2018年3月7日水曜日

須藤亜佐子(相馬・弦楽器指導者 )    ・共に奏でる復興の調べ

須藤亜佐子(相馬子どもオーケストラ弦楽器指導者 )・共に奏でる復興の調べ
東日本大震災、原発事故と2度の大災害に見舞われた福島県相馬市で震災後演奏活動をしているのが相馬子どもオーケストラです。
子供達の弦楽器の指導に当たっているのが須藤さん62歳です。
須藤さんは南相馬市で教室を開き、子供達にヴァイオリンを教えていましたが、震災で教室が半壊、加えて原発事故で住んでいた地域が避難指示区域と成ったために生徒たちは散り散りになって音楽への情熱が失せる日々が続いていました。
そんな中で震災からの復興に向けて、相馬市で子供オーケストラを結成しようと云う話が持ちあがり、須藤さんが弦楽器の指導をすることをひきうける事になりました。
オーケストラは全て子供が無償で音楽教育を受けられる、エル・システマのシステムで運営されています。
オーケストラを通じて子供達の心の再生をはかろうと言う須藤さんたちの活動はどのようにして繰り広げてきたのか伺いました。

7年間あっという間に過ぎました。
当日、自宅で12,3人個人レッスンをしていました。
ヴァイオリンを始めたのは相馬の小学校で器楽クラブが有りそれがきっかけでした。
宮城県の音大に行きました。
午前中に相馬にはいり音楽教室をまさに始めようとした時に、今まで経験したことのない凄い揺れでした。
その時は大人の生徒でしたが、立ち尽くすだけで建物がつぶれると思いました。
揺れが収まって、チェロ、ヴァイオリンなど外に持ち出しました。
実家に帰ってからTVでみて、津波が10mとかで間違いじゃないのと思いました。
家は海から4km離れていました。
海の近辺の方が気の毒でなりませんでした。
原発事故では息子からメールが有りました。
避難指示が出てそのまま入れなくなりました。
もう終わりだなと言うような感じでした。
実家が相馬なのでそちらに母が一人でいたので、そちらに移りましした。
教室では生徒たちは散り散りになりしばらく連絡がつきませんでした。

ヴァイオリンケースを開けたのは1ヶ月後でした。
音楽をやろうと云う気持ちにはなりませんでした。
その頃は生きるのに精いっぱいでした。
訪問演奏が有りましたがそれさえ聞く気になりませんでした、なんかいやでした。
避難生活が1年ぐらい過ぎて、市役所から電話がありました。
子供オーケストラが出来るらしいと、そうなった場合は手伝ってもらえるか、楽器店から電話が有りました。
光がさして来たような感じでした。
エル・システマ(ヴェネズエラ発祥と言われる)と云うシステムで運営しようと云うものでした。
ドイツからの呼びかけでした。
エル・システマが相馬市と提携したので、運営資金は相馬市と国から60%、応援してくれる企業個人からが40%です。
相馬市教育委員会から校長さんに説明が有り、募集中のプリントを配付、楽器は無償で貸出します、お金はかからない、世界中から指導者が来る、誰でも入れます、と云うことで
70人ぐらいの子供たちが来ました。

二つのグループに分けてグループレッスンを開始しました。
最初、ヴェネズエラから指導者が来てくれて、やり方を教えてもらいました。
先ずはリズムから覚えさせて、弓を動かすところから初めて、「四匹のひつじ」の短いフレーズから弾き始めました。(4本の弦の番号で弾いてゆく)
リズムは体育の授業のように膝を曲げ伸ばしをします。
体を使ったものなので、子供達は楽しく始められました。
楽器を持ち始めてから一グループ15人にしました。
週1回ですが、家に持ち帰るようになり、メキメキ上手くなりまして、クリスマスには記念の演奏会をやる事が出来ました。
アントニオ・ヴィヴァルディの「調和の霊感 第8番」を一楽章やりました。
時間が足りないと云うことで、それまで私の自宅まで来て猛練習しました。
子供達の心の栄養にもなりました。

海外からも演奏に来てくれましたが、音楽って、言葉はいらないんですね。
指導を受けて子供達もどんどん乗って行きました。
ベルリンのほうからドイツに来て演奏してほしいとの連絡がありました。
会場も決まって、ベルリンフィルの方々と合同演奏ができることになりました。
ヴェートーベン 交響曲5番 「運命」を演奏することになりました。
一楽章は人生の悲しを表している。
四楽章になるとそれが喜びに変わって行く。
「運命」が私達の人生そのものかなと思って、その曲を勉強する事によってつかめると思いました。
「運命」の曲は正直1年早いと思いました。
ヴェートーベンの長のスケール(基礎練習)から勉強を始めました。
繰り返し繰り返し練習することによって弾けるようになっていきました。
一楽章通った時は涙が出ました。
管楽器が出来ていなくて高校のブラスバンドにも希望を募って混ざってもらいました。
合同練習の時間が取れなくて大変でした。
オーケストラになるとボリュームが違うので感動しました。

