2012年1月9日月曜日

上 高子(事務局長)       ・アジアの日本語学習舎を支えて

 上 高子アジアの新しい風事務局長)   アジアの日本語学習舎を支えて  
認定NPO(特定非営利活動法人) 国税庁によって認定された  
この団体に寄付される約4割が税額控除されるという特典が有る
全部で4万ぐらいあるNPOのうち1割にも満たない限られたNPOです 
交流校 の日本語学習舎と新し風の会員等を1対1でメール交流して日本語学習をささえるというもの 交流校は現在3校ある 中国は清華大学  タイはタマサート大学 ベトナムはハノイの貿易大学 いずれも日本語教育のレベルは非常に高いと云われている  
日本語授業の参観等も行っている  
会員の数が200名程度なので各学校で90名から100名程度
最近留学生が増えてきている 
その支援をもしている 2007年からスタートしている

理念は多文化共生
日本語学習の教師になって気付いた事がある 
いろいろ歴史、文化等に付いて質問を受ける 
教師の立場としていろいろ勉強しなければいけない
日本てこういう国だったんだと合わせ鏡のように感じる訳です 
そうすると新しい発見をする 意識改革が有る こういう体験をしてもらいたいと思う 
日本を見直しきっかけになる 日本語の見直しにもなる 
会員の大半は退職者 しかるべき地位にいる人は対応が難しい場合が有る
(内容が難しかったり 自分の経験をひけらかすような内容になってしまう場合が有るため)

専門は英語 航空会社勤務  45歳で早期退職 日本語学校で3年教える 
中国で福沢諭吉の生誕100年の記念講演が有った
日本の研究者が話した テーマは「福沢諭吉の功罪」 脱亜入欧に付いて話す 
アジアを顧みなかった・・・これは私の事だと感じた
2003年からNPO立ち上げ メール交換の発想は 清華大学でレクチャーしていた時に突然家にメールが入った これは面白いと思った
震災後大槌町に日本人の貢献している姿 被災者の静然と対応する姿を留学生にみてもらいたかった  30名で1泊2日でいった

ステージしたり掃除 被災者の人から話を聞く  
日本人が規律正しく避難生活をしていると云う事を本当にこの目で見てきた  
小学校のトイレが綺麗なのに吃驚した  
復興が遅い 瓦礫の撤去 仮設住宅の設営遅いと批判が有った 
老人が一杯いるが如何して子供の処に行かないのか 戦後の日本の社会の変化というのは非常に個人の自由を尊ぶ それは大事なことですけれども、反面失っていると云うのは 家族の絆コミュニティーの絆を失なわれつつあるなと彼らのコメントから感じた訳ですけれども、自分の失意等大したものではないなと感じた      勇気と元気を貰った  
 
足尾銅山の植林 共同して留学生と植林をした
理事長が(林雄二郎先生)昨年亡くなる 林先生との出会いが無ければ 「アジアの新しい風」のたちあげは無かった
文化の多様性 一方的に自分の文化を押しつけるのは良くないとおっしゃっていた
日本人は日中戦争に付いて余り学んでいないようですねとの質問 →歴史教科書 受験勉強なのでそこまでいかないうちに終わってしまう 試験に出ない
何故試験問題に出さない 加害者は軽く見る  ギャップを感じる
(中国 韓国では歴史の中で詳しく習う) 互いに語り合う事が大事

「井戸と大海」本を出版 ハッピーミディアムを捨ててはいけない
(アメリカのスティ先のお婆さんから言われた言葉) 中庸  が大事
話し合う中で折りあい点を見出す
効率、能率を優先して日本人は来てしまった
クールジャパンを売りだそう (かっこいいと云う意味) 
官民財が一緒になって取り組みましょと云う運動が有る
良く知られているのがアニメ、漫画、ゲーム等  
私は日本人のライフスタイルやシステムそのもの 例えば学校給食の制度、宅配便の制度 交番 に憧れがあるんじゃないか

