2011年8月7日日曜日

竹西寛子(作家)        ・ 広島が私を動かした

竹西寛子(作家)  広島が私を動かした
<概要>
(1929年4月11日 - )は、日本の小説家、日本芸術院会員
広島市皆実町(現・同市南区内)に生まれる  戦争末期には学徒動員により軍需工場
などでの勤労奉仕に従事
1945年8月6日の原爆投下の際は、たまたま体調を崩して爆心地から2.5kmの自宅に
在宅していたために大きな被害を免れることができた
多くの級友が被爆死し、この体験が後の文学活動の根本になっている
「儀式」(固有名詞を使わない小説 気負っている)、「鶴」、「兵隊宿」自身の被爆体験を
テーマとする小説『管絃祭』、小説『贈答のうた』などがある
自分を客観的に見なくてはいけないと思うようになる →書こうとしていた(モヤモヤして
落ち着かない)
「兵隊宿」 歴史書に残らない圧倒的に多い平凡な人達の日常生活を書きたかった
(原爆が落とされる前の庶民生活)
ひさし少年がだんだん大きくなってゆく過程が描かれている
 (外から眺めるときに少年の方が少女より(同性)より書きやすかった)
修飾語を極力使わないようにした 使い方が悪いととっても嫌な感じになる  
(主語+述語をきちんと決める)

小説を書くまでは日本語を使えると思っていたが、、大間違いだった  
書き出してみると違う 自分が書きたい文章と違う 
内容についての考えが曖昧だったのでは 言葉の選び方が判らなかったのでは悩んだ
不安定な気持ちを落ち着かせるにはどうしたらよいかが、ようやく書く事だと云う事気が付く
敗戦時女学校4年 勉強は2年間しかやってない 後は勤労奉仕
『管絃祭』に原爆が落ちた時の様子が描かれている
事実をより訴えたい為に架空が必要  経験が必要+自分の中の知識が必要
(拡げて考える理性) それを実際に行うには言葉しかない
見えるように出来たことを書けばいいと云うがそんな事は決してできない
(簡単に見えるようにかけるもんじゃない 見えるように書きたい)
 
その時々の自分の有ってないような世の中への繋がり 
それを決めているのが言葉使いなんですね
私は書くものが残るとは楽観視していないです 少し残る作品が出てきたが、支えて
くれる人がいたからです  消える前提です
放送はすぐ消えるものであるがそのうちの話した内容の一つだけ掴んだ人がいて
これはやっぱり自分にとって大事な言葉だよなと思ってくれる人がいればいいのでは
それは幸せです そうでありたいと思う
準備した通りに出来た作品というものは面白くない 

自分で予想しない事が途中で起こって動きだし、あわてながら追っかけてゆく
『管絃祭』はそれがあった 管絃祭は平清盛の時代から伝わっている祭 
勇ましさと雅やさが同居している 雅楽と篝火の 調和美
会社が倒産した時に古里の波の音を聞いているうちに何とかやり直せるのかなと思った
小説の中の手紙の一節父と母を原爆で亡くし 「風や雲を父と母と、みるまでには
30年掛った」
人間の生と死について考えずにいられなかった 運命を変えられ最終的には自分で
処理していかなくてはいけない それが戦争なんだ・・・辛い小説だった

自分自身日本語を理解、勉強しないといけないと思った 和歌に歴史のないところに
日本語の歴史はない 現在使っている日本語ですら背後に和歌の歴史が有って
そういうものの先端に今がある事に気付いた
ついさっきまであったものが瞬間で無くなる もう二度と触ることも見ることもできない・・・
8/6の変化の理解が出来ない
私の記憶は無くなった前の姿をとどめている 記憶にある 記憶にあるのにないのか 
有るって言えないのか
記憶にあるものと、現実は何なのか 判らなくなってきた 10代の半ばでの悩みだった

本居宣長の著作に触れて人間の心の自由 心の感受性 源氏物語を論理的に認めた人 
吃驚する様な言葉が次々に出てくる
政治と文学は大問題だった 歌の本体というものは政治を助けるためにあるんじゃない
 歌の為にある
人間は言葉を大事にしなくてはいけない 昔の人を探るには言葉でしか頼れない 
人の心を知るには言葉しかない 故人を探るには言葉しかない
これが古典との始まり 本居宣長 王朝文学研究、医学者 古事記伝等
本居宣長の言語論を中心に紫文要領 (源氏物語の解釈の前提になるもの)等々
勉強する・・・言葉の重み重大さを感じる

女が使う言葉は辿ってゆくと王朝文学 女の書いた作品を読もうと云う気になった
歌に引きずり込まれてゆく 歌は判らないと思っていたが作者がふっと近くに感じられ、
泉式部が好きになる
「なぐさむる君もありとは思へどもなほ夕暮れはものど悲しき」
(親切にしてくれる恋人がいる 不満でもないそれでも夕暮れになると私は物さびしい)  近代を感じる
言葉も単語では死んでいるが単語を拾い上げて関係の中で初めてかれらは動き出す・・・
歌の方がより説得力がある 
「白露も夢もこの世もまぼろしもたとへて言へば久しかりけり」
(はかないもの ひっくり返す恋人と時間を過ごすのに比べればまだ長い)

「人知れず物思うことはならひにき花に別れぬ春しなければ」
(人知れずに物想いにふけることを知ってしまった 考えて見ると咲いた花は必ず散ってしまう)
歌に動いた自分がいないと評論は書けない
歌には理屈抜きで人を快くさせる力がある
「もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行くへ知らずも」
 柿本人麿呂
「世の中は夢かうつつかうつつとも夢とは知らずありてなければ」