ドイツに行き、向こうのプロの方の指導で一回やるごとにレベルが上がって行きました。
夜だったので小さい子の眠気に心配しましたが、ベルリンフィルの方も加わりみんな見事に演奏しました。
お客さんは総立ちで拍手してくれて感動してくれました。
突っ走ってきたなあと思いますが、このペースで来たからヴェートーベンも弾けるようになったのかなあと思います。
なんとかクリアしてきて、あきらめない心が確実に育ってきていて、普通の生活にも活かせているんじゃなっかと思います。
歩みを止めないでずーっと歩み続けてほしいと云うのが願いです。













2018年3月6日火曜日

新実徳英(作曲家)            ・歌い継がれる“つぶて”ソング

新実徳英(作曲家)        ・歌い継がれる“つぶて”ソング
東京大学工学部を卒業した後、東京芸術大学に入り直したと云う経歴の作曲家です。
ピアノ曲や管弦楽、合唱曲などの作品が有ります。
NHKの全国学校音楽コンクールの課題曲でも、平成25年の高校の課題曲「ここにいる」を作曲したり、平成19年の小学校の課題曲「手をのばす」などの作曲もしています。
東日本大震災の直後新実さんはかつてから親交のあった福島の詩人和合亮一さんがツイッターで発信していた「詩の礫(つぶて)」の作品に曲を付けました。
悲しみが風化されないようにとつぶてソング12曲を作りました。

つぶてソング、東日本大震災は僕が生まれてから最大の惨事でした。
TVで津波が押し寄せる光景を見て物凄くショックを受けまいた。
大震災に対して何か共有できる歌を作りたいと思いました。
4月に友人が和合亮一さんが「詩の礫(つぶて)」と言うのをツイッターでやっていると云うことを教えてくれました。
「宇宙になる」という混声合唱曲で和合さんの詩で僕が書いているんで旧知の中でした。
ゲラ刷りを(40枚位)送ってもらいました。
是非歌にしたいと云うものがいくつもありました。
歌を作ることにしました。
3曲づつ作りました。
「あなたはどこに」と言うのが最初でした。
1ヶ月ちょっとで12曲を作りました。

*「あなたはどこに」(つぶてソング1) 作詩 和合亮一  作曲・編曲 新実徳英
あなたはどこに居ますか。
あなたの心は風に吹かれていますか。
あなたの心は壊れていませんか。
あなたの心は行き場を失ってはいませんか。

命を賭けるということ。
私たちの故郷に、
命を賭けるということ。
あなたの命も私の命も。
決して奪われるためにあるのではないということ。

人の事を思いやる心は凄く大事だと思います。
和合さんは自分の言葉に翼が付いて飛んでゆくようだと言っていました。
「詩の礫(つぶて)」と云うタイトルです。
僕は「つぶてソング」と名付けました。
2005年位に和合さんの詩の本を手に取っていました。
福島から作曲の依頼が来て作詞担当が和合亮一さんでした。
2009年に混声四部合唱曲を書いています。
その後大震災が起こって、「詩の礫(つぶて)」を知って和合さんに電話して、そして作曲に入って行きました。
7月3,4,5日あたりに、古河に知人がいて、石巻、気仙沼などに連れて行ってもらいました。
福島音楽堂でつぶてソングを歌いました。
放射能と言う歌もあり、福島音楽堂にも降っていて、この歌は歌えませんでした。
屋外から戻ったら髪と手と顔を洗いなさいと教えられたが、わたしたちにはそれを洗う水が無いのです、ということです。

メディアはニュースを求める、オールドを求めて居ない。
豊かな自然の中で暮らしていた方々が、そこから離れて劣悪な環境で暮らさなければいけないと云うことは本当につらいと思います。
つぶてソングとかを介して心がつながってくれれば本当にうれしいと思います。
作ったときは独唱版で2011年の年末に合唱版を作って皆に歌ってもらおうと思いました。
女声合唱、混成合唱、男声合唱の3つのバージョンを作りました。
忘れられないように、歌い継がれてゆくと云うことは意味があると思います。
東海大地震が起こらない保証は無いので明日は我が身と思わなければいけないと思っています。
合唱では心を一つにして歌うので熱い共感と言うものはあると思います。

その後和合さんの詩で「決意」(男声合唱曲)とか、「ふと口ずさむ」(女声合唱曲)
「黙礼する」(「黙礼」と云う詩集から)第一番、第二番 50分を越える曲です。
重い体験を共有する時に合唱という表現手段はとてもいいんじゃないかと思います。
「阿修羅」弦楽四重奏第二番 大震災の映像を見、怒りながら書いた曲です。
金管五重奏 「神はどこに」、「荒ぶる神・鎮める神」弦楽合奏と打楽器と尺八とソプラノが入っている。
音楽の役割は人間が一番辛いところへ向かって、何かを荷なって行く役割があるのではないかと感じていました。
震災後どうやって生きていくのか、どうやって作曲してゆくのか、自分の心の中に重いものがぶら下がっているような感じがしていて、重しをどうかしたいと思ったが、「つぶてソング」を作って心の重しは取れたかと言われると、一向に取れません。
いつもそのことを思うしかないと思います。
忘れないために震災後作曲した作品に通し番号AE(After The Earthquake )を付けています。
番号が72番になります。
ニューヨークで行われるピアノクインテッド 「魂の形」(ピアノ五重奏曲)、震災、理不尽な死を迎えざるを得なかった魂を思いながら書きました。
杜若(かきつばた)謡曲(在原業平にちなんだ話)を女声合唱にして欲しいという話が有り、
和合さんにおねがいしました。
他にも和合さんにお願いしています。(『筒井筒』ほか)

