4人が5ヶ月間暮らして、又別の人が暮らすと言うふうに継続的に住みこみをやってきました。
学生としての日常生活をしながら、「いる」という効果、普段子供からお年寄りまでいる中が一つの共同体というようなところがあるが、仮設住宅は若い人がいない共同体なのでいるだけでも世代間の渡りを付けられる、若い人の声が聞こえる。
コミュニティーの空気が変えられる
始めた時が震災後4年後だったが、すでに25%が空き屋に成っていて寂しさが生まれていた。
時間の過ごし方が画一化してきて、生活のメリハリが出てこなくなり引きこもり、人との会話が無くなってしまう。
学生たちが入ると会話が生まれ始めて、良い方向に動き出す。
双方による気遣いが心のケアに繋がって行く。

住む人がすくなくなってきて、仮設住宅の看取りをして行く。
仮設住宅にいても楽しいこともあったよね、こういうことを住んでいる人たちに残してあげることも大切なことだと思っています。
それが次の住み替えに必ずつながっていくと思います。
発生直後は学生の気持ちは使命感だったと思いますが、使命感型から7年経って今は関心型に成って来ているとは思います。
関心を満たすと離れて行く人も中にはいます。
孤立死、関連死、自死と言う様な事を起こしてはならないという気持ちを継いでいっています。
死を考えると言うことを問いかけている部分が、福島大学の場合は世代が交代しても大切にしていきたい、そういう人材が有るから継いでいるというふうに思います。
震災に限らず少子高齢者社会の中での関係性をどう維持してゆくのか、共通性もありそういったことに反映させることも可能だと思います。
継続してやって行く、連続してやってゆくことが大事だと思います。
長い時間軸を見て孤立死を起こさないという考え方はずーっと持ち続けていきたい。





















2018年3月12日月曜日

荒井秀樹(ノルディックスキー日本代表監督)・【“2020”に託すもの】障害者スキーとともに歩む道

荒井秀樹(ピョンチャンパラリンピックノルディックスキー日本代表監督)
・【“2020”に託すもの】障害者スキーとともに歩む道
アルペンスキー、クロスカントリースキー(ノルディックスキー)。
私が担当しているのはノルディックスキーと、射撃を組み合わせたバイアスロンという競技です。
目に障害がある方たち、身体に障害のある方達で競っているのがパラリンピックになっています。
バイアスロンは視覚障害の方も行います。
長野パラリンピック迄は全盲の方もエアーライフルを撃っていましたが、用具の進歩が進んで現在は視覚障害の方は音を聞き分けてビームライフルと言うものがあり、音響装置を付けて的の中心部に近づくと高い周波数の音が出て、撃ってゆくという競技に成って来ています。
2.5kmのコースを走って来て、息を殺して的を射て行くと言うことで、聴力検査と同じような音が出て1570HZの高い音になると10m離れた所に2.4cmの的が有り、それを撃ち抜いていきます。
至難の業です。
7.5kmの場合は、2回の射撃が有り、1回に付き5発、全部で10発撃って、1発外すごとにペナルティーが加算されて、150mのループを回ってコースを走って行く。

ノルディックスキーはスタンディングとシッティングがあります。
手や足の障害がある方たちが、障害の軽い重いについて一定の係数であわせてハンディー制にして平等にレースができるように成っています。
脊髄損傷などの選手はシットスキーでレースを行います。
2002年のソルトレイクは障害ごとに、全盲だったら全盲の選手だけで競っていました。
世界チャンピオンを一人にして欲しいとの要望から大きなカテゴリーに成りました。
それを平等にやる為にハンディー制を取り入れてのレースをおこなっています。
私は北海道の旭川の出身でクロスカントリースキーの盛んな地域です。
中学からクロスカントリースキーを始めて、大学出て江東区の役所に勤めていて、スキー部があり、クロスカントリースキーをやっていて、中学高校生もやっていることが判り、子供たちに教えたり、自分も国体を目指していた時代が有って、東京都のスキー連盟の部長だった工藤さんから1998年の白馬のオリンピックパラリンピックがあるが、パラリンピックの指導者を探していて、どうだろうかとの話が有りました。(1995年)

