澤田勝彦(松山商業野球部 元監督) ・“奇跡のバックホーム”が教えてくれること
1996年の夏の甲子園の決勝、愛媛県の松山商業対熊本工業の試合。 同点で延長戦となり、絶体絶命のピンチとなった10回の裏を奇跡のバックホームと言われた好プレーでしのいだ松山商業が延長11回に勝ち越して熊本工業を破り27年振り5回目の夏の甲子園優勝を飾りました。 この時の松山商業の監督が澤田勝彦さん(68歳)です。 澤田さんは愛媛県松山市の出身で、松山商業、駒沢大学で活躍し、1980年に母校松山商業のコーチに就任、1986年夏の甲子園準優勝を経験した後、1988年9月に監督に就任しました。 監督としては春夏併せて6回甲子園に出場し、96年夏の甲子園で優勝、2001年の夏の甲子園ではベスト4進出を果たしました。 その後愛媛県の北条高校を定年まで勤め、松山商業野球部OB会の顧問として部を支えています。
1996年の夏の甲子園の夏の優勝から来年で30年になりますが、あっという間でした。 奇跡のバックホームと言われるが、いろんな要素が含まれていると思います。 起用に彼が答えてくれた事には監督と選手との信頼関係があったとか、彼の練習を実証してくれたとか、様々なことを表してくれた、そしてその後の後輩に対してもいい教訓を与えてくれたことを含めて色々な要素があるバックホームになったと思います。
私の高校時代は全国制覇を成し遂げた一色俊作監督、大学時代も全国制覇を成し遂げた太田誠監督と言う名将から指導を受けました。 学んだことを一言でいうと人間力だと思います。 野球をする以前に人としてどうあるべきかと言う事を叩きこんでいただいたと思います。 「目標は全国制覇、目的は人間形成」と言うスローガンを監督となってから掲げました。 ワンプレイごとに必ず人間性が出てくると思いますから、人間性を磨いておかなければ、特に土壇場の境地におかれた時には、人間力、人間性と言うものが如実に表れます。 信頼関係は一日二日で出来るものではありません、一日一日の積み重ねです。
雪が降る真冬に上半身裸になってノックをやったという時もありました。 二人でノックをやっている時にショートのキャプテンの水口(後年近鉄に行く)が、急に上半身を脱いで「こいや」と叫んだら、内野の選手からボール拾いの選手まで全員が上半身を脱ぎました。 あの光景はいまだに忘れません。 彼の統率力が出ました。 当時の監督と私の目が合って自分らも脱がなければ駄目だと思って上半身を脱いで熱く盛り上がりました。
96年の夏の甲子園に出場、10年振りの決勝進出を果たす。 東海大三高さんに一回戦で8-0と勝てたことが、すべてのプレッシャーから解き放たれたと思います。 2期連続一回戦敗退と言う事でしたから。 決勝では熊本工業で初回に3点を取ることが出来ました。(押し出しが2点) 2回、8回に一点ずつ返される。 9回裏2アウトランナー無しと言うところで、沢村選手に同点ホームランを打たれる。 相手は10回裏に2ベースヒットを打って、この場面でピッチャーをエースの新田投手から渡辺投手に変える。
送りバントで1アウトランナー3塁、1番バッター、1番バッターを敬遠して満塁策を取る。 ピッチャーの後ライトに回っていた新田選手から矢野選手をライトに変える。 次が3番の左打ちの好打者だったのでライトが気になった。 後のピッチャーのことをことを考えるとどうしようかなどと頭がぐるぐると廻ったが、直ぐ決断をした。(矢野選手をライトに変える事) 打たれた瞬間に終わったと思いました。 矢野選手はフライ(逆風で失速)をキャッチしてダイレクトでホームに返球した。
矢野選手は普段からバックホームが苦手な選手でした。(チームメートからも信頼を置かれないような選手だった。) 判定はアウトになり難を逃れる。 矢野選手は同級生から土下座されて辞めてくれと言われて(私は彼らの卒業後に知った。)、こたえたと思います。 自分への不甲斐なさの葛藤もあったと思います。 全てがあの一投に出たと思います。 矢野選手が11回の表に2ベースヒットを打って、そこから3点を取って6-3で松山商業が27年振り5回目の優勝を飾る。
「勝機一瞬」勝ちに結びつけるためには一瞬を大事にする。 どう取り組んで、どういう生活をして行かなければいけないのか、磨かれた人間力が成績に現れたことと思います。 高校野球はひたむきさだと思います。