*「重なり合う手と手」(つぶてソング12)作詩 和合亮一  作曲・編曲 新実徳英
重なり合う手と手
重なり合う葉と葉
風にふかれている
木とわたしとあなた
ふるさとはあなたにとって
どんなものですか

もしもまよっているのなら
こうこたえるとよい

ふるさとは夕暮れ

2018年3月5日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)    ・【近代日本150年 明治の群像】渋沢栄一

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)  ・【近代日本150年 明治の群像】渋沢栄一
講談師 神田蘭
日本資本主義の父と言われている。

講談による紹介。
渋沢栄一は1840年埼玉県深谷市に生まれる。
藍葉の販売、養蚕、農業と手広く手掛けていた豪農でした。
勉学に励むかたわら、家業の手伝いをしていたが、父の代行で岡部藩の代官所へ行く。
笛が嫁入りだから金を出すように言ってきたが、一存では決められないと断るが、烈火のごとく怒りだし、悔しさと官尊民卑の世の無常を痛切に感じる。
やがて尊王攘夷運動にのめり込み、高崎城ののっとりや横浜の外人襲撃を企てたりしたが、計画を断念、身の危険を感じ、京都と行く。
ひょんなことで一橋慶喜の家来となり、幕臣になる。
慶喜の弟徳川昭武に同行してパリ万博に行く。
ヨーロッパ各地を回り、先進技術、産業、経済を目の当たりにして感銘を受ける。
徳川昭武一行の案内役の銀行家のフリュリ・エラールが軍人のビレットと対等に話をしていて、日本では考えられないことだった。
日本では士農工商の身分制度がはっきりしていて武士と商人が対等には話せなかった。
ヨーロッパの文化を排除するのではなく受け入れることが日本の為になると思った。
これからは欧米並みに強くならなければならない、そのためには製鉄、造船など様々な産業が必要になって来る、と考える。
民間の力を活用するしかないと思って、株式の制度を勉強する。
帰国後静岡に商法会所を作る。
大蔵省の役人を経て民間の経済人として活動をスタート。
第一国立銀行、そしてその後数々の企業に関わって行く。
500社、600の教育機関、社会公共事業の支援を行う。
道徳、経済合一説、道徳と経済は両立させることができる、経済にとって道徳は不可欠、
道徳にとって経済は不可欠、と考える。
「自らの利益を第一に考えるべからず、商人にとって信用こそが根本、嘘などを付かず、商売はできる」と断言。
道徳論理、経済を結び付けることで日本の資本主義を発展させようと考える。
それを纏めたのが「論語と算盤」

「競馬の神様」大川慶次郎も渋沢家の血を引いている。
豪農の存在が資本主義の仕組みと密接な関係を持っていたのか、研究者がどう考えているのか。
13歳で江戸見物。
ひょんなことで一橋慶喜の家来となり、幕臣になる。
慶喜の弟徳川昭武に同行してパリ万博に行き、見聞を広める。
明治2年(1869年)1月に静岡で商法会所を設立、しかし大隈重信に説得され、10月には大蔵省に入省することとなる。
明治5年 国立銀行条例を作る。
予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、明治6年(1873年)に井上馨と共に退官した。
第一国立銀行の頭取に就任。
明治9年に国立銀行条例を改正、全国各地に銀行を設立することになる。
鉄道を作る、地場産業を起こす。
企業の設立にかかわった数が500社以上にものぼる。
東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙(現王子製紙・日本製紙)、田園都市(現東京急行電鉄)、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績、大日本製糖、明治製糖など、多種多様の企業の設立に関わる。
渋沢財閥と言ったものはつくらなかった。
明治42年(1909年)70歳の時にほとんどの関係事業から身を引く。
東京瓦斯、石川島造船所、東京人造肥料、帝国ホテル、東京製綱、東京紡糸、日本レンガ製造、東京海上火災保険、日本興行銀行・・・59社から身を引く。
大正5年(1916年)喜寿に第一銀行退く。

道徳経済合一説
幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説く。
「富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。」と説く。
合本組織(株式会社)と論語
国家が栄えることを望むならば国を富ますことをしなければいけない。
国を富ますには科学を進めて商工業の活動に寄らねばならない。
その元は道徳であり、照準は論語に依るほかはない。
と言っている。