2011年8月6日土曜日

上田正昭(京都大学名誉教授)  ・雨森 芳洲が語りかける

上田正昭  雨森 芳洲が語りかける
<概要>
 上田 正昭(うえだ まさあき、1927年4月29日 - )は日本の歴史学者。兵庫県出身。
京都大学名誉教授、大阪女子大学名誉教授
 日本古代史を中心に神話学・民俗学などに視野を入れ、広く東アジア的視点から
歴史を究明する著書が多数ある
 朝鮮半島との歴史を調査するうちに雨森芳州に興味を抱きこの人物を世に広めたい
と思い本を出版するに至る 彼の魅力を披露
江戸時代朝鮮王朝から12回にわたって朝鮮使が日本に来ている
 多い時には500人を越える
朝鮮通信使はまず対馬に渡る 対馬藩は江戸までの往復の世話役の担当をする 
対馬藩の儒学者 雨森芳州は朝鮮側との交渉に大きな役割を果たした
1668年生まれ 18歳で江戸に出て木下順庵に入門(同門の新井白石室鳩巣祇園南海
とともに秀才を唱われる)22歳で対馬藩に仕える
1755年(88歳)で対馬で生涯を閉じる

「雨森芳州 互いに欺かず 争わず真実を持って交わり候」を出版する
中学2年の時に 津田左右吉氏の書「古事記および日本書紀の研究」(発売禁止本) 
担任の教師より借りて読み 学校で習っている歴史と内容が違う事を知る
学問とはこういうものかと知ったのが、歴史学を心指す大きな前提になっている
昭和19年国学院大学に入学 堀口忍先生に影響を強く受ける 歌人であり小説家 
柳田國男先生の直弟子 「古代研究」3冊 執筆
古代の研究がいかに大事かという事を教わった  
古代の心が中世にも近世にも現代にも生きているんだとグローバルな古代の捉え方
堀口先生・・・日本は何故敗れたのか・・・日本の神が欧米の神に敗れたのだという→
新しい神の学問を作る必要がある そのための古代研究であったと思われる

昭和22~25年 京都大学 古代研究する 非常勤の先生から朝鮮史を学ぶ 
古代を研究するのに日本のなかだけ研究していたのでは実際の姿が見えてこない
最初の著書「神話の研究」・・・日本の神話の研究したが、中国、朝鮮の神話との比較を
前提に行う
1965年 「帰化伝」を出す  帰化と渡来は違う  帰化:中華思想の産物 
中国の古典にはしばしば出てくる言葉 夷てきの民が課する 国に能くする
それを日本の支配者層が7~8世紀巧みに利用して日本が東アジアの中では東夷の
中の中華だと云う事を考えて百済、新羅、高句麗 朝鮮島の人々が
日本に来ると720年の日本書紀には帰化と云う項が12例ありそのうち10例が全て朝鮮
の高句麗、百済、新羅のひとたち

戸籍、居住地を明確にする・・・帰化 の定義 
691年がもっとも古い戸籍 
東大寺大仏建立の立役者 663年に日本に亡命した百済の官僚の在日3世の
国中公麻呂 
桓武天皇の母親は 百済宗王の流れを汲んだ人
国中公麻呂の祖父・国骨富は徳率の位にまで昇った百済の高官であったが、天智天皇2年
(663年)白村江の戦い後まもなく百済が滅亡したため日本に渡来した
桓武天皇の生母は百済の武寧王を祖とする王族の末裔とされる和氏(やまとうじ)出身
高野新笠

渡来という言葉を使うべき 渡来:古典用語 
朝鮮半島と日本列島との交流には学生時代から研究する
渡来の波に4段階ある 
①弥生時代が始まる前後  
②5世紀前後  
③5世紀後半~6世紀前半  
④7世紀中ごろ 
特に百済滅亡の時期大量の人が日本に渡ってくる  
飛鳥時代を論ずるときに百済、新羅、高句麗との係わりを無しに飛鳥文化を語れない
雄略4年 日本書紀に記載 新しい技術を持った人が列挙されている(馬具を作る人、
織物、絵、その他) 日本の古代文化の形成に参加している

朝鮮文化の影響という人がいるが影響ではなくて文化を持ってきた人が日本文化に
参加している 日本に住んでいた人も対決ではなく調和した
信仰も持ってくる 優所(パスポート)が必要なところは山口県長門 難波だけ
 あとは自由 (如何に開かれていたか)
古代人の島国根性は閉鎖的ではなかった 開かれていた 
「雨森芳州 互いに欺かず 争わず真実を持って交わり候」を出版する
江戸時代の対馬の学者 稀に見る国際人

1968年(昭和43年)桑原武夫先生(京都大学) 新井白石の口語版を出すことになり
執筆を一緒にやることになる
新井白石の自叙伝を読むと白石が雨森芳州をライバル意識していることが判る・・・
このことに疑問を抱く
雨森の事を調査→生誕地の蔵に115点の芳州の文献が見つかった 
そのなかに61歳のときに纏めた朝鮮外交心得『交隣提醒』対馬藩主に献上した書が有った
秀吉の朝鮮侵略を痛烈に批判した文章をみる 無命(ムミョウ)の戦 大儀名分の全く無い
戦 両国人民無数の殺害  

