| 垣添忠生(国立がんセンター名誉総長) 最愛の妻の死を乗り越えて |
| <概略> |
| (1941年4月10日 - )は、日本の医師。学位は医学博士。称号は国立がんセンター名誉総長 |
| 大阪市住吉区出身。42年、東京大学医学部卒業。同泌尿器科助手、国立がんセンター手術部長 、病院長、中央病院長 |
| 患者さんと家族のための がんの最新医療』『妻を看取る日』など著書多数 |
| 国立がんセンター総長の定年を迎え、これからを2人だけの人生をと思っていた矢先に 最愛の奥さんを癌でなくされました |
| 長年医師として患者の死に接してきた垣添さんですが、最愛の奥さんを亡くした悲しみは想像を 絶するものでした |
| その苦しみ、悲しみを乗り越えるのは大変だったと云われます 一回目 最愛の奥さんとの出合い 、結婚生活、癌との壮絶な闘病生活 |
| 奥さんを亡くされて 悲しみのどん底に突き落とされるまでを話して貰います |
| 2007年の12月31日に妻が亡くなる 亡くなった直後の3か月に比べると楽にはなったが 心の深い処では悲しみはずっと続いていると思います |
| 奥さんとの出合い→医学部 卒業して インターンと云うのが有ったんですが それを拒否する 学生運動をやっていたので 医師免許のないまま |
| アルバイトで院長の指揮下で働くわけですが、そこの患者であった妻と知り合って それがきっかけです |
| 退院後も往診があり、その中の対話で打てば響くような事で非常に面白かった 対話が全てのきっかけだったと思う 脳波が一致するそういう思いであった |
| 妻は12歳上で 私は年齢差は気になたなかった 妻は既婚者で離婚調停中だった 私の両親は仰天して大変な騒ぎだった 理解してもらえず家を飛び出して |
| 彼女の家に転がりこんだ 1年同棲してその後に結婚した 1969年 結婚指輪もなければ、 パーティーもなく書類を提出しただけでした |
| 3年間は両親とは音信不通で、それから母親から一度2人で家に遊びに来なさいと云う電話が 有って和解する事になる |
| 兄弟にも紹介され普通の付き合いになる 結婚することに関しては彼女の方が悩んでいたと思う 当然両親から反対される事は判っていたので |
| 生活は苦しかったが 彼女が英語、ドイツ語が出来るので教えてその授業料と 私のアルバイトと その費用で何とか生活費を支えた |
| 奥さんは→頭の良い人だった 打てば響くような会話が出来た 津田塾大学を卒業して英語は出来る 後年、東京外語大学にも行ってドイツ語もできる |
| 最後に東大の文学部のドイツ科に学士入学して当時ストライキが有、中途で退学した 語学に堪能 北朝鮮の舞姫と言われた最小季?に付いてダンスを習ったとの事 |
| ダンスが非常に好きで全て形から入ると言う ファッションが好き 洋服を着て棒立ちになって いるのは駄目だと ちょっとボタンを外すとか、左右の足の位置を考えるとか |
| 論文等はサポートしてもらった 最初の論文は英語 妻に助けて貰い一発で通った 私はアウトドアが好きで信州へのドライブとかハイキングは随分出掛けた |
| 奥日光にて カヌーにのめり込んだ 春夏秋常に行くようになった 奥日光は忘れられない地になった |
| 1995年 声がかすれてきて調べた結果 喉の甲状腺右側に癌がみつかって、リンパ線に転移して 神経を圧迫してそれが声をからした |
| 甲状腺の半分を取る手術が有った 2000年に左の肺に小さな影がみつかってくさび状に切り取った ら線癌だった |
| 2006年に右の肺に4mmの影ができる 3か月後は変わらなかったが半年後に6mm変わってきた 増殖してきている 治療に踏み切る (肺小細胞がん) |
| 陽子線治療(先端医療なのでお金はかかった)で影が綺麗になくなった 2007年3月右の肺に又でき 3,4,5,6月と治療して |
| 退院して9月にCTとかPET、MRIとかいろいろ検査してみた 完治しているかと思っていたら 全身に転移してしまっていた(脳、内臓等) |
| 聞いた途端に妻の命は2,3カ月と思った 彼女自身も長くて数カ月と自覚したのであろうと思いました 冷静に受け止めた 科学療法しかないのでそれを受ける |
| 11月からどんどん体調が悪くなった ベットに寝たきりになった その年の3月から国立癌センター の名誉総長になっていたので |
| 小さな部屋を貰っていたのでそこから朝、昼、晩 妻の病室に行って面倒見たり、私がいると排泄 の世話なども頼みましたから |
| 本当に一緒に過ごす 、濃密に対話したりケアしたりする時間だったと思う |
| 抗がん剤の治療は非常に辛いと窺っているが?→最初 新しい抗がん剤を使ったらよく効いて 病巣も小さくなって私も妻も担当医も非常に喜んだのですが |
| 2回目以降は効果がなく下痢だとか、お腹が痛いだとか、髪の毛が抜けるだとかいろいろ副作用が 出てきてしまった |
| 全然別の薬に替えたらこれは副作用ばかりで 口内炎とか食道炎が起きてしまい水を飲むのに 苦しみ痛み止めを飲んでから、身をよじる様にして水を飲んでいた |
| 一度だけ「こんなに苦しんで抗がん剤を飲んでいるのは貴方の為によ」と言った 協力しなくてはいけないと思ったのでは(私は癌の研究組織のトップにいたので) |
| 12月に入ると明らかに死を覚悟していた様で、葬式はしないでくれと 家で死にたいと云っていた |
| 家でこまごました事をやりたいのに外泊はできないのよねと 一回だけ泣いた これには私も絶句しましたけれども |
| 世間はクリスマスへの華やかなにぎわいの中 病院に行ったり来たりするとき華やかな雑踏を抜けて ゆく時 自分の周りだけ冷たい風が吹いているので |
| 本当に苦しかったですね 28日から6日まで外泊届を出して家に連れて帰った (外泊届を出してはありましたが、家で亡くなる覚悟でしたね) |
| 最初は家に看護師さんを頼むつもりであったが、気心の知れない人に入って貰うのも気ずつないと 思い お断りして その代り私が点滴のポンプの扱いだとか |
| 点滴のセットだとか 現職を離れて長いので 看護師さんからやり方の教育を受けて 医療器具を 一杯買い込んで 28日から 指示書に従ってやる様にする |
| 数日前から酸素吸入器等を用意しておいた 2Fには運べないので1Fに寝かせるようにした |
| 食べたいと云った、あら鍋を用意して在宅の奇跡かもしれないが、口内炎で食べるのは大変かと 思ったがおいしいおいしいと云って食べてくれた |
| 本当に家に連れて帰って良かったと思った 病棟と自宅とは全然違うんだと思った 29日は意識が切れ切れになる |
| 31日はもう昏睡状態 午後から余りにも呼吸が苦しそうだったので先生を呼んだが 間に合わなくて 午後6時15分ごろ 突然半身を起して ぱっと目を開いて |
| 確実に私の方を見て私を認識して、自分の右手で私の左手をぎゅっと握って がくっと顎が落ちて 呼吸が止まった |
| 言葉はなかったけれどもあれは確実に私に対して「ありがとう」と言ってくれたんだと思います |