日本では当たり前だが  日本人の倫理観や精神的な強さ 真面目 規律を守る 
・・・日本人の気質というのも 今回の大震災で外国の方々がとても評価しているので
そういったものが日本人の売りではないかなと思います
「アジアの新しい風」もこういったところに目を付けて行かなければいけないと思います
そのためには我々一人一人がきちんとした生活をしなければいけないと思います
お互いが自分良さを発揮しあって又 向こうの良さを学びハッピーミディアムを目指したい

2012年1月8日日曜日

斉藤民雄(画家65歳)       ・ウイーンで音楽を描いて40年


斉藤民雄(画家65歳)       ウイーンで音楽を描いて40年
オーストリアに在住 40年 ベートーベンをテーマにした絵画を日本で展示予定
ウイーンは立派な教会が沢山ある シュテファン寺院等大みそかは花火、爆竹で大騒ぎする  
正月は2日から仕事 クラシック音楽を聞いて絵の作業に取り掛かる
クリムト に憧れた
高校時代に病気をして 落ちこぼれて 文学とか音楽とか美術に投資した 
受験勉強はしなかった  ドイツ語学科の出身 
大学の4年間に室内楽の小さなグループを作ったり 造形美術に関心が有ったのでポスター作りをしたりした
卒業後は矢張りヨーロッパに行きたいと云う非常に強い思いが有り 一度ヨーロッパに行きたいとグラフィックデザインを勉強したいと行った

絵画の勉強にウイーンへ行く 1カ月美術館旅行をして決めた  
ウイーン大学のドイツ語講座に入り 6か月間勉強する 応用美術大学にその後入る
最終的には美術画家をしたいとの結論に達した 
アルバイトをしながら生活した スイスに出稼ぎに行く(3か月働くと半年は生活で来た)
若い時はお金がなくても生活は出来る 
最初に里帰りをしたのは4年後 いろいろの葛藤が有り 最終的には風景画に到達した
(静かな時のながれ を書きたかった)
昔からクラッシックが好きだった どうしても音楽家の足跡を抜きに描けなくなった  
今テーマとしてウイーンに関係のある音楽家の足跡とか関連づいたところが主なモチーフ

例えば今描いているのは 歩いて5分ぐらいのところに有るサミター教会 こちらはベートーベンシューベルトの葬式を出したところ ベートーベンが亡くなった家も10分ぐらいの処に有る 
マーラーが住んだと云う家が10分ぐらいの処に有る 
モーツアルトの魔笛の脚本家も同様  
モーツアルト紀行 ハイドン紀行 モーツアルトが旅した処を描く  
その間は其の作家の曲をずっと聞いている  其の作家に浸りきり
作家 作家によって色の使い方とか変わって来る  
技法は卵テンペラ技法 卵1個に或る一定量の水と油を撹拌させて溶液を作る 
これと粉絵具を混ぜ合わせ
下絵を作る 水が入っているので乾きやすい その上に油絵の具で描く 
さらっとした油絵が出来る

ウイーンでは静かに描ける 
今年の課題は秋に個展を考えている 
ウイーンでのベートーベン を描いている 20点ぐらい考えている
一番好きなのはモーツアルト  シューベルトの冬の旅をテーマに描きたい 
ウイーンは雪が降るとまるっきり違う空間になる シューベルトは10年前は描けなかった
「冬の旅」を聞くと やりきれなく思いが有る

2012年1月7日土曜日

脇田晴子(脇田能楽師)      ・能楽と女性史

脇田晴子(脇田能楽師 石川県立博物館館長77歳) 能楽と女性史
日本中世史が専門の歴史学者 中世をめぐる多彩な研究で一昨年 文化勲章を受けている 
6歳の時から観世流の仕舞を習い 歴史学者として日本中世史を 
教える一方 能楽の上演も続けてきました 
著書の中には「能楽の中の女達」「女舞の風姿」 
6年生で終戦を迎える 20代続いた旧家  正月は歌い、百人一首等やる 
6歳から仕舞を、中学で謡(うたい)、高校で小鼓(つづみ) 大学で能管(笛)
ピアノをやっていたが音感が合わず止める 
女学校2年の時に西宮でお能をやる 大槻文蔵(能のプロ) 橋弁慶をやる 
子方として牛若丸をやる

