2012年2月15日水曜日

垣添忠生(国立がんセンター名誉総長)  ・最愛の妻の死を乗り越えて

垣添忠生(国立がんセンター名誉総長) 最愛の妻の死を乗り越えて
<概略>
(1941年4月10日 - )は、日本の医師。学位は医学博士。称号は国立がんセンター名誉総長
大阪市住吉区出身。42年、東京大学医学部卒業。同泌尿器科助手、国立がんセンター手術部長
、病院長、中央病院長
患者さんと家族のための がんの最新医療』『妻を看取る日』など著書多数
国立がんセンター総長の定年を迎え、これからを2人だけの人生をと思っていた矢先に 
最愛の奥さんを癌でなくされました
長年医師として患者の死に接してきた垣添さんですが、最愛の奥さんを亡くした悲しみは想像を
絶するものでした
その苦しみ、悲しみを乗り越えるのは大変だったと云われます 一回目 最愛の奥さんとの出合い
、結婚生活、癌との壮絶な闘病生活
奥さんを亡くされて 悲しみのどん底に突き落とされるまでを話して貰います
2007年の12月31日に妻が亡くなる  亡くなった直後の3か月に比べると楽にはなったが 
心の深い処では悲しみはずっと続いていると思います
奥さんとの出合い→医学部 卒業して インターンと云うのが有ったんですが それを拒否する
学生運動をやっていたので 医師免許のないまま
アルバイトで院長の指揮下で働くわけですが、そこの患者であった妻と知り合って 
それがきっかけです
退院後も往診があり、その中の対話で打てば響くような事で非常に面白かった 
対話が全てのきっかけだったと思う  脳波が一致するそういう思いであった
妻は12歳上で 私は年齢差は気になたなかった 妻は既婚者で離婚調停中だった
  
私の両親は仰天して大変な騒ぎだった 理解してもらえず家を飛び出して
彼女の家に転がりこんだ 1年同棲してその後に結婚した 1969年 結婚指輪もなければ、
パーティーもなく書類を提出しただけでした
3年間は両親とは音信不通で、それから母親から一度2人で家に遊びに来なさいと云う電話が
有って和解する事になる
兄弟にも紹介され普通の付き合いになる  結婚することに関しては彼女の方が悩んでいたと思う
当然両親から反対される事は判っていたので
生活は苦しかったが 彼女が英語、ドイツ語が出来るので教えてその授業料と 私のアルバイトと
その費用で何とか生活費を支えた

奥さんは→頭の良い人だった 打てば響くような会話が出来た 津田塾大学を卒業して英語は出来る 
後年、東京外語大学にも行ってドイツ語もできる
最後に東大の文学部のドイツ科に学士入学して当時ストライキが有、中途で退学した  
語学に堪能 北朝鮮の舞姫と言われた最小季?に付いてダンスを習ったとの事
ダンスが非常に好きで全て形から入ると言う   ファッションが好き 洋服を着て棒立ちになって
いるのは駄目だと ちょっとボタンを外すとか、左右の足の位置を考えるとか
論文等はサポートしてもらった 最初の論文は英語  妻に助けて貰い一発で通った   
私はアウトドアが好きで信州へのドライブとかハイキングは随分出掛けた
奥日光にて カヌーにのめり込んだ  春夏秋常に行くようになった 
  
奥日光は忘れられない地になった  
1995年 声がかすれてきて調べた結果 喉の甲状腺右側に癌がみつかって、リンパ線に転移して
神経を圧迫してそれが声をからした
甲状腺の半分を取る手術が有った 2000年に左の肺に小さな影がみつかってくさび状に切り取った
ら線癌だった
2006年に右の肺に4mmの影ができる 3か月後は変わらなかったが半年後に6mm変わってきた
 増殖してきている 治療に踏み切る (肺小細胞がん)
陽子線治療(先端医療なのでお金はかかった)で影が綺麗になくなった

 2007年3月右の肺に又でき 3,4,5,6月と治療して
退院して9月にCTとかPET、MRIとかいろいろ検査してみた 完治しているかと思っていたら 
全身に転移してしまっていた(脳、内臓等)
聞いた途端に妻の命は2,3カ月と思った  彼女自身も長くて数カ月と自覚したのであろうと思いました  
冷静に受け止めた 科学療法しかないのでそれを受ける 
11月からどんどん体調が悪くなった ベットに寝たきりになった その年の3月から国立癌センター
の名誉総長になっていたので
小さな部屋を貰っていたのでそこから朝、昼、晩 妻の病室に行って面倒見たり、私がいると排泄
の世話なども頼みましたから
本当に一緒に過ごす   、濃密に対話したりケアしたりする時間だったと思う