| 最後の瞬間に意識が戻って 私に意志をバッと意志を伝えてと云うのは 本当に何という人なのだろうかと私は号泣しました |
| その瞬間を経験したのは、私がその後辛い時期を過ごしましたけれども、立ち直ってゆくのに 非常に意味が有ったと思いますね |
| 「感謝の気持ちで人を別れる事が出来ると云う事は非常にすばらしいことだ」と 日野原重明先生 と講演で何度かご一緒したことが有るが 先生からそういわれた |
| いくら覚悟してたとはいえ、骨になって返って来ると一切話はできない 話ができないと云う事は本当に辛かったですね |
| 死後膠着があるので タオル10本 お湯で浸して身体を拭いて綺麗にして死装束と思われる用意 してあった好みのブラウス、パンタロンを看護師さんと一緒に着せてあげた |
| 紅をさし顔が明るくなったように感じた 医者、葬儀屋さんとの打ち合わせがすみ 後三日間 一人で泣いて過ごしました |
| 完全に鬱状態だったと思います どこまで落ち込んでゆくのか 10日までどんどん落ち込んで行ってその後 深い処に岩盤みたいなものが有って |
| そこから先は最低精神 人間の肉体の最低条件でそのまま3か月ほどずっと移動していったように 思います |
| 6日からは公職が沢山あるので、責任があるので夢中でこなしていると その間 ふっと気が付くと一瞬忘れる事が有るので仕事にのめり込む事はいみがあることかも |
| 知れないと それから舞い込む仕事は一切引き受けて猛然と仕事をしていた 日中はいいが 家に帰ると話相手はいない |
| 食事もうまくない 砂を噛むようなという表現がるがおいしい物を食べても何の味もしない 噛んでも飲み込めないから酒で流し込む 酒は私は好きなんだけれど |
| 酒も旨くない ウイスキーとか焼酎をロックで飲むが酔えない眠れないので睡眠剤を飲む 無茶苦茶な生活をしていた 3か月くらい |
| 良くアルコール依存症にもならず、肝機能も壊さなかったなあと思います 死ねないから生きていると云うような状態でしたね |
| お寺の住職さんに100日法要はした方が良いと云われて 法要を済ませ 一人で生きていかな ければいけないのでこんな生活をしていたら |
| 妻が何ていうのだろうかと思うようになり、それからすこしずつ腹筋運動やら腕立て伏せをやるよう になり 身体がしっかりするようになり食事もだいぶ食べられる |
| 様になり、生活も規則正しくなってきて万事が上向きになってきた (今では腕たせ100回出来るようになったけど 続ければ出来るようになるんですよ) |
| 身体がしっかりしてくると精神的にも良くなってきて やっぱり肉体と精神は一体のものだなと その時に強く思いましたね |
| 5月になってカヌーもやる様になった 山登りも一生懸命するようになる カヌー 新しい事に チャレンジするようにした |
| 9月ごろには心身共に良くなりだいぶ前向きに生きられるようになった |
2012年2月15日水曜日
垣添忠生(国立がんセンター名誉総長) ・最愛の妻の死を乗り越えて
2012年2月14日火曜日
斉藤俊一(酒造会社) ・100年ぶりに酒蔵を再興する
斉藤俊一(酒造会社、57歳) 100年ぶりに酒蔵を再興する
港区芝に100年ぶりに酒蔵が復活しました
雑貨店を営む斉藤さんが復活させる
1812年先祖が作り酒屋を開業 薩摩屋敷の出入りとしてにごり酒等を作っていたが明治42年に廃業する それから100年 7代目として復活させる
株式会社若松屋 東京都港区芝4-7-10 TEL.03(3451)2626
かつては、この地に約200坪の土地と酒蔵や住居があり、酒造りを行っていたという
1Fをそれに当てる 10坪を酒蔵としている
先ずタンクで醸造 約3週間かかる できた酒を瓶に入れてできた酒を「ひいれ」という作業をする65℃ 30分間 発酵を止める作業 冷やしてシール張りをして出荷する
酒はどぶろく (其の他の酒) 現状は月1000Lを目指している
長野の飯田から出てきた 紙問屋の人と農家の人が出てきた2人で1812年から酒を作る様になった どぶろくと芋焼酎(薩摩藩に対して) 明治に入って清酒を作った
1868年の数年まえからこちらに来て要人が飲んでいたと云われる
裏座敷があり西郷隆盛、勝海舟 高橋泥舟 山岡鉄舟がいつも集まり、無血開城に向けての話をしていたと云われる
書も残っている 西郷隆盛の書いた書一枚残っている
「人を皆 炎熱に苦しむ 我夏の日の長きを愛す」
「人は皆熱い夏の地獄を苦しむけど 私は夏の長い日を愛す」
(夏は長い日が有るから長く働ける)
明治42年に廃業 日本酒の税金が高く4代目が亡くなり酒蔵を止める
食堂をその後やっている 昭和23年に戦争から帰って雑貨屋を始める(父)
酒蔵復活の経緯→商店街連合会の役員になり、商店街の事をいろいろ考えるようになり 港区も商店街が衰退してしまうのではないかと危惧、消費低迷 前年対比確保が厳しくなってきている バブルがはじけて以降厳しい(売上半分になる)
港区住民は20万人 昼間人口は100万人と言われる
昼間人口をターゲットにした業種は結構うまく経営ができている (飲食業)
コンビニエンスストアーも多い 物販業は厳しい
8:2の法則 昔こういう法則が有った 8割の小売店が2割の売り上げを取って 2割の大手が8割の売り上げを取る それが今は 1:9の法則と言われている
1割の大手が9割の売り上げを取って 9割の小売りが1割の売り上げを取る
そうなると物販業は非常に厳しい 廃業する人が多くなってきている
インターネットでの注文 配達が多くなってきてしまっている さらに厳しい状況になりつつある
平成15年ごろ 金融危機が有り 借り入れが多く 金融機関から調査が入る 限りなく不良債権に近いと判断される
50歳ではもう次の世代への事を考えなくてはいけないと云われる
どうやって次に伝えてゆくかを考えるようになった
地方は土産物屋が有り 酒もあった 家でもそうだったと思い起こす
息子に酒作りの事を話す 息子も了承してくれる
京都のある大手酒造メーカーがお台場に狭いスペースながら醸造所を作っておりそこの杜氏から話を聞く機会が有った
そこから交流が始まる 赤字でそこも閉まる事になり 杜氏からもしやる気が有るのだったら協力するとの想いを得られる
現在もその杜氏とその下で働いていた人がここで働いてもらっている
免許取得から入る 息子も修行にゆく 2年掛る(10~15cmの書類の厚さになる)
設備がないと免許が取れない
借入金 免許の番号がないと借入できない (金利も高い)
店舗 内装等は自分たちでおこなう
去年の7月8日に免許が降りる 第一回の酒作りは失敗に終わった
ホースが新品で臭いが付いて買ってもらえなかった
東京の御土産として売りたい 飲食店向けに生の酒を近くの店に売っている
港区芝に100年ぶりに酒蔵が復活しました
雑貨店を営む斉藤さんが復活させる
1812年先祖が作り酒屋を開業 薩摩屋敷の出入りとしてにごり酒等を作っていたが明治42年に廃業する それから100年 7代目として復活させる
株式会社若松屋 東京都港区芝4-7-10 TEL.03(3451)2626
かつては、この地に約200坪の土地と酒蔵や住居があり、酒造りを行っていたという