文禄、慶長の役  江戸時代に秀吉の批判をしている学者は何人かいるが芳州程
痛烈に批判した人はいない
誠信の交わりと候は実意をもって互いに欺かず、真実をもって交わり候 
事を誠信と申し候
雨森を世に出したいと思った
江戸時代 江戸幕府 対馬藩、朝鮮王朝との関係
江戸時代は鎖国と言われるが幕府の文書には鎖国という文字は無い  
通商の国 (オランダ 中国) 通信の国(朝鮮王朝と琉球王朝 外交もやるし貿易もやる)
朝鮮王朝と外交をやり交易をやる窓口が対馬藩 芳州は朝鮮語の勉強しているし、
朝鮮史、中国史 中国語やっている

31~54歳まで殿様に儒学を教える又 朝鮮方佐役(朝鮮の補佐役) 外交の正面に
立つ役をこなす
1711年(第8回朝鮮通信使)、1719年(第9回朝鮮通信使)2回 江戸への往復の接待役
交渉担当シム・ヨハンと芳州との友情 最後には涙を流して別れている
申維翰が帰国後に著した『海遊録』に雨森芳洲活躍の姿が描かれている
善隣友好は如何に有るべきかを示している 朝鮮王朝使節と交わるのを幕府は禁止
しているが、それを乗り越えて一般民衆が参加交わる
学者、楽団、舞踊、医者,等 使節団は多彩 民衆の間にも広がっている  
民交 民衆と民衆の交わりが必要、大事

朝鮮は警戒して(歴史問題)日本の外交官、政治家を都に招く事はしなかった 
対馬藩は朝鮮に使節を送っている(1811年で使節は終わるが明治の初めまで行っていた)
現代の外交に携わる人のお手本ではないかと思う  国交 相手の国を知る 
相手の言葉を使う事を考えるがそうではなく、己を知っていなければ発信できない
芳州は己を知り、相手を知る そして真実をもって交わる 
59~61歳 御用人として藩主と役職者との取次の重職にあったが、古典の勉強をやっている 
古今和歌集1000遍読んだ 歌は1万首作る
アジアの中で、特に東アジアの中で日本を見ないと日本の姿は判らない 
歴史を学ぶと云う事はただ単に歴史を知るということでな無くて 過去に学んで、
現在を正確に判断する 
そして未来をしっかり展望する ・・・歴史学の一番大事なこと

2011年8月5日金曜日

橋爪文             ・原爆体験を世界に2

橋爪文  原爆体験を世界に
家族と近所の方合わせて13名でがれきの中から柱を持っていて小さなバラックを作った
(焼け残ったとたん板2枚で屋根を作った)
夜露をしのぐ 昼間は太陽が熱く 夜は急に寒くなる 
13人全員が重傷を負っていたので寒さをひとしお感じる
2畳ぐらいの13人がくっつきあって寝る ほとんど食べない 
くっつきあって体温が伝わってくる 相手は生きているんだと云う事を感じる
水は少し後は雨水を飲んだ 草を食べた  辛い事もあのときを思えば乗り越えられる
極限状態にある時の人間の素晴らしさを感じる ・・・私の根っこにある

海外へのきっかけ
30歳で結婚 3人の男の子供をもうける 60歳になった時に長男からせめて5年で
いいから自分の為に生きてほしいといわれる(不可能であると思われるが口にだす)
勉強できない環境で過ごしてきたので、勉強したいと思った 
家にいて勉強出来ると思って放送大学希望するがアンテナ代、等の支出があり断念
NHK基礎英語講座で勉強→近所の英会話教室で勉強(スコットランドの教師)→
この教師の紹介でスコットラントの学校゙に行く
詩を書いていて、友人が英訳してくれる その英訳文をスコットランドの先生にみせた 
被爆者であることに吃驚する 
「空の星を沈めた水槽の雨水でわずかな食べ物を煮焚きした  
星の光が痛いほど降る露天風呂で 湯を浴びた 両手を思いっきり手を伸ばすと
星の話が聞こえた 私は生きている 星がきらめいて答えた
 
お前は生きている 天の下の水槽の底にはみみずが住んでいた 
ミミズと私は一緒に生きていた」
学生たちも 被爆者 生き残りがいると云うのにショックを受けた 
目の前に原爆が落ちたようなショックだった 
私は言葉が通じなくても存在するだけで訴える力があるんだなと思った 
2年後に又チャンスが訪れる シルバー英語研修でニュージーランドに2週間行く
エッセーを英訳したものをリュックに背負って20部 を配るとあっという間に無くなる→
100冊(ハガキ大)配る→それが芽となってあちこちからオファー来る(旅費は自費)
日本に帰って来てから思うのですが、日本人は広島、長崎知っているが、
知っているつもりで知らないのが日本人だと思う
ニュージーランドに毎年行くようになったのは、8/6に毎年広島デーで灯篭流しをやっている
 それを知ったのでそれに参加することにしてから来るようになった

広島を流れている大田川は太平洋に流れている クレストチャーチを流れているエーブン川も
太平洋にそそいでいる 同じ太平洋にそそぐ川を持つ私達は
広島と同じ想いで反核を訴えようというのが趣旨で灯篭流しをするようになったとの事
世界のあちこちで広島デーをやっている フィンランド、スウェーデン、カナダ等 
外国での講演の反応
アメリカ人をにくくないですか?→人間は憎みません アメリカが原爆を落としたと云う事
に対しては許せません
報復を考えたことはありますか?→憎しみとか報復とかが有る限り平和は来ないでしょう
63年経ちましたがアメリカに謝罪してほしいですか?→全人類に対して謝罪するのが
アメリカの良心ではないでしょうか