600もの教育、社会事業にかかわった。
教育にも力を入れ森有礼と共に商法講習所を設立しその後一橋大学になる。
大蔵商業学校、現在の東京経済大学 ・・・等々。
男尊女卑の影響が残っていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立、日本女子大学校・東京女学館の設立に携わった。
明治35年商工会議所会頭としてアメリカのルーズベルト大統領とも会見している。
明治42年渡米実業家の団長としてタフト大統領、エジソンにも会っている。
ウイルソン大統領、ハーディング大統領とかとも会っている。
アメリカとの対立がだんだん激しくなってくるころ、民間レベルで修復させるために活躍する。(政治でも活躍する)
国際平和でも全国ラジオ放送中継で演説をしている。(昭和3年11月11日)
他国の理解を顧みないと云うことは正しい道徳ではない、共存共栄でなくては国際的に国をなしてゆくことはできない、と云う様な事を言っている。

民間外交の先駆者として、日本国際児童親善会を設立し、アメリカの人形(青い目の人形)と日本人形(市松人形)を交換するなどして、交流を深めることに尽力している。
1924年排日移民法が出来て、日米関係が悪化をして、これを和らげようと日米で人形の交換が行われた。
アメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士、人形を通じての日本との親善活動がおこなわれた。
大正15年日本放送協会にも貢献している。(顧問)
昭和6年11月11日 91歳で亡くなる。














2018年3月4日日曜日

井上和彦(声優)             ・【時代を創った声】 

井上和彦(声優)             ・【時代を創った声】 
アニメサイボーグ 009の主役島村ジョー役や、キャンディーキャンディーのアンソニー役などで知られていますが、最初はプロボウラーを目指していたそうで、何故声優に成ったのか、どんな苦労が有ったのかなどについて伺います。

アニメサイボーグ 009 TVアニメとしては2作目 1979年からの放送。
24,5歳の頃でした。
石ノ森 章太郎原作。
「UFOロボ グレンダイザー」と云うアニメーションが有りその主人公をやらせてもらって、その終わりごろアニメサイボーグ 009をやる事に成っていて、急遽呼ばれて行ってオーディションを受けました。
セリフの時はよくなかったが、監督から「名前は」と聞かれて、「井上和彦です」と答えたら、島村ジョーはその声だよと言われて、受かってしまいました。
アニメサイボーグ 009は忘れることのできない作品でした。
テストの時にアドリブで「加速装置」と思わず言ってから、台本に加速装置と書かれるようになりました。
心の声と言ったものをつい言ってしまいますが、ふざけるなと言われてしまいます。

高校時代ボウリングがはやっていて、プロを目指してやってみたいと思ってました。
ボウリング場に行って、就職し、40ゲーム位やっていました。
アベレージが180位でないとプロに成れない状況でした。(一応そのレベルには行きました)
どうってことのないことでしたが、対人関係がうまくいかず退職しました。(半年)
2カ月ぐらき引きこもってしまいましたが、友人が声優の学校に行くので一緒に来てほしいということで、結局一緒に試験を受けることになり、受かることができました。
(友達は落ちてしまった)
1年間 週5日いって、1年の後半の1日は先生が永井一郎さんでした。
卒業するときにプロダクションに入れてもらいました。
仕事をぽつぽつ頂くようになって、芝居ができないとだめだと言われて、見学をさせてもらったりしました。
効果音を表舞台でやることになり、それが初舞台となりました。
神谷明さんがやっている芝居に代役をやったり、段々舞台に出るようになりました。
アルバイトも掛け持ちをして並行してやっていました。
「キャンディ・キャンディ」をやっていたときもアルバイトをやっていました。

「マジンガーZ」(1973年)の兵士役では、たまたま見学に行ったら、せっかくだからやらしてもらいなよと言われて、それがデビューと言うことになりました。
「UFOロボ グレンダイザー」では来なくていいよと言われたが、河原で3時間ぐらい毎日練習して、頑張りました。(3,4カ月)
翌年からレギュラーで使ってもらいました。
「一休さん」、「キャンディ・キャンディ」(丘の上の王子様 / アンソニー役)へと繋がっていきます。
「美味しんぼ」(1988年)の主人公・山岡士郎役でやっと少しわかりかけて来ました。
二日酔い出てくる場面が多く、二日酔いの声を出す時のONとOFFの切り替え、力を抜かなければいけないと云う役作りをしたのがあの役が初めてでした。
力を抜いた状態でぼそっと喋ると言うことは今まで無かった。
永井一郎さん、僕にとってもお父さんみたいな存在ですが、事務所をうつるときに裏切る形になり暫く口を聞いていただけない時期が有りました。(5~6年)

会うたびに「おはようごじます」と挨拶していましたがそっけない感じでしたが、いつか見てろと思っていました。
「コクーン」と言う作品で、一生懸命やって、終わった時にスタジオの所に永井さんがいて、「おつかれさまでした」といったら、「よかったぞ」といってさっと帰っていきました。
初めて認めてもらったと、暫くぼろぼろ涙を流しました。
晩年は永井さんの家に遊びに行かせてもらって、一緒に飲んで明け方の3時ぐらいまで永井さんの家で飲ませてもらって、色んな話をしました。
事あるごとに応援していただきました。
永井さんは、細かいことは自分で気づいて自分なりの芝居を見付けなさいみたいな、クリスマスツリーの一番上で輝いている存在です。