1Fをそれに当てる 10坪を酒蔵としている
先ずタンクで醸造 約3週間かかる できた酒を瓶に入れてできた酒を「ひいれ」という作業をする65℃ 30分間 発酵を止める作業 冷やしてシール張りをして出荷する
酒はどぶろく (其の他の酒) 現状は月1000Lを目指している
長野の飯田から出てきた 紙問屋の人と農家の人が出てきた2人で1812年から酒を作る様になった どぶろくと芋焼酎(薩摩藩に対して) 明治に入って清酒を作った
1868年の数年まえからこちらに来て要人が飲んでいたと云われる
裏座敷があり西郷隆盛、勝海舟 高橋泥舟 山岡鉄舟がいつも集まり、無血開城に向けての話をしていたと云われる
書も残っている 西郷隆盛の書いた書一枚残っている
「人を皆 炎熱に苦しむ 我夏の日の長きを愛す」
「人は皆熱い夏の地獄を苦しむけど 私は夏の長い日を愛す」
(夏は長い日が有るから長く働ける)
明治42年に廃業 日本酒の税金が高く4代目が亡くなり酒蔵を止める
食堂をその後やっている 昭和23年に戦争から帰って雑貨屋を始める(父)
酒蔵復活の経緯→商店街連合会の役員になり、商店街の事をいろいろ考えるようになり 港区も商店街が衰退してしまうのではないかと危惧、消費低迷 前年対比確保が厳しくなってきている バブルがはじけて以降厳しい(売上半分になる)
港区住民は20万人 昼間人口は100万人と言われる
昼間人口をターゲットにした業種は結構うまく経営ができている (飲食業)
コンビニエンスストアーも多い 物販業は厳しい
8:2の法則 昔こういう法則が有った 8割の小売店が2割の売り上げを取って 2割の大手が8割の売り上げを取る それが今は 1:9の法則と言われている
1割の大手が9割の売り上げを取って 9割の小売りが1割の売り上げを取る
そうなると物販業は非常に厳しい 廃業する人が多くなってきている
インターネットでの注文 配達が多くなってきてしまっている さらに厳しい状況になりつつある
平成15年ごろ 金融危機が有り 借り入れが多く 金融機関から調査が入る 限りなく不良債権に近いと判断される
50歳ではもう次の世代への事を考えなくてはいけないと云われる
どうやって次に伝えてゆくかを考えるようになった
地方は土産物屋が有り 酒もあった 家でもそうだったと思い起こす
息子に酒作りの事を話す 息子も了承してくれる
京都のある大手酒造メーカーがお台場に狭いスペースながら醸造所を作っておりそこの杜氏から話を聞く機会が有った
そこから交流が始まる 赤字でそこも閉まる事になり 杜氏からもしやる気が有るのだったら協力するとの想いを得られる
現在もその杜氏とその下で働いていた人がここで働いてもらっている
免許取得から入る 息子も修行にゆく 2年掛る(10~15cmの書類の厚さになる)
設備がないと免許が取れない
借入金 免許の番号がないと借入できない (金利も高い)
店舗 内装等は自分たちでおこなう
去年の7月8日に免許が降りる 第一回の酒作りは失敗に終わった
ホースが新品で臭いが付いて買ってもらえなかった
東京の御土産として売りたい 飲食店向けに生の酒を近くの店に売っている
2012年2月13日月曜日
村田直樹(日本武道学会理事長) ・海外へ武道の心と技を伝える
村田直樹(日本武道学会理事長62歳) 海外へ武道の心と技を伝える
1949年埼玉県生まれ。1973年東京教育大学体育学部武道学科卒業。同大学院体育学研究科修士課程修了
香川大学助教授を経て現在、財団法人講道館図書資料部長
2008年7月、日本武道学会理事長に就任
中学生はテニス 友人から誘われて柔道をするようになる
大学では柔道を通じて日本の武道の研究に取り組んでくる
37年前アイスランドに派遣され柔道の普及に努めて来られました
以来 海外十数カ国で柔道の技と心を伝えて来られました
姿三四郎(富田常雄の小説の柔道家) モデルになった人がいて講道館創設時に西郷四朗 大活躍した 三船久蔵 十段等 有名な人が育った
嘉納治五郎 講道館創設者 世界に普及された柔道 競技スポーツとしての柔道 と 武道としての範疇で捉えられる処の柔道と 2種類に取り組んでいる
一般的には柔道とはオリンピックでの競技スポーツとしての柔道が知られていると思う
乱取り(従来からこれだけ肥大化したと思われる)に対し、型がありこれが広がってきている
型と乱どり 講義と問答 この4つが柔道の必修科目 (加納先生が提唱した)
この乱どりだけが広がってゆき 競技スポーツ化した 型も治めて行く
これも競技化した方が判りやすいだろうと云う事で、これも世界に広めてゆきました
型というのは 投げ技が有る(投げの型) 抑え込む(固めの型) 柔の型 決めの型(当て身 危険ではあるが)
加納先生はこの4つを定めた 講道館護身術 天神真楊流柔術 古式の型 剛の型(現在は行われていない) 勢力全容国民体操 の9つの型が講道館にはある
型に関する世界大会(7つの型) が3回行われた
「道」 日本の伝統 「術」 剣術 柔術 柔道へと変化
子供の頃は相撲が広くやっていた 中学に入学して軟式テニスをやる
3年になると柔道部の友人から誘われて柔道を始める
高校になった時に柔道を選んだ 大学でも体育学科に入り柔道を続ける
大学院の時には講道館の指導員を務めるようになる 世界に柔道を広めようと思うようになる アイスランドから柔道の指導員の要請が有り これが私の最初の海外体験であった
飛行機にのるのも最初 国際線 半分不安だらけ (25歳)
3月17日 真冬の出発となった
着陸時 真っ白いと思っていたら窓から見えるのは真っ黒だった(溶岩)
大きさは北海道ぐらい 人口は30万人ぐらい 柔道そのものは普及していた
当初柔道人口は多くない
彼らが求めている柔道と 講道館が拡げようとしている柔道 誤解に危険性がある
重なり合う部分も多々ある
正しい技術のあり方を教えると云う事で 講道館が教えるものと、現地での要求するものとがうまく合致しましたので特に問題は発生しなかった
彼らも良く理解してくれた
モリオントールの年 良い選手に恵まれ北欧選手権大会で2人優勝してくれた
柔道を認めてもらえてモントリオールに柔道も入れようと云う事になってくれた
コーチと云う事で私が行く事になった
フランスでは60万人が柔道をやっている 力を入れている 日本でも小学校でも教える
伝統 中学校で武道を必修科目として取り入れる事になる
人の在り方 世の中の道理 支え 体育 勝負 修身(道徳 心身の力を最も有効に使う)
お互いが栄えるようになる
加納先生はそもそもの動機は身体が小さく単純に強くなりたいとの思いがつよく 柔道をやりたいと思い始める
ルーズベルト大統領にホワイトハウス内に特別に道場らしき場所をこしらえて山下義韶 という師範がアメリカに渡り大統領に柔道を教えたというそうです
外国への働き掛けをして柔道が広まっていった
加納先生はIOC委員として外国にゆく際にその繋がりのなかで合わせて柔道の普及に努める タイへの普及では仏教徒の国なので入りやすかった(礼一つとって見てもアイスランドでは何故礼をするのかという事から理解してもらうのに苦労したが)