ニュージーランドにいる日本人から短編小説を貰った 
吃驚したのが広島デーが書いてあった→作家に会いたいと思いL.Cロックという作家に会えた
広島デーを始めた発起人の一人 「貴方は話さなければいけない 
書かなければいけない」広島だけ、日本だけの事ではない 
現在の世界 未来の地球の事ですよ
私達は一人ずつのよせ集めだけでしか知ることが出来ない 
貴方は話さなければいけない 書かなければいけない と云われる
それがきっかけでニュージーランドに行って励まされてずっとやって来ている
詩を作るきっかけは3,6,9歳の子供 貴方は半年の命かもしれませんと医者から言われた時
 子供たちがさみしい思いをするだろうなと思い、
童謡作れないかな と詩を作り始めた 

10年経ち子供たちへのメッセージを纏めようかなと進めた
16歳の次男が(ぜんそく持ち) 反核の集会に出掛けようとするが健康面から考えて
阻止しようとする →涙を流しながら「お母さんは被爆者で平和を求めているのに
何にもしない 家事が大変なのは判るが新聞の投書とか何か出来るでしょ」と言われる
→なにも浮かばない→飯田さんと火事の中過ごした事を思い出し詩が出来た
それまで背中に重い物を背負って生きてきていた それがスーッ薄れてきた→
聞かれれば原爆の事を話せるようになった 原爆の詩も書けるようになった
8/7早朝にひどい下痢をした その後下痢が続く、急性原爆症(高熱、痛み) 鼻血 
大抵の方は無くなっているのに不思議と生き延びれた

原爆ぶらぶら病 (倦怠感 気持ちがいくら動こうと思っても動けない)
ABCC(原爆調査委員会) いろんな検査をする 人体に及ぼす影響 治療は一切しない 
人間扱いしない 非常に大きな屈辱感を覚えた
私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました
アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、
国際的支援も妨害しいっさいの原爆報道を禁止しました
私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の
実験対象として調査、監視、記録をされたのでした

今は被爆者手帳が有って治療費は免除されているが、当時病院へいこうにも金が
かかるのでいくにも行けない 被爆者法が出来たのは12年後
その間に亡くなった人は沢山いる 
体験記を新たに書き始める 東日本大震災起きる 福島原発事故で衝撃を受ける 
原点である広島に行く フランスからのインタビューがある(フランス原発大国) 
貴方は原爆と原発は同じものだと思いますか?→同じものですと答える→
原発は平和利用、原爆は戦争目的で違うのでは?→同じですとはっきり言う
放射能という意味では同じ

「地球上に生を受けているのは人間だけではありません
 人間が自らの栄徳の為に生物を犠牲にするのは不遜ではないでしょうか
自然と調和して生きてゆく道を開くのが人間の英知ではないでしょうか 
又20世紀から21世紀に生きる私達は長い人類史のほんのひと時を与えられているに
過ぎません
先達から引き継ぎ未来へバトンタッチをするほんのひと時を預かっているだけでは
ないでしょうか」
そしてたとえ微力であっても、「生命の尊さ」を次代へ伝えることができれば、
それが原爆に生き残った私自身の証のように思います

2011年8月4日木曜日

橋爪文             ・原爆体験を世界に

橋爪文  原爆体験を世界に
<概要>
14歳の時に広島で原爆にて被爆 その時の体験をようやく最近話せるようになる 
その体験談及び原爆に対する思いを語る
余りにも悲惨で思い出したくない 早く忘れてしまいたい それが自分の本能みたい 
話をする事が出来なかった
被爆者でなければ判らない それぐらい表現する言葉がない 
1995年「少女14歳 原爆体験記」という本に纏める 原爆から50年たってようやく
体験記を書こうと云う事になる
友達に薦められ書かなきゃいけないと思った (友達 フリーライター卯月綾さん) 
書きたくなかったがどうにか書いた(命が亡くなるのが先か、書き終えるのが先か)
今も体が悪い 当時からずっと状態が良くない  逓信病院に行く為に東京に行く  
全身病・・・原爆症との関連性が難しい

海外へも原爆の話をするようになった  体調は良くなかったが 出掛ける 
3カ国/回×3回/年×10年以上という事で90カ国以上になる
1945年8月6日 の体験
14歳 旧制女学校の最後の年 病院、公官庁、等に類焼が及ばないように民家を壊して
その跡かたずけに多くの女子生徒は借り出されてが
私は運よく貯金局に事務作業員として勤めていた  
家から片道1時間(家は北 貯金局は南) 8時10分頃貯金局に着く
係長にお金を差し出した瞬間に大きな窓が鮮烈な光を発した 光線が7色に見えた 
それが集まって100にもに見えた その瞬間に太陽が目の前に落ちたと思った
と同時に気を失っていた 

気が付いたら広い部屋の真ん中に柱が何本かあるが 窓の近くからその柱まで
とばされ柱にぶつかってそこにいたものと思う
痛みは感じず、ただ真っ暗 目が見えなくなったと瞬間に思った 
訓練を以前からしていた  目玉が飛び出さないように人指し指と中指で目を押さえて
鼓膜が破れないように親指で耳を押さえて 腸が飛びださないように腹ばいに姿勢を取る  
目と耳は押さえられたがしゃがむようにしていた(狭いので)
右ひじにべっとりと液体と思われるものが感じられ、目をあけると薄ぼんやりと
見えるようになり、手にべっとりと血が付いていた
立ち上がったら体にガラスの破片が突き刺さっていた 
机の中から布をとりだし傷口と思われる処に充てた