脇田修氏(夫)も歴史学者 洋楽が好き 狂言をやる 一緒の舞台に立った時が有る(3っつ) 
観阿弥 →謡のすじというのか形式みたいなものは大体つくる  
世阿弥→幽玄な神様だけじゃなくていにしえの美女が出てくるとか 幽玄な込み入ったものにする
(息子) 一つひねって高尚なものになっている 
枯れに枯れた美を追求 わび寂 芸術的には高度になってゆく 一般的には判りにくくなって来る
西行桜」曲があるが 花の寺 老い木(おいき)の 桜の精が出てくるがお爺さんの恰好でさくらの舞を舞う 
桜ってぱっと美しいがそうではない 一つひねったところに世阿弥は行くんです
(茶道のわびさびの世界と同じように) 冷えに冷えた芸能 ワーッと沸かすような芸は駄目だと
彼は云っている 底を通り越したところでやらないと
観客の程度がどんどん高くなってゆくんですね しょぼしょぼとした老い木(おいき)の精が出てきてよたよたと舞う
 そういうのを冷えに冷えたり枯れに枯れたりというんですね

「能楽の中の女達」の中で卒塔婆小町が好きで好きで堪りませんと書いてあるが→私も卒塔婆小町
を舞わしてもらったが 非常に皮肉なもので 現代人にしか通じないんじゃないかなとおもうんです
卒塔婆というのは人が死んだときに建てる塔云うものでしょう 
ここに腰をかけている それを僧が咎めるとぴしゃっとやっつける 
おばあさんがよぼよぼの物乞いをしている そういうお婆さんが尊い墓標(卒塔婆)に腰をかけている 
そこにわき(僧)が出てきて けしからん という
そうしたら お婆さん(実はお婆さんになった小野小町)がそういうもの(卒塔婆)に尊さとかが宿って
いるわけではなく これは物体に過ぎないと云うようなことをいう
中々難しい 禅問答のようなものをやる 悟りとは何かというような事を小町が堂々とやる 
そしてその後で昔を思い出して深草の少将が通って来たときとか
自分が華やかなのを老婆になって それを思い出して舞って・・・という曲なんです
 
深草の少将の霊が小野小町に付く訳です そして百代通いを演じる
能楽の常とう手段ですね その人の霊がついてそれを再現するとかね 
一番常とう手段は若い時を思い出して舞うと云う事ですけれど
物狂わしげな感じになって 少将が通ってくる百代通い(百日通う) それが少将になったり 
小町になったりして演じる訳です  一人芝居をやっているので面白い
女の人の一生みたいなものを小町に託していろいろ描いているんだなあと思いました
老いというものを見せる 人生の老いというものを全部見せている
 
「花の色は移りにけりな いたづらにわが身を世にふるながめにせしまに」 
それは若い方がいいが30代は30代 70代は70代の考えはありますし 持てた方がいいけれど
それがすべてではないから そういう考え方を歴史の中で取り上げたい 
鎌倉、室町時代は女性が結構舞っていた 
女性は中世の方が江戸時代よりも地位が高い 
石見銀山の創作もしている 銀の精  古文書類 ユネスコ遺産の登録の時に担当した 
10年ぐらいの年が経過してしまった

石川県の歴史的な面白さ→ 前田100万石の土地 歴史は現地を見ないと駄目 寺、神社は殆ど観た
能楽堂が有る いまでも有る 中世では各能楽師が有る 奥の細道を旅する 
7回目ぐらい行っている 
能楽論の本を出したい 能楽は連綿と続いており高い芸能性を表わしていると思われる  
世阿弥は凄い(シェークスピアに匹敵する)

2012年1月5日木曜日

武関翆篁(竹工芸作家53歳)    ・竹の心を編む

武関翆篁(すいこう 竹工芸作家53歳)    竹の心を編む
祖父の代から竹工芸 20代は竹工芸の本場 大分県の別府で修業  昭和61年日本伝統工芸展
に初入選 平成11年日本伝統工芸展 NHK会長賞
武関さんの作品は繊細で優美な美しさがあり これまでいくつもの工芸展で受賞を重ねている 
平成21年には文化庁から文化交流使としてドイツに派遣され
公演や実演を通じて日本の伝統工芸の国際交流を推進しました
今年で105年になる 竹は最も勢いのある植物 1日で1mも伸びると時もあり縁起の良いもの  
谷中の七福神

