伊東勤(西武ライオンズ元監督) ・常勝チームのつくり方
プロ野球の西武ライオンズ、1980年代から90年代にかけて広岡達郎監督時代の4年間でリーグ優勝3回、日本一2回、森祇晶監督時代は9年間でリ-グ優勝8回、日本一6回と黄金時代を築き上げました。 今日伺うのは当時から西武ライオンズの主力キャッチャーとしてチームの中心であり、後に監督として日本一を経験する伊東勤さんです。 伊東さんは1962年熊本県の出身で現在63歳、1981年のドラフト1位で西武ライオンズに入団し、22年間の現役生活でリーグ優勝14回、日本一8回、2379試合出場、ゴールデングラブ11回、ベストナイン10回、2017年には野球殿堂入りをしています。 現在はNHKの大リーグやプロ野球中継の解説を務めています。 西武ライオンズの黄金時代の強さの秘密を伺いました。
阪神の藤川監督は1年目ですが、積極的に選手とのコミュニケーションをとって、距離を縮めながっら会話を大事にして、相手の選手を分析していってと言うところから入ったと思います。 オーソドックスな野球を1年間貫き通して、故障者が少なかったですよね、それが最大の強みだったと思います。 ちょっと西武と似ていました。 広岡さん等は食生活から変えていきましたから。 故障者が少なくて1年間戦えるという事は強みです。
私は引き出しはほかの人よりも多く持っていたつもりですが、成績とか数字にはそんなにこだわりはなかったです。 「黄金時代の作り方 あの頃の西武はなぜ強かったのか」と言う本を出しました。 出版社からの依頼がありましたが、自分を掘り起こすきっかけにもなりました。 広岡達郎監督時代時代に入団しましたが、厳しさがありました。 当時は選手の寄せ集めと言った感じでしたので、纏めてゆく事を監督はしました。 強くするために練習を含めて厳しくやっていました。 食生活から含めて1から変えていきました。 肉は駄目で野菜中心になって白米から玄米になり、僕は白米が大好きだったので消化不良で内臓を痛めたりしました。 遠征先のホテルでもそうでした。 独身の若いメンバーが主にターゲットになりました。
毎日が野球漬けで大変でした。 投げだしたくなるが、徹底的に基本練習の大事さを教え込まれました。 結果的には大事な場面とか試合の中で生きてくるんです。 地味にやって行って点を取って行くという事を徹底的にやらされました。 3イニング単位で考え、最後の3イニング目でどうやって勝ち切るか、徹底的に教え込まれました。 長打を打つ人、脇役、役割分担をしっかり叩き込まれました。 段々と勝つための自分の役割を感じていきました。 広岡監督との会話は余りありませんでした。 監督の圧のかかる緊張感が張り詰めた中での練習でした。 地味な野球でしたが、こうやって行けば勝っていくんだという事が判って来て、食生活などを含めて後で気付いていきました。 ベテラン、中堅、若手がバランスよくかみ合うようになりました。
土台をしっかり広岡さんが作り上げたので、森監督時代はそれの貯金だと思います。 若手が中堅になって戦う主力になってきました。 選手間で注意をしあうようになっていきました。 食生活も緩和されて玄米から白米に変ったり、肉も食べられるようになりました。 準備、先読みなど全部自分で捉えながらゲームに臨んでいきました。 監督がサインを出さなくても自分がやるべきことは、みんなが判っていて、それに徹していました。 固定メンバーで戦うのが一番の強みですよね。 言葉で洗脳されていったということはありました。 4勝したら勝ちなんだけれども、3敗してもいいんだよ、このピッチャーだったら力も落ちるから取れるとか、展望を話してもらえると、なるほどなあとなるんですね。(気が楽になる。)
私が監督になりますが、キャッチャーをやっていたので、要なのでキャッチャーを誰にするかという事を重点にしました。 監督業は描いてなかったです。 広岡監督がやってきたことはやはりベースになりました。 広岡監督がやってきたことを今やろうとしても無理ですね。 今の選手の気質を観ながらチームを作って行かなくてはいけない。 一番うまくやっているのが日本ハムの新庄監督だと思います。 1,2年目は批判されたたが、3,4年目になって自然と選手たちに競争させていました。 若い選手が多くて、今年は優勝争いをするチームになっています。
強制的にやることも必要ですが、時代に合った指導方法、また厳しさも必要だと思います。