国際柔道連盟でも柔道を通した教育に対して高く評価している
1949年埼玉県生まれ。1973年東京教育大学体育学部武道学科卒業。同大学院体育学研究科修士課程修了
香川大学助教授を経て現在、財団法人講道館図書資料部長
2008年7月、日本武道学会理事長に就任
中学生はテニス 友人から誘われて柔道をするようになる
大学では柔道を通じて日本の武道の研究に取り組んでくる
37年前アイスランドに派遣され柔道の普及に努めて来られました
以来 海外十数カ国で柔道の技と心を伝えて来られました
姿三四郎(富田常雄の小説の柔道家) モデルになった人がいて講道館創設時に西郷四朗 大活躍した 三船久蔵 十段等 有名な人が育った
嘉納治五郎 講道館創設者 世界に普及された柔道 競技スポーツとしての柔道 と 武道としての範疇で捉えられる処の柔道と 2種類に取り組んでいる
一般的には柔道とはオリンピックでの競技スポーツとしての柔道が知られていると思う
乱取り(従来からこれだけ肥大化したと思われる)に対し、型がありこれが広がってきている
型と乱どり 講義と問答 この4つが柔道の必修科目 (加納先生が提唱した)
この乱どりだけが広がってゆき 競技スポーツ化した 型も治めて行く
これも競技化した方が判りやすいだろうと云う事で、これも世界に広めてゆきました
型というのは 投げ技が有る(投げの型) 抑え込む(固めの型) 柔の型 決めの型(当て身 危険ではあるが)
加納先生はこの4つを定めた 講道館護身術 天神真楊流柔術 古式の型 剛の型(現在は行われていない) 勢力全容国民体操 の9つの型が講道館にはある
型に関する世界大会(7つの型) が3回行われた
「道」 日本の伝統 「術」 剣術 柔術 柔道へと変化
子供の頃は相撲が広くやっていた 中学に入学して軟式テニスをやる
3年になると柔道部の友人から誘われて柔道を始める
高校になった時に柔道を選んだ 大学でも体育学科に入り柔道を続ける
大学院の時には講道館の指導員を務めるようになる 世界に柔道を広めようと思うようになる アイスランドから柔道の指導員の要請が有り これが私の最初の海外体験であった
飛行機にのるのも最初 国際線 半分不安だらけ (25歳)
3月17日 真冬の出発となった
着陸時 真っ白いと思っていたら窓から見えるのは真っ黒だった(溶岩)
大きさは北海道ぐらい 人口は30万人ぐらい 柔道そのものは普及していた
当初柔道人口は多くない
彼らが求めている柔道と 講道館が拡げようとしている柔道 誤解に危険性がある
重なり合う部分も多々ある
正しい技術のあり方を教えると云う事で 講道館が教えるものと、現地での要求するものとがうまく合致しましたので特に問題は発生しなかった
彼らも良く理解してくれた
モリオントールの年 良い選手に恵まれ北欧選手権大会で2人優勝してくれた
柔道を認めてもらえてモントリオールに柔道も入れようと云う事になってくれた
コーチと云う事で私が行く事になった
フランスでは60万人が柔道をやっている 力を入れている 日本でも小学校でも教える
伝統 中学校で武道を必修科目として取り入れる事になる
人の在り方 世の中の道理 支え 体育 勝負 修身(道徳 心身の力を最も有効に使う)
お互いが栄えるようになる
加納先生はそもそもの動機は身体が小さく単純に強くなりたいとの思いがつよく 柔道をやりたいと思い始める
ルーズベルト大統領にホワイトハウス内に特別に道場らしき場所をこしらえて山下義韶 という師範がアメリカに渡り大統領に柔道を教えたというそうです
外国への働き掛けをして柔道が広まっていった
加納先生はIOC委員として外国にゆく際にその繋がりのなかで合わせて柔道の普及に努める タイへの普及では仏教徒の国なので入りやすかった(礼一つとって見てもアイスランドでは何故礼をするのかという事から理解してもらうのに苦労したが)
国際柔道連盟でも柔道を通した教育に対して高く評価している
2012年2月12日日曜日
又野 龍也(墨絵画家70歳) ・私の絵画人生
又野 龍也(墨絵画家70歳) 私の絵画人生
日本昔話での絵で数多くの作品を残した 古里の熊本には「島原大変 肥後迷惑」という言葉で伝えられてきた大津波の歴史が有ります
東日本大震災のショックで一時創作意欲が落ちますが 画風を初期のメルヘンの作風に戻す事で自らを明るい夢の世界に置き、再び活動ができるようになりました
今創作活動に新たな意欲を燃やす 又野さんにメルヘン画、水墨画、仏教画 のそれぞれうちにある心と、又野さんの古里の原風景について話してもらいます
大震災時 全身の力が抜けてなにを書いていいか判らず 1カ月ぐらい精神的にショックをうけた
最初はメルヘン画がスタートだったが 子供達を描き 子供と遊ぶ良寛さんを描くうちに(和歌) 山頭火(俳句)へ、彼は全国を歩く 特に九州を放浪してあるく
昔書いたメルヘンの絵を引き出して見た
これも面白いかな 自分自身でも気分転換になると思い そういう感じになってきた
明るい絵を書けるようになり個展で感動したと評価された
私の生まれた時の又野家の墓が山の麓にある 亡くなった方が沢山埋葬されたと聞く
調べてみると長崎と 熊本の沿岸だけで15000人ぐらいが亡くなったと、言われている
吃驚する 高いところでは20m 最大50m 1792年の津波が襲った
少年時代 夕日がきれいな場所だった 何回もただ立って見ていた 三角線 SLが走っていた
生活の為に700mあるトンネルを行ったり来たりしなくてはならず 夜に其のトンネルを通るのに棒きれをレールに当てて真っ暗な中を歩いた(4年間)
身体に当たる水滴、物音等で凄く緊張して色んな事を想像したりした
暗いのは怖いが後々の創造力の源になった
私の日本昔話は怖いものが多い 中学、高校とノートには可愛い絵を書いていた
設計事務所に就職したが面白くなかった
スケッチブックを持って20歳の時に鎌倉の横山先生の家にいき 売り込んだ
3か月ぐらい通って採用してもらう 7000円ぐらいの給料でアパートに住み3500円が家賃 残りで生活した(生活自体はきびしかった)
手塚治虫先生のところで鉄腕アトムのシリーズをやると聞いて すぐ売り込みに行った
直々に面接有 働かしてもらう事になる 給料が3倍になる
その後フリーになる 下請けでいろいろな作品を手掛ける 発想を大事にしている
メルヘン画 若い人しか買わない 水墨画 幅が広い
描くと紙に滲む 和紙は何百種類とあり 和紙への絵は描けないと思っていたが 、段々と描くうちに面白くなってきた 墨は色はないが 描いていると色を感じる
色んな表現ができる事が段々判ってきた
(観る人もいろいろと絵の色を想像する) 山頭火は俳句をしながら旅をする
自由気ままに生きている
漫画日本昔話 特殊なアニメーション その都度主人公が変わる 自分一人で出来る
自分の個性が出せる
親と子供が見れる 学校で見せれば良いのになあと思う
農具は資料館に行けば分かるが使い方は判らない人が多い(石臼、脱穀、くるりん棒、とう箕等)、後世に道具はこの様にして使うのだと云う 働きを伝えるものが日本昔話にはある
天女の絵等は仏教画というよりはメルヘン画の世界