祖父は花籠を専門にやっている 翆心の元に修行 翠心(2代目となる) 父は翆月 
荒川区の家工芸の無形重要文化財保持者 特にすす竹を用いた仕事
竹を生かすと云う事を常々考えているようです
別府には色んな作家がいる 26歳の時に行き、専門学校に通ったのちに門田二篁さんに習った 
門田二篁さんの 篁の文字を貰った
床の間に花籠を置いてそこに花を飾る  日本のつり竿は高価  竹は繊維でできたもの 
フランス人が店に多く来る 花籠を多く購入している 明治時代モース(大森貝塚を発見した) 
が来てトンボを気にいって購入した それと同じ物を作ってほしいとの
要望が有り 作ったが同じようにはいかず どうしてここはこの様に作っているのだろうと 
職人魂が湧いて作り上げた

3年前に文化交流使としてドイツに行きハンブルグで日本の竹工芸展をやっていた 
5都市を見学する ハンブルグ美術館の初代館長が竹工芸品(日本の)を収集して 
今回初めて公開展示することになった 実は日本には無い優れたものが沢山保存されていた
 早川尚古斎と云う人の作品が有った
日本でも数点しか無いものが66点保存されていた 
早川尚古斎は福井の武士であったのが竹細工を修行して明治に竹工芸家になった人 
 底に自分の名前を彫った (年代も)
ドイツの人が作った精巧なレプリカが有った ドイツは籠文化が有りまして ドイツには竹が無いので
柳で編むんですね 

早川尚古斎の作品にそっくり柳を素材にして作ってあったのには吃驚した
 面取りは流石にしてなかった(日本では1mm以下でも面取りは普通にする)
観た目には判らないが手にとって触れてみると感触が違う 編組技法 国民性 身近にある植物
の繊維で編む ドイツは物つくりのトップなので素材が違っただけ
世界で一番小さい籠を作る人がいる 小指の先ほどの籠 身体の大きな人であった (ドイツ)
家宝がドイツでは代々ある   実演をする 作品を渡して手にとって観察してもらったが日本に
戻って来た時には少しも歪んだり壊れていたりしていなかった
早川家は見えない部分にも気を使って作品を作っている 妥協を許さない物つくり  
早川家 5代目が人間国宝
新しい作品作りをした 切り込み透かし文様 やばね文様 を開発した

竹工芸で学ばなければならない事 →基本的なことなんですけれども 竹割り10年という先人の言葉が有る
竹を割っている間に竹の性質 特性 そういうものを身体で覚える 
素材を生かすのが我々の仕事 それには竹の事を良く知らないといけない
竹を割って最終的にはひごを作る 編める段階まで竹を自分で割っていかなくてはいけない  
全て自分のて作業です
0.1mmでも厚さが違ったりすると予定していた形にならない 竹の力を利用して作ってゆくんです
 いわば共同作業みたいな物
ひご100本を使いうと100本が同じ力でないといけません 

より繊細な心配り 指先の腹で厚さを見るわけですが 0.1mmの差は確実に見分けなければいけません
細いひごでは0.2mm程度の厚さの物を使う 割りっぱなしではなく角を取って 面取りをする
 ざらついた感触が無いように
編むと組むとの組み合わせの技法で作ってゆく 編むは縦と横の組み合わせ 組むは竹を並列に
何本か並べて 藤という素材で 結んでゆく 組むほうは透かしが出る
軽やかな表現ができる  編み方はもうすでに開発し尽くされている 青海編み→波の文様をだす
3本で編む  松葉編み→ 松の葉のようにVの字になる
網代編み→空間なく編んでゆく編み方  亀甲編み 亀の甲羅編み 等10数種類ほど編み方がある
バリエーションは有るが 編み方は出来上がっている