20年以上教えているが、それぞれが一生懸命なんですけれど、一生懸命がちょっと違うような気がします。
人と比べないで、自分なりの一生懸命さが出来ればいいんじゃないかと思います。
最近の若い人は出るのも大変ですが、自分でやりたいと思ったら夢に向かってどれだけ一生懸命にできるか、出来るだけ頑張ればいいと思う。
努力するという体質を持っていれば、どんな仕事に就いたところで努力する人に成っているので、例え声優で芽が出なかったとしても他に仕事に就いたときに、何かしら自分に向いている仕事に絶対に付けると思います。
努力体質の人になったらいいと思います。
私は生涯現役でやりたいと思います。














2018年3月3日土曜日

井上ウィマラ(高野山大学文学部教授)     ・社会で仏法を生かす

井上ウィマラ(高野山大学文学部教授)     ・社会で仏法を生かす
58歳、かつては僧侶をしていましたが、38歳で還俗してその後僧侶から離れた立場から瞑想を教えています。
最近では終末期医療に携わっている医師や看護師に仏教の瞑想をルーツにする心のトレーニング方法、マインドフルネスの指導もしています。
こうしたウィマラさんの活動は世界中で様々な人達との出会いを繰り返してきたことで生まれました。
あえて僧侶を辞めることで独自の道を歩む井上さんにその人生の軌跡、マインドフルネスとはどういうものか伺いました。

ウィマラと言う名前はビルマの仏教で出家した時にいただいた名前で、マラ=汚れ、ウィ=離れる、汚れから離れる、清浄と云う意味です。
還俗後も使っていますが、ウィマラと言う名前の頃の友達の方が非常に沢山で豊かで自分の事を深くわかって応援してくれる人も多いので、坊さんをやめたときに、ウィマラと言う名前が気に入っているので先生に使っていいかどうか聞いたら、許してくれました。
マインドフルネス、仏教の瞑想ルーツにする心のトレーニング方法がブームに成って来ていて、心理療法の医療でも取り入れられるようになって、病院の看護師さんが聞きに来てくれて、死の看取りに関連する医療関係者の人たちが勉強したいと云うことで呼んでいただいて勉強会をしています。
「念」→今ここで自分が何をしているのかをしっかりと意識している心が「念」という元々の意味です。
英訳ではマインドフルネスと訳されている。
心の向け方のトレーニングだと云うふうに考えてもらえればいいと思います。
坐って目を閉じて呼吸を感じてみましょうと云うのが一番のベーシックですが、日常生活のあらゆる場面でも、今自分の中でなにが起こっているのか、自分と相手の間で今何が起こっているのか、ありのままに観察して行くのがマインドフルネスなので、日常生活のすべてに応用してゆくことが可能で、応用してゆくことが一番理想的だと思います。

小学校に上がるかどうかのころに、凄く寒い冬の朝に、納屋の板の間から朝日が差し込んでくるのを見つめていた時に塵がキラキラ舞っている状況を見ました。
当時夜は田舎なので星空がきれいで天の川が見えていた。
朝日の中で塵が舞っているのを見て、ふと夜の天の川の様子が重なって見えてきた。
指先についている塵と同じ塵が目の前でキラキラ舞っている、天の川が重なって、もしかして目の前でキラキラしている塵の中にも天の川と同じぐらい広い世界があるのではないかとふっとそう思った。
世界を繋ぐ真理というか、パイプのようなものが見つかったら僕は自由に成れるだろうなあと、そう思いました。
高校の倫理社会の本の中に道元の言葉が出てきて、「仏教を学ぶことは自分について学ぶこと、自分について学ぶことは自分を忘れるところまで学ばなければならない、自分を忘れるところまで自分を学べばその時には周りのものがすべて命として自分を照らし出してくれる」と言うのが有りました。
それまで哲学とか、心理学などの本を読んでいたが、自分が知りたい核心をぐるぐる回っているだけで核心にスーと入って来るような文章には出会えなかった。
その言葉を読んだときに、よく判らないがこの人は僕の求めている核心にスーッと入っていける言葉と思って心引かれました。

高校3年の時にオートバイに乗って旅をしている時に永平寺にいきました。
座禅させてほしいと飛び込みましたが駄目でした。
しかし粘って7~10日間座禅させてもらいました。
足が痛かったのは覚えているが大きな体験といったことはなかった。
もう一回高校の生活に戻ろうとは思いました。
京都大学文学部哲学科に合格するが、授業では生きるための知恵を授けてもらうものとは違うと思いました。
中退しました。
25歳の時に出家をします。
周りに合せてキチキチっとやって行くことに対して合わなくて永平寺を飛び出してしまいました。
自分の求めているものとは違うという感じがしました。
北九州の門司にビルマの僧院が有って、そこに行きたいとは思わなかったが、南に行きたいと云う思いが有って旅をして、山の上に仏塔が見えて、友達が話していたところだと思い出して、瞑想を教えてもらいたいと電話をしました。
1週間寝起きをともにして、自由に瞑想するやり方を教えてもらいました。
それまでの禅宗の分刻みの瞑想とは全然違って無重力空間に放り出されたような自由さを体験しました。