男の人の「逃げろ」との叫びがあり、一人立ち、2人立ち、出口に向かって歩き出した 
皆茫然としている 
出口に向かう途中で電線に絡まって男の人が倒れていた 
蒼白な顔で明らかに亡くなっている 全身に怖い思いが走った 
その日初めて目にした遺体だった
3階から階段で降りてくる中途に4歳の女の子(掃除のおばさんの子)が裸で倒れている
多分きているものは爆風で飛ばされたものと思われる
その子のお腹が裂けてピンク色の腸がもこもこ湧きでて、彼女はまだ生きていて苦しく
身もだえする 掃除のおばさんがその子を抱いて助けを叫んでいた
地上に降りたら皆茫然として何が起きたのでしょう
 何が起きたのでしょうと口ぐちに叫んでいた

何人かの人が私をみて悲鳴を上げた 血がさらさらと流れだしていた
 友柳さんという女性がそれをみて抱きかかえるようにして日赤病院に運んでくれた
そこには皮膚が焼けただれて海藻みたいに垂れ下がって手をむねの前にぶら下げて
歩いている 手も顔も赤黒く焼けただれて倍ぐらいに膨れ上がっている
唇も上下にめくれ上がっている 男性か女性か判らない 
14歳ぐらいの年齢が一番多かった 痛いとか助けてとかの声がなかった
私は気を失っていった 床に横たわっていて耳だけは聞こえた 
これはひどい出血だから眠ったら駄目 死にますよ という声だけが残っている
深い気持ちのいい眠りにスーッと吸い込まれる 
友柳さんがその一言が有ったもので、眠らせないように呼び続けてくれた 
気持ちのいい眠気
命の恩人 友柳さんは原爆症で翌年亡くなる 

敵機来襲で地下室に友柳さんが引きずるように連れて行ってくれた 
皆「何があったんでしょう」とつぶやきあっていたのを聞いて 「何があったんでしょう」
と囁いたら それを聞いて生きていると友柳さんが泣き叫んだ
友柳さんが帰ったあとで日赤病院が火事になる 皆逃げて行った 
友柳さんの友達二人がいてどうしよう(当人たちも怪我)と悩む
私は「動けませんのでどうか逃げて下さい」という→私達も怪我をしていて連れてゆけ
なくてごめんなさい     ごめんなさいと言って逃げて行った
目を開けたら出口にうっすらと白い煙が見え、段々黒くなって入道雲のような黒い煙が
どっと入ってきた 

それが私のところまで来たら死ぬんだなあと思った
黒い煙の中に人影がツッと走って、だれかいるのか早く逃げろと大きな声で叫んだ 
声に押されるようにふわっと立ちあがることが出来て出口に向かって歩く
その時鏡があって自分の姿をみてしまった 
痩せて真っ青な顔をして髪の毛を垂らしておびえた目をして私の方に近ずいてくる 
襲われると思った
怖いから顔を覆った 襲ってこない 指の間からそうっとみる 向こうも指の間から
怖そうにみている 鏡に映っている自分だった 
何とか這って外に出てみると街がすっかり無くなっている まだ夢をみていると思った  
病院は窓から火の炎を出して燃えている

逃げる気力もなくたたずんでいたら16歳の少年飯田さんが当人も重傷を負っていたが、
火のなか一緒に残ってくれた(見知らぬ少年だったが) 
日赤病院の植え込みに松の木があり、松の木陰に連れてってくれた
(火の粉が雨のように降ってくるので、避けるため) 一晩そこで過ごす
その朝飯田さんは妹と二人で家の下敷きになって彼はどうにか這いだしたが、
妹は深い家屋の下敷きになり一生懸命やっても駄目だった
そのうち火が回って来て 「熱い 熱い お兄さんお水かけて」と叫ぶ バケツでその
方向に水をかけてやるが火のてが回り、「お兄ちゃんありがとう 早く逃げて」
と云ったそうです 母の元に行こうとして川を渡り日赤病院にたどり着き私と会った 
妹さんの代わりに私を助けてくれたのでは
眠って目が覚めたら飯田さんが見えずはじめて恐怖を感じた 
 
探そうと目を向けた処に彼が見えて、ヤカンに水を入れて亡くなって行く人の口に水を
与えている姿をみる
一晩中水を与えていました そんな中で趣味はと聞かれ私は読書と答えたら
「僕は読書と音楽です」という 「音楽は神の言葉です」と云った
無くなってゆく人に対して水を与えている姿をみて 神が此処にいると思いました  
飯田さんは10年後に交通事故で亡くなった
次の日は大分寒かった 南の方に叔母の家があり、叔母と対面する 
家族は無事であることを知る  
飯田さんからは治療してもっと元気になってから行くように言われたが、母に会いたくて
振り切って家に向かって北へと歩きだす(止まったら倒れる様な歩き方)
全滅した広島を縦断する(5~6km) 立ったままの白骨とか、水がなくなっている
水槽にある一杯ある白骨、不思議なことが一杯有った

生きているものを全然見えない中進むと 3人の人が肩を組みあうようにしてよろよろと
歩いてくる 母と叔母と姉だった(本当に偶然)
感動とか喜びとか喜怒哀楽を飛び越したところにいたのではないか
 3人ともガラスの破片だとか木片が身に刺さっていた
母は右腕がぶら下がっていた 叔母は頭をやられてふらふらしている 
姉は顔が膨れ上がって目が見えない 目が見える母に皆が寄り掛かって歩いていた 
本当に喜びとか悲しみを超越して、衰弱の極みというかそんな状態だった 
弟は小学校一年生だった 鉄棒で遊んでいて後ろから光線を浴びて
前は綺麗で後ろは血も出ていない 皮膚が全部めくれていた 
校庭で弟は亡くなりました
その後医療の援助はなく自然治癒、水はなく雨水を飲み、食べ物は草が10cmぐらい
になるとそれを食べていた