入選作は千鳥編み花籠 千鳥編みというのは細いひご2本を上下、上下に編んでゆく 
平面的に編んで仕上がった物を見るとちょうど浜辺に居る千鳥が
一斉に飛び立つかのようなそんな模様にも見えたんです
 飯塚小玕斎(しょうかんさい)先生(人間国宝)から爺臭くなるなよと言われた(意味が判らなかった) 
君は大変な仕事を始めたんだよ とも言われたが意味が判らなかった  
感動だ 先ず感動することが大切だと云う事 素直に成れ 五感が鋭くなるように
感動したら如何して美しいのだと突き詰めなければならない
 先生は洋画を志していて芸大に行ったが長男が戦争で亡くなり、竹細工の家の仕事を継がざるを得なくなった
先生は正倉院の宝物調査などもなさって 聖武天皇の御物 その中にいろんな竹のものがあった 
東大寺の大仏開眼供養の時に使われた「けこ」という籠
があるんですが花弁を巻いてなかに入れた花弁が有るがそれが竹でできている
 
あまりにも多くの竹があるので驚いた 
双六の台の側面にはいろんな象嵌がなされていた 象嵌→素材を埋め込む技法 
石の高価なものが埋め込まれていた 
先生はこれは大変な仕事、大変な芸術だと云われた 
君は大変な仕事を始めたんだよ→日本の工芸というのは用と美 両方兼ね備えている 
実際使えていてなおかつ美しい これが有るのは世界でも稀にみるものである
実際生活空間の中に絵を取りこんでいる(襖絵、茶碗、扇子、等々) 生活を潤す 
そういう楽しみ方なんですね
日本の伝統工芸を担って作り続けて行くと云う事は本当に誇りを持って続けていけるんだよと 
大変勇気を頂いた言葉でした それが大変な仕事という事です

修行している僧侶のような人でした 生涯現役でした 
デザインは自然から学んでいる 自然と密着した銘を使用している  「萌芽」(NHK会長賞)
最近は竹製品が身の周りに無くなってきている  使い捨て文化になってはいけない 
子供の頃の体験も重要  仙台で伝統工芸展を昨年10月に開催している 興味を持ってもらう 
竹を先ず割ってみる 竹を折って御覧 から始まって籠を編むようになった
真竹は減っている 建築に使われていた竹は50年、100年 と経ってあめ色になる 
その中でしなやかさを持っているものが使える  竹が美しい
竹という素晴らしさ 日本人の生活においていつも身近に使われていた素材なんです 
それでいてアートとして世界に発信できる日本が誇る素材だと思うんです 
繊細で優美で緊張感のある曲線の持つ強さ これを表現できる素材って竹しかないんですよ 
これは日本の宝物だと思うんです

そして竹の心とは日本人の心そのものだと思うんです 竹というのは非常に柔軟性が有って 
辛抱強くて それでいて人間をはるかに上回ると云いますか
強靭さ、力強さ 全て私 人と替えてしまうんですけれど お手本になるような存在なんですね 
例えば竹は雪が降りますと葉の上に雪が積もって段々しなってくる
有る瞬間はじきとばすかのようにパーンと振り払うように元の姿に戻る 
そういうのは非常に力強い物を感じます  また優美な曲線なんですね  
素材がそれを作品に表現したいといつも思っております  

2012年1月4日水曜日

杵屋弥吉`(長唄家元)       ・長歌一筋 江戸庶民文化を守りたい

 杵屋弥吉`(長唄家元)       長歌一筋 江戸庶民文化を守りたい  
長歌一筋 江戸庶民文化を守りたいとの思い 長歌八代家元  
1939年東京 浅草生まれ 三味線を小学校4年生から始め 上野高校時代には三味線に熱中した 
東京芸術大学では人間国宝の山田抄太郎さんに稽古を受ける 
三味線を初めて60年以上 海外を始め各地で演奏活動をしてこられた
長歌は関西から来る 京長歌 伴奏として発達したと云われる 
宝暦3年 中村富十朗が下って来た時にお囃しも連れてきた 
江戸 長歌の始まり
遠山金四郎も 趣味でやっていた  切られ与三郎 (吉村与三郎) 
五目師匠(何でも教えてしまう )  
浄瑠璃からでた流派→長歌 常磐津 清元 小歌・・・これらを皆教えてしまうのを五目師匠といわれた
「お弾き初め」 正月にやる 