枠が欲しいというような不安を感じました。(カルチャーショック)
2週間位経って、ここにいていいのかなあと思うようにもなりました。
1年ぐらいいて、院長先生から正式なお坊さんに成るかと問われて、ビルマに行くことになりました。
ビルマでは1時間座って(呼吸を見つめる)、1時間歩くと(感覚を見つめる)云うことを一日中やりました。
一日の終わりにどうだったかとインタビューがありました。
2週間ぐらいすると暑さにも慣れて深く瞑想するようになりました。
いちばん長く座っていたのは13時間ぐらいの時もありました。
一回坐るとパッと6時間ぐらい過ぎてしまうような状況になってきました。
横に成っても目が覚めっぱなしで3,4日位覚醒が続く状況が有りました。
自分の行動一つ一つを全て1m位後ろからTVカメラで撮影しているような感覚で自分を観察しているような感覚に成りました。
TVカメラで見張られている様な感覚から見守られている様な感覚に変わりました。
温かく包まれている様な感じで緊張は無かった。

芸事でもなんでも一つの道に抜けでてくると、自分自身を離れて見る様なもう一人の自分が観察する、見守ってくれるような温かさを持って観察するもう一つの意識がでてくると云う事がマインドフルネスと言う仏教瞑想の特徴かと思います。
経典の学問の勉強もしました。
ステアリングとブレーキがまだなので、学問の勉強を通して教えてやってほしいと先生から紹介状に書いていただきました。
「マインドフルネスの確立に関する教え」の中で、①自分の呼吸を観察する事、②相手の呼吸を観察すること、③自分の呼吸と相手の呼吸を交互に観察すること、3つのモードがあり、②,③の問題を解決したいと思いました。(経典では①しか教えない)
無意識の世界に触れるような気がしました。
無意識に関しては先生は知らないと答えました。
ここにいるか自分の道を探すか、急にここで決めろと先生から言われました。
ビルマを出ますと即答しました。

日本に戻って、弟がカナダのトロントに移住していて、弟の処を訪ねて行きました。
そこで瞑想を教えたりしていたら、カナダ人の瞑想グループに教えるようになった。
心理療法の方で教えてほしいと言ってきました。
セラピストを紹介してもらい、セラピーに関することを教えてもらいました。
どういうふうに話しているかの息使いは、相手の呼吸を観察に繋がる。
自分が知りたいと思っていた、他人の呼吸を観察することが判ってきました。
①自分の呼吸を観察する事、②相手の呼吸を観察すること、③自分の呼吸と相手の呼吸を交互に観察すること、の3つが心理療法士との交流の中で少しずつ解けて来ました。
瞑想の事を教えるときにも、仏教の大切な概念を教えるときにも、心理療法の言葉、精神分析の言葉を使った方がしっくりする、うまく伝わる場面が増えて行きました。
それで心理療法と仏教瞑想が繋がってきました。

弟の処で赤ちゃんが生まれて、生まれたばかりの赤ちゃんを祝福してほしいと渡してきました。
ビビってしまったが、赤ちゃんを受け取りましたが、その瞬間に「命を掛けて守ってあげよう」と言う思いが湧いてきて、物凄い驚きでした。
人生このままでいいのかなあと言う思いがわいてきて、このままいいお坊さんで終わってしまっては人生半分空っぽのまま(満たされないまま)で終わってしまうような気がしました。
土俵を変えて瞑想の技を修行しなおさないと人生満たされないと思いました。
なんでもありの生活の中で、坊さん時代からの観察する心、思いやる心みたいなものを試してみたいと思いました。
還俗することにしました。
マインドフルネス、自分の頭の中でぐるぐるまわりをして、自作自演の苦しみを作り上げてしまうことがあるが、それをアースする(放電させる)、体の感覚に一回おいて、呼吸に意識を向けることがとても役に立つ。
呼吸のリズムの感覚に心を向ける事で自然に頭の中の過剰電流が放出されて、そのひとにあったなすべきこと、考えるべきことが新しい感じで自然に見え直してくる。
そのための役に立ってくれるものではないかと思います。
















2018年3月2日金曜日

岩出雅之(帝京大学ラグビー部監督)     ・あきらめない心

岩出雅之(帝京大学ラグビー部監督)     ・あきらめない心
今年1月7日に東京の秩父宮ラグビー場で行われた、第54回全国大学ラグビーフットボール選手権大会の決勝で帝京大学は明治大学を21-20で破り、前人未到の9連覇を達成しました。
その帝京大学の監督岩出さんは1958年に和歌山県新宮市生まれの60歳、高校2年の夏にラグビーを始めますが、監督、コーチもいない、しかも少ない部員と言う環境の中で、チームメイト全員で力を合せ、翌年には県大会で優勝します。
互いに信頼し合い優勝という目標に向かう中で、選手の人間としての成長がチームの勝利につながることを知ったと云う岩出監督に教育者としての原点を伺いました。