2011年8月3日水曜日

黒田征太郎(イラストレーター74歳)    ・広島を描き続けて 2

黒田征太郎(74歳)イラストレーター 広島を描き続けて
小倉で1945年8月9日に原爆投下の計画があった 偵察機が飛来して、OKを出せば
小倉に投下するはずだった 
奇跡的に免れ長崎が犠牲になった
当時小倉には大きな軍司令部があり、八幡には製鉄所があり重要拠点であった
出身は大阪・道頓堀の生まれ 昭和14年(1939年) ポーランド グラニスクにナチスドイツ
が電撃攻撃を加えた年
父は炭鉱夫 (筑豊) 炭鉱を抜けて関西 鉄工所を作った 
戦争景気に乗っかって大きくなった 芸者をしていた母親とのあいだに私は出来た子供です
(正式には結婚せず)

神戸・西之宮に移る 国民学校に入学 爆撃を受け 滋賀県神崎郡能登川町に疎開する  
翌年父親が亡くなる 帰れずにそこで10年間暮らす
空襲体験 大阪炎上しているのを見ている 神戸大空襲も体験  
野坂氏の「火垂るの墓」はこの辺界隈を舞台にしている(30年前に野坂氏と一緒にこの辺を
歩いた)
野坂氏は9歳年上で多感なころだったのでグッサリ胸に刺さっていたと思う
戦争というものは終わったから全部終わると云うもんではない 
戦争は終わってから戦争第二部が始まってくる
貧乏のどん底に向かって転がり落ちる そのたびに家が小さくなる 

ある日東海道線の能登川駅のホームの端っこに被災された女の方が置かれている 
多分広島から逃れて8/20ここに来るが無縁仏ケロイド状でウジ虫が一杯湧いている
新型爆弾(原子爆弾)にやられたんやなあ・・・原爆との最初の出会い
西宮にいた時大阪の空襲を見て友達が疎開して広島仁行った 
その友達が新型爆弾で亡くなった 2つの体験有
日本の強いイメージが スーと消えて凄く強いアメリカが GIが白馬の王子様というイメージに
変わった あとはアメリカ アメリカだった
中学卒業すると魚屋になろうかと思ったが駄目で、母が高校に行ってはと言われ高校
に進むが、面白くなく家出する
 
船の作業員 労働者、水商売バーテン見習い
人を脅して金を貰ったりした 夢があって漫画家の手塚治虫氏に物凄く憧れていた 
労働者として働いている時でもヒョイとその夢が出てくる
印刷物、雑誌に係わる何かをやりたいと思った  
高校一年中退では駄目→図案部だと体験者でならはいれるかも知れないと耳にはさむ
早川 良雄先生の門をくぐる→初めて信頼出来た大人 早川先生 長友 啓典 
(デザイナー 現在の相棒)が実習生で来る)
気が付いたら三度の飯と同じくらい絵を描くのが好き 絵の神様がいるんじゃないか
絵の神様に対してだったらなんでもやるよといった感じ

一時TV、雑誌等売れっ子ア-ティストの存在→最初面白かったが(有名人として心地
良かった)直ぐに飽きてしまった→止めようと思った(マスコミから出なくなっていった)
自分を考えて行った(おれって何だろう) 
欧米コンプレックスの塊が自分ではないのかなあと思うようになる
邦楽、演歌等嫌だった かっこ悪い・・・日本的なもの、アジア的なものから遠ざかろうとし
ている自分に気付く
このままひょっとして死んだら自分というものが何も無し →東京にいてもしょうがない 
向こうに行っちゃえば自分が見えてくるのではないかと思った

ヒョイと行ってしまった 気が付いたら17年間いた 行って良かった 全部自分でやる 
人間出来る間は自分の事を自分でやるのがいいのかなあと思う
欧米コンプレックスが取れたかなあと思う相変わらずアメリカが好き
 前よりはるかにアジア、極東アジア人だと云う自覚もある
2001年同時多発テロ 無力感に襲われた 一瞬だけどもう絵なんか書くのは止めようと思った
気が付いたら 絵ハガキに一杯書いている
 ワールドトレードセンターが崩れてゆく噴煙が妙にきのこ雲と重なってしまった
ブッシュがグラウンドゼロを演説 私は率直にそれは違うだろうと思った 
(貴方達がそこを聖地と言うなら我々にもある広島、長崎、東京、大阪)
被災地も今後どんどん厳しくなる  ピカドンプロジェクトを進めている 

自分が一番関心があるのは子供 皆目がキラキラしている 
あと15年経ったときどんな時代をみるのかなあと思うといい時代じゃないのかなあ
このままだと、と思う
何かしないではおられない  遊離してしまっているよう、終戦処理うやむや 
沖縄 基地 我々の世代の責任 野坂氏から順々に教えてもらった
日本列島の中で暮らしていた時代はいいが、世界がどんどん狭くなってくると
そうはいかない
切磋琢磨して他民族と一緒に暮らしてきた人達は喧嘩もするが、
徹底的なところまでやって、ルールをしっかりと決める  そういう時代に入って行っている
少なくとも大人と言われている連中は個々が独立するべき 自分は何が出来るのだろうか 
やるしかない 