私は三味線をひいたのは遅い 芸事は早い方がいい 6歳くらいがいい 
中学ではクラリネットをやる 東京芸術大学に入る
山田先生に4年から受ける 弾き方を教えてやる 歩く速さ(乗りがいい) 
登場人物がいたら位置関係が判るように弾け・・・ 思いが伝わるように
自分で研究しなくてはいけない 絹糸でできている 
シンセサイザーではでない音(他の楽器はでる) 湿度、温度等に影響されてしまう
海外での評判 →考えられないテクニックとかそういうような表現で 技術的な事が書いてある  
劇場 大学の講堂等でおこなった
本当は正座してやるのが三味線を弾くのにやりやすい 
学生時代は一日8時間はやっていた

色んなところに行って三味線教室をやるが興味を持ってもらえる 
子供たちはいきいきとして手に持って喜ぶ
三味線は管理ができる人がいないと駄目 
糸が伸びるし 切れるし 皮もやぶけますし 意外と管理が大変 
若い人たちの育成が大事 廃曲、の研究をしている 
廃曲になったものを教えようとしても難しいだけで皆習わない 
教育というのは単位が貰えないとやらない 受験に係わらないとやらない
梅の栄え

2012年1月2日月曜日

山下洋輔(ジャズピアニスト69歳)     ・ジャンルを超えた音楽格闘人生 2

 山下洋輔(ジャズピアニスト69歳)       ジャンルを超えた音楽格闘人生 2  
病気をする 1968年 肺に水がたまる病気  
ジャズブームが到来した  凄く面白い時代で 新宿のピットインというジャズクラブでやっていた頃 赤テントやっていた唐十朗がいきなりジャズクラブで演劇をするといって ジョンシルバーという演目を持って乗り込んできたり 詩人の白石かずこさんが詩人を他に連れてきて伴奏しろとか,新宿曼荼羅という非常に面白いイベントをして 大体深夜行っていた
  
赤テントにピアノを持ちこんでやったりしたのが1967年でした  
ある日風邪を引きほっておいたら肺炎を起こし肺浸潤になって倒れてしまった 
1年半休まざるを得なかった 諦めて字を書く事を考えた  
小泉文夫先生のやり方をまねて分析して書いた  
無茶苦茶音楽をやっている人がいて森山威男等と無茶苦茶をやった 
テープにとっておき聞いて良いと感じる
フリージャズ 誰かがやっているものに歩調を合わせる お客の反応は→満員だった 
田原総一朗から話が有り早稲田大学で演奏会をやった (大学紛争のさなか)   
ヨーロッパツアーが実現 1974年 古いお城の処でやり 凄く受けた ベルリンフェスティバルに呼ばれる 
ドイツのフリージャズは本当に自由であったが我々は音楽的な構成を考えてしまう
筒井康隆 あるたまり場が出来た  溜まり場にタモリが来て色んな面白い事をして(物まね)タモリを見出すことになる 
物をかくようになる ジャズの旅日記みたいなのをかけないかと持ちかけられる  
バンドマンのやる事は本当におかしいのでそういったものを書く
ニューヨークトリオ が私の古里のような存在 人間的にも23年付き合っているので家族みたいなようなもの(1988年からやっている)
日本の若い人との交わり 音楽大学 オーディションをしてグループに入れたりする 
孫みたいなもの 年に関係ない ただやり方は違うので言葉で伝えあう
掟を破ることを恐れるな と若い人に伝えたい  それをするには 恐怖、喜びが有る
ベトナムに今年も行ってラプソディー イン ブルーをやる 
2/26が誕生日で70歳になる