9連覇に向かえる事が幸せなことなので、いい刺激に捉えるようにしています。
良いプロセスをしっかり高めていこうとしてきたので、それほどプレッシャーは感じていません。
第54回全国大学ラグビーフットボール選手権大会の決勝で、明治大学がリードで前半を終える。
後半明治大学の20-7 15分で14-20に、その後21-20と再逆転で勝利する。
人間は完ぺきではないので負けてしまうこともあるし、ただ学生が自分自身を見つめて成長させてゆくことに関わっていて楽しかったし、その延長で臨んだ試合だったので、信頼しきって彼らの力を出し切ることに、させて貰う様な存在だったと思います。

新宮高校を卒業後日本体育大学に入学、3年生の時に日本一を経験、滋賀県の職員として勤務して、八幡工業高校を7連覇、全国への県代表に導き、帝京大学の監督に就任、9連覇達成。
父が建設会社を経営していて、飲食の店もやっていて家族も手伝っていました。
中学は野球をやったが背番号を貰えませんでした。
友達に誘われてラブビー部に入りましたが、腰を痛めて足を引きずるようなことになって辞めました。
足が治ってから復帰し、タックルを褒めてもらいました。
3年生の時に練習試合が1回しかなかったが、人もあまりいない中、結果的には県で優勝することができました。
一生懸命やることの大切さ、自分たちでやる事の自主性を学んだ1年間だったと思います。
県代表として天理高校と対戦するが完敗でした。

お互いが少しずつ自信を作り上げ、信頼を作り上げる関係性と、体力が付いたり、ラグビーのイメージが持てたとか、ひとつずつ結果が出てきたので、自立すると云うことを学んだラグビー部の活動でした。
日体大に進んで3年生の時に全日本大学選手権で日本一を経験、キャプテンをして、全日本代表の選手にもなる。
大学では縦社会の関係なので自分自身をいかに奮いたたせてゆくか、惰性になると飲み込まれてしまうものがいっぱいあったし、精神的に鍛えられた時代だったと思います。
故郷で培ったもの、温暖の地での大自然のエネルギーを一杯いただいて、自主性を上手く引きだしてくれる新宮高校の校風だったので、しっかりと授かってきたエネルギーを立ち向かうエネルギーに上手くきりかえることができたのではないかと思います。

滋賀県の職員としてゆくが、高校で採用されて監督へと言う思いもあったが、そうはならずにもやもやした時もありました。(公園勤務、中学の教員)
色々な人との出会いがあり、教員のイロハを教えていただきました。
それらが今に大きな基礎を作ってもらったと思っています。
中学生を指導するなかで、やんちゃな子がいても綺麗に掃除が行き届いている教室は落ち着いている。
自分自身の心の中と外からの環境が上手く繋がっていると言うことを、直接的に学ばせて頂いたので、掃除をすればみんなは成長すると言うことが、何故かと云う理由を明示できないが、帝京大学ではそういうことがとても大切で下級生を巧く導いてゆく為の要素として、昔より今は理屈を学生たちにも説明できて学生たちも理解してより利用していける様には成って来ていると思います。
好循環で学生たちは育っているので、その中でもっとよりよくして行くためには何が必要かと言うことを学生たちに問いかけるぐらいで、すこしずつ僕が直接かかわる事を少なくして行ってます。
意志と行動と継続する、この3つをどう動かすか、人から作ってもらうのでは無く自分で作る。
元気いっぱいのエネルギーを持ち、合せられる、エネルギーを作れる力を学生スポーツの中で彼らが自分を育ててくれれば、勝ち負け以上に大切なことがそこに入っているんじゃないかと思います。

その後八幡工業高校を7連覇、全国への県代表に導くことになります。
1996年帝京大学の監督に就任。
チャンスを与えてもらいました。
カギとなる方との出会いがあり、その人たちに感謝したいと思います。
2009年初優勝。
ラグビーは良い社会人を育てるためのいいツールだと思っています。
私も最初先ず勝ちたいと先走っていて、学生たちも空回りしてしまいます。
10年ぐらい前、幸せに繋がる活動をしなければいけないのかなあと思える時が有って、それからチームが少しずつ変わってきたと思います。
勝利だけではなく、学生達の成長、未来での活躍に繋がる様な成長を、力をつける期間に成るように僕の頭も整理できて今日があるのではないかと思います。
練習時間の見直し、学問的にも健康であることを証明してやる、食べ物も栄養素をきちんとする、合理的な運動、そういった守りを大事にする。
選手の素質としては10年前と変わらないと思いますけど、コーチングスタッフ、精神的環境、ハードの環境、カルチャーの部分、怪我を防ぐ、精神的な安定感をどう作れる、前向きに全力を出し切れるものをどう作れるか、考え方のメソードが年々高まって来ているように思えます。