今度大阪の子供たちと生きることで一緒に絵を書いたりする 
それは三宅一生さんから一緒にやろうよと声を掛けられた
我々は太陽の力を借りて生きているのだからあまり太陽をないがしろにしないでおこうと
云うのを童話仕立てで作っている
火の粉が人と太陽との媒介で、暗くさびしい生活をしていた人類の昔の昔の祖先が
火を手に入れたい と願い 貸してやると どういう風に使ってもいい
ただ火の神様(太陽)が殺すな 殺してはいけないと云う それは簡単ですと火を貰う
 いろんな便利な事があったり 楽しい事があったりした
ある時 火で人を、他の動物を殺せることに気が付く 
そこから物凄いスピードで原爆まで行ってしまう ・・・童話作りをしている

2011年8月2日火曜日

黒田征太郎(イラストレーター74歳)     ・広島を描き続けて


黒田征太郎(74歳)イラストレーター・   広島を描き続けて
<概要>
黒田 征太郎 (1939年1月25日 - ) はイラストレーター・グラフィックデザイナー。
日本工学院専門学校グラフィックデザイン科顧問
音楽に合わせて素手で絵を描いていくライブペインティングやホスピタルアートを
ライフワークにしている
これらは黒田が太平洋戦争・アメリカ合衆国滞在時の交通事故の体験が基盤になっている
平和運動も積極的に行なっている  原爆、戦争、 野坂氏との交友等
絵と音楽同時進行で行う  音に触発されて塗りたくっている(絵というものは何かに
触発されて描く(花がなければ花は書けない)

自然のすべてが先生 私は古代人あるいは原始人がやってきたことをなぞっていると思う
近藤等則(音楽家トランペッター・音楽プロデューサー)  
喜び悲しみをふきだしたらいいと思っている 上手に書こうとは思っていない
2009年から北九州に住むようになる ニューヨークに17年間いたが いろんなことが絡まって
いるが、一度外れようと思った
佐木 隆三 作家 友人 40年来の友人  と共同で絵本を出す 
「昭和20年 8歳の日記」・・・奇跡に近い形で出た 
有る会合でであった 急に「俺キノコ雲を見たんだよ」といった 
 広島のキノコ雲の事をやっていたのでそれを知っていてヒョイとでたと思う
とっさに出た言葉が「一緒に絵本を出しましょう」 8歳になった時の気持ちで書いて
ほしいと要求したら日記形式で書いた

私は6歳だった時で 君大人になったらどうするの 
ほとんどの少年は陸軍大将とか兵隊とかがほとんど 答えていた
戦争がいかに国を挙げての狂気になってゆくかという事
子供が犠牲になる時代はよくない 一つの色に染められてしまっていることの「イビツサ
」はある 戦争終了後8歳~13歳はすごく楽しかった
「8/6広島に新型爆弾 落下傘が空で破裂 朝 婆ちゃんと田の草取りをしていたら
 ピカっと光り大きなキノコ雲が立ち上がって夕方からやけどをした人達が
集めまってきて学校は満員 」

キノコ雲 ずっと書く癖が付いている 1万点以上書いている ・・・野坂昭如の影響
朝鮮戦争の時 野坂氏は小倉におり共産圏から原子爆弾を落とすのではないかと
思ったらしい (長野まで逃げた)
キノコ雲が追いかけてくるイメージだった・・・野坂氏 (私は野坂氏のこの言葉に鮮烈に
覚えている)
フランス政府が核実験再開した日からキノコ雲を書くようになった  
ひび割れた断面から世界に広がってゆくというイメージ

核爆弾の実験を2060回ぐらいやっている 今ヒロシマ型原子爆弾の100倍200倍の威力
を持った物凄い数が地球上にある(60数億人が一挙に亡くなってしまう)
戦争をテーマにした絵本を野坂氏と一緒に作っている
ある新聞社を介して野坂氏と知り合う 最初は変な難しい事ばっかり言っている
おっちゃんだなあと思っていた
話が戦争の事、子供の事、これから生きてゆく子供の事、食糧の事、原子力発電所の事
 暗い内容ばっかり話していた

自分も年を取って来て刷り込まれていった   戦後50年経ってアメリカに渡った
アメリカから見ると意外と日本が良く見えてくる 日本にいた時よりも日本が気になる 
野坂さんは 人類がやってきたのは戦争ばっかり 戦争がなかったことはない 
今でも地球のどこかで戦争をやってる
戦争が起こったら弱いものから犠牲になってゆく 
犠牲も人間だけでなく草木にいたるまでと云う事を童話で書いていた事に思い至る
野坂さんのおっしゃっていることを、お先棒を担がして頂きたいと思い、「野坂昭如 
戦争童話集」を絵本化し、映像化した しかし自分の中で達成感がない

沖縄戦についてどう思うか野坂氏に聞くが 体験がないから書けないという 
その後一緒に沖縄に何回も行って「海亀と少年」が出来る
「昭和20年 8歳の日記」は兎に角最初に野坂氏に見せたかった
続いて行っている 戦争の残酷さ とか そういうものを風化させない
野坂氏は10年前から療養生活をしている 右手が具合悪く妻が代筆している
野坂さんこれからどういう事を書かれる積りですかと聞いたら 「昭和20年8月15日に
決まってるだろう バカ」と言われた

10月25日 日記は締めくくられている 
「母ちゃんと広島市にゆく ピカドンで焼け野原 つとむ兄ちゃん生きていてありがとう」
戦争中 兄は体が弱く 病気になって古里に帰っていた その時8歳の当人は兄に対し
て非国民だといっていた 軍国少年だった
8歳の少年が一瞬にして変わってゆく 人間如何に命が大事か 
佐木 隆三さんのこの日記の最後が大好きです
今の8歳の子も同じように考えていると思う 大人が思っている以上に命に対して敏感
だと思う