子供達と一緒にトレーニングをすればいいかと思って返事をしました。
しかし、まだ選手がいないということで吃驚した記憶があります。
パラリンピックには関心が向いていなかったようでした。
障害者スキーの振興はしていたが、競技として強化して行くところは進んでいなかった状況でした。
長野パラリンピックでは小林深雪(こばやし みゆき)さんがバイアスロン視覚障害で金メダルを取りました。
まさか2年間の強化で金メダルを取ると言うのは、思っていませんでした。
小林さんの力もありますが、日本中の方たちの応援する風が吹いて、小林さんに金メダルを取らせてくれたと思います。
1か月前にダボスで世界選手権があるのでそこに出場したかったが、協会費がなくて遠征にはいけませんでした。
チーム全員はいけませんでしたが、5人の代表で行ってきました。
その時に小林さんが3位に入りました。
スタンディングで8位に成った選手もいました。

1996年スウエーデンでIPC( International Paralympic Committee)の大会が開催されて、競技関係者が大会を見に行きましたが、凄くレベルが高くて、2年後にそこそこのレベルを持っていけるか心配でした。
岐阜県での全国中学校大会に片腕の中学生が出ていたと教えてもらって、名前も知りませんでした。
長野のときに出てもらおうと言う思いがありました。
資料を調べたが判らなくて、宿の人に聞けばわかると思って一軒一軒電話をしました。
岡山県のスキー連盟に電話して新田佳浩君だと教えてもらいました。
彼はバンクーバーで金メダルを2つ取って現在もピョンチャン目指していますが、新田君に会えたのはそういう経過でした。

最初パラリンピックに出ることについて父親からは、普通の子として育ててきたので障害者のパラリンピックに出ることにいい返事はもらえませんでした。
3歳の時にコンバインに左手を入れてしまって事故を起こして片腕を失ってしまったが、
その時に家族全員が、佳浩君を障害の子として育ててしまうと、負い目を負ってしまうので辞めようと言うことに成ったそうです。
一般の子供と同じように育てて行く訳です。
世界で活躍するパラスキーのビデオを見せて、佳浩君も挑戦したいという気持ちを持ってもらうことができました。
全国から60名位てをあげてくれましたが、経験者はほとんどいなかったです。
佳浩君が入ってくれたおかげでレベルもぐんと上がって、チームも纏まってきました。

1995年 60名から20名位にセレクトしてほしいと言われて、私は障害を持った人との交流がなくて、大浴場で背中を流しあったりした方がいいよと言われて、そこで色んなことが見えて来ました。
脊髄損傷の人の仕草、全盲の人で湯気、音を聞き分けて入浴する感覚、等それらを見て凄いなあと思いました。
スキーはバランンスが重要で、佳浩君は左手側の筋肉が細くてアンバランスでそちらを鍛えることを行ってきました。
ソルトレイクでは銅メダルでしたが、金メダルを取るまでには10年間かかりました。
大切なことは彼らをよく知ると言うことで、知ったうえで彼らの一番強みを見付けてあげて、継続する。
日立ソシューションズスキー部監督、その創設に関わりました。
スポンサー、強化費などの苦しい中、ソレトレイクに行きましたが、海外の選手たちが凄くレベルが高くなっていて、バックアップ体制もしっかりしていました。
日本は惨敗だったと思いました。
実業団チームをつくらないと強化はできないと思いました。
企画書を作ったりして手探りで活動を始めました。

結婚式での妙高高原からの帰りに、同席した人がいて、そのひとが日立ソリューションの役員の方でした。
環境の悪さなどでメダルが取れないといった話をして、実業団のチームを作りたいと言って名刺交換しました。(2004年4月)
8月にニュージーランドにスキーのトレーニングに行きましたが、日立ソリューションの渡辺さんに絵葉書を送りました。
渡辺さんが役員、社長に話をしてくれました。(2004年 アテネオリンピックの年)
9月にアテネパラリンピックが始まる。
11月にスキー部を創設することになりました。
私と小林さん、新田佳浩さん、太田渉子さんとともに実業団スキー部を創設しました。(公務員を辞めて飛び込む。 50歳)