絵の学校には行った事がない しかしそれが良かったかもしれない 独学なので自由に描ける 制約がない 自分のスタイルはある
仏画はお寺に掲げるのではなく、玄関、居間等に掲げるような仏教画を書きたい 家に帰ってきてその絵を見てホッとするような仏画を書きたい
日本昔話での絵で数多くの作品を残した 古里の熊本には「島原大変 肥後迷惑」という言葉で伝えられてきた大津波の歴史が有ります
東日本大震災のショックで一時創作意欲が落ちますが 画風を初期のメルヘンの作風に戻す事で自らを明るい夢の世界に置き、再び活動ができるようになりました
今創作活動に新たな意欲を燃やす 又野さんにメルヘン画、水墨画、仏教画 のそれぞれうちにある心と、又野さんの古里の原風景について話してもらいます
大震災時 全身の力が抜けてなにを書いていいか判らず 1カ月ぐらい精神的にショックをうけた
最初はメルヘン画がスタートだったが 子供達を描き 子供と遊ぶ良寛さんを描くうちに(和歌) 山頭火(俳句)へ、彼は全国を歩く 特に九州を放浪してあるく
昔書いたメルヘンの絵を引き出して見た
これも面白いかな 自分自身でも気分転換になると思い そういう感じになってきた
明るい絵を書けるようになり個展で感動したと評価された
私の生まれた時の又野家の墓が山の麓にある 亡くなった方が沢山埋葬されたと聞く
調べてみると長崎と 熊本の沿岸だけで15000人ぐらいが亡くなったと、言われている
吃驚する 高いところでは20m 最大50m 1792年の津波が襲った
少年時代 夕日がきれいな場所だった 何回もただ立って見ていた 三角線 SLが走っていた
生活の為に700mあるトンネルを行ったり来たりしなくてはならず 夜に其のトンネルを通るのに棒きれをレールに当てて真っ暗な中を歩いた(4年間)
身体に当たる水滴、物音等で凄く緊張して色んな事を想像したりした
暗いのは怖いが後々の創造力の源になった
私の日本昔話は怖いものが多い 中学、高校とノートには可愛い絵を書いていた
設計事務所に就職したが面白くなかった
スケッチブックを持って20歳の時に鎌倉の横山先生の家にいき 売り込んだ
3か月ぐらい通って採用してもらう 7000円ぐらいの給料でアパートに住み3500円が家賃 残りで生活した(生活自体はきびしかった)
手塚治虫先生のところで鉄腕アトムのシリーズをやると聞いて すぐ売り込みに行った
直々に面接有 働かしてもらう事になる 給料が3倍になる
その後フリーになる 下請けでいろいろな作品を手掛ける 発想を大事にしている
メルヘン画 若い人しか買わない 水墨画 幅が広い
描くと紙に滲む 和紙は何百種類とあり 和紙への絵は描けないと思っていたが 、段々と描くうちに面白くなってきた 墨は色はないが 描いていると色を感じる
色んな表現ができる事が段々判ってきた
(観る人もいろいろと絵の色を想像する) 山頭火は俳句をしながら旅をする
自由気ままに生きている
漫画日本昔話 特殊なアニメーション その都度主人公が変わる 自分一人で出来る
自分の個性が出せる
親と子供が見れる 学校で見せれば良いのになあと思う
農具は資料館に行けば分かるが使い方は判らない人が多い(石臼、脱穀、くるりん棒、とう箕等)、後世に道具はこの様にして使うのだと云う 働きを伝えるものが日本昔話にはある
天女の絵等は仏教画というよりはメルヘン画の世界
絵の学校には行った事がない しかしそれが良かったかもしれない 独学なので自由に描ける 制約がない 自分のスタイルはある
仏画はお寺に掲げるのではなく、玄関、居間等に掲げるような仏教画を書きたい 家に帰ってきてその絵を見てホッとするような仏画を書きたい
2012年2月11日土曜日
今森光彦(写真家57歳) ・里山と虫たちを愛して
今森光彦(写真家57歳) 里山と虫たちを愛して
今森光彦は滋賀県大津市出身の写真家
熱帯雨林から砂漠まで旅をして写真を撮り 海外からも高い評価を得る
今森さんはホームグランドは琵琶湖近い里山です
平成7年 写真集 里山物語は大きな反響を呼びました
里山にアトリエをかまえ自ら一員となって 里山をテーマに撮影を続けています
まだだれも里山に注目していなかった30年前何故里山に注目したのか
里山が何故重要なのかを伺いました
外は雑木林 と棚田が有る この建物で21年になる
以前はここはひのき林だったが、購入した時に伐採してクヌギ等の広葉樹を植えた
どんぐりがなるので すると生き物が一杯集まって来る
こういった風景様を自分が参加しながら裏からみてみたい
写真でも同じだが裏から見ないと見えてこないものが有るような気がする
表から見るのは他人行儀で 表面ずらを見ているようで そこに一歩でも二歩でも入りこんで
それで中の事を良く理解して 一回出て行ってそれから撮る
子供の頃から所謂生き物が好きだった 虫 魚 鳥 生き物に触れ合う機会が多かった
琵琶湖の大津市はバランスが取れた環境だった
小学生の頃は日本の良い環境がかろうじて残っていた時代だった (田んぼ 小川 雑木林等) 大学では土木工学を専攻 適当に選んだ 道を間違えたと思う
当時は自分の進む道が判らなかった
写真に20歳で出合い この道に進む
生物への興味は?→いろいろな種類があること 生物の多様性というんでしょうか
姿形がいろいろ違う 形が違うと云う事は生き方が違う
ライフスタイルが何百万種とあると云う事 それを地球の環境が支えている
26歳でフリーになる 昭和63年 昆虫記を出版 琵琶湖周辺の生き物に限って写真を写す
(九分九哩ここのアトリエの周りで撮っている)
1988年に1976年から琵琶湖周辺で撮影してきた写真1700点を収めた
小さな区画でも一杯の種類がいる
卯化 孵化を何百回と見ているがその都度感動する(殆ど夜に孵化して朝には旅立つ)
だんご虫の卯化 殻が真っ白 栄養が有るので自分で食べる
平成6年 世界昆虫記 20年掛けた集大成 花(ラフレシアの花)の中から眺めるような写真
ふんころがし ソフトボールぐらいの大きさ 1kgぐらい 世界で一番大きなふんころがしを作る
幼虫が段々大きくなって来るふんころがしの成長過程を写真に収める
(世界初 学術的にも貴重な写真 8年間掛る)
里山物語を平成7年に出版 四季折々の風景 棚田 そこに生きる生物
里山 昔の農業環境 人と自然が一緒に暮らしている世界 山はマウンテンではなく狩猟する場所 或はエネルギーをまかなう場所
里は野良 里山は水田が核になっている 里山は生き物に良い影響を及ぼしている
程よい開墾 生き物を活性化させる
里山環境は連続しているべきであるが 断片的になってきてしまっている
今の里山を駄目にしてしまっている
水田環境の変化が最近は悪くなってきてる
保水型の田んぼが 一回からしてしまってから電動で水を入れる
(水の分断が有り生物にとっては最悪)
雑木林も人の手が加わらなくなった
定期的伐採が以前はあっって風が通ったが 伐採が無くなり風が通らなくなってきた
生まれ育った里山の良さを判って貰う事がそこに住む人にとって大事
昆虫合宿 200名ぐらいになる 昆虫を取る環境がない
自然環境との共存が必要 人の健全な暮らしが有ることが一番大事です