最後の絵は被災地を見てきた後に書いた 津波も原子爆弾も根こそぎ取ってしまう 
原子爆弾は太陽(火の神)を逆手にとって、盗んで爆発させたもの 
水の神(津波)は矢張り持ってゆく  
火の神と水の神は敬虔しないといけない
人間も自然の一部  なかには自然をすくわないととおっしゃる人がいるが なにいってる
の貴方も自然の端っこにいる人間じゃないと思う
この本はいろいろ家族等でしゃべるきっかけになってほしい
天からの災害と人が作った爆弾が落ちたのは 違うと云えば違うが、大きく言えば命の
お話というか 命あってこその自分等であるからそういった意味では一緒で 今は持っていけないがいつかは被災地の方々に読んでもらいたいなあと思います

2011年8月1日月曜日

丸谷明夫(吹奏楽部顧問66歳)    ・吹奏楽とともに50年

丸谷明夫(吹奏楽部顧問66歳)   吹奏楽とともに50年  
金賞23回受賞  淀川工科高校から名誉教諭の称号を貰う
父親が吹いていたハーモニカ  笛が好きになったりしたのがきっかけ 父親が散髪屋をやっていた 母が小学校4年の時に亡くなり、父親も目標を失って、
仕事にもあまり発揮せず 家も悪い方向に行く  
音楽をやっている場合ではないと云う状況 電気、ガスを止められる 
朝3時中央市場に行って仕事をしてから学校に行く生活
栄養失調と睡眠不足で身長が止まる 
アルバイトをしながら高校(電気科)に行く 教師になりたいとの気持ちがあった 大学受験  (世話を焼くのが好きで、音楽をやるのも好きだった) 
助手をしながら吹奏楽部でやっていた 23~4歳で教師になる
 
高校で電気工学を教えながら吹奏楽部(部員7名)で一緒にやっていた
(目標も特になかったし、楽しんでやっていた)
1972年 初めて大阪府の代表になった 
1974年全国大会に出場し銀賞を貰う 生徒は大喜び(天理高校は凄かったが同じ銀賞)  1975年 金賞を取る これが良くなかった 判らないうちに取った 
数年銅賞とかであった 賞を何とか取ろうと云う想いのみが強かった  
自分たちの思いをぶつけてみようとして演奏してみる 金賞 
その後連続で4回金賞を取る 5年連続で金賞を取れば全国大会招待演奏が有った
しかしその年は銀賞だった
普段の頃から一緒になってやっている・・・コツ  
本質的には生徒は変わっていないと思う 

7人→20人→・・・200人になる 全校生徒800人~900人
初心者を勧誘して一緒にやらないかと動いて部員が増えて行った 
2~3年生が面倒をみる(自覚が上がってくる) 
初心者が多いが一生懸命やる 原石がある(磨けば光るような) 
持続してやってゆけるか やりやすい環境を作ってやる 過保護もよくない
人の評価を気にしながら、ああでもない、こうでもないとやっている方がおかしなことで、人が見ようが見まいが、それなりの見えないところの努力
自分自身に嘘をつかない そういう努力を皆でやろうと、子供たちに働きかけた 演奏すると云う事は自分の思いを音に乗せるわけです 
それを大人が拘束してどうなるのかと思う   
自分たちはどうやるか 自主性を育てる 
これは一番難しくて  自主的にやりなさい ハイでは駄目
巧くなろうと思ったら楽しくやったらいいやなあと思う  
楽しさを伝えたらいいが、いろいろやったが全て駄目だった

ゲーム機を夢中にやっている姿を見ると判る 
自分が楽しむことが一番大切なんだと云う気持ちになった
何も子供にごちゃごちゃ言わずに本当に一緒に楽しんでいれば子供たちは楽しむんですね
(最近解った話なんですけど・・・長い間掛りました)
尼ヶ崎でコンサートをやっている、大阪府吹奏楽団が有った 
暴動があったり、車がひっくり返ったりしていた 
ああいう処へいってどうするのかと周りから言われた 
いろんな方に了解を得て行くことに決めた 本当にしんどかった 
バスで行くが止まった時に外からドンドンドンとガラス窓をたたく
いざ演奏が始まってみると一曲終わるごとにありがとうと云う 
童謡を演奏すると何人かは泣いている 

高校野球の曲をやり、皆さんの故郷はどうですかというとシュンとなってしまった 
それぞれ訳があっていろんなことが有るんでしょう
どんなに素晴らしいホールでやるよりもこのなまの反応あんだけ喜んでくれて、涙してくれてそういう演奏というのはやっぱり他には無いんですね
演奏終わってバスのところまで歩くが両脇には花道が出来上がって握手してくれズーとバスを送ってくれた
演奏中におひねりを出したりする 
決してお金はないのに ワンカップを半分だけど飲んでくれとか 本当にいい演奏会ですね  
20何年になる
帰りのバスの中はだれも何も言わない 本当に感激したら言葉はバカバカ出てこない 
なんかそれぞれに思ったらしい

いい経験と云うにはもったいないぐらいの出来事
淀川高校50周年記念に全国に呼び掛け実施 いい演奏会をさしてもらった 
ゲストの知名度で呼ぶのは止めようと 自分等の手作りでお客さんが来ていただくのが本質 1万数千人集まる    
1999年に乳癌になる 手術する 右手が上がらない リンパ腫 サポーターをする 
やっている時は忘れる
棒より大事なものを生徒たちはしっている 
なにを考えているかを子供たちは敏感に察知する能力は備えている 
出来たら子供たちの能力を引き出せたらいいなと思う
先ず指導しよう等とは思っていない 環境を整えてやるぐらいしかできない 
後は一緒にやるぐらいしかない