体育会の縦関係、以前はきっちりしていたが、縦関係の逆転、常識の転換、マネージメントのいくつかを僕なりに整理して本にまとめました。
他人の意志でやるのではなくて、自分のイメージと意志でやれる環境は作っています。
楽しむと云うことをテーマにしてきました。
中身をより充実させて実行できる力を身につけながら、10連覇できるように頑張っていきたいと思います。




















2018年3月1日木曜日

南伸坊(イラストレーター)       ・異才が描くのほほんアート

南伸坊(イラストレーター)       ・異才が描くのほほんアート
丸刈りでおむすび型の頭をトレードマークにされているイラストレーターとして知られています。
1947年東京生まれ、ガロと言う個性あふれる漫画家を数多く輩出して日本のサブカルチャー界をリードした漫画雑誌の編集長を長年務めた後フリーとなりイラストレーターを始め装幀デザイナー、エッセーイストとしても、マルチな才能を生かして活躍されています。
歴史上の偉人や有名人に扮して本人に成り切る本人術のシリーズも人気です。
古希を迎えられた南さんに伺いました。

見て気持ちが和む作品。
イラストレーターはそういった感じのものが頼まれる方が、いろんなものが来るので、必ずしも狙ってというものでもない。
絵と云うのは割と芸術とかはそこに主張があるものが正しいというか、言葉で判ることをわざわざ絵にするのはおかしいんじゃないかなあと思って、言葉で言うに言われない様な事をその絵を見ることによって伝わるのだったら、僕はその絵のほうが優れていると思う。
メディアに合った表現、例えば絵なら絵でしか表せないものが描けたら一番いいなあと思います。
小学校の6年生位にグラフィックデザイナーになりたいと言っていたことは覚えています。
おじさんが室内装飾などをする仕事をはじめて、自動車を買って乗せてもらっている間に、遠い親せきの家に行って大学生の女性がレタリングをやっていて、その女性が凄くかわいかった。
そっちに目がくらんだのと、そのお姉さんがグラフィックデザイナーになると云うことを聞いたんだと思います、それが一緒に成って自分もグラフィックデザイナーになろうと考えたものと思います。
中学2年に成った時にはグラフィックデザイナーに成るにはどこの学校に行ったらいいか等を考えていった。

週刊誌に掲載されている和田誠さんの広告を一生懸命見ていました。
映画も観に行くようになり、黒沢明が面白いと思いました。
羽仁 進さんの「不良少年」、ドキュメンタリー風の名作を見て、黒沢明は二番に成りました。
水木しげるさんの「河童の三平」 なまな感じで、作者が自分の書きたいものをダイレクトに出ていて、吃驚したし、感動しました。
高校受験で色々落ちてしまって浪人して、都立高の定時制に行って、編入試験を受けて受かろうと思ったが勉強してなかったし受からなかった。
もう一回高校受験をやって工芸高校に行って、水木さん和田さんにも会いました。
雑誌が図書館に置いてあって、澁澤 龍彥さんが「季刊みづゑ」で美術エッセーを書いていて、面白いと思いました。(図版が面白かった。初めて見る絵ばっかりだった。)
友達がガロと云う雑誌を持っていて、回し読みをしていて、どっかで読んだことがあると思ったのは水木しげるさんだった。
神保町の古本屋のデザイン雑誌を立ち読みすることをいつもやっていました。
水木さん、渋沢さん、(和田さん、羽仁さんは以前から知っていたが)、4人を知りました。

「話の特集」イラストレーターに宇野亜喜良、後藤一之、松永謙一、水田秀穂ら、写真家に篠山紀信、立木義浩、藤倉明治、小川隆之らを配していた。
その人たちが暫くするとどんどんメジャーに成って行く。
「話の特集」の愛読者だったと云うことが、自分にとって影響を受けました。
高校で数学で赤点を取っていて、何とか卒業しましたが、卒業式には出ませんでした。
東京芸大を受けたが、駄目で、デッサンの予備校に通って(3年間)、美学校のポスターを見て(時代錯誤の文字でしか書いてない)、有名人の名前がずらっと書いてあった。
木村恒久さんの名前も書いてあったので教室に行こうと思いました。
木村さんは難しい文章だった。
話も生徒に対して自分と同じレベルといった感じで話すが、難しい、初耳の話であったり、とにかく面白かった。

美学校は卒業証書もないし、就職の世話をする訳でもない、いつでもやめられる。
1969年(木村講師)、1970年(赤瀬川 原平講師)と行来ました。
漫画専門出版社の草分け的存在の青林堂に就職。(長井勝一氏が社長)
少人数ではあるが、編集長を務める。(7年)
イラストのアルバイトをしたり美術エッセーを書いてほしいとの要望があり、楽しくさせていただきました。
その時その時の人に支えられて、1980年に完全にフリーとなりました。
枝道を行って外れたと言っても、そこから行く道があると云うのは凄く思います。