2026年4月27日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言「モネ」

頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言「モネ」

モネは1840年に生まれ、1926年に86歳で亡くなりました。今年は没後100年に当たります。

「あぁ、なんと辛いことか。 絵を描くという事は、なんと辛いことか。 それは私を苦しめる、痛みをもたらす。」 モネ

絶望名言は今年度で10周年を迎えます。

モネは、フランスの画家で、代表作には「印象 日の出」「散歩、日傘をさす女」、「積みわら」シリーズ、「ルーアン大聖堂」シリーズ、「睡蓮」のシリーズなどがあります。 印象派の中心的なメンバーで1番長生きをしました。 最後の印象派と言うふうにも言われましたが、今年没後100年になります。 86歳で亡くなる。

モネは日本が好きで、浮世絵が好きで、自分の庭にも日本風の太鼓橋をかけて、その橋は絵に何回も書かれています。

「あぁ、なんと辛いことか。 絵を描くという事は、なんと辛いことか。 それは私を苦しめる、痛みをもたらす。」 モネ  こういった言葉がたくさんあります。

「画商や美術愛好家達は私に背を向けています。 何よりも悲しいのは、市場価値のない芸術作品に対して誰も興味を示さないことです。」 モネ(18696月に作家に出した手紙の一節、モネは当時28歳)

モネは生きてる間に有名になったので恵まれた方です。 当時フランスでは「サロン・ド・パリ」と言う展覧会があって、これに入選できるかとどうかというのが画家の登龍門でした。 モネは24歳の時に2点出品して2点とも入選しています。   翌年は、妻となるカミーユと言う女性が緑色のドレスを着ている姿を描いて、これも入選して大絶賛されます。 その翌年は「庭の中の女たち」と言う大作を描くが、落選して酷評されてしまいます。 その翌年は1点入選1点落選、その次の年は、2点とも落選。その次も2点とも落選。モネにも評価する人たちがいましたけれども、それでは生活はできないんです。

「パンもワインも台所の火も灯りもない。 一昨日から私は無一文でどこへ行ってもつけ払いの効かない、肉屋でもパン屋でもダメだ。 たとえ将来に希望を持てたとしても、現状が非常に厳しい。 私はもはや初心者ではない。 この年齢になっていつまでも人に懇願して、絵を買ってもらう状況にいるのは恐ろしい。」 モネ(29歳、34歳、38歳の時の手紙の一節)

「風がキャンバスを吹き飛ばし、それを拾うおうとパレット置いたら、風がそれも吹き飛ばしてしまった。 私は怒り狂い全てを放り投げるところだった。」 モネ(55歳の時の手紙の一節)

絵を描いてるときにうまくいかないと、癇癪を起こして、絵をナイフで切ったり、足で踏み抜いたり、川に投げ捨てたり、燃やしたりしてます。 生涯を通じて500枚以上の絵を自分で壊してしまったと言われています。  昔はスケッチは外でするが、油絵を描くのは室内ですると言うことが一般的でした。  モネが生まれた頃にチューブ入りの絵の具が登場しました。 印象派の人たちは外で油絵を描くようになりました。

「私にとって風景はそれだけで存在したりしてるのではない。なぜならば瞬間ごとに外観は変わっていくのだから。 周りにあるもの、つまり絶え間なく変化する光や外気が風景に生命をもたらすのだ。  私は周囲の大気こそが、主題に真の価値を与えるんだと思う。」 モネ

モネには「積みわら」とか「ポプラ並木」「ルーアン大聖堂」とか連作があるが、同じモチーフを繰り返し描いています。 時間帯、季節、天候によって見え方が全然違います。 瞬間ごとの変化、周囲の大気をモネは描いてるわけです。 「光のつつみ」と表現しています。

モネが本格的な「睡蓮」の連作を始めたのが189958歳の時です。 ラヴェル(印象派の音楽家)の「亡き王女のためのパヴァーヌ」が作曲されたのも1899年です。

「亡き王女のためのパヴァーヌ」 作曲:ラヴェル

私はいつも信じていた。 私は前に進み、最後には何か価値のあることができると。 しかし、あぁその望みもいまや葬ってしまわねばならない。」 モネ(191372歳の時の手紙の一節)

この頃はモネは、数年間絵を描かなくなってしまいます。 2番目の妻のアリスが亡くなってしまったのが1番の理由と思います。 当時モネの絵は有名にはなっていました。 しかし印象画が過去のものになってきていました。 モネが1874年の33歳の時に仲間たちと開いた最初の展覧会で「印象 日の出」と言う有名な絵を出品しますが、批評家のルイ・ルロワと言う人がこの絵を酷評します。 彼が「印象派の展覧会」と言い始めたのが最初です。 印象派からキュビスム(ピカソ等)に変化していきます。 印象派が古いと言うふうに言われるようになってしまいます。

「描けば描くほど感じたものを表現するのは、下手だと思い知らされるばかりです。  しかし、1つの作品を仕上げたと言える人がいたなら、恐ろしく傲慢なことだと自分に言い聞かせています。」 モネ(18933月モネが52歳の時の手紙の一節) 「ルーアン大聖堂」の連作を書いてるときのものです。

「私は触れることのできないものを、掴もうとしているのです。 それなのにいかに光が素早く走り去り、色を持っていってしまうことか、色はどんな色でも1秒ときには多くても3 、4分しか続かない。 3、4分で何を描かば良いかというのですか。 それらは行ってしまう、止めなければならないんです。  あぁなんと苦しいことか、なんと絵を描くことは苦しいことなのか。それは私を拷問する。 それが私にもたらす痛みと言ったら。」モネ(19188月モネの手紙の一節)

「また、私の視力が変化して、このままでは絵を止めなければならないだろう。 そして描き始めたものも、そのままになるだろう。 なんと悲しいことか。」モネ(1919年終わり頃が79歳の頃の手紙の1節)  モネが71歳の時に白内障と診断される。 画家にとって、絵が見えなくなると言う事はきつい。

モネは「自分が見てるものが何なのかなるべく忘れろ。」と言ってます。  身の回りのものを、改めて初めて見るように見てみると結構面白いと思います。 新鮮の気持ちで生きられる。

「絵を描きに出かける時は、目の前にあるものは何であるかできるだけ忘れるようにしなさい。木であれ家であれ野原であれなんであれ、ただこう思うだけでいい。ここに青い小さな四角形がある、ここにピンク色の長方形がある、ここに黄色い一筋の線があると、そしてあなたの目に見えるままに、その色と形を正確に描きなさい。」 モネ。