人の暮らしが健全でないと生き物は絶対暮らしていけない
ひとも自然から貰っている 広い意味で里山は全部だと思っている
人がいて生き物がいる
これからは深く見ないで 浅く広く一旦みてみたい
(現在北海道から日本中の里山を撮っているところ)
それから又元に戻ってみたい (又ここの場所の見方が変わって来るかもしれない)
2012年2月10日金曜日
高橋由美子(社会支援ボランティア) ・国際援助と被災支援
高橋由美子(主婦・社会支援ボランティア) 国際援助と被災支援
宮城県仙台市に住んでいる 有志と「震災宮城からの発信」というプロジェクトを立ち上げる
石巻市牡鹿地区の被災者の自立を支援をしようと活動している
インドネシアの隣国 東ティモールのパンド基金を設立 無担保でマイクロクレジットを実施している インドから独立した翌年2003年からスタート 戦争により多くの孤児が発生
3人の孤児の里親として学資援助などで子供達を支えています
今後どの様に活動してゆきたいのかを聞く
大震災を経験して今の気持ち?
ある意味では非常に悲惨な事ではあったが 取り戻したものもある
緊密なお付き合いをする様
になった
牡鹿地区 鮎川との繋がり 音楽の先生で同市泉区の同学院教諭、鈴木優子さん(59)が前からの知り合いだったのですが,近くの教会で牧師さんが震災者の支援をしていて,報告が有り其の時に聞きに行っていて、鈴木さんとご一緒した
何か支援したいのだけれどもと声を掛けて鈴木さんも同じ思いであった
鈴木先生の親戚が鮎川に居て其の親戚の方の人脈を通じて支援の輪を広げてゆきました
牡鹿地区は5m太平洋側に動いた
172万円以上 エコタワシの活動で収益を得て 支援に回して自立への支え資金とした
東松島市では 観光客の体験学習 と海苔の佃煮のアイディアがありそれに取り組んでいる
効果 編み物してエコタワシを作るのが楽しみだった 収入が少しはあった
避難所にいて退屈だったときに心の張りになった 知り合いが増えて友達ができた
東ティモールへの支援の係わり 主人が独立運動に支援していた
そういう関係で東ティモールに行ってみた
経済を何とかしないといけないと思った グラミンバンク 父の遺産を利用した
凄くお金がかかるのでマイクロクレジットを立ち上げる
無担保奨学融資 貸しつける相手は女性 CRS(キリスト教の慈善団体)がマイクロクレジットをはじめた その責任者と知り合いだった
98%の回収率でも金利24%でも赤字であったとの事(やり方での経費がかかる)
CRSマイクロクレジットも活動が無くなってしまった
36%の金利でやっていても厳しいとの別のマイクロクレジット運用部署からも声が有る
私の場合には経費がかからない
各地方にマネージャーを置いておいてその方に3%のコミッションがある 金利は10%でやっている 7%で経費を払う 事務所も無い モーターバイクも無い
人(マネージャー)もサイドワークを持っているのでサラリーは払わない
128グループある 回収率は非常に悪い 60% 後の40%は返してくれないと云う訳ではない
なにが支えになっているかと言うと人間の絆が支えになっている
マネージャーがその地域で信頼されている方が担当 自分の人間関係の中から探しているので 人間の繋がりが密になっている
特に途上国では人間の繋がりが何よりも重要になっている
40%の人達は把握されているし その人達は返さないとは云っていない
マイクロクレジットの役割は何かと言うと 貧困をどれだけ緩和できるかと言う事だと思う
私のお金が子供達の栄養になって返ってこなかったとしても,役割を果たしていると思うんです 絶望した時の位に親戚の人が返してくれたりするんです
お金を返してくれるときに、その人このお金は私に返してもらうのではない、全部東ティモールに置いて行って将来もずっと東ティモールの貧しい人達の為に,クレジットとして出してゆきたいのだから 他の貧しい人達のクレジットを利用してもらう為に返して下さいという
他にココナッツを利用したココナッツ油を作る工場の建設資金として融資をする事を始めた
(国が自立するための一つの方法として)
地元での反響は?→新聞で2回ほど取り上げてもらってる
以前は内戦で苦しんでいる 小さい国 全員が家族みたいなもの
人間関係を完全に断ち切ることができない (日本ではできるが)
100万人ぐらいの人口,専門家がいない 医療その他 孤児院 3人を里子にしている
2000年に一杯孤児が発生する
インドネシアの人が独立派の主要な人物を殺したり、打ちこわしをしたりした
孤児院にあふれてしまう 助けてほしいとシスターから言われて,主人が佐藤悦子さんとかにお願いして60人の孤児を引き取り プロジェクトを立ち上げ 全員中学校を卒業するまでサポートする事になりここで終了した
私はプロジェクトには参加していなかったが、その中学校を卒業した子で優秀な子を高校、大学行かせてくれないかと言う事で引き受ける事になる
そのうちの一人 エミリアさんの日本観→ 皆さん 親切で礼儀正しくて 季節は寒いが観光するのが楽しみ 災害等のマネージャーをしている
人を助ける仕事に従事したい
大震災に対して、もし私が東ティモールの事をやっていなかったら、なにもやっていなかったかもしれない
自分の足元でこんなひどいことが起きてるのではなにも無くして東ティモールには行けない
何とかしなくてはいけない
東ティモールは人間関係が全て 人間の繋がりが最大の財産なのです
今度日本で大震災が起きて 今まで私達が頼っていた契約とか 財産とか そんなものは意外と何でもなくて 一番大事なのは人間と人間の繋がりだなと,本当に痛切に感じさせられて 何か一つでくくれる共通点のようなものが有る様に感じさせられる
今回で鮎川の人、高校の同窓の人との濃密な関係を築く事ができた
マイクロクレジットの一番の問題点は資金をどう調達するかと言う事が難しい
できれば日本の草の根の人達と東ティモールの草の根の人達を直接結んで,直接融資していただければとふっと思ってはじめてたんです
円がドルにで3% ドルが円にで3% コミッションに3%で 9% 経費が1%にしても
回収率が60%ではとても一般の方には呼びかけられないと思い外務省に相談した
95%の回収率でないとお金は出せないと云われた
ボランティア活動で一番大事なこと?→ 私はエゴイスティックな人間なので 東ティモールの活動は自分自身の人生の意味を買っているんです
私は少しでも意味のある人生を生きたいと思って 東ティモールのマイクロクレジットにたどり着いたと云う感じで 外から見たらボランティア活動と言えるかも知れないが
私自身はボランティア活動だとは思っていない 楽しくやることです
宮城県仙台市に住んでいる 有志と「震災宮城からの発信」というプロジェクトを立ち上げる
石巻市牡鹿地区の被災者の自立を支援をしようと活動している
インドネシアの隣国 東ティモールのパンド基金を設立 無担保でマイクロクレジットを実施している インドから独立した翌年2003年からスタート 戦争により多くの孤児が発生
3人の孤児の里親として学資援助などで子供達を支えています
今後どの様に活動してゆきたいのかを聞く
大震災を経験して今の気持ち?