それまでぼんやりした目標設定でしたが、最初に言われたことは目標を数字で表してほしいと言われて吃驚しました。
数値化することはトレーニングに大きな効果を出していると思います。
それが小林さんの金メダル、新田さんの2つの金メダルに、太田渉子さんが銀メダルを取ったのも企業が数値化をしてくれていろんなサポートをしてくれたお陰だったと思います。
本を出版した時の3つミッション ①勝利 ②普及 ③資金
体系的、理論的に勉強したいという思いが有って、大学院に行こうと思って、平田先生のところでこの3つの事がスポーツを発展すると言うことを学びました。(52,3歳)
色んな企業に実業団チームが生まれるといいと思っています。
ホームページに「情熱日記」を毎日投稿しています。
バンクーバーの事前合宿をしているときに、女性選手がお雛様を紙で作っていいなあと思って写真と日記風に書いて、2010年3月3日から毎日書いています。
そのことで自分もそこにいると言うことを確認できてよかったかな,とこれからも続けていきたいと思います。

長野の時に選手たちは、障害のある方たちがやっているスポーツだから凄いねと言うことはやめたい、と言っていました。
しかし、障害のある方たちの取り巻く環境はまだまだだと思います。
オリンピックもパラリンピックも同じ様に語られるようなそういう時代を今迎えているし、そういう時代にしなければいけないと思っています。
グットマン博士「失ったものを数えるな、有るものを最大限に生かせ」と言っています。
パラリンピックの精神だと思っていて、共生社会で実現しなければいけないし大切なことだと思います。
北海道では冬はスキー教室などがありますが、車いすの人は自習をしたりしているわけですがシットスキーはだれでもできるので、普及していければと思っています。











2018年3月11日日曜日

杜けあき(女優)              ・被災したふるさとに寄せる思い

杜けあき(女優)                     ・被災したふるさとに寄せる思い(インタビュー)
仙台市の出身、昭和54年に宝塚歌劇団に入団し、昭和63年には宝塚では東北出身者として初めてのトップスターになります。
代表作には「ベルサイユのばら」「ヴァレンチノ」、「忠臣蔵」など多くの作品があります。
宝塚を退団したのは平成5年、この年大衆演劇の舞台で優れた業績を示した芸術家に送られる菊田一夫演技賞を受賞されました。
その後、数々の舞台、TVなどに出演、現在はNHKラジオ「ごごラジ」の火曜日パーソナリティーも努めています。
宮城県共同募金会赤い羽根特使や宮城きずな大使を務めて、故郷宮城県、仙台市の魅力をPRしたりチャリティー活動に力を入れたりしています。

生まれたのは古河市で、父が警察官なので転勤が多かったです。
宝塚に行ってみて、遠くから故郷を見て良かったと思いますが、本当に良い所だと思います。
初舞台を踏んだ時に新幹線ができました。
それまでは宝塚から仙台まで11時間かかりました。
故郷の良さ、一番は人の温かさ、ゆったりした時間の過ぎ方、空気が澄んで空が高く緑がきれいで、故郷のありがたみが判りました。
同期生の中では一番私が遠かったので、帰る時間がなくて一人ぽつねんと宿舎にいた時もありました。
両親が手紙を書いてくれて、父も一日おきにくれて、今でも宝物です。
父が芸名を色々考えてくれて、「青葉城恋歌」がちょうどヒットしている時で、歌詞を見ていて杜と言う字は綺麗だと思っていて、民放の番組で「けさのけやき並木は・・・」とか「杜けやき」がいいかなと思いましたが、ちょっと古風な感じがして、もじって「杜けあき」という名前にしました。
名前を付けた当時、宮城県の県木だとは知りませんでした。
後から思ったのですが、こんなケヤキの木のような役者になりたいと思いました。
どっしりとして大地に根を生やした土台を持ち、小枝の先の繊細さ、人の機微や繊細さを表現できる役者になりたいと思いました。

2011年3月11日は東京で公演の為の荷作りをしていました。
阪神淡路大震災の時も辞めてから1年後の時でした。
その時もニュースを見てあり得ないと思いましたが、今回もあり得ないと思いました。
9・11の時にもあり得ないと思いましたが、その時に母が「世の中にあり得ないということはないのよ」とぼそっと言いました。
それをすごく思いました。
なかなか連絡が取れませんでした。(電話、メール)
2カ月後、各地の避難所の慰問に行きました。(それまでは舞台が有り行きたくても行けない状態だった。)
何か癒せることをしたいと思って、手のマッサージをしてあげたいと思ってハンドクリームを大量に買い込んで、避難所に行って手のマッサージをさせてもらいました。
ごつごつした手の人に当たった時に、漁師と言うことでいつまた漁に出られるか分からないと言っていました。
お母さんたちに当たった時はすべすべして綺麗な手だねと言ったら、でも何もすることがない、と言われて、胸が痛かったです。
色んな方の話を聞くことが出来て、100人ぐらいの人の話を聞けたのは私にとっても貴重なことでしたし、心の声を聞いたと思いました。