抗がん剤の治療は非常に辛いと窺っているが?→最初 新しい抗がん剤を使ったらよく効いて
 病巣も小さくなって私も妻も担当医も非常に喜んだのですが
2回目以降は効果がなく下痢だとか、お腹が痛いだとか、髪の毛が抜けるだとかいろいろ副作用が
出てきてしまった
全然別の薬に替えたらこれは副作用ばかりで 口内炎とか食道炎が起きてしまい水を飲むのに
苦しみ痛み止めを飲んでから、身をよじる様にして水を飲んでいた
一度だけ「こんなに苦しんで抗がん剤を飲んでいるのは貴方の為によ」と言った 
協力しなくてはいけないと思ったのでは(私は癌の研究組織のトップにいたので)
12月に入ると明らかに死を覚悟していた様で、葬式はしないでくれと 家で死にたいと云っていた
家でこまごました事をやりたいのに外泊はできないのよねと 一回だけ泣いた 
 
これには私も絶句しましたけれども
世間はクリスマスへの華やかなにぎわいの中 病院に行ったり来たりするとき華やかな雑踏を抜けて
ゆく時 自分の周りだけ冷たい風が吹いているので
本当に苦しかったですね  28日から6日まで外泊届を出して家に連れて帰った 
(外泊届を出してはありましたが、家で亡くなる覚悟でしたね)
最初は家に看護師さんを頼むつもりであったが、気心の知れない人に入って貰うのも気ずつないと
思い お断りして その代り私が点滴のポンプの扱いだとか
点滴のセットだとか 現職を離れて長いので 看護師さんからやり方の教育を受けて 医療器具を
一杯買い込んで 28日から 指示書に従ってやる様にする

数日前から酸素吸入器等を用意しておいた 2Fには運べないので1Fに寝かせるようにした
食べたいと云った、あら鍋を用意して在宅の奇跡かもしれないが、口内炎で食べるのは大変かと
思ったがおいしいおいしいと云って食べてくれた
本当に家に連れて帰って良かったと思った 病棟と自宅とは全然違うんだと思った  
29日は意識が切れ切れになる
31日はもう昏睡状態 午後から余りにも呼吸が苦しそうだったので先生を呼んだが
 間に合わなくて 午後6時15分ごろ 突然半身を起して ぱっと目を開いて
確実に私の方を見て私を認識して、自分の右手で私の左手をぎゅっと握って がくっと顎が落ちて
呼吸が止まった 

言葉はなかったけれどもあれは確実に私に対して「ありがとう」と言ってくれたんだと思います  
最後の瞬間に意識が戻って 私に意志をバッと意志を伝えてと云うのは 本当に何という人なのだろうかと私は号泣しました
その瞬間を経験したのは、私がその後辛い時期を過ごしましたけれども、立ち直ってゆくのに 
非常に意味が有ったと思いますね
「感謝の気持ちで人を別れる事が出来ると云う事は非常にすばらしいことだ」と 日野原重明先生
と講演で何度かご一緒したことが有るが 先生からそういわれた
いくら覚悟してたとはいえ、骨になって返って来ると一切話はできない 
話ができないと云う事は本当に辛かったですね

死後膠着があるので タオル10本 お湯で浸して身体を拭いて綺麗にして死装束と思われる用意
してあった好みのブラウス、パンタロンを看護師さんと一緒に着せてあげた
紅をさし顔が明るくなったように感じた 医者、葬儀屋さんとの打ち合わせがすみ 後三日間
 一人で泣いて過ごしました
完全に鬱状態だったと思います どこまで落ち込んでゆくのか 
10日までどんどん落ち込んで行ってその後 深い処に岩盤みたいなものが有って
そこから先は最低精神 人間の肉体の最低条件でそのまま3か月ほどずっと移動していったように
思います

6日からは公職が沢山あるので、責任があるので夢中でこなしていると その間 
ふっと気が付くと一瞬忘れる事が有るので仕事にのめり込む事はいみがあることかも
知れないと それから舞い込む仕事は一切引き受けて猛然と仕事をしていた 
日中はいいが 家に帰ると話相手はいない
食事もうまくない 砂を噛むようなという表現がるがおいしい物を食べても何の味もしない 
噛んでも飲み込めないから酒で流し込む 酒は私は好きなんだけれど
酒も旨くない  ウイスキーとか焼酎をロックで飲むが酔えない眠れないので睡眠剤を飲む 
無茶苦茶な生活をしていた  3か月くらい
良くアルコール依存症にもならず、肝機能も壊さなかったなあと思います
  
死ねないから生きていると云うような状態でしたね
お寺の住職さんに100日法要はした方が良いと云われて 法要を済ませ 一人で生きていかな
ければいけないのでこんな生活をしていたら
妻が何ていうのだろうかと思うようになり、それからすこしずつ腹筋運動やら腕立て伏せをやるよう
になり 身体がしっかりするようになり食事もだいぶ食べられる
様になり、生活も規則正しくなってきて万事が上向きになってきた  
(今では腕たせ100回出来るようになったけど  続ければ出来るようになるんですよ)
身体がしっかりしてくると精神的にも良くなってきて やっぱり肉体と精神は一体のものだなと
その時に強く思いましたね
5月になってカヌーもやる様になった 山登りも一生懸命するようになる  カヌー 新しい事に
チャレンジするようにした 
9月ごろには心身共に良くなりだいぶ前向きに生きられるようになった