ある意味では非常に悲惨な事ではあったが 取り戻したものもある
緊密なお付き合いをする様
になった
牡鹿地区 鮎川との繋がり 音楽の先生で同市泉区の同学院教諭、鈴木優子さん(59)が前からの知り合いだったのですが,近くの教会で牧師さんが震災者の支援をしていて,報告が有り其の時に聞きに行っていて、鈴木さんとご一緒した
何か支援したいのだけれどもと声を掛けて鈴木さんも同じ思いであった
鈴木先生の親戚が鮎川に居て其の親戚の方の人脈を通じて支援の輪を広げてゆきました
牡鹿地区は5m太平洋側に動いた
172万円以上 エコタワシの活動で収益を得て 支援に回して自立への支え資金とした
東松島市では 観光客の体験学習 と海苔の佃煮のアイディアがありそれに取り組んでいる
効果 編み物してエコタワシを作るのが楽しみだった 収入が少しはあった
避難所にいて退屈だったときに心の張りになった 知り合いが増えて友達ができた
東ティモールへの支援の係わり 主人が独立運動に支援していた
そういう関係で東ティモールに行ってみた
経済を何とかしないといけないと思った グラミンバンク 父の遺産を利用した
凄くお金がかかるのでマイクロクレジットを立ち上げる
無担保奨学融資 貸しつける相手は女性 CRS(キリスト教の慈善団体)がマイクロクレジットをはじめた その責任者と知り合いだった
98%の回収率でも金利24%でも赤字であったとの事(やり方での経費がかかる)
CRSマイクロクレジットも活動が無くなってしまった
36%の金利でやっていても厳しいとの別のマイクロクレジット運用部署からも声が有る
私の場合には経費がかからない
各地方にマネージャーを置いておいてその方に3%のコミッションがある 金利は10%でやっている 7%で経費を払う 事務所も無い モーターバイクも無い
人(マネージャー)もサイドワークを持っているのでサラリーは払わない
128グループある 回収率は非常に悪い 60% 後の40%は返してくれないと云う訳ではない
なにが支えになっているかと言うと人間の絆が支えになっている
マネージャーがその地域で信頼されている方が担当 自分の人間関係の中から探しているので 人間の繋がりが密になっている
特に途上国では人間の繋がりが何よりも重要になっている
40%の人達は把握されているし その人達は返さないとは云っていない
マイクロクレジットの役割は何かと言うと 貧困をどれだけ緩和できるかと言う事だと思う
私のお金が子供達の栄養になって返ってこなかったとしても,役割を果たしていると思うんです 絶望した時の位に親戚の人が返してくれたりするんです
お金を返してくれるときに、その人このお金は私に返してもらうのではない、全部東ティモールに置いて行って将来もずっと東ティモールの貧しい人達の為に,クレジットとして出してゆきたいのだから 他の貧しい人達のクレジットを利用してもらう為に返して下さいという
他にココナッツを利用したココナッツ油を作る工場の建設資金として融資をする事を始めた
(国が自立するための一つの方法として)
地元での反響は?→新聞で2回ほど取り上げてもらってる
以前は内戦で苦しんでいる 小さい国 全員が家族みたいなもの
人間関係を完全に断ち切ることができない (日本ではできるが)
100万人ぐらいの人口,専門家がいない 医療その他 孤児院 3人を里子にしている
2000年に一杯孤児が発生する
インドネシアの人が独立派の主要な人物を殺したり、打ちこわしをしたりした
孤児院にあふれてしまう 助けてほしいとシスターから言われて,主人が佐藤悦子さんとかにお願いして60人の孤児を引き取り プロジェクトを立ち上げ 全員中学校を卒業するまでサポートする事になりここで終了した
私はプロジェクトには参加していなかったが、その中学校を卒業した子で優秀な子を高校、大学行かせてくれないかと言う事で引き受ける事になる
そのうちの一人 エミリアさんの日本観→ 皆さん 親切で礼儀正しくて 季節は寒いが観光するのが楽しみ 災害等のマネージャーをしている
人を助ける仕事に従事したい
大震災に対して、もし私が東ティモールの事をやっていなかったら、なにもやっていなかったかもしれない
自分の足元でこんなひどいことが起きてるのではなにも無くして東ティモールには行けない
何とかしなくてはいけない
東ティモールは人間関係が全て 人間の繋がりが最大の財産なのです
今度日本で大震災が起きて 今まで私達が頼っていた契約とか 財産とか そんなものは意外と何でもなくて 一番大事なのは人間と人間の繋がりだなと,本当に痛切に感じさせられて 何か一つでくくれる共通点のようなものが有る様に感じさせられる
今回で鮎川の人、高校の同窓の人との濃密な関係を築く事ができた
マイクロクレジットの一番の問題点は資金をどう調達するかと言う事が難しい
できれば日本の草の根の人達と東ティモールの草の根の人達を直接結んで,直接融資していただければとふっと思ってはじめてたんです
円がドルにで3% ドルが円にで3% コミッションに3%で 9% 経費が1%にしても
回収率が60%ではとても一般の方には呼びかけられないと思い外務省に相談した
95%の回収率でないとお金は出せないと云われた
ボランティア活動で一番大事なこと?→ 私はエゴイスティックな人間なので 東ティモールの活動は自分自身の人生の意味を買っているんです
私は少しでも意味のある人生を生きたいと思って 東ティモールのマイクロクレジットにたどり着いたと云う感じで 外から見たらボランティア活動と言えるかも知れないが
私自身はボランティア活動だとは思っていない 楽しくやることです
2012年2月9日木曜日
北浜喜一 ・ふぐと日本人
北浜喜一 ・ふぐと日本人
河豚はコラーゲン一杯 河豚で命をなくす人を救おうと60年河豚を研究
1954年に魚類研究者に声を掛けて河豚研究会を立ち上げる
河豚の味は秋から春がうまいと云われるが 河豚の肉100g中に コラーゲン蛋白20g
脂成分0.1g 糖質0.1g 灰分0.2g 後は水分
味を作り出すのは人間がやるんです 何でこんなに河豚料理が大衆化したかと言うと
ポン酢が有ったからだと思います
コラーゲンと有機酸 酢酸 乳酸 クエン酸 との相性が非常にいい
ポン酢と河豚のコラボレーション 河豚の皮はコラーゲンの塊 肉にもコラーゲンがある
コラーゲン(抗原質 :くっ付ける基) 複合体 立体構造の繊維状のタンパク質なんです