歌は歌うつもりがなかったがせっかく来たんだから歌ってほしいと言われて、宝塚の「すみれの歌」を「春すみれ咲き・・・」と歌い出しましたが、歌い出したとたんに体育館の空気がファーっと色が変わったんです。
おそらく現実から離れた色だったと思います、その時に私たちの仕事ってこういうことだとはっきり思いました。
歌ってほしいと言われたところでは歌っていいんだと思いました。
気負うことなく人それぞれの出来ることでいいのだと思います。
地元への思いを寄せて居ればおのずとやりたい事、やれることが見えてくるのではないかと思います。
2011年5月に神戸でコンサートをしたときに阪神淡路大震災から15年経っていて、神戸は変わっていて素晴らしいコンサートなどが有りました。
公演が終わってからスタッフがようやくスタートなんだと言っていました。
東北では復興するのは大変なことなんだなと実感しましたが、時間がかかろうが絶対成るんだと、未来を信じることが出来ました。

自然は本当に美しいが厳しいものだと実感しました。
かさ上げとかも見せていただき、放送当日に「大分出来上がって来て、半分ぐらい出来ましたでしょうか」と言ったときに、会場のお母さんが「まだ半分も行ってねー。始まったばっかりだー。」と叫んで、その声をきいて、「これが本当の声なんですよね」と言いました。
東北の魅力、豊かな自然は厳しいと言いましたが、この豊かな自然無くして東北の魅力はないと思います。
海、山、東北の自然の中で暮らしたからこそ、潔さ、耐える力などを見ていて、その力こそが日本の力になるのではないかと思います。
何なんでしょう、この温かさは。

















2018年3月10日土曜日

2018年3月9日金曜日

今野 聡(ひばりFMメンバー)      ・南相馬 ひばりFMの7年

ひばりFMメンバー    ・南相馬 ひばりFMの7年
東日本大震災からまる7年になります。
南相馬市では一刻も早く水道、電気等、生活情報を市民に伝えようと、震災の翌月の4月に臨時災害FM局を立ち上げました。
最初これに関わったのは一般市民の人達で、避難生活が落ちついて来ますと、ひばりFMという愛称も付き、市民のラジオとして親しまれてきました。
この3月、初期の目的は終えたとして放送を終了することになりました。
南相馬 ひばりFMの中心のメンバーで今野 聡さん、この放送に携わった皆さんに伺います。

市役所の一角で放送を始めてまる7年に成る。
朝9時生放送を始めて朝昼晩とっています。
朝は「おはよう南相馬」 昼は「こんにちわ南相馬」 夜は「お晩です南相馬」
生放送でやっています。
9名のスタッフで、20代から60代、男性女性がおりまして、ほとんどのメンバーがながくやっています。
私は農業研修を受けてこれから農業でやっていけるかなあと思った処で、東日本大震災がきました。
パイプハウスを作る作業を一人でやっていたときに地震が来ました。
避難生活を始めることになりました。
機材操作の募集が有り、いじれるのではないかと思いました。
最初に面接に行ったときに機材操作の人はいるので取材をやって欲しいと言われ、取材スタッフとして入ることになりました。
やっているうちに、自分からも出演することになりました。

ここは7万人だったが、2万人位になってしまっていて、20km圏内は立ち入れないので、この町はどうなっていくんだろうと思って、町で起きていることを取材すると云う事は初めての体験だったし、やり甲斐がありました。
東京の日本国際ボランティアセンターの人(元新聞記者)が支援活動の中で来ていただきました。
2011年の7月にひばりFMに入ってラジオだけではなくて、ツイッターでも発信できればいいと思ってツイッターを始めました。
「相馬野馬追」のお祭りを7月下旬にやっていて、それを芥川賞作家の柳美里さんが見に来て居て、話をする機会があり、南相馬の人と話ができる番組をレギュラーで持ちたいと云うことで、二人と話す「ふたりとひとり」と言う番組が始まりました。
今では290回を越えるようになりました。
2015年4月には御家族で引っ越してこられました。
その後柳美里さんは小高区に引っ越しをされて本屋さんをやっています。
*柳 美里(作家)「福島・南相馬に生きる 」 2017年3月10日放送
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/03/blog-post_10.htmlを参照ください。