2012年1月1日日曜日

山下洋輔(ジャズピアニスト69歳)     ・ジャンルを超えた音楽格闘人生

 山下洋輔(ジャズピアニスト69歳)       ジャンルを超えた音楽格闘人生  
セシル・テイラーオーネット・コールマンらとともにフリー・ジャズムーブメントの先駆けとなったひとりである
音楽理論に捉われずに自由に即興演奏するフリージャズに取り組み 時には肘で腱盤をたたくような激しい演奏が国内にとどまらず国外でも人気です

ここ10年ほどは毎年1月にクラシックの演奏家やオーケストラと共演し クラシックの名曲ラプソディー イン ブルーを山下流に演奏するなど様々なジャンルの音楽に挑戦しています 
今月7日にはバオリニストの「アン・アキコ・マイヤースさんと共演します  
「アン・アキコ・マイヤースは私の小学校時代からの友達の娘で 隣に住んでいた 
康子さんがアメリカに渡って結婚した 娘がバイオリニストになった
12歳でニューヨークフィルとズービン・メータ指揮でデビューした  
すぐに日本に来るようになる(1980年代後半)
「アン・アキコ・マイヤースは自分はクラシックとはっきり線を弾く人
  
クラシックと一緒にやろうと思った経緯は→母親がクラシックのピアニストだった 
でも譜面通りに私はやるのが好きでなく いたずら弾きを貫いてきた人生なんです
高校出てからどうするかという時におやと喧嘩になり 2年間掛ってピアノと作曲を勉強して国立音楽大学に入った 
そこでみたクラシックの人達の凄さ楽譜さえ見てればいくらでも弾いてしまう 
楽譜を取っちゃうと駄目  別のページにめくると平気で弾いている  
楽譜という記号さえあれば絶対大丈夫  
こういう人達と同じ土俵で戦っては駄目だと思った 
こういうクラシックの人達と一緒にやることはないと思っていたら 1986年に大阪フィルハーモニーとショーをやった
ラプソディー イン ブルーをやるなら一緒にやってやるとオファーが来た(大阪フィルから) 
一回で大恥をかいてもいいからやって見ようと思った
石黒先生と打ち合わせをして臨もうとしたが 先生が体調を崩されて女流指揮者の松尾葉子先生がおいでになって殆ど激突みたいなことでラプソディー イン ブルーをやって 自分流でやった 
結果としてはうまく行った 
皆が怒って1回で終わりだろうと思ったら喜ばれちゃってその後色んな処から呼ばれる様になった  
オーケストラに合わせるのは凄い緊張した 音で説得するしかない  
指揮者としても即興というのがあんなに恐ろしいものだとは思わなかったと後述している   
気持ちのいい 物凄い快感があった ジャズの場合と違う  
2000年新春 東京フィルハーモニーがやってくれたら ピアノコンチェルトを書きますと宣言する  
必死になって何とか作った
大学では作曲の勉強はしたがジャスは作曲が出来るが クラシックは無理であったので本当に苦労した
自分はジャズの即興者であるので ピアノの曲は即興でやる
この曲を引っ提げてトリノの音楽祭に出掛ける お客の反応は凄く7回アンコール有 2回弾いた  
ドイツ人も新しいものが好き

ジャンルを超えてやっている 
邦楽 和太鼓 等 どのような人に出会ってもピアノで即興でやっていきたい 即興で音楽を作る  ジャズへの興味は→ズーっといたずら弾きをしていたが中学3年の時に大学生になった兄がジャズバンドを始めて家で練習を始めた そこにいたずら弾きは出来るのであれば入ってもいいとわれる 
そうしたらどんどん覚えてしまって ついていけた  のめり込んだ   
麻布高校1年生のときには同級生を誘ってジャズバンドを結成  麻布高校在学中にプロとしての演奏活動を開始。
この頃、富樫雅彦渡辺貞夫菊地雅章らと親交をもつ
ピアノは右に行けば高くなる 左に行けば低くなる 一つ置きに弾けば和音になる 
これさえ判れば本当に面白いですよ 
耳から入って行った(ジャズ)  プロへの思いは →高校3年の時にプロからオファーが有った クラブでピアノの代役をする ここで道が広がる
モダンジャズをやりたいがクラブではやることが出来なかった