だから河豚の身はこりッとしてしまっている
我々人間の60兆ある細胞をくっつけているのが種類は違いますが コラーゲンなんです
ふぐのコラーゲンは他にはない
最後の雑炊まで食べないとけない
それにはビタミンが一杯入っているし 肉のコラーゲンが全部流れ込んでいる
河豚料理店を立ち上げたのは昭和29年~ 日本河豚研究会を立ち上げた
父親が廻船問屋をやっていた 大阪は魚庭と書いた それが 難波 浪速とかになる
魚の多く取れるところだった
河豚の生態とか 世界の学者との交流もできたのも河豚のお陰
父が河豚を釣って来て、それを食べていてそれが高じて店を出すようになった
大正2年 20数通りの料理法を既に持っていた
てっちり、と てっさが最近までの河豚料理 口先から臓器から尾ひれまで全部料理して食べる ひれ酒 召し上がって貰う
河豚の毒(テトロドトキシン)は末肖中枢神経に影響する
河豚の後ろ半分はそのかたまりのようなもの それがじわじわと働く
河豚を食べるとあったまると云われるが 血管運動神経の活躍を助長する効果がある
毒の量が多くなると血管運動神経の活動が止まって呼吸の抑制が 起こる
ふぐ中毒死の原因は何かと言うと 呼吸困難による酸素の欠乏 極端に言わせると薬は要らない 人工呼吸をすれば助かる
支肢の先端にしびれ感が出る 筋が弛緩する そうするとお腹に入ったその毒がグーッと回って来る 遂には意識不明になる
意識不明と言うが本人の意識は正常なんです 処が物が言えないと云う事だけなんです
もう如何と枕元で云うとショック死することが有る
昭和58年12月2日 厚生省局長通達で衛生に関する通達 38種類のうち21種類は食べてもいい しかし内臓は食べてはいけないとなっている
名古屋河豚 「河豚食えば わが身の終わり 名古屋河豚」 日本近海の河豚は内臓を取り出して肉を食べる限り中毒の心配はない
江戸時代 幕府は1668年以降 瀬田の渡し船と河豚に死する者は家禄没収 お家断絶という厳しい掟を作った
幕末に大衆が混乱期に河豚の味をしめる
明治19年~昭和54年までの12600名中毒になっているそのうち 6925名が亡くなっている 昭和22年 470名亡くなっている 先代が何とかしなくてはいけないと思って 社会に尽くせと云われて 東大 阿部宗治 京大 時岡隆 九大 内田啓太郎
昭和29年に世界的な魚類学者にバックアップしてもらって 河豚を扱いながらいろいろアドバイスをしてもらいながら 今日まで来た
昭和50年1月16日 八代目 人間国宝の坂東三津五郎の事件 料亭で河豚の料理で亡くなってしまった
条件的に発生するのがふぐ中毒の特徴 雄と雌で違う 取れる場所によって違う 臓器のある場所によって違う
あの時は2kgの臓器を全部で7人で食べている 1.4cm角の胆(肝臓)を全員が食べたが三津五郎のみがあたって亡くなってしまった
其の時に奥さんが数千万円の保険を掛けていた 事件性が高いと大変な事件になった
たまたま三津五郎さんの食べた処が当ってしまった(それまでも超一流の料理人により河豚を食べていたが当らなかった しかし今回当ってしまった)
肝につい手を出してしまう 陶酔する様な味はあの世にいってしまう 肝臓ではなく 肝膵臓(肝臓と膵臓が混在している)である
実際舌に乗せるととろーとしている 甘みはアラニンの甘み(脂の甘み) 河豚の味ではない
河豚料理は中国から来たようなもの 延暦23年に弘法大師が難破して福建を経由して鎮江 西安 ・・・河豚ロード(歩いた道) 中国では河豚が珍重されてる
倶の多い汁が出てくるがこないと私は嫌われているのではないかと言われるぐらい中国では珍重されている
揚子江でとれるのは江豚と言われていた
河豚は何故毒持っているのか テトロドトキシン 河豚は毒を取ってしまうと死んでしまう
ふぐは自分の身を守るために毒を持っているのだろうと思う
海外では河豚食に熱い眼差しを持っていることはひしひしと感じる
坂口安吾 「我々は事も無く河豚料理に酔いしれているが、あれが河豚料理として通用するに至るには 暗黒時代を想定すれば そこには一服の大ドラマが有る
幾十百の指導の殉教者が血に血をついだ作品である その人の名は筑紫の浦の太朗兵衛であるかも知れず 玄界灘の沌兵衛であるかも知れぬ
とにかくこの怪物を食べてくれようと心を固めたちまち十字架にかけられ天国に急いだ人が有るはずだが 其の時に子孫を均等に集め この怪物を食ってはならぬ
と遺言した太朗兵衛があるかも知れぬが、おい俺は今こうして死ぬけれどもこの肉のうま味だけは 孫々にわすれてはならぬ おれは不幸にして血を絞るのを忘れたようだが
お前たちは忘れず血を絞って食うが良い ゆめゆめ勇気をくじいてはならぬ
こう遺言して往生遂げた沌兵衛がいたに違いない
こうして河豚の胃袋について肝臓について臓物の一つ一つについて各々の訓戒を残し 自らは十字架にかかって果てた 幾百十の沌兵衛がいたのだ」
と書いてある
河豚に関してこれほどの凄い文章は見たことがない
淡水の河豚は観賞用が多い 汽水系は雑食系 いか たこ かに 貝 これらが主食 奥の ノドに咽頭歯があり 粗く砕いた食べ物をここで更に噛み砕く
膨張嚢(のう)を膨らまして海底に吹き付けて砂泥にある舞い上がったゴカイ等を食べる
「吹く」から名前がふぐになったと云う説もある
神経節がやたらと多い 三枚に下ろす時にちりちりと音がするが、最近の河豚は音がしない 環境が変わってきた事によると思われる
海洋水 地球の温暖化 昭和48年から私は提唱している 天然トラフグは本当に貴重になった(既に絶滅種もある)
養殖の下のヘドロがそのうちどう影響を及ぼすのか心配です
河豚は酸素の要求量が少ないので密殖する 一つの池に沢山放り込み過ぎる
血合い肉が少ない 海はますます荒れてくる
多い時で全国で1750万匹ぐらい養殖していた時期が有る
海が汚くなるのは当然のことなんです
モイストペレットはやる 生餌はやる モイストペレットはいろんなもの薬品を固めたもの
抗生物質は沢山使う 決して魚には良くない(人間に対しても良くない)
お薦めの河豚料理 河豚には味がない 味付け 工夫によってはどんなものにでも仕上がる
河豚は料理人の腕次第 DNAの塩基配列の解析にしても河豚の解析の結果が我々の将来の医学に大きな役割を果たすことは確かです
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