番組では色んな人にインタビューします。
被災の体験、今後のことについて、などさまざまです。
2012年6月から南相馬ひばりFMという愛称になりました。
30ぐらい臨時FMが立ちあがり、愛称を付けた方がいいのではないかと言うことで、公募した中から選んだのがひばりFMでした。
「相馬野馬追」祭りのメイン会場が雲雀ケ原という名称の原っぱで、この名称になりました。
*現在の放送の状況を一部放送する。
市民の方の反応はリクエスト曲、街で有ったことなどが来ています。
閉局すると云うことで感想を聞きたいと言うことで情報を取ったのですが、知らないことを一杯知ることが出来たとか、インターネットでも放送していたので南相馬市の状態はどうなのと言うような風評の中で、毎日やっていると言うしっかり伝えられる媒体であっとして大きな功績だったというような意見をいただきました。

ひばりFMを介して相馬市、自分に向き合う貴重な体験だったと思います。
色んな地元の方支援者(国内、海外)が会場に来ていただいたので、それも貴重な体験でした。
放射能に関して医師が解説する番組が有って力を入れてやった感じはあります。
坪倉正治医師が内部被ばくの検査を担当していて、毎週何日か通って診療されていました。
市内で講演もしていて、10分程度のシリーズものにすればいいと思って、放射線に対する疑問、質問に答えていくような形にしました。
80本位取りまして、その番組を聞いて安心したとか、南相馬に帰ろうと思ったとか、そういうところのお手伝いができたと思っています。

あらいずみ?さん:パーソナリティーとして参加。
2カ月で避難先から帰って来て震災等の助けになる様な事をやりたいと思うようなことがあり、手伝ってくれる人を募集しているからということを父から聞き来てみました。
最初何も分からなかったんですが、着て直ぐ坐って話をしてくれと言われて「えっ」と思ったのですが、何とかやり始めました。
マイクを通して自分の考えを言わなければいけないわけで、メールが来たりするようになって聞いてくれる人がいると言う反応が有った時に、やっている意味があるのかなと感じました。
自然災害の危険はなくなったわけではないので地元でも生かせる情報を発信できたらなと思ってやってきました。
この町で当たり前の生活ができたらいいなと思います。

佐藤孝一さん:パーソナリティー兼番組制作。
東京都葛飾区の出身です。
ボランティアで南相馬市に来たことがきっかけで、移住しました。
ゲストハウスを開業して鹿島区で運営していましたが、ひばりFMの「移住者のゆるゆる行くよ」と言う番組に出演することがきっかけで働くようになりました。
もっと南相馬市の事を知って発信したいと思ったので、少しずつ出来てきたのかなあと思って出演、業務をして良い経験をして感謝の気持ちでいっぱいです。

吉野よう子さん:パーソナリティーとして参加。
短くて長かった、長くて短かったような感じで皆さんに助けられてここまで来ました。
病院関係、買い物が出来るところとか、生で3回ずつ放送していて、思い出がある番組です。

私は7年間スタッフを務めてきて4月以降は何も決めていなくて、復興はまだまだだと思っていて、地域の復興にかわかるような、なにかをしていきたいと思っています。
経済的な関係で、コミュニティーFMを設立と言うふうにはいきませんでした。
3月25日が最後の放送なのでそれまで力を注いで行きたいと思います。



2018年3月8日木曜日

根本修二(福島県南相馬市 園芸会社社長) ・大震災を乗り越え、シクラメンで日本一!

根本修二(福島県南相馬市 園芸会社社長)・大震災を乗り越え、シクラメンで日本一!
大震災から今年でまる7年になります。
この地震で様々な産業が壊滅的な被害を受けましたが、根本さんの経営する根本園芸もハウスが倒壊し、そのうえ福島原発の影響もあって花を栽培することが不可能になりました。
その後こつこつと再建を進め、一昨年から自前のハウスを作って優良品種のシクラメンを育てて来ました。
そして去年、平成29年度花き品評会、シクラメンの部で第一位の農林水産大臣賞だけでなく2,3位にあたる賞も受賞して、1位から3位までを独占すると云う、初の快挙を成し遂げました。

縦横40m☓20mのハウスが6棟あります。
今はシクラメンは終わって春の花、母の日に向けて仕上げの段階に成っています。
ラナンキュラス、ペラルゴニウム、クレマチスなど母の日まで色んな花が続きます。
今年は寒くて、若干春めいてきたところです。
花は順調に進んできています。
東日本大震災で、原発事故もあり、避難生活ということで、花を作るのが難しい部分もありましたが、まわりからの支援もありようやく今回賞を貰ったと云うことは嬉しく思っています。
息子夫婦とやっています。
まさか1位から3位までを取れるとは思っていませんでした。
小高区という原発から12kmの所にありました。
震災前は今より若干多い面積でパートさんも結構多くいましたし、生産量も今の倍ぐらい生産していました。
夏は海からの風があり涼しく、冬は温暖ないいところで花栽培には適していました。

高校卒業後、埼玉県に研修に行き、それからスタートしました。
45年前の花作りの技術は試行錯誤でシクラメンから始めたが、上手くいかず一時止めました。
息子が高校卒後、後を継ぐと云うことで改めてシクラメンをすることになり、息子が栃木県に1年間研修に行って又始めました。
7年前に東日本大震災が有りましたが、当日は準備の為にパートさんは休んでもらっていました。
息子とハウスで仕事をしていました。
突然とんでもない揺れが起きて、ハウスはさほど被害はなかったが、重油タンクが倒れて油が流れ出していました。
大津波警報が有ったが、ここは津波が来ないだろうと思っていました。(海まで2km)
松林のむこうに真っ茶色な水煙が見えてとりあえず高い所に逃げました。
海辺の家屋が流されてきましたが、ハウスまでは直接には来なかったです。(川の堤防で止まる)
原発被害で避難したため水門が閉ったままだったので、その後川の水位が上がって、その後1か月間湖の状態に成っていました。

津波の翌日にラジオを聞いていたら10kmの避難指示が出て、12kmのところだったので避難した方がいいと思って飯館村に行きました。
飯館からも非難することになり翌々日山形の米沢の方に3週間避難しました。
茨木の古河に同業の友人がいて、来ないかと言うことで、母親(92歳)も連れてお世話になることになりました。
息子達は栃木でお世話に成った所で面倒を見てもらうようにお願いして、2か所にわかれて生活しました。
古河の鈴木さん宅には3か月お世話になり、息子たちは12月一杯までお世話になりました。
南相馬の状況も色々判ってきて、仮設住宅も建ってきて、避難生活をしているのが辛くて、地元で仕事をしてみたいと思っていたところ、仕事も出来るようになりました。
知り合いが花を作っていたが、数年前から辞めていて、ハウスが空いていたので話をしてここでやろうかなと思いました。

帰って来て原町(原発から20kmの所)で心配ないところだったので、借りてハウスの準備などを始めました
花作りそのものが体に染みついているので、他は考えられなかった。
シクラメンは11月が種蒔きなので、その準備とそのほかに1月に出荷できるものの体制を作りました。
息子が12月いっぱいで辞めて1月から宮城県の名取に息子の嫁さんとその子供はアパートを借りて暮らして、息子は原町の仮設を借りて生活しました。
息子も雇われの身だと仕事に対する意欲、気持ちが違うので、自分で経営をという思いがありました。
規模が小さく家族だけでやれたので、細かいところまで目が届くし、初心にかえって丹念に出来る。
シクラメン作りに専念できました。
納得の行くシクラメンを作れることができて来ました。
ピンチがチャンスと思い 市、県、国からの補助金を利用して鹿島区に土地を購入して、今までの反省点を考慮してハウスなどを造りました。

現在7棟目も予定しています。
震災後初めて品評会に出しました。
そうしたら1位~3位までを独占することになり吃驚しました。
最後に1鉢1鉢、葉と花をそろえる作業が大変ですが息子が丁寧にやりました。
1位はヨハンシュトラウスという品種です。(赤い色)
2、3位はシューベルトと云う品種です。(ピンク)
今までの努力が認めてもらったなあと大変喜んでいます。
周りのいろんな人たちから支援をいただきました。
花に関しては風評被害が少なかったので、再開したらすぐ声を掛けてくれと言うような話が有りました。
出荷先は8割は関東地区ですが、通販になると全国に行っています。
世代が変わると好みも違ってくるし、品質をよくして行くのがベストだと思っています。
マンションなど部屋がしっかりしてきて暖かくなってきているので、暖かいと長持ちをしないので、窓際の部屋の涼しい所に置いてもらうと長持ちをします。